だから、かんきのうた。@1万人の第九
2014年12月7日 その他 受講が義務付けされているレッスン、わたしは今年、木村先生のクラスだった。
木村先生久しぶり、つかわたし、木村せんせがいちばん好きなのね、よーし今年はいつも以上にがんばるぞと、配布された印刷物に目をやった。いつもの注意事項書類の他に、カードが1枚。
「歓喜の歌を作詞しよう」かなんか、そんな企画のお知らせ。「第九」のいちばん有名なフレーズを使って替え歌を募集する企画だった。
あなたの今年1年のいちばんのしあわせを歌にしよう!てな。
歓喜。
それを考えると、目の前が真っ暗になって、泣けてきた。
歓喜することなんて、なんもないわー。つらいわー。どん底だわー。
せっかくの木村せんせのレッスンなのに、心が浮き立たない。
ふだんはののほほんと生きているし、なにも毎日泣き暮らしているわけじゃないんだけど、「歓喜」というテーマと向き合うと、自分がどれだけどん底にいるかを突きつけられる。
歓喜、歓喜、よろこびの歌……一生懸命考える、よろこびってなに、しあわせってなに。
歓喜を思えば思うほど、絶望ばかりが広がる。
こんなわたしが「歓喜」を歌って、なんの意味があるだろう。
答えはないまま、レッスンに通った。
教え方のうまさなどは、たぶんどの先生も同じくらいなのだと思う。だからあとは自分に合うかどうか。好みの問題。
わたしは、クラシックなんてカケラもわかっていない無教養な人間で、何年『1万人の第九』に参加したところで、ベートーヴェンも第九もちっとも理解していない。
ただ。
木村先生の語るベートーヴェンを、魅力的だと思う。
人間臭いというか、ツッコミどころいろいろというか……聞いていると、愛しくなる。
天才だとか偉大な作品云々もさることながら、ただもう、ベートーヴェンという人物に、会いたくなる。
ベートーヴェンと、彼の作った「第九」を好きになる。
だから、木村せんせのレッスンが好きなんだよなあ。
せんせ自身が、ベートーヴェンと第九を大好きなのが伝わってくる。
ソレを好きな人が「好きだー!」と語るのを聞くのは、気持ちいい。
プラスの気持ちをプラスの言葉で語る、そのオーラを浴びるのは心地いい。
マイナスの思いばかりでどよーんとしているわたしを、やわらかく癒してくれる。
「耳も聞こえなくなってるのにね。なのにね、作ってるのが『歓喜の歌』なんですよ……いったい、どんな想いで」
いったい、どんな想いで。
「歓喜」を思うと苦しい。
よろこびってなに。しあわせってなに。
闇ばかり。苦しみ、哀しみばかり。つらいつらいつらい。
だけど。
だから。
かんきのうた。
闇の中だからこそ、泥の中だからこそ。
光が、愛しい。
光を、乞う。
光を、恋う。
レッスン最終日、全部終わって挨拶も済んで、みんなバタバタと席を立つ、その雑音だらけの中で。
帰り支度に忙しい、もう先生の声なんかろくに聞いてない生徒たちへ、先生が早口に言う……教室を出るまでに、と。
「この星に生まれてよかった。
ベートーヴェンと出会えて。
こんなに素晴らしい音楽を知れて。
どうか存分に、感動を味わってください」
うん。
わたしは、うなずいた。広い教室の隅っこにて。
そして、広い広い大阪城ホールの隅っこにて。
2014年12月7日、『サントリー1万人の第九』本番。
絶望は未だわたしを浸食していて、離してくれそうにない。
「歓喜の歌」は作れそうにない。
だけどわたしは「歓喜の歌」に感動する。
この星に生まれてよかったと思う。
だからわたしは、第九を歌う。
わたしは、しあわせだ。
木村先生久しぶり、つかわたし、木村せんせがいちばん好きなのね、よーし今年はいつも以上にがんばるぞと、配布された印刷物に目をやった。いつもの注意事項書類の他に、カードが1枚。
「歓喜の歌を作詞しよう」かなんか、そんな企画のお知らせ。「第九」のいちばん有名なフレーズを使って替え歌を募集する企画だった。
あなたの今年1年のいちばんのしあわせを歌にしよう!てな。
歓喜。
それを考えると、目の前が真っ暗になって、泣けてきた。
歓喜することなんて、なんもないわー。つらいわー。どん底だわー。
せっかくの木村せんせのレッスンなのに、心が浮き立たない。
ふだんはののほほんと生きているし、なにも毎日泣き暮らしているわけじゃないんだけど、「歓喜」というテーマと向き合うと、自分がどれだけどん底にいるかを突きつけられる。
歓喜、歓喜、よろこびの歌……一生懸命考える、よろこびってなに、しあわせってなに。
歓喜を思えば思うほど、絶望ばかりが広がる。
こんなわたしが「歓喜」を歌って、なんの意味があるだろう。
答えはないまま、レッスンに通った。
教え方のうまさなどは、たぶんどの先生も同じくらいなのだと思う。だからあとは自分に合うかどうか。好みの問題。
わたしは、クラシックなんてカケラもわかっていない無教養な人間で、何年『1万人の第九』に参加したところで、ベートーヴェンも第九もちっとも理解していない。
ただ。
木村先生の語るベートーヴェンを、魅力的だと思う。
人間臭いというか、ツッコミどころいろいろというか……聞いていると、愛しくなる。
天才だとか偉大な作品云々もさることながら、ただもう、ベートーヴェンという人物に、会いたくなる。
ベートーヴェンと、彼の作った「第九」を好きになる。
だから、木村せんせのレッスンが好きなんだよなあ。
せんせ自身が、ベートーヴェンと第九を大好きなのが伝わってくる。
ソレを好きな人が「好きだー!」と語るのを聞くのは、気持ちいい。
プラスの気持ちをプラスの言葉で語る、そのオーラを浴びるのは心地いい。
マイナスの思いばかりでどよーんとしているわたしを、やわらかく癒してくれる。
「耳も聞こえなくなってるのにね。なのにね、作ってるのが『歓喜の歌』なんですよ……いったい、どんな想いで」
いったい、どんな想いで。
「歓喜」を思うと苦しい。
よろこびってなに。しあわせってなに。
闇ばかり。苦しみ、哀しみばかり。つらいつらいつらい。
だけど。
だから。
かんきのうた。
闇の中だからこそ、泥の中だからこそ。
光が、愛しい。
光を、乞う。
光を、恋う。
レッスン最終日、全部終わって挨拶も済んで、みんなバタバタと席を立つ、その雑音だらけの中で。
帰り支度に忙しい、もう先生の声なんかろくに聞いてない生徒たちへ、先生が早口に言う……教室を出るまでに、と。
「この星に生まれてよかった。
ベートーヴェンと出会えて。
こんなに素晴らしい音楽を知れて。
どうか存分に、感動を味わってください」
うん。
わたしは、うなずいた。広い教室の隅っこにて。
そして、広い広い大阪城ホールの隅っこにて。
2014年12月7日、『サントリー1万人の第九』本番。
絶望は未だわたしを浸食していて、離してくれそうにない。
「歓喜の歌」は作れそうにない。
だけどわたしは「歓喜の歌」に感動する。
この星に生まれてよかったと思う。
だからわたしは、第九を歌う。
わたしは、しあわせだ。
『1万人の第九』って、ナニを着ていけばいいの? ってことで、とりあえず記録。
2012年12月3日 その他 こんな辺境ブログですが、秋ぐらいになると毎年ある言葉で検索される。
「1万人の第九 服装」
このふたつの単語の他、「ブラウス」とか「スカート」とかくっついている場合もある。
そうだよなあ、はじめて参加する場合、わかんなくて困るよなー。
わたしは初参加のとき、経験者の友だちと一緒だったから、いろいろ教えてもらえた。「去年はこうだったよ」「こうするといいよ」と。
もしもひとりで、教室で友だちも作れてなかった場合、困ったろうなあ。友だちがいても、初心者ばっかだったら、結局は同じことなわけだし。
誰も、正解を知らない。
『1万人の第九』、コンサート当日の服装は、「女性は白の長袖ブラウス、黒のロングスカート、黒のタイツまたは靴下、動きやすい黒靴(スニーカー可)、華美な装飾品禁止」です。
情報は、これだけ。
白ブラウス、って、ザッパー過ぎやろ。星の数ほどデザインありまんがな。ナニがよくて、ナニが禁止なの??
黒のロングスカート、って、長さどれくらい? クラシックなイメージのマキシ丈だとしたら……スニーカー可、ってナニゴト?! シックなロングスカートにスニーカー??
わけわからんわー。
不安になって、ネット検索もするよなー。
KYな格好で参加して、くすくす笑われたくないもん。
テレビ放送だってあるわけだし。場違いな格好でテレビに映っちゃったらどうするの??
えー、10年以上連続で『1万人の第九』に参加して、身をもって知ったことは。
上が白、下が黒ならなんでもよし、+光り物禁止。……これだけです、ルール。
トップスは白ならなんでもいい。
カッターシャツでも、フリルビラビラ発表会ブラウスでも。カットソーやTシャツでも可。
ただ、ライトとテレビカメラがあるから、光を反射するアクセは禁止ってだけで、あとは自由。
何故か。
1万分の1なんか、米粒以下の存在だから、です。
スタンドに並んだら、誰がどんなブラウスを着ているのかなんて、誰にもわかりません。
女性参加者なんぞ、ただの白い横断幕です。白けりゃいいんです。
他人の目なんか、気にする必要ないです。大人ばっか集まって、ドレスコードの白+黒を身に付けている、ソレだけでもう、誰もナニも言いません。
思わず二度見しちゃうほど「あんなものすごいブラウス、どこで売ってんだ……?」なブリブリブラウスを着ていても、「それ、会社の制服……?」てな身もフタもないただのカッターシャツでも、誰にもナニも言われません。
ボトムも同じです。
黒けりゃいいんです。
スカートの長さも、別にミニでも引きずり丈でも、なんでもいい。肌色を出さずにいれば、なんでもよし。
スタンドに並んだら、下半身なんか見えません。
黒いボトムを穿いている、それだけです。
スカートにこだわる必要ありません。ズボンでも可。
真冬なので尻が見えそうなミニを穿いてくる子はいないけど、スカートの長さもデザインも自由なんで、タイトスカートもあれば、ゴスロリ系の黒地に黒レース付きもあり、お姫様みたいなチューリップラインもあり。
センタースリット深々と、やたらセクシーな人もいたし。
足もとも、自由です。
黒ならなんでもいいし、別に、黒でなくても大丈夫。
どーせ見えません。腰から上しか見えないのに、足もとにナニ履いてたって、誰も言及しません。
運営側は、口出ししません。白+黒である以上。
合唱参加者は、お客様でもあるわけですから。毎日放送さんは丁重に扱ってくれます。
だから、自分が用意できるものを、着て来てよし。
「『1万人の第九』だから、クラシック・コンサートの出演者だから、ちゃんとしなきゃ」と、いかにも合唱やってます!な、二度と着ることのないフリフリ白ブラウスや床に付くよーな黒ロングスカートを新調する必要はありません。
「でも、テレビに映っちゃうかもだし……」なんて、考える必要なし。
テレビには、映りません(笑)。
確かに、毎年あるテレビ放送で、合唱している人々のバストアップが抜かれている。一瞬アップになる。あんな風に映る人がいる。
でもあれ、アリーナ席の人たちだけだし。
アリーナでも、かなり前方の人だけです。
参加者のほとんどはスタンド、米粒以下です。白い横断幕です。テレビカメラがアップにすることはまず、ありません。
スタンドでも、最前列なら可能性皆無じゃないけど、それ以外は「ない」と思って間違いないっす。
女性はほんと、映りません。
参加者の数に対し、テレビに映る範囲の席が、あまりに少ないんです。
カメラが捉えることが出来るのは、距離と明るさの関係で、ほんとに前方の一部だけのようです。
スタンド席はマジでカメラから遠く、また、暗いんです。
ナニか特別な目的でもない限り、スタンドの女性参加者をアップにはしません。
誰でもいいわけだから、近くて明るい場所にいる人をアップにします。
座席チケットをもらった瞬間に、「テレビに映る可能性があるかないか」はわかります。
アリーナ席の一桁列だったら、張り切って衣装を用意してください。それ以外は、白+黒ならなんでもよし。
ただ。
せっかくの晴れの場。
気負いすぎる必要はないけど、いつもよりちょっとフリフリなブラウスだとか、シックで大人っぽい長め丈のスカートを着ちゃうのは、ありだと思う。
きれいな格好は、それだけでテンション上がるし。
「ここ以外で二度と着られない」よーな舞台衣装めいたモノじゃなくても、ちょっとした場で使えそうな、華やかブラウスとスカートで着飾って、友だち同士で楽しんだりなー。
花火大会の浴衣みたいなもんで、女子的に、「せっかくだから」ってことで、イベントとして盛り上がるのは、楽しいと思う。
わたしはここ数年、デザインよりオシャレより、防寒第一のコーデです。
今年はマシだったけど、例年会場が、極寒なんですわ。
「風が吹き込まないだけマシ」ってだけで、外気温と変わらないじゃないの?って感じ。
コート着たまま発声練習、てな人々がいっぱい。
なのに、「11時のリハから、上着は脱いでください」とか言われるしなー。昔は本番の1部まで私服OKだったのに。
来年以降の室温がどうなるかわからないけど、「寒い」場合があるってことを忘れずに。
どんだけ室温がツンドラでも、女性はブラウスにスカート姿なんです。上着着れないんです。男たちが着ているのに!
今年はもう終わったからしばらくナイだろうけど、また来年の秋口に検索がばらばら来るかもしんないので。
コンサートの記憶や興奮があるウチに、勢いで書き記しておく!
「1万人の第九 服装」
このふたつの単語の他、「ブラウス」とか「スカート」とかくっついている場合もある。
そうだよなあ、はじめて参加する場合、わかんなくて困るよなー。
わたしは初参加のとき、経験者の友だちと一緒だったから、いろいろ教えてもらえた。「去年はこうだったよ」「こうするといいよ」と。
もしもひとりで、教室で友だちも作れてなかった場合、困ったろうなあ。友だちがいても、初心者ばっかだったら、結局は同じことなわけだし。
誰も、正解を知らない。
『1万人の第九』、コンサート当日の服装は、「女性は白の長袖ブラウス、黒のロングスカート、黒のタイツまたは靴下、動きやすい黒靴(スニーカー可)、華美な装飾品禁止」です。
情報は、これだけ。
白ブラウス、って、ザッパー過ぎやろ。星の数ほどデザインありまんがな。ナニがよくて、ナニが禁止なの??
黒のロングスカート、って、長さどれくらい? クラシックなイメージのマキシ丈だとしたら……スニーカー可、ってナニゴト?! シックなロングスカートにスニーカー??
わけわからんわー。
不安になって、ネット検索もするよなー。
KYな格好で参加して、くすくす笑われたくないもん。
テレビ放送だってあるわけだし。場違いな格好でテレビに映っちゃったらどうするの??
えー、10年以上連続で『1万人の第九』に参加して、身をもって知ったことは。
上が白、下が黒ならなんでもよし、+光り物禁止。……これだけです、ルール。
トップスは白ならなんでもいい。
カッターシャツでも、フリルビラビラ発表会ブラウスでも。カットソーやTシャツでも可。
ただ、ライトとテレビカメラがあるから、光を反射するアクセは禁止ってだけで、あとは自由。
何故か。
1万分の1なんか、米粒以下の存在だから、です。
スタンドに並んだら、誰がどんなブラウスを着ているのかなんて、誰にもわかりません。
女性参加者なんぞ、ただの白い横断幕です。白けりゃいいんです。
他人の目なんか、気にする必要ないです。大人ばっか集まって、ドレスコードの白+黒を身に付けている、ソレだけでもう、誰もナニも言いません。
思わず二度見しちゃうほど「あんなものすごいブラウス、どこで売ってんだ……?」なブリブリブラウスを着ていても、「それ、会社の制服……?」てな身もフタもないただのカッターシャツでも、誰にもナニも言われません。
ボトムも同じです。
黒けりゃいいんです。
スカートの長さも、別にミニでも引きずり丈でも、なんでもいい。肌色を出さずにいれば、なんでもよし。
スタンドに並んだら、下半身なんか見えません。
黒いボトムを穿いている、それだけです。
スカートにこだわる必要ありません。ズボンでも可。
真冬なので尻が見えそうなミニを穿いてくる子はいないけど、スカートの長さもデザインも自由なんで、タイトスカートもあれば、ゴスロリ系の黒地に黒レース付きもあり、お姫様みたいなチューリップラインもあり。
センタースリット深々と、やたらセクシーな人もいたし。
足もとも、自由です。
黒ならなんでもいいし、別に、黒でなくても大丈夫。
どーせ見えません。腰から上しか見えないのに、足もとにナニ履いてたって、誰も言及しません。
運営側は、口出ししません。白+黒である以上。
合唱参加者は、お客様でもあるわけですから。毎日放送さんは丁重に扱ってくれます。
だから、自分が用意できるものを、着て来てよし。
「『1万人の第九』だから、クラシック・コンサートの出演者だから、ちゃんとしなきゃ」と、いかにも合唱やってます!な、二度と着ることのないフリフリ白ブラウスや床に付くよーな黒ロングスカートを新調する必要はありません。
「でも、テレビに映っちゃうかもだし……」なんて、考える必要なし。
テレビには、映りません(笑)。
確かに、毎年あるテレビ放送で、合唱している人々のバストアップが抜かれている。一瞬アップになる。あんな風に映る人がいる。
でもあれ、アリーナ席の人たちだけだし。
アリーナでも、かなり前方の人だけです。
参加者のほとんどはスタンド、米粒以下です。白い横断幕です。テレビカメラがアップにすることはまず、ありません。
スタンドでも、最前列なら可能性皆無じゃないけど、それ以外は「ない」と思って間違いないっす。
女性はほんと、映りません。
参加者の数に対し、テレビに映る範囲の席が、あまりに少ないんです。
カメラが捉えることが出来るのは、距離と明るさの関係で、ほんとに前方の一部だけのようです。
スタンド席はマジでカメラから遠く、また、暗いんです。
ナニか特別な目的でもない限り、スタンドの女性参加者をアップにはしません。
誰でもいいわけだから、近くて明るい場所にいる人をアップにします。
座席チケットをもらった瞬間に、「テレビに映る可能性があるかないか」はわかります。
アリーナ席の一桁列だったら、張り切って衣装を用意してください。それ以外は、白+黒ならなんでもよし。
ただ。
せっかくの晴れの場。
気負いすぎる必要はないけど、いつもよりちょっとフリフリなブラウスだとか、シックで大人っぽい長め丈のスカートを着ちゃうのは、ありだと思う。
きれいな格好は、それだけでテンション上がるし。
「ここ以外で二度と着られない」よーな舞台衣装めいたモノじゃなくても、ちょっとした場で使えそうな、華やかブラウスとスカートで着飾って、友だち同士で楽しんだりなー。
花火大会の浴衣みたいなもんで、女子的に、「せっかくだから」ってことで、イベントとして盛り上がるのは、楽しいと思う。
わたしはここ数年、デザインよりオシャレより、防寒第一のコーデです。
今年はマシだったけど、例年会場が、極寒なんですわ。
「風が吹き込まないだけマシ」ってだけで、外気温と変わらないじゃないの?って感じ。
コート着たまま発声練習、てな人々がいっぱい。
なのに、「11時のリハから、上着は脱いでください」とか言われるしなー。昔は本番の1部まで私服OKだったのに。
来年以降の室温がどうなるかわからないけど、「寒い」場合があるってことを忘れずに。
どんだけ室温がツンドラでも、女性はブラウスにスカート姿なんです。上着着れないんです。男たちが着ているのに!
今年はもう終わったからしばらくナイだろうけど、また来年の秋口に検索がばらばら来るかもしんないので。
コンサートの記憶や興奮があるウチに、勢いで書き記しておく!
30周年の記念公演!…だそうですよ。@1万人の第九
2012年12月2日 その他 毎年恒例、『1万人の第九』に参加してきました。
「30周年」ということで、記念すべき公演、だそうです。
延べ1万人×30年=30万人が参加した、ものすげーイベントです。30万通りの人生がある、ということです。
やたらめったら「30周年」「特別」をくり返していて、ただの1参加者であるわたしは「よくわかんないけど、すごそうだなー」「なんか派手にやるのかなー」と漠然と考えてました。
去年は震災絡みでやたら盛り上がったし。感動的だったし。
今年はそれ以上の盛り上がりを約束されているのかしら。
そう、思ってました。
で。
参加してみた感想は、この公演、ナニがやりたかったんだろう??でした。
やたらとくり返される「30周年」「お祭りだから」。
なのに、メインゲストは森山良子、メインの歌は「家族写真」。
「家族写真」って、日本国民が歓喜の涙に暮れるような、ものすごい名曲なんですか? 誰もが知っていて、イントロが流れるだけで歌詞完璧、子どもからお年寄りまで熱唱できるような?
わたしは無知なので知らなかったっす。
リハーサルで生まれてはじめて聴いた。
わたしの周囲、話し声が聞こえてくる範囲でも「この歌知ってた?」「知らない、はじめて聴いた」「何度聴いてもおぼえられない。単調で」てな会話がくり返される。
わたしや、たまたまわたしの周囲の人たちみんなが知らないだけで、1度聴いたらその曲の素晴らしさや、馴染みの良さに高揚する・感動する、なら、納得の選曲だけど。
「いい曲」ではあるけど、イベント向きの曲じゃない……。
とにかく、地味。
盛り上がる曲の合間に組み込まれているならアリだけど、単体で「30万人」を謳うイベントのメインに据えるようなパワーのある曲じゃない。
メインゲストに力がないのに、その上、東北会場との中継。
ナマのコンサートで、えんえん映像スクリーンを見せられる微妙さ……。
確かに去年、震災ゆえ、復興へのエールを込めて、東北との中継があり、とても感動的だった。成功だった。
だからといって、今年もやってどうするんだ?
震災のことも被災地のことも、テーマじゃない。テーマは「30周年」「お祭り」だ。スタッフの人がはじまる前にマイクでそう説明していた。明るいテーマなんだから、みんなで盛り上げてくれ、と頼んでいた。
明るいお祭り!と言いながら、それに徹し切れていない。
半端にあっちにもイイ顔、こっちにもお愛想、その結果……ぐたぐたに。
「30周年」「この30年を振り返って」と繰り返しアナウンスするわりに、そんなプログラムは一切ない。
冒頭に過去映像が一瞬流れただけ。
30年の歴史とは無関係な「天才ピアニスト」(コンサートの総監督とリアルで仲良し)の演奏と、森山良子の歌だけ。
30年の懐古がテーマなら、それに徹すればいいのに。
東北会場とのリンクは盛り下がるだけだし、「平原綾香が第九に挑戦!」も、わたしたちのコンサート自体には関係ない。あーやは東北会場、「1万人の第九」の会場にはいない。
たぶん、例年通りあーやの第九挑戦は、テレビ番組のための企画だろう。彼女の第九挑戦をドキュメントにして番組を制作する。テレビ番組が主体で、素人が集まったコンサート自体の重要度は低い。
主催が毎日放送である限り、テレビ番組がいちばん大切なのはわかるけれど、今回は他の企画がお粗末だったために、その順位付けがさらにあからさまになってしまった印象。
事前アンケートで、「過去29年の『1万人の第九』で印象に残った回は?」という質問があった。
去年の震災ネタの回がものすごく盛り上がったのは確かだけれど、あれは特別というか、一緒にしてはいかんだろうと思うのではずして、わたしは2009年の第27回を選んだ。
ゲストはマッキー。「1万人の第九」の前座である第1部で、(わたしが知る10数年の間で)前代未聞のカーテンコールがあるくらい、盛り上がりすぎてすごい回だった。
「世界に一つだけの花」という、日本国民のほとんどが「知っている・歌える」曲を持って来たのも強かった。
会場が一体となって盛り上がった。
……てことで、その回を支持した意見がわたし以外にも圧倒的に多かったんだろう。
記念すべき30周年も、シークレット・ゲストがマッキーで、1部のラストソングは「世界に一つだけの花」だった。
なんつーか……。
ヘタだなあ、企画……。
盛り上がらなくて、どーしようこの空気、ってとこに、マッキー登場。
たしかにその瞬間は盛り上がるし、なんつっても「世界に一つだけの花」は曲自体にパワーがある。
はじめて「祭りだー!」という空気になった……が、即終了。
シークレットだから、ほんとにラスト数分に1曲歌って終わり、1部終了、なんだもん。
せっかく盛り上がった、これから巻き返しできるかも? ってとこで、幕。
消化不良感が、ひどい。
今年のプログラム、ひどいなー。
なまじ去年が東北絡みで成功したからって、2匹目のドジョウ狙って、佐渡せんせの「お友だちと一緒にステージやりたい病」が再加熱して、だけど主催側は「ウチが企画して運営して30年も続けてこれたんだからね!」と鼻息荒くて、……結果、こんなことに。
いろいろとお疲れ様です。いろんなところの力関係とか事情とか絡み合って、大変だったんだろうなあ。
よかったことは、会場の室温が、あまり低くなかった。
毎年毎年、大半を占める女性参加者のことは考えず、極寒の室温だったのが、今年はそれほどでもなかった。
運営している側や男性陣はスーツ着用だし、スタッフは走り回ってるし、ステージ上はライト燦々だし、で、薄暗いスタンドでブラウス1枚で唇真っ青にして凍えている数千人の女性のことは念頭にない、のが当たり前だったもん。
わたしは自衛して、ものすごーく前準備して、それなりの装備で臨んだので、それゆえに寒くなかったのかもしれないけど、わたしが覚悟していたより寒くなかった。
周囲の人たちも、「思ったほど寒くない」と言っていたし。
それと、「合唱団当日スケジュール」記載が、復活していた。
朝9時から夕方6時まで完全拘束なのに、去年はスケジュールを教えてくれなかったんだ。
一昨年までは、当日スケジュールは前もって告知されていた。ただ、ここ数年ゲネの進行がぐたぐたで、スケジュール通りに進んでなかった。なまじ告知しているから「休憩時間がスケジュールと違う!」とか文句言われるんだ、それなら最初から告知しなければいい!……と、思ったんだろうか。
去年は一切シークレット。はじめて参加する人は、いつどこで食事をして、いつトイレに行けばいいか、想像することも出来なかった。
なにしろ極寒で女性たちは震えきっている。休憩時間はトイレの大行列で終了が当たり前、そんな居住環境なのに、スケジュールは一切教えない。いつまで我慢すれば次の休憩があるのか、トイレに行けるのか、わからないまま・教えないまま、1万人を整列させておくんだから、すごかったよ。
運営しているのがスーツを着た男の人たちなのが、すごーくよくわかる(笑)。女子トイレ行列の過酷さとか、想像したこともないんだろうな。
苦情が多かったんだろうなあ。改善されて良かった。
肝心の「1万人の第九」自体は……まあ、ふつうだったんじゃあ? わたしみたいな凡人の耳には詳しいことはわかりません。
わたしのテンションは1部のぐたぐたぶりに、あまり上がってなかったけど、まあ例年通りに歌えたので。
キヨハラせんせーに「この5年のうちでいちばんヘタ」と言わしめた、今年の合唱団ですが。
長く続くイベントなので、良いときもあれば、悪いときもある。人間が作るモノである以上、いつも「最高!」なわけないし。
「最高!」じゃなくても、1万人で心をひとつにして歌うこと自体には他にはない感動がある。
大好きなイベントなので、これからも参加し続けたい。
「30周年」「特別」「お祭り」……そう謳いまくりながら、見事に空回りした姿に、どっかの歌劇団を思い出し、「頼むよ……」というキモチになったのは、内緒です(笑)。
「30周年」ということで、記念すべき公演、だそうです。
延べ1万人×30年=30万人が参加した、ものすげーイベントです。30万通りの人生がある、ということです。
やたらめったら「30周年」「特別」をくり返していて、ただの1参加者であるわたしは「よくわかんないけど、すごそうだなー」「なんか派手にやるのかなー」と漠然と考えてました。
去年は震災絡みでやたら盛り上がったし。感動的だったし。
今年はそれ以上の盛り上がりを約束されているのかしら。
そう、思ってました。
で。
参加してみた感想は、この公演、ナニがやりたかったんだろう??でした。
やたらとくり返される「30周年」「お祭りだから」。
なのに、メインゲストは森山良子、メインの歌は「家族写真」。
「家族写真」って、日本国民が歓喜の涙に暮れるような、ものすごい名曲なんですか? 誰もが知っていて、イントロが流れるだけで歌詞完璧、子どもからお年寄りまで熱唱できるような?
わたしは無知なので知らなかったっす。
リハーサルで生まれてはじめて聴いた。
わたしの周囲、話し声が聞こえてくる範囲でも「この歌知ってた?」「知らない、はじめて聴いた」「何度聴いてもおぼえられない。単調で」てな会話がくり返される。
わたしや、たまたまわたしの周囲の人たちみんなが知らないだけで、1度聴いたらその曲の素晴らしさや、馴染みの良さに高揚する・感動する、なら、納得の選曲だけど。
「いい曲」ではあるけど、イベント向きの曲じゃない……。
とにかく、地味。
盛り上がる曲の合間に組み込まれているならアリだけど、単体で「30万人」を謳うイベントのメインに据えるようなパワーのある曲じゃない。
メインゲストに力がないのに、その上、東北会場との中継。
ナマのコンサートで、えんえん映像スクリーンを見せられる微妙さ……。
確かに去年、震災ゆえ、復興へのエールを込めて、東北との中継があり、とても感動的だった。成功だった。
だからといって、今年もやってどうするんだ?
震災のことも被災地のことも、テーマじゃない。テーマは「30周年」「お祭り」だ。スタッフの人がはじまる前にマイクでそう説明していた。明るいテーマなんだから、みんなで盛り上げてくれ、と頼んでいた。
明るいお祭り!と言いながら、それに徹し切れていない。
半端にあっちにもイイ顔、こっちにもお愛想、その結果……ぐたぐたに。
「30周年」「この30年を振り返って」と繰り返しアナウンスするわりに、そんなプログラムは一切ない。
冒頭に過去映像が一瞬流れただけ。
30年の歴史とは無関係な「天才ピアニスト」(コンサートの総監督とリアルで仲良し)の演奏と、森山良子の歌だけ。
30年の懐古がテーマなら、それに徹すればいいのに。
東北会場とのリンクは盛り下がるだけだし、「平原綾香が第九に挑戦!」も、わたしたちのコンサート自体には関係ない。あーやは東北会場、「1万人の第九」の会場にはいない。
たぶん、例年通りあーやの第九挑戦は、テレビ番組のための企画だろう。彼女の第九挑戦をドキュメントにして番組を制作する。テレビ番組が主体で、素人が集まったコンサート自体の重要度は低い。
主催が毎日放送である限り、テレビ番組がいちばん大切なのはわかるけれど、今回は他の企画がお粗末だったために、その順位付けがさらにあからさまになってしまった印象。
事前アンケートで、「過去29年の『1万人の第九』で印象に残った回は?」という質問があった。
去年の震災ネタの回がものすごく盛り上がったのは確かだけれど、あれは特別というか、一緒にしてはいかんだろうと思うのではずして、わたしは2009年の第27回を選んだ。
ゲストはマッキー。「1万人の第九」の前座である第1部で、(わたしが知る10数年の間で)前代未聞のカーテンコールがあるくらい、盛り上がりすぎてすごい回だった。
「世界に一つだけの花」という、日本国民のほとんどが「知っている・歌える」曲を持って来たのも強かった。
会場が一体となって盛り上がった。
……てことで、その回を支持した意見がわたし以外にも圧倒的に多かったんだろう。
記念すべき30周年も、シークレット・ゲストがマッキーで、1部のラストソングは「世界に一つだけの花」だった。
なんつーか……。
ヘタだなあ、企画……。
盛り上がらなくて、どーしようこの空気、ってとこに、マッキー登場。
たしかにその瞬間は盛り上がるし、なんつっても「世界に一つだけの花」は曲自体にパワーがある。
はじめて「祭りだー!」という空気になった……が、即終了。
シークレットだから、ほんとにラスト数分に1曲歌って終わり、1部終了、なんだもん。
せっかく盛り上がった、これから巻き返しできるかも? ってとこで、幕。
消化不良感が、ひどい。
今年のプログラム、ひどいなー。
なまじ去年が東北絡みで成功したからって、2匹目のドジョウ狙って、佐渡せんせの「お友だちと一緒にステージやりたい病」が再加熱して、だけど主催側は「ウチが企画して運営して30年も続けてこれたんだからね!」と鼻息荒くて、……結果、こんなことに。
いろいろとお疲れ様です。いろんなところの力関係とか事情とか絡み合って、大変だったんだろうなあ。
よかったことは、会場の室温が、あまり低くなかった。
毎年毎年、大半を占める女性参加者のことは考えず、極寒の室温だったのが、今年はそれほどでもなかった。
運営している側や男性陣はスーツ着用だし、スタッフは走り回ってるし、ステージ上はライト燦々だし、で、薄暗いスタンドでブラウス1枚で唇真っ青にして凍えている数千人の女性のことは念頭にない、のが当たり前だったもん。
わたしは自衛して、ものすごーく前準備して、それなりの装備で臨んだので、それゆえに寒くなかったのかもしれないけど、わたしが覚悟していたより寒くなかった。
周囲の人たちも、「思ったほど寒くない」と言っていたし。
それと、「合唱団当日スケジュール」記載が、復活していた。
朝9時から夕方6時まで完全拘束なのに、去年はスケジュールを教えてくれなかったんだ。
一昨年までは、当日スケジュールは前もって告知されていた。ただ、ここ数年ゲネの進行がぐたぐたで、スケジュール通りに進んでなかった。なまじ告知しているから「休憩時間がスケジュールと違う!」とか文句言われるんだ、それなら最初から告知しなければいい!……と、思ったんだろうか。
去年は一切シークレット。はじめて参加する人は、いつどこで食事をして、いつトイレに行けばいいか、想像することも出来なかった。
なにしろ極寒で女性たちは震えきっている。休憩時間はトイレの大行列で終了が当たり前、そんな居住環境なのに、スケジュールは一切教えない。いつまで我慢すれば次の休憩があるのか、トイレに行けるのか、わからないまま・教えないまま、1万人を整列させておくんだから、すごかったよ。
運営しているのがスーツを着た男の人たちなのが、すごーくよくわかる(笑)。女子トイレ行列の過酷さとか、想像したこともないんだろうな。
苦情が多かったんだろうなあ。改善されて良かった。
肝心の「1万人の第九」自体は……まあ、ふつうだったんじゃあ? わたしみたいな凡人の耳には詳しいことはわかりません。
わたしのテンションは1部のぐたぐたぶりに、あまり上がってなかったけど、まあ例年通りに歌えたので。
キヨハラせんせーに「この5年のうちでいちばんヘタ」と言わしめた、今年の合唱団ですが。
長く続くイベントなので、良いときもあれば、悪いときもある。人間が作るモノである以上、いつも「最高!」なわけないし。
「最高!」じゃなくても、1万人で心をひとつにして歌うこと自体には他にはない感動がある。
大好きなイベントなので、これからも参加し続けたい。
「30周年」「特別」「お祭り」……そう謳いまくりながら、見事に空回りした姿に、どっかの歌劇団を思い出し、「頼むよ……」というキモチになったのは、内緒です(笑)。
あけましておめでとうございます。
「ムラにいる」ことを疑わないメールを複数いただいたりしましたが、残念ながら元旦は家族行動です。
毎年恒例の伏見稲荷。
「去年はなんか真っ暗だったよな。なんであんな時間に伏見稲荷にいたんだろう」
と、弟。
去年は元旦午後6時半に清荒神駅待ち合わせだったからじゃない? 待ち合わせ時点ですでに日は暮れていたはず。
「そうだった。最寄り駅で阪急の初詣一日乗車券買おうとしたら、駅員に驚かれたんだ。『えっ、今から?!』って」
夕方から一日乗車券買ったっていいじゃんねー。
大阪ー宝塚ー京都と三都市回るなら、初詣切符の方が便利だもん。
「清荒神行ってから伏見稲荷に行ったんだった……だからあんな時間に。真っ暗で、すごく寒くて、雪が積もってて。なんであんな無茶なスケジュールだったんだっけ」
仕方ないじゃない。
2011年元旦は、まっつが雪組に組替えになってはじめての公演の初日なのよっ。
「知らんがな。どーでもええがな」
ちなみに今年の5日も、家族で伊勢神宮へ行く話が出ていたが、わたしが断ったためにお流れになった。
「誰かさんが、どーしても5日はダメだって言うから」
仕方ないじゃない。
2012年1月5日は、まっつのはじめてのバウ主演の初日なのよっ。
「知らんがな。どーでもええがな」
という会話をしつつ、元旦くらいは家族サービス。
伏見稲荷は五穀豊穣、商売繁盛、全国のおいなりさんの総本山。自営業なわたしたちには重要な神様。
もちろん毎年、「宝塚歌劇団 未涼亜希さんの繁栄」もお祈りしてまっつ。
辛口ぶりがすでにネタにしか思えない、伏見稲荷のおみくじでは、「凶 後 大吉」を引きました。
「今は死ぬほどつらい、生きているのが不思議なくらいだけど、そのあとよくなるから、まあがんばれや」という内容でした。
そっか……死ぬほどつらい日々なのかー……(笑)。
弟はにらにら笑うだけで「ここのおみくじは絶対引かない、悪いことしか書いてないから」と言う。うん、大吉でも人生絶望しかないみたいなこと、平気で書いてあるもんねー。
いわゆる「おみくじ」ではなく、ネタ認識ですから、ここのおみくじ。……ちなみに、山の上で引いてます。無料です。
伏見稲荷のファンなので、平成24年1月1日発行と奥付に記された写真集を、山の上で買いました。
ISBNないから書店流通なし、同人誌のよーなもんっすね。
この写真集がすばらしいクオリティ!!
「伏見稲荷」の魅力(笑)をわかった人が撮影・デザインしているので、見ていてわくわくする。
一目惚れしました。
どう素敵かとゆーと、ホラーファンのツボをつかみまくりです。美しくてこわい、こわいけれど美しい……そんな世界が表現されてます。
真の恐怖は究極の美と静寂の中にある。グロとか悲鳴とか殺戮なんかとは、一線を画している。
伏見稲荷はこわくて美しい、美しいけどこわい、素敵なところ。
強力なパワースポットでもあるんだと思う。わたしは虚弱かつヨゴレた人間だけど、ここの山をひとめぐりすると、すかーっと元気になっているもの。……山歩き自体はしんどいけどねー。よぼよぼ。
この世のものならぬ力……を感じることは、霊感も信心もまったく持たないただのミーハーのわたしにはできない。
ただ、本能的な畏怖を持つ。無数の炎の捧げられた祠の奥にある澱んだ池、周囲を無数の鳥居で埋められた先の、何重もの縄の巻かれた巨大な石。
「こわい。なんか、こわいよ」
少ない語彙しか持たないだろう幼児が、山の上で泣きそうにくり返している。親らしい連れの大人が笑ってなだめていた。
下界から切り離された山の上、連なり続ける朱い鳥居。
ここから感じるモノを、幼児は「こわい」としか表現できないんだろう。
うん、こわい。こわいね。
半泣きの小さな男の子に、わたしたち家族は勝手に相槌を打ちつつ、すれ違う。キモチはわかるよ、と。
うつくしくて、こわいところ。
異世界とつながっていても違和感を持たないところ。
なんて楽しいテーマパーク。
「初詣どこ行った?」
と聞いてくる人全員にお勧めしまくっている(笑)。一見の価値はあるから、行ってみてくれ、と。
元旦に行くと人が多すぎで、本殿参拝まで1時間くらい渋滞するけど(笑)。
んで、ほんとの意味で楽しいのは山の上だから、女子はヒールを履かないこと。ヒールで山登りできる人は履いてもいいけど、ヒールが傷むからやめた方が無難っす(経験談)。
昼と夜では趣が変わるので、2回行くのがいいけどなー。あ、夜はマジこわいです。
そんなテーマパーク、パワースポットで。
世界だとか日本だとか、被災された方々のことだとか、大きなことを祈るかたわら、自分や家族の健康を祈り。
それと同じ温度で、まっつのことを祈る。
未涼亜希さんが、しあわせでありますように。
「ムラにいる」ことを疑わないメールを複数いただいたりしましたが、残念ながら元旦は家族行動です。
毎年恒例の伏見稲荷。
「去年はなんか真っ暗だったよな。なんであんな時間に伏見稲荷にいたんだろう」
と、弟。
去年は元旦午後6時半に清荒神駅待ち合わせだったからじゃない? 待ち合わせ時点ですでに日は暮れていたはず。
「そうだった。最寄り駅で阪急の初詣一日乗車券買おうとしたら、駅員に驚かれたんだ。『えっ、今から?!』って」
夕方から一日乗車券買ったっていいじゃんねー。
大阪ー宝塚ー京都と三都市回るなら、初詣切符の方が便利だもん。
「清荒神行ってから伏見稲荷に行ったんだった……だからあんな時間に。真っ暗で、すごく寒くて、雪が積もってて。なんであんな無茶なスケジュールだったんだっけ」
仕方ないじゃない。
2011年元旦は、まっつが雪組に組替えになってはじめての公演の初日なのよっ。
「知らんがな。どーでもええがな」
ちなみに今年の5日も、家族で伊勢神宮へ行く話が出ていたが、わたしが断ったためにお流れになった。
「誰かさんが、どーしても5日はダメだって言うから」
仕方ないじゃない。
2012年1月5日は、まっつのはじめてのバウ主演の初日なのよっ。
「知らんがな。どーでもええがな」
という会話をしつつ、元旦くらいは家族サービス。
伏見稲荷は五穀豊穣、商売繁盛、全国のおいなりさんの総本山。自営業なわたしたちには重要な神様。
もちろん毎年、「宝塚歌劇団 未涼亜希さんの繁栄」もお祈りしてまっつ。
辛口ぶりがすでにネタにしか思えない、伏見稲荷のおみくじでは、「凶 後 大吉」を引きました。
「今は死ぬほどつらい、生きているのが不思議なくらいだけど、そのあとよくなるから、まあがんばれや」という内容でした。
そっか……死ぬほどつらい日々なのかー……(笑)。
弟はにらにら笑うだけで「ここのおみくじは絶対引かない、悪いことしか書いてないから」と言う。うん、大吉でも人生絶望しかないみたいなこと、平気で書いてあるもんねー。
いわゆる「おみくじ」ではなく、ネタ認識ですから、ここのおみくじ。……ちなみに、山の上で引いてます。無料です。
伏見稲荷のファンなので、平成24年1月1日発行と奥付に記された写真集を、山の上で買いました。
ISBNないから書店流通なし、同人誌のよーなもんっすね。
この写真集がすばらしいクオリティ!!
「伏見稲荷」の魅力(笑)をわかった人が撮影・デザインしているので、見ていてわくわくする。
一目惚れしました。
どう素敵かとゆーと、ホラーファンのツボをつかみまくりです。美しくてこわい、こわいけれど美しい……そんな世界が表現されてます。
真の恐怖は究極の美と静寂の中にある。グロとか悲鳴とか殺戮なんかとは、一線を画している。
伏見稲荷はこわくて美しい、美しいけどこわい、素敵なところ。
強力なパワースポットでもあるんだと思う。わたしは虚弱かつヨゴレた人間だけど、ここの山をひとめぐりすると、すかーっと元気になっているもの。……山歩き自体はしんどいけどねー。よぼよぼ。
この世のものならぬ力……を感じることは、霊感も信心もまったく持たないただのミーハーのわたしにはできない。
ただ、本能的な畏怖を持つ。無数の炎の捧げられた祠の奥にある澱んだ池、周囲を無数の鳥居で埋められた先の、何重もの縄の巻かれた巨大な石。
「こわい。なんか、こわいよ」
少ない語彙しか持たないだろう幼児が、山の上で泣きそうにくり返している。親らしい連れの大人が笑ってなだめていた。
下界から切り離された山の上、連なり続ける朱い鳥居。
ここから感じるモノを、幼児は「こわい」としか表現できないんだろう。
うん、こわい。こわいね。
半泣きの小さな男の子に、わたしたち家族は勝手に相槌を打ちつつ、すれ違う。キモチはわかるよ、と。
うつくしくて、こわいところ。
異世界とつながっていても違和感を持たないところ。
なんて楽しいテーマパーク。
「初詣どこ行った?」
と聞いてくる人全員にお勧めしまくっている(笑)。一見の価値はあるから、行ってみてくれ、と。
元旦に行くと人が多すぎで、本殿参拝まで1時間くらい渋滞するけど(笑)。
んで、ほんとの意味で楽しいのは山の上だから、女子はヒールを履かないこと。ヒールで山登りできる人は履いてもいいけど、ヒールが傷むからやめた方が無難っす(経験談)。
昼と夜では趣が変わるので、2回行くのがいいけどなー。あ、夜はマジこわいです。
そんなテーマパーク、パワースポットで。
世界だとか日本だとか、被災された方々のことだとか、大きなことを祈るかたわら、自分や家族の健康を祈り。
それと同じ温度で、まっつのことを祈る。
未涼亜希さんが、しあわせでありますように。
忘れがたき祈りの歌。@1万人の第九2011
2011年12月5日 その他 わたしは涙もろい……というか、感情の高ぶりが涙腺に直結している人間なので、簡単に泣く。泣くのは日常なので、多少のことでは「泣いた」にカウントしない。
そんなわたしでも、知らないことがあった。
泣きながらだと、正しい音階で歌えない。
知らなかった……こんだけよく泣く人間なのに。
だって、泣きながら歌を歌うことなんか、ないもんよ……。
『1万人の第九』、最終レッスンとリハは不参加だし、ゲネは喉の調子が悪くてそれどころではなかったし。
今年のプログラムをきちんと理解したのは、本番だったと言っても、間違ってない。
体調の悪かったゲネプロ時は睡魔にも襲われていた……カラダが休養を求めていたためだろう。最近忙しかったからなー……。
しかし本番前は喉を温め、腹式で歌うならあまり痛まないくらいには回復していた。(地声のカラオケ歌唱をしようとすると、痛む)
本番だ、という緊張感でもって睡魔もなく、冴えたアタマと心で臨んだ。
オープニングは「G線上のアリア」の演奏に、震災の詩の朗読が流れる。場内の大モニターに映し出されているのが、被災地にてライブで詩を朗読している詩人さんの姿。
ゲネでは中継がうまくいかないのか、音声も映像も途切れ途切れで、「大丈夫なんかこの演出」と思われたが、本番では問題なくつながった。
いや、この詩の段階で、泣けるから。
そして、もう1曲演奏があったのち、去年に引き続きゲストの平原綾香登場。
歌う曲は現在のヒット曲「おひさま」、第九の三楽章にあーやが詩を付けた「LOVE STORY」、そして1万人のコーラス付きで「Jupiter」。
「おひさま」は前期のNHK朝ドラ主題歌で、FNS歌謡祭で宙組がコラボする曲(笑)ぐらいの認識。知っているけど、ちゃんとフルコーラス聴いたことがない。
体調最悪のゲネで聴いたときは「岡田さんが作詞なんだ、へー(岡田氏スキーです一応)」「こんな歌だったんだ、めんどくさい感じの歌詞だな」と思うくらいだった。
しかし。
復興と鎮魂を祈る一連の流れで、改めて聴き入ると、だ。
泣ける。
続く「LOVE STORY」は、去年も聴いたけれど、あまり好みではなかった。視点のブレが気になるというか(笑)、これが小説なら構成にいろいろ物申したいというか、素直に味わえなかった。
手放しで好きになることはないが、それでもやっぱり一連の流れで聴くと、引っかかるところはスルーできて、好みなフレーズだけが深く心に染みる。
泣ける。
……わたし、この歌のいちばん苦手な部分って、タイトルだわ……「LOVE STORY」というタイトルでなかったら、もっと好きだったと思う(笑)。
んで、最後が「Jupiter」。
「おひさま」「LOVE STORY」「Jupiter」って、すごいベタすぎるプログラムだと思う。
だって3曲とも、テーマかぶってるもん。
もお、これでもかっ、と同じ意味のことをたたみかけてくる。
ずるいなーと思う。ふつーは1曲だけで勝負だよな、3倍にしたらそら泣けるわ、なんつーベッタベタな泣かせ演出なの、と、泣きながら思った(笑)。
泣くとは思ってなかったので、ハンカチを用意してなくて。
よく泣く人間なので、多少の涙は平気。流れるにまかせ、乾くにまかせる。場内暗いからみっともない顔してても誰にも見えないし。
劇場でも、いつもそうやって乗り越えてきた。
が。
乾くにまかせられない。泣けて泣けて、仕方がないっ。
途中から、観念して鞄ごそごそ、ハンカチ取り出した(笑)。
涙はともかく、鼻水はどーにもならんっ。(きたねーなー)
で、顔中大洪水状態で、「Jupiter」のコーラス部分に突入。合唱団席にも一斉にライトが当たる。
う、歌えない……っ!
思った通りの音が出ない。
いつも通りに歌うつもりが、耳に入る音は見事に調子っぱずれ。えええ。
たしかにわたしは歌うまくないけど、それにしてもここまで音が外れるなんて。
持ち直そう、仕切り直そうと必死になる。でも、やっぱり正しい音が出ない。
そうか。
泣きながらだと、歌えないんだ。
知らなかった……。
他のみなさんはどうだったんだろう。わたしの右隣の人は、わたしと同じくらい泣きっぱなしだったし、場内ずっとすすり泣き聞こえまくりだったんですが、みんなふつーに歌えたの??
わたしは自分の音と格闘するだけで、それどころぢゃなかったっすよ……。
てゆーか佐渡せんせーも指揮しながら泣いちゃってるし。
いやはや。
休憩を挟んで第2部、「第九」ではそれを踏まえ「泣かない。絶対泣かないっ」と心に誓っていた(笑)。
「歓喜の歌」は、泣ける。
通常でも泣ける。
でも、歌えなくなるほど泣くことはない……さすがに。
しかし今回ばかりは、さらに「泣いちゃダメだ」と自分に言い聞かし、手綱を締めてかかった。
歌いながら崩れそうになる、泣くことでゆるみそうになることが、ほんとあちこちにあるからなあ。おそるべし「第九」。
トシを取ったからか、子どもの頃は鼻で笑ってバカにしていた「教科書に載っている歌」の良さがわかるようになってきた。
昔は、教科書に載っている歌はみんなきらいだった。押しつけられることが、なにより嫌だったんだと思う。
とくに旧かな使いの、現代の生活にそぐわない「教科書を作るエライ人たちが若い頃には、名曲だったのかもしれないけどさ」という歌を「名曲だから、ありがたく歌いなさい」と押しつけられるのがきらいだった。
ウサギがおいしい山とかナニソレ。わけわかんない、ばっかみたい。
言葉の意味もわからないまま、歌わされた記憶ゆえ、唱歌嫌いは根が深い。
少しオトナになって、言葉の意味がわかると、別の意味でいらっとするし。
ウサギも追ったことないし、魚釣りできるような川もないんですけど。てゆーか大阪生まれの大阪育ち、山もないし水も清くないんですけど。でも大阪が故郷なんですけど。田舎に変な憧憬なんてないし、都会暮らしが便利でいいし。他人の故郷の歌なんかどーでもいいわ。
とまあ、その調子で。
しかしトシを取り、子どもの頃は嫌っていた唱歌の良さ、美しさや普遍的な切なさなんかが、わかるよーになってきた。
ああほんとにわたし、もう若くないんだわー。
「第九」のあとは「故郷」の合唱。
これがまた、泣ける。
歌詞が染みる。
「蛍の光」でも泣き通したもんなー。もーなんでもこいだ(笑)。
歌は、音楽は、かみさまのもの。
遠い昔、人間たちは神へ……自分たちではどうにもできないさまざまな力を神と呼び、音楽を捧げた。
歌い、踊った。
だから歌は、祈りなんだ。
復興と鎮魂のために、歌うんだ。
たしかにわたしはすぐ泣くし、よく泣くけど。
わたしの隣の人も、同じくらい泣き通していたから、わたしは別に特異な人じゃないよな(笑)。
上から下から、いろんなとこからすすり泣きは全編通してしていたし。
左隣の人たちは反対に、まったく泣く気配なく、休憩時間に「今年は盛り上がらないわねー」「演出や選曲が悪いわ」とか言っていたので、個々の温度差もすごかったんだろうけど(笑)。
泣けたわたしはラッキーだ。
単純だろうとなんだろうと、感動したもん勝ち!!
そして。
あんだけ大泣きしながら、揺らぐことない歌声を響かせるキムくんのすごさを、改めて思ったのだった。
そんなわたしでも、知らないことがあった。
泣きながらだと、正しい音階で歌えない。
知らなかった……こんだけよく泣く人間なのに。
だって、泣きながら歌を歌うことなんか、ないもんよ……。
『1万人の第九』、最終レッスンとリハは不参加だし、ゲネは喉の調子が悪くてそれどころではなかったし。
今年のプログラムをきちんと理解したのは、本番だったと言っても、間違ってない。
体調の悪かったゲネプロ時は睡魔にも襲われていた……カラダが休養を求めていたためだろう。最近忙しかったからなー……。
しかし本番前は喉を温め、腹式で歌うならあまり痛まないくらいには回復していた。(地声のカラオケ歌唱をしようとすると、痛む)
本番だ、という緊張感でもって睡魔もなく、冴えたアタマと心で臨んだ。
オープニングは「G線上のアリア」の演奏に、震災の詩の朗読が流れる。場内の大モニターに映し出されているのが、被災地にてライブで詩を朗読している詩人さんの姿。
ゲネでは中継がうまくいかないのか、音声も映像も途切れ途切れで、「大丈夫なんかこの演出」と思われたが、本番では問題なくつながった。
いや、この詩の段階で、泣けるから。
そして、もう1曲演奏があったのち、去年に引き続きゲストの平原綾香登場。
歌う曲は現在のヒット曲「おひさま」、第九の三楽章にあーやが詩を付けた「LOVE STORY」、そして1万人のコーラス付きで「Jupiter」。
「おひさま」は前期のNHK朝ドラ主題歌で、FNS歌謡祭で宙組がコラボする曲(笑)ぐらいの認識。知っているけど、ちゃんとフルコーラス聴いたことがない。
体調最悪のゲネで聴いたときは「岡田さんが作詞なんだ、へー(岡田氏スキーです一応)」「こんな歌だったんだ、めんどくさい感じの歌詞だな」と思うくらいだった。
しかし。
復興と鎮魂を祈る一連の流れで、改めて聴き入ると、だ。
泣ける。
続く「LOVE STORY」は、去年も聴いたけれど、あまり好みではなかった。視点のブレが気になるというか(笑)、これが小説なら構成にいろいろ物申したいというか、素直に味わえなかった。
手放しで好きになることはないが、それでもやっぱり一連の流れで聴くと、引っかかるところはスルーできて、好みなフレーズだけが深く心に染みる。
泣ける。
……わたし、この歌のいちばん苦手な部分って、タイトルだわ……「LOVE STORY」というタイトルでなかったら、もっと好きだったと思う(笑)。
んで、最後が「Jupiter」。
「おひさま」「LOVE STORY」「Jupiter」って、すごいベタすぎるプログラムだと思う。
だって3曲とも、テーマかぶってるもん。
もお、これでもかっ、と同じ意味のことをたたみかけてくる。
ずるいなーと思う。ふつーは1曲だけで勝負だよな、3倍にしたらそら泣けるわ、なんつーベッタベタな泣かせ演出なの、と、泣きながら思った(笑)。
泣くとは思ってなかったので、ハンカチを用意してなくて。
よく泣く人間なので、多少の涙は平気。流れるにまかせ、乾くにまかせる。場内暗いからみっともない顔してても誰にも見えないし。
劇場でも、いつもそうやって乗り越えてきた。
が。
乾くにまかせられない。泣けて泣けて、仕方がないっ。
途中から、観念して鞄ごそごそ、ハンカチ取り出した(笑)。
涙はともかく、鼻水はどーにもならんっ。(きたねーなー)
で、顔中大洪水状態で、「Jupiter」のコーラス部分に突入。合唱団席にも一斉にライトが当たる。
う、歌えない……っ!
思った通りの音が出ない。
いつも通りに歌うつもりが、耳に入る音は見事に調子っぱずれ。えええ。
たしかにわたしは歌うまくないけど、それにしてもここまで音が外れるなんて。
持ち直そう、仕切り直そうと必死になる。でも、やっぱり正しい音が出ない。
そうか。
泣きながらだと、歌えないんだ。
知らなかった……。
他のみなさんはどうだったんだろう。わたしの右隣の人は、わたしと同じくらい泣きっぱなしだったし、場内ずっとすすり泣き聞こえまくりだったんですが、みんなふつーに歌えたの??
わたしは自分の音と格闘するだけで、それどころぢゃなかったっすよ……。
てゆーか佐渡せんせーも指揮しながら泣いちゃってるし。
いやはや。
休憩を挟んで第2部、「第九」ではそれを踏まえ「泣かない。絶対泣かないっ」と心に誓っていた(笑)。
「歓喜の歌」は、泣ける。
通常でも泣ける。
でも、歌えなくなるほど泣くことはない……さすがに。
しかし今回ばかりは、さらに「泣いちゃダメだ」と自分に言い聞かし、手綱を締めてかかった。
歌いながら崩れそうになる、泣くことでゆるみそうになることが、ほんとあちこちにあるからなあ。おそるべし「第九」。
トシを取ったからか、子どもの頃は鼻で笑ってバカにしていた「教科書に載っている歌」の良さがわかるようになってきた。
昔は、教科書に載っている歌はみんなきらいだった。押しつけられることが、なにより嫌だったんだと思う。
とくに旧かな使いの、現代の生活にそぐわない「教科書を作るエライ人たちが若い頃には、名曲だったのかもしれないけどさ」という歌を「名曲だから、ありがたく歌いなさい」と押しつけられるのがきらいだった。
ウサギがおいしい山とかナニソレ。わけわかんない、ばっかみたい。
言葉の意味もわからないまま、歌わされた記憶ゆえ、唱歌嫌いは根が深い。
少しオトナになって、言葉の意味がわかると、別の意味でいらっとするし。
ウサギも追ったことないし、魚釣りできるような川もないんですけど。てゆーか大阪生まれの大阪育ち、山もないし水も清くないんですけど。でも大阪が故郷なんですけど。田舎に変な憧憬なんてないし、都会暮らしが便利でいいし。他人の故郷の歌なんかどーでもいいわ。
とまあ、その調子で。
しかしトシを取り、子どもの頃は嫌っていた唱歌の良さ、美しさや普遍的な切なさなんかが、わかるよーになってきた。
ああほんとにわたし、もう若くないんだわー。
「第九」のあとは「故郷」の合唱。
これがまた、泣ける。
歌詞が染みる。
「蛍の光」でも泣き通したもんなー。もーなんでもこいだ(笑)。
歌は、音楽は、かみさまのもの。
遠い昔、人間たちは神へ……自分たちではどうにもできないさまざまな力を神と呼び、音楽を捧げた。
歌い、踊った。
だから歌は、祈りなんだ。
復興と鎮魂のために、歌うんだ。
たしかにわたしはすぐ泣くし、よく泣くけど。
わたしの隣の人も、同じくらい泣き通していたから、わたしは別に特異な人じゃないよな(笑)。
上から下から、いろんなとこからすすり泣きは全編通してしていたし。
左隣の人たちは反対に、まったく泣く気配なく、休憩時間に「今年は盛り上がらないわねー」「演出や選曲が悪いわ」とか言っていたので、個々の温度差もすごかったんだろうけど(笑)。
泣けたわたしはラッキーだ。
単純だろうとなんだろうと、感動したもん勝ち!!
そして。
あんだけ大泣きしながら、揺らぐことない歌声を響かせるキムくんのすごさを、改めて思ったのだった。
理想と現実問題。@1万人の第九2011
2011年12月4日 その他 『1万人の第九』で毎年思うこと。
寒い。
大阪城ホール、寒すぎ。風がカラダに当たる、足下もしんしんと冷える。
こんな状況で、女性にブラウス1枚で数時間過ごせなんて、どんないじめなの。
動き回っているスタッフはスーツ着用だから気づかないんだろう。ステージ上はライトさんさんだから気づかないんだろう。
1万人の合唱団の大半を占める女性参加者たちは、寒さと戦いながらそこにいるのだ。
もともと女性より暑がりなのにジャケット着用の男性陣には、まったく想像もつかないんだろうなあ。
それがわかっているから、自衛はしている。
薄手のニットを着た上でブラウスを着て、その上にさらに白のカーディガンを着ている。ブラウス1枚なんて無理、どーせスタンド席のてっぺんだ、服の素材まで誰にもわからない。色さえ白なら大丈夫、ってことで。
寒さがマシならカーディガン脱いでブラウスになろうと思ったけど、無理だ。凍える。
足下はレッグウォーマーに、膝掛けまで持ち込んだ。それでも冷える。しんしんと冷える。スカートなんて穿けない、黒パンツに腰回りだけ黒のミニスカートをレイヤードっちゅーより防寒目的で合わせている。
さーむーいー。
これだけ自衛してなお、寒い。
朝、会場へ入ったときはふつーに元気だったし、発声練習はノリノリだったのに。
ゲネプロが進むうちに、どんどん調子が悪くなった。喉が痛い。声が出にくい。
ちょお、会場内で坐っている間に風邪引いちゃったよ。
どんだけ寒いんだ、『1万人の第九』。
まあこれは、わたしが特別弱っちいせいなんだが。
とはいえ、風邪は引かなくても、周囲の人たちもみんな「寒い」「寒い」とつぶやいている。日常会話のあちこちに「……にしても寒いね」「寒いね」が当たり前に入るって……どこの北国なのここは。
今年はリハーサルを欠席しちゃったので、当日のみ参加っす。
佐渡レッスンも自分のクラスでは参加できず、日程のチガウ別のクラスに混ざってぎりぎり参加した。
毎年ぐだぐたになるゲネプロは、今年はなんとタイムテーブルが発表されなかった。
もう10年以上、あらかじめ「何時から発声練習、何時から休憩」とか連絡プリントに印刷されてるんだけど、今年はソレがナシ。近年あまりにも時間通りに進まないもんだから、クレームでも来たのかな。
予定を教えるからその通りに出来ずにクレームになる、教えなければ出来てないことがバレずクレームを防げるってこと?
朝9時から夕方6時まで、9時間拘束されるのに、その間のタイムテーブルは参加者には伏せられたままです、はい。休憩がいつ何回あるかもわからないんじゃ、初参加の女性とか高齢の人には不便だったろうなあ、いろいろと。
女性の多くにとって、休憩時間はトイレの大行列に並ぶだけで終了します(笑)。1万人の大半は女性、そして場内のこの寒さ。何百人が1箇所のトイレに並ぶわけだから、そりゃー壮観ですよ。つづれ折りになった列が廊下を埋め尽くす。
いろいろすごい。
ゲネプロは風邪との闘い、喉痛い声出ない、どうしよう! でした。
なにしろ1万人なので、わたしひとり口パクでもなんの問題もありません。でも、数ヶ月練習してきて、本番で歌えないんじゃ哀しすぎる。
とにかく寒いのがいかん、風がぴゅーぴゅー吹いてるのがいかん、それをなんとかするだけでも違ってくるはずだ。
つーことで、膝掛けにしていたストールを首に巻いた。これもオフホワイトなので、遠目にはストールだとわからないはず。首の詰まった白ブラウスを着ている人と同じでしょうよ。
喉を暖め、声を出さず、手当に務める。
反対に寒くなった膝には、平原綾香「Jupiter」の楽譜を広げて載せる。浮浪者の人が新聞紙を布団代わりにしているのと同じ、紙ってわりと温かいもんな。
暖めていると、喉はずいぶんマシになった。
これなら本番歌えるかもしれない。と、休憩時間はずっとのど飴。
さて、今年の『1万人の第九』は、もちろん震災絡みだ。『1万人の第九』のコンセプト的に、絡めないはずがない。
仙台会場と中継で結んで、1万1千人で第九を歌う。
震災にしても被災された方々に対しても、敬虔なキモチはもちろんある。労りやエール、他人事ではいけない、共に力を合わせて進むべきキモチもある。
だが、そんなわたし個人のキモチと、企業が行うイベント「サントリー1万人の第九with東北」とやらには、どうしても温度差がある。
何故ならば、プログラムはすべて「上の人」が決めたことで、1参加者でしかないわたしはすべて事後承諾、「へー、そんなことやるんだー」でしかないためだ。
企業による「感動的なイベント」「感動的な演出」のコマのひとつであるわたしは、彼らの意図とは別のところで「年中行事」としての、わたしの『1万人の第九』を遂行するのみだ。
毎年の恒例行事なので、コレがないと年末の気がしない、自分的節目っていうかね。
あとづけで「with東北」とかやられてもね。
……てな、わりと冷めた目線だったのですよ。
被災地の方々に対してではなく、あくまでも、イベントの演出、パフォーマンスに対してね。
それより現実問題寒いんですが!という(笑)。
ところが、だ。
ところがどっこい、いざ本番がはじまると。
だだ泣きしました(笑)。
続く。
寒い。
大阪城ホール、寒すぎ。風がカラダに当たる、足下もしんしんと冷える。
こんな状況で、女性にブラウス1枚で数時間過ごせなんて、どんないじめなの。
動き回っているスタッフはスーツ着用だから気づかないんだろう。ステージ上はライトさんさんだから気づかないんだろう。
1万人の合唱団の大半を占める女性参加者たちは、寒さと戦いながらそこにいるのだ。
もともと女性より暑がりなのにジャケット着用の男性陣には、まったく想像もつかないんだろうなあ。
それがわかっているから、自衛はしている。
薄手のニットを着た上でブラウスを着て、その上にさらに白のカーディガンを着ている。ブラウス1枚なんて無理、どーせスタンド席のてっぺんだ、服の素材まで誰にもわからない。色さえ白なら大丈夫、ってことで。
寒さがマシならカーディガン脱いでブラウスになろうと思ったけど、無理だ。凍える。
足下はレッグウォーマーに、膝掛けまで持ち込んだ。それでも冷える。しんしんと冷える。スカートなんて穿けない、黒パンツに腰回りだけ黒のミニスカートをレイヤードっちゅーより防寒目的で合わせている。
さーむーいー。
これだけ自衛してなお、寒い。
朝、会場へ入ったときはふつーに元気だったし、発声練習はノリノリだったのに。
ゲネプロが進むうちに、どんどん調子が悪くなった。喉が痛い。声が出にくい。
ちょお、会場内で坐っている間に風邪引いちゃったよ。
どんだけ寒いんだ、『1万人の第九』。
まあこれは、わたしが特別弱っちいせいなんだが。
とはいえ、風邪は引かなくても、周囲の人たちもみんな「寒い」「寒い」とつぶやいている。日常会話のあちこちに「……にしても寒いね」「寒いね」が当たり前に入るって……どこの北国なのここは。
今年はリハーサルを欠席しちゃったので、当日のみ参加っす。
佐渡レッスンも自分のクラスでは参加できず、日程のチガウ別のクラスに混ざってぎりぎり参加した。
毎年ぐだぐたになるゲネプロは、今年はなんとタイムテーブルが発表されなかった。
もう10年以上、あらかじめ「何時から発声練習、何時から休憩」とか連絡プリントに印刷されてるんだけど、今年はソレがナシ。近年あまりにも時間通りに進まないもんだから、クレームでも来たのかな。
予定を教えるからその通りに出来ずにクレームになる、教えなければ出来てないことがバレずクレームを防げるってこと?
朝9時から夕方6時まで、9時間拘束されるのに、その間のタイムテーブルは参加者には伏せられたままです、はい。休憩がいつ何回あるかもわからないんじゃ、初参加の女性とか高齢の人には不便だったろうなあ、いろいろと。
女性の多くにとって、休憩時間はトイレの大行列に並ぶだけで終了します(笑)。1万人の大半は女性、そして場内のこの寒さ。何百人が1箇所のトイレに並ぶわけだから、そりゃー壮観ですよ。つづれ折りになった列が廊下を埋め尽くす。
いろいろすごい。
ゲネプロは風邪との闘い、喉痛い声出ない、どうしよう! でした。
なにしろ1万人なので、わたしひとり口パクでもなんの問題もありません。でも、数ヶ月練習してきて、本番で歌えないんじゃ哀しすぎる。
とにかく寒いのがいかん、風がぴゅーぴゅー吹いてるのがいかん、それをなんとかするだけでも違ってくるはずだ。
つーことで、膝掛けにしていたストールを首に巻いた。これもオフホワイトなので、遠目にはストールだとわからないはず。首の詰まった白ブラウスを着ている人と同じでしょうよ。
喉を暖め、声を出さず、手当に務める。
反対に寒くなった膝には、平原綾香「Jupiter」の楽譜を広げて載せる。浮浪者の人が新聞紙を布団代わりにしているのと同じ、紙ってわりと温かいもんな。
暖めていると、喉はずいぶんマシになった。
これなら本番歌えるかもしれない。と、休憩時間はずっとのど飴。
さて、今年の『1万人の第九』は、もちろん震災絡みだ。『1万人の第九』のコンセプト的に、絡めないはずがない。
仙台会場と中継で結んで、1万1千人で第九を歌う。
震災にしても被災された方々に対しても、敬虔なキモチはもちろんある。労りやエール、他人事ではいけない、共に力を合わせて進むべきキモチもある。
だが、そんなわたし個人のキモチと、企業が行うイベント「サントリー1万人の第九with東北」とやらには、どうしても温度差がある。
何故ならば、プログラムはすべて「上の人」が決めたことで、1参加者でしかないわたしはすべて事後承諾、「へー、そんなことやるんだー」でしかないためだ。
企業による「感動的なイベント」「感動的な演出」のコマのひとつであるわたしは、彼らの意図とは別のところで「年中行事」としての、わたしの『1万人の第九』を遂行するのみだ。
毎年の恒例行事なので、コレがないと年末の気がしない、自分的節目っていうかね。
あとづけで「with東北」とかやられてもね。
……てな、わりと冷めた目線だったのですよ。
被災地の方々に対してではなく、あくまでも、イベントの演出、パフォーマンスに対してね。
それより現実問題寒いんですが!という(笑)。
ところが、だ。
ところがどっこい、いざ本番がはじまると。
だだ泣きしました(笑)。
続く。
ワイルドで行こう。@1万人の第九
2010年12月5日 その他 『タクティクスオウガ』も忙しいし、『モンスターハンターポータブル3rd』も忙しい……だけど本日は、『サントリー1万人の第九 ~歌のある星へ~』の日でした。
今年のゲストは平原綾香。
今までのゲストの中で最大の、4曲披露っす。うち1曲は、もちろん「Jupiter」です。
リハーサル、ゲネプロ、本番と、その歌声を堪能しました。
すばらしい歌声だし、美人だし。本日の赤い豪華ドレスより、前日の白のロングシャツにジレ、緩く結んだ細めのタイ、ジーンズにニーハイブーツ姿の方が素敵だと思った。結い上げ着飾らなくても、きれーだなーと。
歌声も、リハからすでに安定だし。
で、わたしたち1万人の第九合唱団に対して要望も出してくるし、このコンサートに「関わろう」「一緒に創ろう」としてくれている姿勢がまた素敵。
「一緒に歌ってください」「参加してください」……あーやは簡単に言うけど、わたしたち合唱団の「思い通りにならなさ具合」を知っている佐渡せんせはとまどい顔。
「決めるのはやめよう。自由ってことで」「歌いたかったら歌ってヨシ、踊りたかったら踊ってヨシ」……うん、なまじ決めると、1万人全員がその決めた通りに「できる」よーになるまで、練習しなきゃいけなくなるから。そして、1万人全員にそんだけの練習をさせる時間は、すでにナイから。
なるようになれ。それも「ライヴ」ってもんじゃん?と。
つーことで、なるようになれ。
23日のテレビ放送でどこまで流れるかわかんないけど、マイクが音拾ってるかどうかもわかんないけど、あーやの「JOYFUL, JOYFUL」で1万人の合唱団が総立ちで揺れながら声出したりしてるのは、ヤラセぢゃないです、もともとの台本にはありません(笑)。
還暦あたりの人たちが主な年齢層であるにも関わらず、一緒になってラップで歌い踊ってます。
「ベートーヴェンもだけど、ラップ歌うの、生まれてはじめての人がいっぱいいると思うよ」……佐渡せんせもしみじみ。
白髪のおばーちゃんも揺れながら手を打ち鳴らし、「ゆのーみー!」って叫んでるもの。(注・you know me)
ベートーヴェン歌いに来て、「ゆのーみー!」はナイよな……びっくりだよなー(笑)。
観客が着席したままおとなしく聴いているのに、1万人の合唱団は総立ちで手拍子入れてるんで、そーゆー演出かと思われたかもしれませんが、わたしらが練習したのは「Jupiter」のコーラスだけです。
佐渡せんせが「自由でヨシ」と投げた……ゲフンゲフン、自主性に任せた立ち上がるタイミングも、ほんとに決まってないんで、リハよりゲネ、ゲネより本番と、みんな立つのが早くなってる。実際本番は「早っ、もう立つのかよ?!」と思った(笑)。みんなテンション上がりすぎ。
間奏の「第九」のフレーズは、みんなてきとーにハミングしたりなんだりしてるし。ははは、フリーダム。
にしても、どうしようもないね。
「Jupiter」というとわたしの中では彩音・まっつ・だいもんの三重唱だし、「JOYFUL, JOYFUL」ではコム姫率いる雪組が脳内再生されてしまうのですよ。
そして、平原綾香が素晴らしい歌手だということとはまったく別次元に、寿美礼サマが恋しくなるのですよ。女性シンガーの歌声をしみじみ聴くと、わたしの「オサ様スキー」スイッチが入るみたい。
寿美礼サマに会いたいなあ。あの歌声を聴きたいなああ。
わたしにとって、春野寿美礼は永遠のディーヴァなのですよ。
今年のテーマは「ワイルド」だそうです、佐渡せんせ曰く。
それは乱暴になることとか暴力をふるうことではなく、人間として、イキモノとしての本来の力、愛ややさしさ強さを取り戻すことだかとなんとか。プログラム買ってないんで、よくわかりません(笑)。
ひとの持つ「野生」がやさしさなら、愛なら、素敵だと思う。だから、信じたいと思う。
そんだけ。
わたしはここんとこずーっと『1万人の第九』にひとり参加。友だちのひとりもいないし、新しく出来ない……つか、作る気がない。
でも、なんの問題もない。
そのとき隣になった人と話す。「今日1日、よろしくお願いします」からはじまって、共に「歓喜」を歌い、「お疲れ様」「今日はありがとう」「また来年会いましょうね」で別れる。
一期一会。来年会える保証なんかナイ。
だけどみんな、再会を口にして、別れる。感謝と、希望を口にして、別れる。
「去年、テレビでこの『1万人の第九』を見て……自分が歌っているわけでもないのに、涙が出てきて」「あー、私もよお」……後ろの席の見知らぬおばさま方の会話。
「緊張する~~。ね、今練習していい?」「……て、ほんとに今歌い出すとは思わなかった」……ナニそのコントみたいな会話。
ナニがどうじゃないけど、愛しい。
いろんなことが。
それらが全部詰まって、一緒になって、それで「1万人の第九」が出来上がる。
ベートーヴェンは心底すげえと思い、1万人で、佐渡裕の指揮で「第九」を歌えることは心底楽しい、うれしいと思い、平原綾香の歌声を素晴らしいと思い。
終わったあともずっと音楽がある。
わたしのなかを、回っている。
で。
帰宅して改めて、まっつたちの「Jupiter」聴いちゃったけどね(笑)。
今年のゲストは平原綾香。
今までのゲストの中で最大の、4曲披露っす。うち1曲は、もちろん「Jupiter」です。
リハーサル、ゲネプロ、本番と、その歌声を堪能しました。
すばらしい歌声だし、美人だし。本日の赤い豪華ドレスより、前日の白のロングシャツにジレ、緩く結んだ細めのタイ、ジーンズにニーハイブーツ姿の方が素敵だと思った。結い上げ着飾らなくても、きれーだなーと。
歌声も、リハからすでに安定だし。
で、わたしたち1万人の第九合唱団に対して要望も出してくるし、このコンサートに「関わろう」「一緒に創ろう」としてくれている姿勢がまた素敵。
「一緒に歌ってください」「参加してください」……あーやは簡単に言うけど、わたしたち合唱団の「思い通りにならなさ具合」を知っている佐渡せんせはとまどい顔。
「決めるのはやめよう。自由ってことで」「歌いたかったら歌ってヨシ、踊りたかったら踊ってヨシ」……うん、なまじ決めると、1万人全員がその決めた通りに「できる」よーになるまで、練習しなきゃいけなくなるから。そして、1万人全員にそんだけの練習をさせる時間は、すでにナイから。
なるようになれ。それも「ライヴ」ってもんじゃん?と。
つーことで、なるようになれ。
23日のテレビ放送でどこまで流れるかわかんないけど、マイクが音拾ってるかどうかもわかんないけど、あーやの「JOYFUL, JOYFUL」で1万人の合唱団が総立ちで揺れながら声出したりしてるのは、ヤラセぢゃないです、もともとの台本にはありません(笑)。
還暦あたりの人たちが主な年齢層であるにも関わらず、一緒になってラップで歌い踊ってます。
「ベートーヴェンもだけど、ラップ歌うの、生まれてはじめての人がいっぱいいると思うよ」……佐渡せんせもしみじみ。
白髪のおばーちゃんも揺れながら手を打ち鳴らし、「ゆのーみー!」って叫んでるもの。(注・you know me)
ベートーヴェン歌いに来て、「ゆのーみー!」はナイよな……びっくりだよなー(笑)。
観客が着席したままおとなしく聴いているのに、1万人の合唱団は総立ちで手拍子入れてるんで、そーゆー演出かと思われたかもしれませんが、わたしらが練習したのは「Jupiter」のコーラスだけです。
佐渡せんせが「自由でヨシ」と投げた……ゲフンゲフン、自主性に任せた立ち上がるタイミングも、ほんとに決まってないんで、リハよりゲネ、ゲネより本番と、みんな立つのが早くなってる。実際本番は「早っ、もう立つのかよ?!」と思った(笑)。みんなテンション上がりすぎ。
間奏の「第九」のフレーズは、みんなてきとーにハミングしたりなんだりしてるし。ははは、フリーダム。
にしても、どうしようもないね。
「Jupiter」というとわたしの中では彩音・まっつ・だいもんの三重唱だし、「JOYFUL, JOYFUL」ではコム姫率いる雪組が脳内再生されてしまうのですよ。
そして、平原綾香が素晴らしい歌手だということとはまったく別次元に、寿美礼サマが恋しくなるのですよ。女性シンガーの歌声をしみじみ聴くと、わたしの「オサ様スキー」スイッチが入るみたい。
寿美礼サマに会いたいなあ。あの歌声を聴きたいなああ。
わたしにとって、春野寿美礼は永遠のディーヴァなのですよ。
今年のテーマは「ワイルド」だそうです、佐渡せんせ曰く。
それは乱暴になることとか暴力をふるうことではなく、人間として、イキモノとしての本来の力、愛ややさしさ強さを取り戻すことだかとなんとか。プログラム買ってないんで、よくわかりません(笑)。
ひとの持つ「野生」がやさしさなら、愛なら、素敵だと思う。だから、信じたいと思う。
そんだけ。
わたしはここんとこずーっと『1万人の第九』にひとり参加。友だちのひとりもいないし、新しく出来ない……つか、作る気がない。
でも、なんの問題もない。
そのとき隣になった人と話す。「今日1日、よろしくお願いします」からはじまって、共に「歓喜」を歌い、「お疲れ様」「今日はありがとう」「また来年会いましょうね」で別れる。
一期一会。来年会える保証なんかナイ。
だけどみんな、再会を口にして、別れる。感謝と、希望を口にして、別れる。
「去年、テレビでこの『1万人の第九』を見て……自分が歌っているわけでもないのに、涙が出てきて」「あー、私もよお」……後ろの席の見知らぬおばさま方の会話。
「緊張する~~。ね、今練習していい?」「……て、ほんとに今歌い出すとは思わなかった」……ナニそのコントみたいな会話。
ナニがどうじゃないけど、愛しい。
いろんなことが。
それらが全部詰まって、一緒になって、それで「1万人の第九」が出来上がる。
ベートーヴェンは心底すげえと思い、1万人で、佐渡裕の指揮で「第九」を歌えることは心底楽しい、うれしいと思い、平原綾香の歌声を素晴らしいと思い。
終わったあともずっと音楽がある。
わたしのなかを、回っている。
で。
帰宅して改めて、まっつたちの「Jupiter」聴いちゃったけどね(笑)。
地球は今、わたしたちの内側で回っている。@1万人の第九
2009年12月7日 その他 よく聞かれるけど、『1万人の第九』のテレビ放送は、12月23日の昼間です。キー局が大阪のMBSなので、TBS系で全国ネット、のはず。
毎年12月最初の土日にリハと本番、23日がテレビ放送。これは決まりごとらしく、確かめるまでもなく11年間同じパターン。
テレビ放送はもう何年も見たことナイ(笑)。や、見たくないわけではなくて、正直忘れてる。気が付いたら、終わってるんだもんよ。
『1万人の第九』コンサート自体を放送するのではなく、あくまでダイジェスト+ゲストに重きを置いた舞台裏とかのドキュメント風になっている。コンサート全部放送したら、1時間枠では無理だもん、「第九」だけでCM抜きで1時間超えるっつーの。
コンサート中継はDVD販売しているから、そっちで見てね、ってことで、テレビ放送は別物と考えるべき。
ちなみに、DVDは買ったことナイので、ほんとに出演はしても映像はろくに見たことがない……(笑)。
あ、それと、『1万人の第九』参加者募集は毎年6月で、レッスン会場は大阪が中心だけど、東京クラスもあるよー。抽選なんで、参加できるかどうかは時の運だけどな。
参加費は6000円、12回(経験者は6回)もレッスンしてもらって、コンサートを聴けて、参加できて、この価格はアリエナイ安さ。カルチャースクールの価格を思えば、サントリーが広告活動でやってるからこの価格であのレベルのイベントができるんだなと思う。レッスンに参加するとわかるけど、先生たちの情熱もすごいよ。本気で第九を愛し、「1万人の第九」を作り上げようとしている。
大人が時間捻出してレッスンに通うのは大変だけど、それを超えた感動が得られるよ。
と、宣伝してみる(笑)。
コンサートは、2部構成。
1部がゲストを交えての、ふつーのコンサート。基本わたしたち「1万人の合唱団」もお客さん感覚で自分の座席で聴いている。
2部がまるまる「第九」。長い曲だから、ソレだけではじまり終わる。
今年の『10000人の第9 歌のある星へ』のゲストは、槇原敬之。
1部はあり得ないほどの盛り上がりで、カオスでフリーダムなまま終了。
2部構成のイベントで、1部のラストが盛り上がりすぎてカーテンコールおさまらないとか、ふつーナイから!
あんまり盛り上がりすぎて、「え、まだ第2部あるの?」とゆー雰囲気に。
お祭り騒ぎで大興奮!の1部、幕間休憩を経て、次にステージがはじまるときには、空気が、変わっている。
この変わりっぷりがすごい。
お笑いとお祭りに徹していた佐渡先生のまとう空気も、まったくチガウ。
なんのトークもなく説明もなく、いきなり、はじまる。
司会者の小倉智昭氏もステージにいない。演奏者だけの舞台。
……ここまで「変わる」コンサートも、めずらしいんじゃないだろうか。
1部と2部の別物っぷりが半端ナイ。
特に今年はもお。
1部のぶっ飛び方がものすごかったから、こんなにこんなに「祭りだわっしょい」をやって、みんな立ち上がって大騒ぎで、歓声と拍手で盛大にカオスだった直後に、同じステージで、ここまで厳粛になるっつーのは。
どちらも、「音楽」なんだ。
わたしたち、人間の作る、人間の愛する、「音楽」というものなんだ。
なんて広いんだろう。なんて奥が深いんだろう。
「音楽」って。
両手を打ち鳴らし、カラダを動かしながらきゃーきゃーに参加するのも「音楽」ならば、厳粛に緊張感を持って参加するのも「音楽」なんだ。
そして、それを同時に体験できる、『1万人の第九』。
おもしろいなあ。
『1万人の第九』って、おもしろい。
例年にない、ぞくぞくした感じが、あった。
自分が今、すごい場所にいるんだと思った。
「第九」という音楽の力。
それを奏でる人々の力、指揮する人の力、聴き入る人々の集中力……すべてのものが、ひとつの場所に集約する感覚。
ベクトルが、ひとつになる。
ばらばらであるはずのものが、今このときだけ、たしかにひとつになる……その、感覚。
肌にぴりぴり感じる、不思議さ。興奮。
広大な大阪城ホール内部の空気が、「気」が、濃縮され圧縮され、なんかチガウものに変換されていく。
そしてソレが、解き放たれる。
ぎりぎりまで引き絞った矢が、放たれるみたいに。ぱんぱんの水風船が、はち切れるみたいに、
大きさは変わっても質量は変わっていない、小さく小さく凝縮した分、濃く濃くなったナニかが、一気に爆発する。
合唱となって。
「声」があって良かった。
「楽器」を持って生まれてきて良かった。
オーケストラの奏でる音と共に、自分自身の声という楽器で、共に奏でることが出来て、良かった。
内側からわきあがる不思議な力に押されて、外側からわきあがり続ける頼もしい力と手を取り合って、ただ、歌う。
歌う。
喜びの歌。
歓喜の歌。
細胞のひとつひとつまでもが、うわーーっと声を出している。
…………いやあ。
脳内麻薬出まくってんじゃないの、あの空間。あそこにいた人々。
テンション、熱気、なんかもお例年にない温度で、皮膚感で、曲はフィニッシュを迎える。
ブラボー!を叫ぶ人たち、拍手と歓声と。
てゆーか、なんかみんな興奮状態で。なんかハイになってて。
歌い終わった瞬間、声出てんじゃん、叫ばないだけで。
すごいことになってるな今年の『第九』。
心からもお、ひたすら、おもしろかった。
人間ってすごい。
音楽ってすごい。
生きるって、おもしろいよ。
毎年12月最初の土日にリハと本番、23日がテレビ放送。これは決まりごとらしく、確かめるまでもなく11年間同じパターン。
テレビ放送はもう何年も見たことナイ(笑)。や、見たくないわけではなくて、正直忘れてる。気が付いたら、終わってるんだもんよ。
『1万人の第九』コンサート自体を放送するのではなく、あくまでダイジェスト+ゲストに重きを置いた舞台裏とかのドキュメント風になっている。コンサート全部放送したら、1時間枠では無理だもん、「第九」だけでCM抜きで1時間超えるっつーの。
コンサート中継はDVD販売しているから、そっちで見てね、ってことで、テレビ放送は別物と考えるべき。
ちなみに、DVDは買ったことナイので、ほんとに出演はしても映像はろくに見たことがない……(笑)。
あ、それと、『1万人の第九』参加者募集は毎年6月で、レッスン会場は大阪が中心だけど、東京クラスもあるよー。抽選なんで、参加できるかどうかは時の運だけどな。
参加費は6000円、12回(経験者は6回)もレッスンしてもらって、コンサートを聴けて、参加できて、この価格はアリエナイ安さ。カルチャースクールの価格を思えば、サントリーが広告活動でやってるからこの価格であのレベルのイベントができるんだなと思う。レッスンに参加するとわかるけど、先生たちの情熱もすごいよ。本気で第九を愛し、「1万人の第九」を作り上げようとしている。
大人が時間捻出してレッスンに通うのは大変だけど、それを超えた感動が得られるよ。
と、宣伝してみる(笑)。
コンサートは、2部構成。
1部がゲストを交えての、ふつーのコンサート。基本わたしたち「1万人の合唱団」もお客さん感覚で自分の座席で聴いている。
2部がまるまる「第九」。長い曲だから、ソレだけではじまり終わる。
今年の『10000人の第9 歌のある星へ』のゲストは、槇原敬之。
1部はあり得ないほどの盛り上がりで、カオスでフリーダムなまま終了。
2部構成のイベントで、1部のラストが盛り上がりすぎてカーテンコールおさまらないとか、ふつーナイから!
あんまり盛り上がりすぎて、「え、まだ第2部あるの?」とゆー雰囲気に。
お祭り騒ぎで大興奮!の1部、幕間休憩を経て、次にステージがはじまるときには、空気が、変わっている。
この変わりっぷりがすごい。
お笑いとお祭りに徹していた佐渡先生のまとう空気も、まったくチガウ。
なんのトークもなく説明もなく、いきなり、はじまる。
司会者の小倉智昭氏もステージにいない。演奏者だけの舞台。
……ここまで「変わる」コンサートも、めずらしいんじゃないだろうか。
1部と2部の別物っぷりが半端ナイ。
特に今年はもお。
1部のぶっ飛び方がものすごかったから、こんなにこんなに「祭りだわっしょい」をやって、みんな立ち上がって大騒ぎで、歓声と拍手で盛大にカオスだった直後に、同じステージで、ここまで厳粛になるっつーのは。
どちらも、「音楽」なんだ。
わたしたち、人間の作る、人間の愛する、「音楽」というものなんだ。
なんて広いんだろう。なんて奥が深いんだろう。
「音楽」って。
両手を打ち鳴らし、カラダを動かしながらきゃーきゃーに参加するのも「音楽」ならば、厳粛に緊張感を持って参加するのも「音楽」なんだ。
そして、それを同時に体験できる、『1万人の第九』。
おもしろいなあ。
『1万人の第九』って、おもしろい。
例年にない、ぞくぞくした感じが、あった。
自分が今、すごい場所にいるんだと思った。
「第九」という音楽の力。
それを奏でる人々の力、指揮する人の力、聴き入る人々の集中力……すべてのものが、ひとつの場所に集約する感覚。
ベクトルが、ひとつになる。
ばらばらであるはずのものが、今このときだけ、たしかにひとつになる……その、感覚。
肌にぴりぴり感じる、不思議さ。興奮。
広大な大阪城ホール内部の空気が、「気」が、濃縮され圧縮され、なんかチガウものに変換されていく。
そしてソレが、解き放たれる。
ぎりぎりまで引き絞った矢が、放たれるみたいに。ぱんぱんの水風船が、はち切れるみたいに、
大きさは変わっても質量は変わっていない、小さく小さく凝縮した分、濃く濃くなったナニかが、一気に爆発する。
合唱となって。
「声」があって良かった。
「楽器」を持って生まれてきて良かった。
オーケストラの奏でる音と共に、自分自身の声という楽器で、共に奏でることが出来て、良かった。
内側からわきあがる不思議な力に押されて、外側からわきあがり続ける頼もしい力と手を取り合って、ただ、歌う。
歌う。
喜びの歌。
歓喜の歌。
細胞のひとつひとつまでもが、うわーーっと声を出している。
…………いやあ。
脳内麻薬出まくってんじゃないの、あの空間。あそこにいた人々。
テンション、熱気、なんかもお例年にない温度で、皮膚感で、曲はフィニッシュを迎える。
ブラボー!を叫ぶ人たち、拍手と歓声と。
てゆーか、なんかみんな興奮状態で。なんかハイになってて。
歌い終わった瞬間、声出てんじゃん、叫ばないだけで。
すごいことになってるな今年の『第九』。
心からもお、ひたすら、おもしろかった。
人間ってすごい。
音楽ってすごい。
生きるって、おもしろいよ。
この星に生まれて。@1万人の第九2009
2009年12月6日 その他
ベルリンの壁が崩壊した年。
東西ドイツの演奏者たちが集まって「第九」を演奏したそうだ。「歓喜」という歌詞を「自由」に変えて。
それから20年。
ベルリンの壁が壊される映像からスタートした今年の『1万人の第九』は、ものすごーく、フリーダムだった(笑)。
第一部には毎年ポップス界からゲストシンガーが出演するんだが、今年のゲストは槇原敬之だった。
歌うのは新曲の「ムゲンノカナタヘ」と、定番曲「見上げてごらん夜の星を」、マッキーといえばコレでしょ、の、「世界に一つだけの花」。
ゲストの持ち歌に、1万人の合唱団がコーラスを入れる、てのがこのイベントのお約束。
今年ももちろん、「世界に一つだけの花」にコーラスを入れることになり、前もって楽譜が配られそれぞれのクラスで練習もしていた。
が、前日リハーサルのときに。
『1万人の第九』の指揮者であり総監督の佐渡せんせーが言うわけだ。
「最後のとこは何回やるか決めてないけど、まあいいよね」
「世界に…」のラストの「♪ラララ~」部分を何回リピートするか、決めないでやるとゆーんだ。まあなんとかなるでしょと。
ヲイヲイ。
訓練された少数のコーラス団ぢゃなく、素人×1万人だよ? いいの?
なんとかなるでしょ、ではじまったリハーサル。
おとなしく拝聴する「ムゲンノカナタヘ」はともかく、「見上げてごらん夜の星を」は「てきとーに歌ってヨシ」と言われたので、みんな好きなときに勝手に歌い出す。
そして楽譜もらって練習した唯一の「世界に…」は……みんな、音合ってる?!(笑) けっこーばらばらとやってるよーな気が……。
そして問題のリフレイン。
オーケストラも演奏を止め、手拍子だけでアカペラで「ラララ」が続く。
えーとこれ、どこまでやるの、いつまでやるの? マッキー踊ってるし、佐渡せんせも式台から離れてあおってるし。
カオスのまま、リハ終了(笑)。
「好きに歌っちゃっていいから。ねえ?」
世界の佐渡裕はあっけらかんと、そんなことを言う。
せんせに振られて、マッキーも「ええ」と言う。
「作曲者がイイって言ってるから、イイってことで!」
いいのかよ?!
……で、『1万人の第九』当日。
ゲネプロ時に合唱指導のせんせがフォローする(笑)。
「オーケストラが演奏やめてアカペラになってる間はGパートを繰り返して、佐渡先生が式台に戻ってオケに合図をしたら演奏はじまるから、そしたらそこからHパートね」
同じ「ラララ」でもメロディがチガウんだよ、楽譜もらってんだよ(笑)。
しかし。
ゲネプロの「ラララ」リフレインは、めちゃくちゃ(笑)。
わたしと周囲は生真面目にGパート歌ってるんだけど、左スタンドの方からはHパートの「ラララ」が聞こえる。勝手にスタンディングはじめるし、マッキー踊ってるし佐渡せんせもあおってるし……カオス。
駄目出し来るかなと思ったけれど、それもなくゲネプロ終了。えええ、あれでいいの? コーラスめちゃくちゃでしたよ?!
「ここは『ラララ』で、佐渡先生が式台に上がって伴奏がついてからが『ラララ』よねえ?」
後ろの席の人たちが、楽譜を開いて首を傾げている。や、あなたたちは合ってます、楽譜を無視して最初から最後までHパートで歌っていた人たちが何百人だか何千人だかいただけで。
Hパートの方が歌いやすい旋律で、なおかつ盛り上がるのね。編曲した人の意図としては、はじめは押さえ気味の地味なラララで、最後にどかんと派手なラララで盛り上げて感動エンディング!という演出だったと思うの。でも練習不足かつ、「本番も楽譜を見て歌うので、暗譜しなくていいですよ」と練習時間を取れない言い訳にしていた運営側にも問題があると思うの。
危惧したとおり、楽譜なんて見られなかったもの。演出効果でマッキーのいるステージ以外は真っ暗だもの。楽譜開いても読めない。
毎年のことだけど、「楽譜見ていいからね」と練習時間を取れないままなし崩しで本番、で、本番は楽譜なんか見られない真っ暗な演出……ての、いい加減やめて欲しい。
音楽のプロは「この程度、そもそも楽譜なくても1回聴けばできるはず」と思うのかもしれないが、素人×1万人にナニを求めてるんだ。はじめてのことをやらせるんだから、それなりの練習は必要だっつの。
ゲストの曲にコーラスを入れる都合上、演出が決まり楽譜が出来上がるのがいつも本番直前だからそもそも物理的に時間が取れないことと、本当の意味で練習するにはゲストとも合わせなきゃいけないわけで、んな高名なスター様を素人の練習につきあわせるわけにもいかないので、内輪の事情的にも不可能。つーことで、毎年毎年練習不足。
そして毎年毎年、練習不足の言い訳は「楽譜見ながら歌っていいからね」……そして本番は照明真っ暗で楽譜見えず、の繰り返し。
進歩はないのか、運営側。
どうせテレビ放送するのはほんの一部で編集加工前提なので、ぐたぐだでもいいんだろうな(笑)。
まあそのへんは毎年のことなのであきらめている。今年も「前言に偽りあり」ですな、MBS。
ぐだぐだ上等! のまま、いざ本番。
不思議なことに、本番は合っていた、気がする、コーラス(笑)。
何故だ(笑)。
曲の合間合間にMCが入るんだが、マッキーがそこで伴奏している子どもばかりのオーケストラの音について言及していた。
「見上げて…」は子どもたちばかりが伴奏をしている。彼らの、純粋に「音」と向き合ったゆえに奏でる音に胸を突かれる、よーな意味のことを。途中で佐渡せんせが話を奪っちゃっていたけど、双方そーゆー意味のことを語っていたと思う。
そう。
リハもゲネもゆるくて、なんかカオスだった。
その延長にあるはずの、本番。
なんだかとても純粋に、剥き出しの「音楽」が、そこにあった。……気がする。
「ムゲンノ…」を歌うマッキーと、その歌声に集中する空気。1万人の手拍子は鳴っているけれど、ソレとは別に、1万人が耳をそばだてているのがわかる。
「見上げて…」のマッキーの声にかぶせて、静かにわきあがるコーラス。
まるで、教会の中のようだ。
祈りがしんしんと響き、歌声になるような。
そして、「世界に…」。
楽譜があるんだかないんだか、守る気があるんだかないんだか。
がちがちに決める気のない、「余白」の部分、楽譜には印刷されないナニかを解き放った、1曲。フリーダムな、ひととき。
マッキーが踊り、佐渡せんせが踊る。客席に、1万人の合唱団に、「歌え」と訴えかける。
歌歌え。歌歌う。
2009年の『10000人の第九』のサブタイトルは「歌のある星へ」だ。
「歌はなくても生きていけるけど、歌があると楽しい」……マッキーがそう語るように。
歌は楽しい。歌は幸せだ。
歌歌う、今は、楽しい。今は、しあわせだ。
歌のある星に生まれた幸福を、声にして歌う。
なくても生きていけるものを、必要として、声を上げる。
立ち上がり、手を打ち鳴らしながら歌う。
リフレイン。心のままに、波のままに繰り返されて。
伴奏もなく、ただひとの声だけで。
そして。
子どもたち、学生たちの伴奏を得て、曲は終着する。プロではない、お金のためではなく演奏する者たちの音で、1万人の素人の歌声と共に。
鳴りやまない拍手。
マッキーが退場して、第1部は終了、休憩になる予定だ。
なのに、鳴りやまない。
こんなの、はじめてだ。
『1万人の第九』に参加し続けて11年、佐渡せんせと同じ年数やってきたけど、こんなの見たことナイ。聞いたことナイ。
退場したマッキーが戻ってきた。
まさかのカーテンコール。
沸き上がる会場。
カオス。
なんかもお、カオスすぎる(笑)。
いやこれは、フリーダムなのか(笑)。
休憩になったあと、後ろの席の人たちの会話が聞こえた。
「あんまり盛り上がったから、これで『終了』って感じよね」
「ほんとにねー。終わったー、って感じよね」
同感です。
「ちょっと待って、これからが本番だってば」
はい。『1万人の第九』ですから。まだ第九歌ってませんから(笑)。
東西ドイツの演奏者たちが集まって「第九」を演奏したそうだ。「歓喜」という歌詞を「自由」に変えて。
それから20年。
ベルリンの壁が壊される映像からスタートした今年の『1万人の第九』は、ものすごーく、フリーダムだった(笑)。
第一部には毎年ポップス界からゲストシンガーが出演するんだが、今年のゲストは槇原敬之だった。
歌うのは新曲の「ムゲンノカナタヘ」と、定番曲「見上げてごらん夜の星を」、マッキーといえばコレでしょ、の、「世界に一つだけの花」。
ゲストの持ち歌に、1万人の合唱団がコーラスを入れる、てのがこのイベントのお約束。
今年ももちろん、「世界に一つだけの花」にコーラスを入れることになり、前もって楽譜が配られそれぞれのクラスで練習もしていた。
が、前日リハーサルのときに。
『1万人の第九』の指揮者であり総監督の佐渡せんせーが言うわけだ。
「最後のとこは何回やるか決めてないけど、まあいいよね」
「世界に…」のラストの「♪ラララ~」部分を何回リピートするか、決めないでやるとゆーんだ。まあなんとかなるでしょと。
ヲイヲイ。
訓練された少数のコーラス団ぢゃなく、素人×1万人だよ? いいの?
なんとかなるでしょ、ではじまったリハーサル。
おとなしく拝聴する「ムゲンノカナタヘ」はともかく、「見上げてごらん夜の星を」は「てきとーに歌ってヨシ」と言われたので、みんな好きなときに勝手に歌い出す。
そして楽譜もらって練習した唯一の「世界に…」は……みんな、音合ってる?!(笑) けっこーばらばらとやってるよーな気が……。
そして問題のリフレイン。
オーケストラも演奏を止め、手拍子だけでアカペラで「ラララ」が続く。
えーとこれ、どこまでやるの、いつまでやるの? マッキー踊ってるし、佐渡せんせも式台から離れてあおってるし。
カオスのまま、リハ終了(笑)。
「好きに歌っちゃっていいから。ねえ?」
世界の佐渡裕はあっけらかんと、そんなことを言う。
せんせに振られて、マッキーも「ええ」と言う。
「作曲者がイイって言ってるから、イイってことで!」
いいのかよ?!
……で、『1万人の第九』当日。
ゲネプロ時に合唱指導のせんせがフォローする(笑)。
「オーケストラが演奏やめてアカペラになってる間はGパートを繰り返して、佐渡先生が式台に戻ってオケに合図をしたら演奏はじまるから、そしたらそこからHパートね」
同じ「ラララ」でもメロディがチガウんだよ、楽譜もらってんだよ(笑)。
しかし。
ゲネプロの「ラララ」リフレインは、めちゃくちゃ(笑)。
わたしと周囲は生真面目にGパート歌ってるんだけど、左スタンドの方からはHパートの「ラララ」が聞こえる。勝手にスタンディングはじめるし、マッキー踊ってるし佐渡せんせもあおってるし……カオス。
駄目出し来るかなと思ったけれど、それもなくゲネプロ終了。えええ、あれでいいの? コーラスめちゃくちゃでしたよ?!
「ここは『ラララ』で、佐渡先生が式台に上がって伴奏がついてからが『ラララ』よねえ?」
後ろの席の人たちが、楽譜を開いて首を傾げている。や、あなたたちは合ってます、楽譜を無視して最初から最後までHパートで歌っていた人たちが何百人だか何千人だかいただけで。
Hパートの方が歌いやすい旋律で、なおかつ盛り上がるのね。編曲した人の意図としては、はじめは押さえ気味の地味なラララで、最後にどかんと派手なラララで盛り上げて感動エンディング!という演出だったと思うの。でも練習不足かつ、「本番も楽譜を見て歌うので、暗譜しなくていいですよ」と練習時間を取れない言い訳にしていた運営側にも問題があると思うの。
危惧したとおり、楽譜なんて見られなかったもの。演出効果でマッキーのいるステージ以外は真っ暗だもの。楽譜開いても読めない。
毎年のことだけど、「楽譜見ていいからね」と練習時間を取れないままなし崩しで本番、で、本番は楽譜なんか見られない真っ暗な演出……ての、いい加減やめて欲しい。
音楽のプロは「この程度、そもそも楽譜なくても1回聴けばできるはず」と思うのかもしれないが、素人×1万人にナニを求めてるんだ。はじめてのことをやらせるんだから、それなりの練習は必要だっつの。
ゲストの曲にコーラスを入れる都合上、演出が決まり楽譜が出来上がるのがいつも本番直前だからそもそも物理的に時間が取れないことと、本当の意味で練習するにはゲストとも合わせなきゃいけないわけで、んな高名なスター様を素人の練習につきあわせるわけにもいかないので、内輪の事情的にも不可能。つーことで、毎年毎年練習不足。
そして毎年毎年、練習不足の言い訳は「楽譜見ながら歌っていいからね」……そして本番は照明真っ暗で楽譜見えず、の繰り返し。
進歩はないのか、運営側。
どうせテレビ放送するのはほんの一部で編集加工前提なので、ぐたぐだでもいいんだろうな(笑)。
まあそのへんは毎年のことなのであきらめている。今年も「前言に偽りあり」ですな、MBS。
ぐだぐだ上等! のまま、いざ本番。
不思議なことに、本番は合っていた、気がする、コーラス(笑)。
何故だ(笑)。
曲の合間合間にMCが入るんだが、マッキーがそこで伴奏している子どもばかりのオーケストラの音について言及していた。
「見上げて…」は子どもたちばかりが伴奏をしている。彼らの、純粋に「音」と向き合ったゆえに奏でる音に胸を突かれる、よーな意味のことを。途中で佐渡せんせが話を奪っちゃっていたけど、双方そーゆー意味のことを語っていたと思う。
そう。
リハもゲネもゆるくて、なんかカオスだった。
その延長にあるはずの、本番。
なんだかとても純粋に、剥き出しの「音楽」が、そこにあった。……気がする。
「ムゲンノ…」を歌うマッキーと、その歌声に集中する空気。1万人の手拍子は鳴っているけれど、ソレとは別に、1万人が耳をそばだてているのがわかる。
「見上げて…」のマッキーの声にかぶせて、静かにわきあがるコーラス。
まるで、教会の中のようだ。
祈りがしんしんと響き、歌声になるような。
そして、「世界に…」。
楽譜があるんだかないんだか、守る気があるんだかないんだか。
がちがちに決める気のない、「余白」の部分、楽譜には印刷されないナニかを解き放った、1曲。フリーダムな、ひととき。
マッキーが踊り、佐渡せんせが踊る。客席に、1万人の合唱団に、「歌え」と訴えかける。
歌歌え。歌歌う。
2009年の『10000人の第九』のサブタイトルは「歌のある星へ」だ。
「歌はなくても生きていけるけど、歌があると楽しい」……マッキーがそう語るように。
歌は楽しい。歌は幸せだ。
歌歌う、今は、楽しい。今は、しあわせだ。
歌のある星に生まれた幸福を、声にして歌う。
なくても生きていけるものを、必要として、声を上げる。
立ち上がり、手を打ち鳴らしながら歌う。
リフレイン。心のままに、波のままに繰り返されて。
伴奏もなく、ただひとの声だけで。
そして。
子どもたち、学生たちの伴奏を得て、曲は終着する。プロではない、お金のためではなく演奏する者たちの音で、1万人の素人の歌声と共に。
鳴りやまない拍手。
マッキーが退場して、第1部は終了、休憩になる予定だ。
なのに、鳴りやまない。
こんなの、はじめてだ。
『1万人の第九』に参加し続けて11年、佐渡せんせと同じ年数やってきたけど、こんなの見たことナイ。聞いたことナイ。
退場したマッキーが戻ってきた。
まさかのカーテンコール。
沸き上がる会場。
カオス。
なんかもお、カオスすぎる(笑)。
いやこれは、フリーダムなのか(笑)。
休憩になったあと、後ろの席の人たちの会話が聞こえた。
「あんまり盛り上がったから、これで『終了』って感じよね」
「ほんとにねー。終わったー、って感じよね」
同感です。
「ちょっと待って、これからが本番だってば」
はい。『1万人の第九』ですから。まだ第九歌ってませんから(笑)。
サブドメインが取得できるようになったので、早々に登録、無事にkoalaをGETしたので、このブログのURLは「http://koala.diarynote.jp/」になった。
つっても今までのURLでも見られるけど。
DiaryNoteが新しくなっていろいろ変更点があった。
そのなかのひとつに、左の「最新の日記」欄に「最新の日記が表示されない」というものがある。
今までは「いちばん最近に書いた・更新した日記がいちばん上に表示された」が、今はもう「わたしが最近に書いた」ことより、「最新の日付」を優先しているのだな。
だから1週間前の日付位置に新しい記事をUPしても、それは「最新の日記」ではない。「日付が現在に近い日記」だけを「最新」として表示する。
過去日付に新しい記事を書いても、書いたことに気づく人はまあいないってことだなー。や、RSS登録している人はともかく、ふつーにブクマからここへ来ている場合、更新されたかどうか不明ってことだな。
……それを隠れ蓑にしてマニアックな話とか、こっそり書くことが出来るか(笑)。
DiaryNoteを使い出して7年になるが、以前酷い目に遭ったので、それ以来「1日1記事、3000文字」をMyルールにしている。
同じ日付に複数記事をUPできるし、1記事に2万文字書けるそうだが、わたしは信じない(笑)。
以前DiaryNoteのうたい文句を信じて「同じ日付に複数記事、1記事3000文字以上」書いていたら、全部壊れて消失したんだわ。
1日に2つ以上記事があった場合、最初のひとつのテキストだけが残り、それ以外の記事は最初のひとつと同じになった。
「『愛と死のアラビア』ってこんな話?・1」「『愛と死のアラビア』ってこんな話?・2」「『愛と死のアラビア』ってこんな話?・3」という記事を同じ日付、1日にUPしていた場合、「『愛と死のアラビア』ってこんな話?・1」が3つになったわけ。「2」と「3」は消失。
また、ひとつの記事が3000文字以上会った場合、3000弱を区切りにそれ以上のテキストは消失。
「『愛と死のアラビア』ってこんな話?・1」が4000文字だったとしたら、3000文字くらいからあとは突然文章が切れているの。
当時は「メールでバックアップ」という機能もなくて、数年分のテキストが一気に消失したのよ。
DiaryNoteに問い合わせても、もちろん回答はなかった。7年間で2~3回問い合わせたことがあるんだが、一度も回答してもらったことがないので、そーゆーもんだと思って使っている。返事がないとわかっているから、ほんとーに困ったときしかメールしないんだが、それでも放置プレイだしな。
運営サイドはなにもしてくれない。
だから、自衛するしかない。
「1日1記事、3000文字」がMyルール。
どんなに一気に書ききりたい話題でも、長くなったら2日、3日と時間が経つのを待って、3000文字で区切ってからUPする。
複数の話題を1日に書きたいときでも、日にちが変わるのを待つ。
同じ日に、複数記事は書かない。3000文字以上書かない。そーしないと、サイトが壊れて消失するかもしれない。
DiaryNoteなんて、信じてない。
そもそも、無料で使えるサイトなんだから、保証がないことは理解している。
いつ全削除されて全データ消失するか、わかったもんじゃない……と、自覚した上で、利用している。
そうなったとしても、わたしからはなにも働きかける術がない。問い合わせたって、きっと返事もらえないし(笑)。
て、この日記も「最新の日記」に出ることはないので、気軽に書いてみた(笑)。
つっても今までのURLでも見られるけど。
DiaryNoteが新しくなっていろいろ変更点があった。
そのなかのひとつに、左の「最新の日記」欄に「最新の日記が表示されない」というものがある。
今までは「いちばん最近に書いた・更新した日記がいちばん上に表示された」が、今はもう「わたしが最近に書いた」ことより、「最新の日付」を優先しているのだな。
だから1週間前の日付位置に新しい記事をUPしても、それは「最新の日記」ではない。「日付が現在に近い日記」だけを「最新」として表示する。
過去日付に新しい記事を書いても、書いたことに気づく人はまあいないってことだなー。や、RSS登録している人はともかく、ふつーにブクマからここへ来ている場合、更新されたかどうか不明ってことだな。
……それを隠れ蓑にしてマニアックな話とか、こっそり書くことが出来るか(笑)。
DiaryNoteを使い出して7年になるが、以前酷い目に遭ったので、それ以来「1日1記事、3000文字」をMyルールにしている。
同じ日付に複数記事をUPできるし、1記事に2万文字書けるそうだが、わたしは信じない(笑)。
以前DiaryNoteのうたい文句を信じて「同じ日付に複数記事、1記事3000文字以上」書いていたら、全部壊れて消失したんだわ。
1日に2つ以上記事があった場合、最初のひとつのテキストだけが残り、それ以外の記事は最初のひとつと同じになった。
「『愛と死のアラビア』ってこんな話?・1」「『愛と死のアラビア』ってこんな話?・2」「『愛と死のアラビア』ってこんな話?・3」という記事を同じ日付、1日にUPしていた場合、「『愛と死のアラビア』ってこんな話?・1」が3つになったわけ。「2」と「3」は消失。
また、ひとつの記事が3000文字以上会った場合、3000弱を区切りにそれ以上のテキストは消失。
「『愛と死のアラビア』ってこんな話?・1」が4000文字だったとしたら、3000文字くらいからあとは突然文章が切れているの。
当時は「メールでバックアップ」という機能もなくて、数年分のテキストが一気に消失したのよ。
DiaryNoteに問い合わせても、もちろん回答はなかった。7年間で2~3回問い合わせたことがあるんだが、一度も回答してもらったことがないので、そーゆーもんだと思って使っている。返事がないとわかっているから、ほんとーに困ったときしかメールしないんだが、それでも放置プレイだしな。
運営サイドはなにもしてくれない。
だから、自衛するしかない。
「1日1記事、3000文字」がMyルール。
どんなに一気に書ききりたい話題でも、長くなったら2日、3日と時間が経つのを待って、3000文字で区切ってからUPする。
複数の話題を1日に書きたいときでも、日にちが変わるのを待つ。
同じ日に、複数記事は書かない。3000文字以上書かない。そーしないと、サイトが壊れて消失するかもしれない。
DiaryNoteなんて、信じてない。
そもそも、無料で使えるサイトなんだから、保証がないことは理解している。
いつ全削除されて全データ消失するか、わかったもんじゃない……と、自覚した上で、利用している。
そうなったとしても、わたしからはなにも働きかける術がない。問い合わせたって、きっと返事もらえないし(笑)。
て、この日記も「最新の日記」に出ることはないので、気軽に書いてみた(笑)。
DiaryNote、見捨てどきなのかも。
2008年9月10日 その他 やらなくていいのに、DiaryNoteが勝手にモデルチェンジしたっす。
改悪ばかりで、6年越えのユーザーとしては見捨てるべきなのかと、思案どころ。
表に見えるところで言うなら、改行位置が不満。
人間の目には、「読みやすい幅」というのがあって、ひろがりすぎると次の行に戻るときに混乱するの。
横書きで許される文字数を超えてるよ、DiaryNote。
わたしは以前の改行位置(1行の文字数)に合わせたバランスで文章を書いてきたから、勝手に位置を大幅に変えられると、意図していたイメージでなくなってしまう。(他者の閲覧環境は知らん、あくまでもわたし個人の環境で、バランス命)
どうも、画像をアップしてはじめて、「読みやすい幅」になるみたいだ。画像がないと、本来なら画像があるべき位置(つまり、テキストを入れるべきではない、と制作側もわかっている位置)まで、テキストがなだれ込んでしまう模様。
……なんてヘボい作りなんだ。
また、過去ログ検索がさらに不便になった。
以前はページの最後にずらずらと全ページへのリンクが張ってあった。数百はあったから、とても見苦しかった(笑)が、とりあえずページ間移動が出来た。
それがスマートに(笑)1行だけにされてしまった。数ページしか飛ぶことが出来ない。
2004年の1月の記事が読みたい、と思っても、50回くらいページを地道に繰っていかないと読めない。
そーやって目に見えるとこだけでも改悪されてるんだけどさー。
管理画面はもっとひどいのよー(笑)。
今まではそれでも、過去記事の管理はできるよーになってたんだけど、改悪されて「できない」よーになったの。
びっくりしたわー。
自分の書いた記事を管理画面から操作できなくなってるの。
ありえねー。
過去記事の管理・修正をしたい場合は、ブログ本文から「編集する」をクリックするしかなさそう。
で、先述の通り、それが2004年の1月の記事だったら、ブログトップから50回以上ページを繰って該当記事を自力で探し、末尾の「編集する」から入るしかないの。
また、記事をアップできる日付も限定され、自由に書くことが出来なくなった。
わたしは365日1記事ずつ書くのが基本だから、ぽっかり抜けたままになっている過去の日付にこっそり新しい日記をアップしていたりしてきたけれど、それができなくなった。
30日以上の過去日記は書けない。
なにもできないことが、DiaryNoteのいいところだったんだけど、できないにも程がある。
どーしたもんか。
とゆー内容でアップした直後、いちおー過去記事を管理画面から操作できるようになりました。
そして、そのあと2回くらい、ブログのレイアウトが勝手に変わった。
画像の位置とは無関係に、改行位置が決定した模様。
せいぜい10分くらいの間に、なんなのこの変更しまくりぶり。
大丈夫なのか、DiaryNote。
ほんとうにもうダメなのか、DiaryNote。
改悪ばかりで、6年越えのユーザーとしては見捨てるべきなのかと、思案どころ。
表に見えるところで言うなら、改行位置が不満。
人間の目には、「読みやすい幅」というのがあって、ひろがりすぎると次の行に戻るときに混乱するの。
横書きで許される文字数を超えてるよ、DiaryNote。
わたしは以前の改行位置(1行の文字数)に合わせたバランスで文章を書いてきたから、勝手に位置を大幅に変えられると、意図していたイメージでなくなってしまう。(他者の閲覧環境は知らん、あくまでもわたし個人の環境で、バランス命)
どうも、画像をアップしてはじめて、「読みやすい幅」になるみたいだ。画像がないと、本来なら画像があるべき位置(つまり、テキストを入れるべきではない、と制作側もわかっている位置)まで、テキストがなだれ込んでしまう模様。
……なんてヘボい作りなんだ。
また、過去ログ検索がさらに不便になった。
以前はページの最後にずらずらと全ページへのリンクが張ってあった。数百はあったから、とても見苦しかった(笑)が、とりあえずページ間移動が出来た。
それがスマートに(笑)1行だけにされてしまった。数ページしか飛ぶことが出来ない。
2004年の1月の記事が読みたい、と思っても、50回くらいページを地道に繰っていかないと読めない。
そーやって目に見えるとこだけでも改悪されてるんだけどさー。
管理画面はもっとひどいのよー(笑)。
今まではそれでも、過去記事の管理はできるよーになってたんだけど、改悪されて「できない」よーになったの。
びっくりしたわー。
自分の書いた記事を管理画面から操作できなくなってるの。
ありえねー。
過去記事の管理・修正をしたい場合は、ブログ本文から「編集する」をクリックするしかなさそう。
で、先述の通り、それが2004年の1月の記事だったら、ブログトップから50回以上ページを繰って該当記事を自力で探し、末尾の「編集する」から入るしかないの。
また、記事をアップできる日付も限定され、自由に書くことが出来なくなった。
わたしは365日1記事ずつ書くのが基本だから、ぽっかり抜けたままになっている過去の日付にこっそり新しい日記をアップしていたりしてきたけれど、それができなくなった。
30日以上の過去日記は書けない。
なにもできないことが、DiaryNoteのいいところだったんだけど、できないにも程がある。
どーしたもんか。
とゆー内容でアップした直後、いちおー過去記事を管理画面から操作できるようになりました。
そして、そのあと2回くらい、ブログのレイアウトが勝手に変わった。
画像の位置とは無関係に、改行位置が決定した模様。
せいぜい10分くらいの間に、なんなのこの変更しまくりぶり。
大丈夫なのか、DiaryNote。
ほんとうにもうダメなのか、DiaryNote。
裏事情は置くとして。大切なのは「表」の顔。@1万人の第九
2007年12月3日 その他 中島美嘉の「素顔」は、有名なのか?
おばさん、若い子のことよく知らないから。若者の間では周知のことなのかと疑問を持ったが、若いパクちゃんと誠さんが「見たことない」と言ってくれたので、ほっとした。
『1万人の第九』、今年のゲストは中島美嘉だった。『1万人の第九』と同い年(25歳)なんだって。
ドラマ・フリークでもあるわたし(大抵のドラマは網羅しているぞっと)が中島美嘉と出会ったのは、2001年のドラマ『傷だらけのラブソング』だった。昔の大映ドラマのよーなしょーもないドラマだったが、ヒロインのケバい不良少女の歌う「アメイジング・グレイス」はたしかに素晴らしかった。
不良少女役だから、あんなメイクをしているのだと思ったが、中島美嘉は終始一貫ケバケバしいタヌキメイクのシンガーだった。目の周りが真っ黒で、付け睫毛なのかマスカラ威力なのか、おばさんにはよくわかんないわぁ、てな感じの。
歌番組はあまり見ないが、ドラマを見てれば流行りの音楽は嫌でも耳にすることになる。以来、中島美嘉の名前と歌声は絶えることなく日常の中にあった。ジェンヌがお茶会で彼女の歌を歌ったりするしな。
しかし、素顔は知らなかった。
いつ見ても彼女はタヌキのよーなメイクをした、作り物っぽいカオをしていたから。
で、『1万人の第九』には、リハーサルとゲネプロと本番がある。
前日行われるリハでは音楽部分だけ練習、当日の朝行われるゲネでは進行全部、つーことで、すべてに中島美嘉は登場する。
平井堅がゲストで出た年からだったかな、リハーサルもチケット売って一般客を客席に入れるようになっていた。有名流行歌手が出演するんだから、そして本番と同じ曲数歌うんだから、たとえリハでも金になるんだ、すげーなと思った記憶あり。
わたしだって、たとえば春野寿美礼がゲスト出演するコンサートがあって、リハーサルもお金を出せば見られるとゆーなら、絶対チケット買って見に行ってるもん。ファンならリハだって見たいはず。
だから今年のリハも、ふつーに客を入れていた。
大阪城ホールには、リハーサルから1万人の合唱団と、何人かは知らないが一般客がいた。
そのステージ上に、中島美嘉は現れたわけだ。歌う曲は「LIFE」と「The Rose」と「きよしこの夜」。本番じゃないからふつーの服装で、髪の毛はおろしたまんまで。
あ、あれ?
「中島美嘉さんです!」
と紹介されて出てきた女の子は、わたしの知っている「中島美嘉」ではなかった。
量が多いだけの、ダサい髪型。瞼の上に一直線になった前髪の厚さは1cmくらいありそうだ。
地味で、暗そうなカオ。テンション低く、とりあえず、歌う。
歌声もまた、わたしの知っている「中島美嘉」とはちがっていて。
あ、あれえ? 中島美嘉ってもっと「うまい」ってイメージだったんだけど……。
大して、うまくない。音取れてないじゃん? 高音が上がりきらず途中で消え入る。声量もない。ブレスの多さが耳につく。
淡々と歌い、なんとも退屈な声。
ナマで聴くのがはじめてだから?
テレビでは人工的に処理されていたからあんなにうまく響いたのかな?
てゆーかアレ、ニセモノなんじゃね?
何故誰もナニも言わない? あきらかに別人じゃん。カオ、ちがってるやん。
いつもジェンヌを見慣れているためか、姿勢の悪さが気になる。
真っ直ぐ立てない、歩けない。
歌うときは前屈み。振付とも思えない微妙な動き。あー、『バイオハザード』のゾンビがあんな動きをする……。
地味で暗い女の子が、貞子@『リング』のような髪型でカラダをくの字に曲げて歌う姿は、なんつーかこー、ホラー風味だった。
前屈みでずっとゆらゆら揺れてる……こわい……。
リハは歌だけで終わったけれど、当日のゲネはその他の進行も本番通りやる。つまり、トークもある。
……美嘉ちゃんは、「喋れない女の子」でした。佐渡せんせと司会者が、美嘉ちゃんを真ん中に喋っていても、自分からは会話に加われず、ぼーっと突っ立っていた。「美嘉ちゃんはどう?」と言われてはじめて「台本です」というような答えをローテンションに口にする。
たしか中島美嘉って自分からぺらぺら喋るキャラではなかったよな。だからまちがってはいないんだけど、こわいタヌキメイクのときは「クール」とか「アンニュイ」に見えていたけど、貞子姿だとたんに「気の利かない子」に見える……メイクの威力に唖然。
ねえねえアレってほんとに中島美嘉?!
わたしは聞きたくて仕方なかったが、かなしみのひとり参加、誰にも聞けない。
お隣のおばーさまと仲良くしてたんだけど、おばーさんはもちろん「あの女の子誰?(笑顔)」「2曲目、いい歌ねぇ(笑顔)」「ところでおまんじゅう食べる?(笑顔)」だったので、聞けませんでした。
2曲目は美嘉ちゃんの持ち歌ではないっすよ……ヅカでは定番、1年に何回も聴く曲だが、ふつーの人ははじめて聴くくらいのもんらしい……。
わたしはもうすっかり春野寿美礼中毒で、寿美礼サマのコテコテな歌声以外受け付けなくなっているのかもしれない。
中島美嘉のひっかかりのない「きれいな」歌声は、そうめんのようにのどごしさわやかに流れ切り、なにも残らない。
物足りない……。
つまんない……。
そう思っていたんだが。
さて、本番。
リハ、ゲネと貞子姿でホラーだった歌姫・中島美嘉は、ちゃんと「中島美嘉」の姿で現れた。
迫力のドレス姿、迫力のタヌキメイク。目の周りは真っ黒だ。
あのぶ厚い貞子ヘアは、きれいにウェーブを付けて撫でつけ、モガのようになっていた。
「……あんなに塗りたくらなくても……(唖然)」
素顔→化粧顔の順で「中島美嘉」体験をした隣の席のおばーさんは、その別人ぶりに絶句。
いやあ、あのメイクはアートだねっ。同じよーにフラフラ前屈みで歌っても、自分からはなにもできずにぼーっと突っ立っていても、変じゃない。
そーゆーもん、という「キャラクタ」として成り立っている。
で、実際。
本番は、歌がうまかった。
テレビで聴く通りの「歌姫」ぶりだった。
リハでは手を抜いていた、……とも、思えない。そんな器用さがあるようには思えなかった。真面目な女の子に見えた。
本番でこそ、実力を発揮できる子なのか……!
冴えわたる歌声の、美しさ。
作り込まれた人形のような姿と相まって、別次元の存在として光を放っていた。
……えーと。
ここまで「素」と「本番」がチガウ人を、見たことないっす。
『1万人の第九』には旬な歌うたいさんが必ずゲスト出演し、リハで素の姿も見せてくれるけど、みんな本番と大してちがいはなかったっす。
めっさ普段着で現れて、本番でキラキラのゴージャス・ドレス姿、髪とメイクに何時間かかったんだー?な手の込んだ姿になる人たちはいても、少なくとも顔は同じだった。
ヅカメイクばりに濃ぃ〜〜いメイクだから、素顔が別人なのは想像の範囲内っちゃーその通りなんだが、だからこそおどろいたのは、素顔を隠していないことなのよ。
デーモン小暮閣下のように、素顔は絶対見せちゃいけないことにしておかなきゃ……。
☆
今年の『1万人の第九』は、ゲネの進行がぐたぐたで、お昼休憩はなくなるわ、発声練習は短縮されるわ、時間が取れないから休憩時間に急遽練習させられるわ(半数は席を立ってるので不在。そんな練習意味あるのか?)、休憩短縮のせいでトイレの大行列から帰還できない人たちが演奏がはじまっても会場内をウロウロしているわ、散々だった。
そのくせオケの演奏自体は佐渡センセがかなりタイトにまとめたので、結果として30分も時間が無為に空いてしまうわで(それなら休憩と練習時間をちゃんと取ってくれよ!)、これまたひどいことになっていた。
本番がどーなるのか、午前中段階では心から不安でしたねぇ。
ここまでひどい進行っぷりははじめてなんだが、どーしたんだろう、毎日放送さん。
まあともかく、裏事情は置くとして、例年以上の感動的なコンサートでした。
久石譲氏の新曲「Orbis」が、ものごっつー壮大で、すばらしい曲でした。
舞台に現れた久石せんせが、なによりまずオケに向かって頭を下げまくっていたのが印象的。
「楽譜もらったのが10日前でね、オケは死ぬほど練習しましたよ……これがまた複雑なことやっててね……」
と、佐渡せんせがゲネでゆーてました。わたしらコーラスも、楽譜もらったの5日前とかだったよね……。
どーも〆切破りまくったっぽい(笑)。
でも、いい曲だった。
「六甲おろし」もなかったし、良いコンサートでした。はい。
おばさん、若い子のことよく知らないから。若者の間では周知のことなのかと疑問を持ったが、若いパクちゃんと誠さんが「見たことない」と言ってくれたので、ほっとした。
『1万人の第九』、今年のゲストは中島美嘉だった。『1万人の第九』と同い年(25歳)なんだって。
ドラマ・フリークでもあるわたし(大抵のドラマは網羅しているぞっと)が中島美嘉と出会ったのは、2001年のドラマ『傷だらけのラブソング』だった。昔の大映ドラマのよーなしょーもないドラマだったが、ヒロインのケバい不良少女の歌う「アメイジング・グレイス」はたしかに素晴らしかった。
不良少女役だから、あんなメイクをしているのだと思ったが、中島美嘉は終始一貫ケバケバしいタヌキメイクのシンガーだった。目の周りが真っ黒で、付け睫毛なのかマスカラ威力なのか、おばさんにはよくわかんないわぁ、てな感じの。
歌番組はあまり見ないが、ドラマを見てれば流行りの音楽は嫌でも耳にすることになる。以来、中島美嘉の名前と歌声は絶えることなく日常の中にあった。ジェンヌがお茶会で彼女の歌を歌ったりするしな。
しかし、素顔は知らなかった。
いつ見ても彼女はタヌキのよーなメイクをした、作り物っぽいカオをしていたから。
で、『1万人の第九』には、リハーサルとゲネプロと本番がある。
前日行われるリハでは音楽部分だけ練習、当日の朝行われるゲネでは進行全部、つーことで、すべてに中島美嘉は登場する。
平井堅がゲストで出た年からだったかな、リハーサルもチケット売って一般客を客席に入れるようになっていた。有名流行歌手が出演するんだから、そして本番と同じ曲数歌うんだから、たとえリハでも金になるんだ、すげーなと思った記憶あり。
わたしだって、たとえば春野寿美礼がゲスト出演するコンサートがあって、リハーサルもお金を出せば見られるとゆーなら、絶対チケット買って見に行ってるもん。ファンならリハだって見たいはず。
だから今年のリハも、ふつーに客を入れていた。
大阪城ホールには、リハーサルから1万人の合唱団と、何人かは知らないが一般客がいた。
そのステージ上に、中島美嘉は現れたわけだ。歌う曲は「LIFE」と「The Rose」と「きよしこの夜」。本番じゃないからふつーの服装で、髪の毛はおろしたまんまで。
あ、あれ?
「中島美嘉さんです!」
と紹介されて出てきた女の子は、わたしの知っている「中島美嘉」ではなかった。
量が多いだけの、ダサい髪型。瞼の上に一直線になった前髪の厚さは1cmくらいありそうだ。
地味で、暗そうなカオ。テンション低く、とりあえず、歌う。
歌声もまた、わたしの知っている「中島美嘉」とはちがっていて。
あ、あれえ? 中島美嘉ってもっと「うまい」ってイメージだったんだけど……。
大して、うまくない。音取れてないじゃん? 高音が上がりきらず途中で消え入る。声量もない。ブレスの多さが耳につく。
淡々と歌い、なんとも退屈な声。
ナマで聴くのがはじめてだから?
テレビでは人工的に処理されていたからあんなにうまく響いたのかな?
てゆーかアレ、ニセモノなんじゃね?
何故誰もナニも言わない? あきらかに別人じゃん。カオ、ちがってるやん。
いつもジェンヌを見慣れているためか、姿勢の悪さが気になる。
真っ直ぐ立てない、歩けない。
歌うときは前屈み。振付とも思えない微妙な動き。あー、『バイオハザード』のゾンビがあんな動きをする……。
地味で暗い女の子が、貞子@『リング』のような髪型でカラダをくの字に曲げて歌う姿は、なんつーかこー、ホラー風味だった。
前屈みでずっとゆらゆら揺れてる……こわい……。
リハは歌だけで終わったけれど、当日のゲネはその他の進行も本番通りやる。つまり、トークもある。
……美嘉ちゃんは、「喋れない女の子」でした。佐渡せんせと司会者が、美嘉ちゃんを真ん中に喋っていても、自分からは会話に加われず、ぼーっと突っ立っていた。「美嘉ちゃんはどう?」と言われてはじめて「台本です」というような答えをローテンションに口にする。
たしか中島美嘉って自分からぺらぺら喋るキャラではなかったよな。だからまちがってはいないんだけど、こわいタヌキメイクのときは「クール」とか「アンニュイ」に見えていたけど、貞子姿だとたんに「気の利かない子」に見える……メイクの威力に唖然。
ねえねえアレってほんとに中島美嘉?!
わたしは聞きたくて仕方なかったが、かなしみのひとり参加、誰にも聞けない。
お隣のおばーさまと仲良くしてたんだけど、おばーさんはもちろん「あの女の子誰?(笑顔)」「2曲目、いい歌ねぇ(笑顔)」「ところでおまんじゅう食べる?(笑顔)」だったので、聞けませんでした。
2曲目は美嘉ちゃんの持ち歌ではないっすよ……ヅカでは定番、1年に何回も聴く曲だが、ふつーの人ははじめて聴くくらいのもんらしい……。
わたしはもうすっかり春野寿美礼中毒で、寿美礼サマのコテコテな歌声以外受け付けなくなっているのかもしれない。
中島美嘉のひっかかりのない「きれいな」歌声は、そうめんのようにのどごしさわやかに流れ切り、なにも残らない。
物足りない……。
つまんない……。
そう思っていたんだが。
さて、本番。
リハ、ゲネと貞子姿でホラーだった歌姫・中島美嘉は、ちゃんと「中島美嘉」の姿で現れた。
迫力のドレス姿、迫力のタヌキメイク。目の周りは真っ黒だ。
あのぶ厚い貞子ヘアは、きれいにウェーブを付けて撫でつけ、モガのようになっていた。
「……あんなに塗りたくらなくても……(唖然)」
素顔→化粧顔の順で「中島美嘉」体験をした隣の席のおばーさんは、その別人ぶりに絶句。
いやあ、あのメイクはアートだねっ。同じよーにフラフラ前屈みで歌っても、自分からはなにもできずにぼーっと突っ立っていても、変じゃない。
そーゆーもん、という「キャラクタ」として成り立っている。
で、実際。
本番は、歌がうまかった。
テレビで聴く通りの「歌姫」ぶりだった。
リハでは手を抜いていた、……とも、思えない。そんな器用さがあるようには思えなかった。真面目な女の子に見えた。
本番でこそ、実力を発揮できる子なのか……!
冴えわたる歌声の、美しさ。
作り込まれた人形のような姿と相まって、別次元の存在として光を放っていた。
……えーと。
ここまで「素」と「本番」がチガウ人を、見たことないっす。
『1万人の第九』には旬な歌うたいさんが必ずゲスト出演し、リハで素の姿も見せてくれるけど、みんな本番と大してちがいはなかったっす。
めっさ普段着で現れて、本番でキラキラのゴージャス・ドレス姿、髪とメイクに何時間かかったんだー?な手の込んだ姿になる人たちはいても、少なくとも顔は同じだった。
ヅカメイクばりに濃ぃ〜〜いメイクだから、素顔が別人なのは想像の範囲内っちゃーその通りなんだが、だからこそおどろいたのは、素顔を隠していないことなのよ。
デーモン小暮閣下のように、素顔は絶対見せちゃいけないことにしておかなきゃ……。
☆
今年の『1万人の第九』は、ゲネの進行がぐたぐたで、お昼休憩はなくなるわ、発声練習は短縮されるわ、時間が取れないから休憩時間に急遽練習させられるわ(半数は席を立ってるので不在。そんな練習意味あるのか?)、休憩短縮のせいでトイレの大行列から帰還できない人たちが演奏がはじまっても会場内をウロウロしているわ、散々だった。
そのくせオケの演奏自体は佐渡センセがかなりタイトにまとめたので、結果として30分も時間が無為に空いてしまうわで(それなら休憩と練習時間をちゃんと取ってくれよ!)、これまたひどいことになっていた。
本番がどーなるのか、午前中段階では心から不安でしたねぇ。
ここまでひどい進行っぷりははじめてなんだが、どーしたんだろう、毎日放送さん。
まあともかく、裏事情は置くとして、例年以上の感動的なコンサートでした。
久石譲氏の新曲「Orbis」が、ものごっつー壮大で、すばらしい曲でした。
舞台に現れた久石せんせが、なによりまずオケに向かって頭を下げまくっていたのが印象的。
「楽譜もらったのが10日前でね、オケは死ぬほど練習しましたよ……これがまた複雑なことやっててね……」
と、佐渡せんせがゲネでゆーてました。わたしらコーラスも、楽譜もらったの5日前とかだったよね……。
どーも〆切破りまくったっぽい(笑)。
でも、いい曲だった。
「六甲おろし」もなかったし、良いコンサートでした。はい。
奇跡を信じる一瞬。@1万人の第九
2007年12月2日 その他 演奏が終わった途端、「ブラボー!!」って叫ぶおじさんがいる。絶対にいる。同じ人か単体かはわからないが、必ずいる。
いつも理解できなかった。
感動したから叫ぶ、にしてはどんなときも100%叫ぶ。練習だろうがなんだろうが、終わると必ず「ブラボー!!」。
それってたんに、叫びたいから叫んでいるだけで、演奏の善し悪しとは別、よーするに自分が目立ちたいだけなんぢゃないの?
「なんでもいい、演奏が終わったら毎回絶対100%、声を上げる」人のことは理解できないが。
はじめて、終わったとき、声を上げたくなった。
毎年恒例『1万人の第九』、長い長いベートーヴェン交響曲第九番、合唱が終わり、演奏が全部終わったときに。
いつものブラボーおじさんが「ブラボー!!」と叫び、他にも何人か「ブラボー!」と叫んでいた。わたしの後ろの女性も小さく「ブラボー」と口にしていた。
競馬の最終コーナーでみんな一斉に声を上げる、あの感じっていうか。
興奮が高まると声になる、あの感じっていうか。
なんか体温上がって、心臓がばくばくして、なにかしら叫びたかった。
こんなの、はじめてだ。
『1万人の第九』も、参加9回目。連続参加9年目、佐渡せんせーとも連続9回目。
もういい加減「恒例」で「日常」になっているっていうのに。
今さら。今になって。今回限り。
音楽の才能に著しく欠けているわたしは、いつまでたってもうまく歌えない。や、すでにあきらめている。わたしにはできない、と。
だから自分のできる範囲で、「参加する」ことを愉しんでいる。
歌えるところだけ歌い、無理なことはしない。わたしがソロ歌手ならそーゆーわけにもいかないが、なにしろ1万人いる。アルトだけで5000人はいるだろーって勢いだ。そのうちのひとりがへたっぴでもなんの問題もない。「出ないところ、歌えないところは口パク推奨」「ブレスは好きなところで何回でもしてよし」と先生も指導している。
プロのように歌えるはずがない。できないことはできない。だからカメの歩みで「去年より少しでも歌えるようになろう」てな、「自分目標」を決めて臨んでいる。
近年は「合唱の声で歌う」ことがMy目標。
「合唱の声」ってゆーのは、自分が思っているだけで、それがどーゆーもんかは説明できない。なにしろ知識が皆無なもので。
ただ、第九を歌っていると、他人様の地声と合唱の声はチガウ、ということだけはわかる。歌う声と喋る声がチガウように。
歌というとカラオケしか知らないわたしは、「合唱の声」とやらの出し方がわからない。だからずーっと地声で歌っていた。まず、音を取りやすいところで曲をおぼえるしかなかった。
で、カメなわたしはよーやく、他人様のような「地声ではない」歌い方をしようと四苦八苦。自分が思っている通りの音が出ないんだこれが。
自分が音痴だとわかっているので、いつも「他の人の迷惑にならないよう」気を遣う。はずれた音ででかい声で歌う人が近くにいると、すごーく迷惑だもの。釣られるのよ、その音に。
反対に、ガイドとなる「正しい音」があると歌いやすかった。同じ音を心がけて声を出すのは気持ちいい。
わたしをいつも導いてくれた「正しい音」のあらっちは、もういない。もう永遠に、彼女の歌声を聴くことはない。
あらっちのように歌えるはずもないが、あらっちのように歌いたいと、地声の歌い方を捨て、「合唱の声」を目指す。
『THE SECOND LIFE』を観たあと、『アデュー・マルセイユ』を観たあとのレッスン(劇場からレッスン場へ直行・笑)では、ほっくんの歌声を耳に残したまま、オサ様の歌声を耳に残したまま、イメージに届けと必死に声を出した。……それがさー、不思議なの、歌ウマさんの声が耳に残っているときの方が、うまく歌えた気がするのよー(笑)。
そーやって、自分なりにカメなりに努力しての、今年の第九。
9回目の参加だが、はじめて、座席移動がなかった。
欠席者の席を埋めるため、当日の席決めで絶対に移動があるもんなんだ。1万人を超える参加者が、ひとりの欠席者もないなんてこと、物理的にあり得ない。ひとりでも来ない人がいたら、その人の席を詰めるために全員が移動する。
だが今年のわたしの仮座席は、アルトとソプラノの境界線だった。わたしの座席位置(縦一列)を基準に席移動をすることになり、わたしと同じ縦列“以外”の人たち全員が、なにかしら移動。わたしたちだけそのまま着席。
境界線だから、当然通路際。しかもわたしは、出入口真上の手すり位置だった。
つまり、わたしの前には誰もいない。はるか下方に男性座席があるだけ。
これはわたし的にすっげーありがたいことだった。
わたしは「自分が音痴である」こと、「音程の狂った声は前列の迷惑」になることを知っている。
横の人の迷惑には、あまりならない。直撃を喰らうのは前の人。後ろに音痴がいるとすげーつらい。
でも今回は、わたしの前に誰もいない。つーことは、気を遣わず、思い切り歌っていいってこと?
つーことで、本気で歌った。
ここまで腹の底から声出したことなんて、そうそうない。……てくらい、本気だった。
や、前日のリハまではまだ出ていた音階が、当日は風邪が悪化していたため出なくなったりしていたが、出せる範囲の音を気持ちよく出した。
大阪城ホールは馬鹿でかい。某歌劇団が音校生も含めて運動会を開催できるほどの広さだ。
わたしが腹の底から声を出したって、ぜんぜんびくともしない。
「1万人の合唱団と120人のオーケストラ、すべての音を指揮するつもりだから」と、佐渡先生は前もって宣言していた。
ちゃんと全員に合図を出すからついてこい、と彼は言った。
ついていこう。
全霊を上げて。
なにしろわたしがいるのはソプラノとの境界線近く。……基準線で最初の境界線だったが、最終的にはわたしの隣のブロック半ばまでアルトが移動してきた(わたしたちは動いていないが)ので、厳密な境界線ではなくなったが。
佐渡せんせー的にはわたしたちの位置は「ソプラノ席」なので、送ってくれる合図はわたしのいる位置とは反対方向に向けられちゃってるんだけど、それでもソレを受けて声を出す。
世界中の人たちが手を取り合い、仲間になる。
不思議な力。
神の手。
奇跡を信じ、声を合わせる。
ありえないねぇ。
なんなんだろうね、この高揚感。
奇跡って、あるのかもしれない。
すとんとそう思えるほどの、クリアになった意識。
歌声。
演奏。
1万人を超える人たちの、意志を持って出す音たち。
響き渡る、音。
だから。
終わった瞬間、叫びたくなった。
なんかよくわかんなくて、拳を握った。
お隣のおばーさんと目を合わせて笑った。
やったね。やったよ。すごいね。すごいよね。
何年か前には、ここにあらっちがいたのになあ。隣の席のおばーさんは、あらっちくらいの身長だった。わたしの肩ぐらい。
あらっちが亡くなってから、やたらとあらっちのことを思い出すよ。
いつだったか『1万人の第九』の参加抽選にはずれてしまったとき、「合唱団の中には入れないけど、客席で歌うわ」と言っていたあらっち。
ここにはいないけれど、それでもどっかで参加してるかもな。あの「正しい音」を響かせていたかもな。
ブラボーおじさんの気持ちはわからないが、「ブラボー!」と叫びたい気持ちはわかった。
すげぇ気持ちよかったよ。
今年の第九。
で。
たしかに、今年の第九は好い第九、だったんだけど。
わたし的にいちばん衝撃だったのは。
じつは、ゲスト歌手の中島美嘉の、「素顔」だった。
どれくらいの衝撃かって、『白夜伝説』のミーミルちゃんの素顔写真を、プログラムで見たとき以来の衝撃だった(笑)。
いつも理解できなかった。
感動したから叫ぶ、にしてはどんなときも100%叫ぶ。練習だろうがなんだろうが、終わると必ず「ブラボー!!」。
それってたんに、叫びたいから叫んでいるだけで、演奏の善し悪しとは別、よーするに自分が目立ちたいだけなんぢゃないの?
「なんでもいい、演奏が終わったら毎回絶対100%、声を上げる」人のことは理解できないが。
はじめて、終わったとき、声を上げたくなった。
毎年恒例『1万人の第九』、長い長いベートーヴェン交響曲第九番、合唱が終わり、演奏が全部終わったときに。
いつものブラボーおじさんが「ブラボー!!」と叫び、他にも何人か「ブラボー!」と叫んでいた。わたしの後ろの女性も小さく「ブラボー」と口にしていた。
競馬の最終コーナーでみんな一斉に声を上げる、あの感じっていうか。
興奮が高まると声になる、あの感じっていうか。
なんか体温上がって、心臓がばくばくして、なにかしら叫びたかった。
こんなの、はじめてだ。
『1万人の第九』も、参加9回目。連続参加9年目、佐渡せんせーとも連続9回目。
もういい加減「恒例」で「日常」になっているっていうのに。
今さら。今になって。今回限り。
音楽の才能に著しく欠けているわたしは、いつまでたってもうまく歌えない。や、すでにあきらめている。わたしにはできない、と。
だから自分のできる範囲で、「参加する」ことを愉しんでいる。
歌えるところだけ歌い、無理なことはしない。わたしがソロ歌手ならそーゆーわけにもいかないが、なにしろ1万人いる。アルトだけで5000人はいるだろーって勢いだ。そのうちのひとりがへたっぴでもなんの問題もない。「出ないところ、歌えないところは口パク推奨」「ブレスは好きなところで何回でもしてよし」と先生も指導している。
プロのように歌えるはずがない。できないことはできない。だからカメの歩みで「去年より少しでも歌えるようになろう」てな、「自分目標」を決めて臨んでいる。
近年は「合唱の声で歌う」ことがMy目標。
「合唱の声」ってゆーのは、自分が思っているだけで、それがどーゆーもんかは説明できない。なにしろ知識が皆無なもので。
ただ、第九を歌っていると、他人様の地声と合唱の声はチガウ、ということだけはわかる。歌う声と喋る声がチガウように。
歌というとカラオケしか知らないわたしは、「合唱の声」とやらの出し方がわからない。だからずーっと地声で歌っていた。まず、音を取りやすいところで曲をおぼえるしかなかった。
で、カメなわたしはよーやく、他人様のような「地声ではない」歌い方をしようと四苦八苦。自分が思っている通りの音が出ないんだこれが。
自分が音痴だとわかっているので、いつも「他の人の迷惑にならないよう」気を遣う。はずれた音ででかい声で歌う人が近くにいると、すごーく迷惑だもの。釣られるのよ、その音に。
反対に、ガイドとなる「正しい音」があると歌いやすかった。同じ音を心がけて声を出すのは気持ちいい。
わたしをいつも導いてくれた「正しい音」のあらっちは、もういない。もう永遠に、彼女の歌声を聴くことはない。
あらっちのように歌えるはずもないが、あらっちのように歌いたいと、地声の歌い方を捨て、「合唱の声」を目指す。
『THE SECOND LIFE』を観たあと、『アデュー・マルセイユ』を観たあとのレッスン(劇場からレッスン場へ直行・笑)では、ほっくんの歌声を耳に残したまま、オサ様の歌声を耳に残したまま、イメージに届けと必死に声を出した。……それがさー、不思議なの、歌ウマさんの声が耳に残っているときの方が、うまく歌えた気がするのよー(笑)。
そーやって、自分なりにカメなりに努力しての、今年の第九。
9回目の参加だが、はじめて、座席移動がなかった。
欠席者の席を埋めるため、当日の席決めで絶対に移動があるもんなんだ。1万人を超える参加者が、ひとりの欠席者もないなんてこと、物理的にあり得ない。ひとりでも来ない人がいたら、その人の席を詰めるために全員が移動する。
だが今年のわたしの仮座席は、アルトとソプラノの境界線だった。わたしの座席位置(縦一列)を基準に席移動をすることになり、わたしと同じ縦列“以外”の人たち全員が、なにかしら移動。わたしたちだけそのまま着席。
境界線だから、当然通路際。しかもわたしは、出入口真上の手すり位置だった。
つまり、わたしの前には誰もいない。はるか下方に男性座席があるだけ。
これはわたし的にすっげーありがたいことだった。
わたしは「自分が音痴である」こと、「音程の狂った声は前列の迷惑」になることを知っている。
横の人の迷惑には、あまりならない。直撃を喰らうのは前の人。後ろに音痴がいるとすげーつらい。
でも今回は、わたしの前に誰もいない。つーことは、気を遣わず、思い切り歌っていいってこと?
つーことで、本気で歌った。
ここまで腹の底から声出したことなんて、そうそうない。……てくらい、本気だった。
や、前日のリハまではまだ出ていた音階が、当日は風邪が悪化していたため出なくなったりしていたが、出せる範囲の音を気持ちよく出した。
大阪城ホールは馬鹿でかい。某歌劇団が音校生も含めて運動会を開催できるほどの広さだ。
わたしが腹の底から声を出したって、ぜんぜんびくともしない。
「1万人の合唱団と120人のオーケストラ、すべての音を指揮するつもりだから」と、佐渡先生は前もって宣言していた。
ちゃんと全員に合図を出すからついてこい、と彼は言った。
ついていこう。
全霊を上げて。
なにしろわたしがいるのはソプラノとの境界線近く。……基準線で最初の境界線だったが、最終的にはわたしの隣のブロック半ばまでアルトが移動してきた(わたしたちは動いていないが)ので、厳密な境界線ではなくなったが。
佐渡せんせー的にはわたしたちの位置は「ソプラノ席」なので、送ってくれる合図はわたしのいる位置とは反対方向に向けられちゃってるんだけど、それでもソレを受けて声を出す。
世界中の人たちが手を取り合い、仲間になる。
不思議な力。
神の手。
奇跡を信じ、声を合わせる。
ありえないねぇ。
なんなんだろうね、この高揚感。
奇跡って、あるのかもしれない。
すとんとそう思えるほどの、クリアになった意識。
歌声。
演奏。
1万人を超える人たちの、意志を持って出す音たち。
響き渡る、音。
だから。
終わった瞬間、叫びたくなった。
なんかよくわかんなくて、拳を握った。
お隣のおばーさんと目を合わせて笑った。
やったね。やったよ。すごいね。すごいよね。
何年か前には、ここにあらっちがいたのになあ。隣の席のおばーさんは、あらっちくらいの身長だった。わたしの肩ぐらい。
あらっちが亡くなってから、やたらとあらっちのことを思い出すよ。
いつだったか『1万人の第九』の参加抽選にはずれてしまったとき、「合唱団の中には入れないけど、客席で歌うわ」と言っていたあらっち。
ここにはいないけれど、それでもどっかで参加してるかもな。あの「正しい音」を響かせていたかもな。
ブラボーおじさんの気持ちはわからないが、「ブラボー!」と叫びたい気持ちはわかった。
すげぇ気持ちよかったよ。
今年の第九。
で。
たしかに、今年の第九は好い第九、だったんだけど。
わたし的にいちばん衝撃だったのは。
じつは、ゲスト歌手の中島美嘉の、「素顔」だった。
どれくらいの衝撃かって、『白夜伝説』のミーミルちゃんの素顔写真を、プログラムで見たとき以来の衝撃だった(笑)。
言葉の通じる人間でいたい。@バロン/Joyful! Joyful!
2007年1月14日 その他 人生2度目のOSK観劇してきました。
いつの間に名前変わってたんだシアターBRAVA!(わたしが前に足を踏み入れたときは四季劇場だった・笑)での、『バロン〜前よりもっと不思議な冒険奇譚〜』『Wonder Stage 〜Joyful! Joyful!〜』。
前回に引き続き、青木るえかさんにご招待いただきました、ありがとうありがとう。遠慮なくがっつり食いつき、がっつり観劇してきました。
いやー……。
高世麻央氏が、かっこいいっす。
どーしよーどーしよー。かっこいいよー。
人生初のOSK観劇だった去年の春、『春のおどり』ではじめて高世氏を見たときは、とくになんとも思わなかったの。変……いやその、個性的な顔やな、という印象のみ。あの顔は一度見たらおぼえるし、どこにいてなにをしていても目につくから、舞台人としては武器なんだろーな、と思った。そして、芝居はふつーにうまかったし、声も男役だったしで、ふつーにうまいからこそ、それ以上とくになにも思わなかった。
『春のおどり』で美貌と歌で存在感を放っていたのは桜花昇氏だったからなー。
相変わらず予備知識もなく、「無知すぎるから、せめて幕前にプログラムくらい読んでおこう」と思ったんだけど……今回のプログラムはビジュアル重視で文字情報はなにもなかったっす(笑)。どの場面に誰が出ているかとかもわからぬ。や、とてもきれいなプログラムなので、今さら顔と名前をチェックしなくてもいいファンの人にはうれしい作りなんだと思うよ。
とりあえず、そこではじめて桜花さんが今回出ていないことを知る。つーと2番手誰なのかな。高世氏? 番手や仕組みをわかっていないまま、観劇スタート。
ミュージカル『バロン』にて、最初に登場した高世氏に、まず、引いた。
なんかとてつもなくかわいい、少年演技だったの。衣装も話し方も。うわ、わたし大人が演じるわざとらしい子役がダメなのよ、苦手なのよ。しかも人間ぢゃなく、妖精かなんかですかこの人! 羽生えてます系? 苦手だ〜〜!
でもってこの話、そーゆー世界観なんですか? メルヘン? えええ?
てなはじまりでした、はい。
わがままバロンくん@大貴誠氏が親に強制された見合いが嫌で逃げ出し、不思議な国で不思議な人たちと出会い、自己中な自分を反省して自分の世界へ戻る、という他愛ない物語。
バロンくんの精神年齢の低さにもびっくりし、妖精らしき高世氏がミツバチだという事実にもびっくりする。バロンくんの見合い相手、プリンセスちゃん@朝香櫻子さんが結婚をいやがって侍女と入れ替わるのに、舞台があっさり別の不思議な国に移ってしまうことにもびっくりする。なんのために入れ替わったの? プリンセスちゃん、出て来ないじゃん……。
展開にいちいちおどろきつつ。
見ているうちに、違和感がなくなる。
問題なし。中学生みたいなバロンくんも、めるへんな不思議な国の人たちも。
とくに、ミツバチ・トミー@高世氏。
最初、引いたのに。うわ、逆ツボ来た!と思ったのに。
違和感ない。てか、十分かわいい。てか、かっこいい……?
えええ。大人が演じる子役なのに。すごいかわいこぶった演技してるのに。めるへんな存在なのに。な、なのにかっこいいってそんな。おろおろ。
プリンセスちゃんのことを人知れず想っていたらしいトミー。蜜を集めて世界中を旅する彼は、ひとつところに落ち着くことができない。つまり、人間と恋をして共に暮らすことはできない。だから、想いをひた隠し、バロンに「あの子を頼むぜ」的なことを言う。
な、なんかかっこいいんですけど。ミツバチ少年のくせに!
どんどんオトコマエに見えてしまうトミーくんにびびっていたっつーに。
2部のショー『Joyful! Joyful!』にて、どうしよう、ほんとにかっこいいってばよ、高世氏!
あの個性的な顔が、二枚目に見える……男前にしか見えない……。
とにかく、濃い。表情のひとつひとつが。客席へのアピールが。でもって、彼が歌うとほっとする。
これまでよくわかってなかったんだが、主演の大貴氏は歌はアレらしい……たまたまかもしれないが、けっこー大変なことになっていた。や、大貴氏は他がかっこいーから歌がアレでも問題はないんだが。
歌手好きなわたしは、耳にやさしい人へアンテナが動くきらいがあるんだわ。だから『春のおどり』のときは桜花氏に反応していたし。
高世氏のよく動く表情と、豊かな歌声を堪能。
『Joyful! Joyful!』は耳馴染みのある曲ばかりで構成された、ノリのいいショー。わくわく眺めているだけで、あっちゅー間に終わってしまった。
コンパクトな舞台でのショー作品はいいねえ。なんつーか、「届く」感じがする。派手なセットとかべつにいらないもん、ショースターが「こちら」に向かって放つオーラを浴びるだけでたのしい。
さて、『春のおどり』でわたしが「謎」として注目していた汝鳥伶サマこと、清盛様には、ここでもまたお会いできました。
やっぱり、謎です。
芝居では老け役というか、かなり大人の役。でもショーではバリバリに若い役。キュートだったりします。
そしてどこにいても目立つし、アゴも立派です。
いやあ、いい味出してるよなあ、清盛様。
さて、この公演。
トップスターの大貴誠さんが制作側にも回っているそうで。大貴さんって、脚本や演出をやりながら主演もつとめる舞台人なんだー。すげーや。
舞台制作のノウハウなど素人のわたしにはわかるはずもないけれど、なめらかに進むたのしい舞台だったよ。
芝居もショーも、大貴さんがなんか「かわいこちゃん」な感じで、幅の広い人なんだなと思った。大人の男一辺倒で攻めることもできるだろうに、やわらかいところをあえて突くというか。
てゆーか芝居のバロンくんとトミーのやりとりがなー、かわいいっつーか微笑ましいっつーか。
カーテンコールで大貴さんと高世さんがじゃれてるの見て、さらにかわいこちゃん度アップ(笑)。
バロンくんがたどりついた不思議の国では、「心を相手に向けないと、言葉が通じない」の。
自己中で世間知らずの男の子バロンくんは、最初もちろん、言葉が通じない。
だけどトミーに諭され、感謝の気持ちを相手に向けたときに、はじめて言葉が通じる。
不思議の国の人たちはみんな善良で、ある意味おバカなんだけど。
「言葉」が口先だけでのモノではなく、「心」と同義語であるってのは、こーゆーことなんだと思わせてくれる、やさしい明るさに満ちている。
彼らはケンカしたりしたら、言葉が通じなくなるのかな。
相手のことを思いやらなくなったら、言葉が通じなくなるのかな。
そしたら反省するよね。言葉が通じないなんて嫌だもの。相手のこともそうだし、自分のことも伝わらないなんて嫌だもの。
そーやって反省して、心を開く。そしたら、言葉もまたわかる。
それって、いいなあ。
泣けるくらい、じんとする。
相手をわかりたいと思う気持ち。相手にわかってほしいと思う気持ち。
それが「言葉」なんだ。
口先だけでなく。「伝えたい」と思う心がある。それが「カタチ」になった世界。
深読みすればいくらでもこわくなるテーマだけれど、それをとてもやさしい目線で描いてあるの。
恋愛と夫婦パートはちと端折りすぎというか、ご都合主義過ぎて突っ込んだけどな(笑)。
大貴さんって、やさしい物語を作る人なんだなぁ。目線のやさしさって、出るからさー。
しかし、OSKではオペラグラスは使わないものなのかな。
前回観劇時はまさかの最前列だったので自分も使ってなかったしで、わかんなかったけど。
目に入る限り、わたし以外誰もオペラグラス使ってないし。ところ変われば、なのに、ヅカファン丸出しな行動だったかしら……。
いつの間に名前変わってたんだシアターBRAVA!(わたしが前に足を踏み入れたときは四季劇場だった・笑)での、『バロン〜前よりもっと不思議な冒険奇譚〜』『Wonder Stage 〜Joyful! Joyful!〜』。
前回に引き続き、青木るえかさんにご招待いただきました、ありがとうありがとう。遠慮なくがっつり食いつき、がっつり観劇してきました。
いやー……。
高世麻央氏が、かっこいいっす。
どーしよーどーしよー。かっこいいよー。
人生初のOSK観劇だった去年の春、『春のおどり』ではじめて高世氏を見たときは、とくになんとも思わなかったの。変……いやその、個性的な顔やな、という印象のみ。あの顔は一度見たらおぼえるし、どこにいてなにをしていても目につくから、舞台人としては武器なんだろーな、と思った。そして、芝居はふつーにうまかったし、声も男役だったしで、ふつーにうまいからこそ、それ以上とくになにも思わなかった。
『春のおどり』で美貌と歌で存在感を放っていたのは桜花昇氏だったからなー。
相変わらず予備知識もなく、「無知すぎるから、せめて幕前にプログラムくらい読んでおこう」と思ったんだけど……今回のプログラムはビジュアル重視で文字情報はなにもなかったっす(笑)。どの場面に誰が出ているかとかもわからぬ。や、とてもきれいなプログラムなので、今さら顔と名前をチェックしなくてもいいファンの人にはうれしい作りなんだと思うよ。
とりあえず、そこではじめて桜花さんが今回出ていないことを知る。つーと2番手誰なのかな。高世氏? 番手や仕組みをわかっていないまま、観劇スタート。
ミュージカル『バロン』にて、最初に登場した高世氏に、まず、引いた。
なんかとてつもなくかわいい、少年演技だったの。衣装も話し方も。うわ、わたし大人が演じるわざとらしい子役がダメなのよ、苦手なのよ。しかも人間ぢゃなく、妖精かなんかですかこの人! 羽生えてます系? 苦手だ〜〜!
でもってこの話、そーゆー世界観なんですか? メルヘン? えええ?
てなはじまりでした、はい。
わがままバロンくん@大貴誠氏が親に強制された見合いが嫌で逃げ出し、不思議な国で不思議な人たちと出会い、自己中な自分を反省して自分の世界へ戻る、という他愛ない物語。
バロンくんの精神年齢の低さにもびっくりし、妖精らしき高世氏がミツバチだという事実にもびっくりする。バロンくんの見合い相手、プリンセスちゃん@朝香櫻子さんが結婚をいやがって侍女と入れ替わるのに、舞台があっさり別の不思議な国に移ってしまうことにもびっくりする。なんのために入れ替わったの? プリンセスちゃん、出て来ないじゃん……。
展開にいちいちおどろきつつ。
見ているうちに、違和感がなくなる。
問題なし。中学生みたいなバロンくんも、めるへんな不思議な国の人たちも。
とくに、ミツバチ・トミー@高世氏。
最初、引いたのに。うわ、逆ツボ来た!と思ったのに。
違和感ない。てか、十分かわいい。てか、かっこいい……?
えええ。大人が演じる子役なのに。すごいかわいこぶった演技してるのに。めるへんな存在なのに。な、なのにかっこいいってそんな。おろおろ。
プリンセスちゃんのことを人知れず想っていたらしいトミー。蜜を集めて世界中を旅する彼は、ひとつところに落ち着くことができない。つまり、人間と恋をして共に暮らすことはできない。だから、想いをひた隠し、バロンに「あの子を頼むぜ」的なことを言う。
な、なんかかっこいいんですけど。ミツバチ少年のくせに!
どんどんオトコマエに見えてしまうトミーくんにびびっていたっつーに。
2部のショー『Joyful! Joyful!』にて、どうしよう、ほんとにかっこいいってばよ、高世氏!
あの個性的な顔が、二枚目に見える……男前にしか見えない……。
とにかく、濃い。表情のひとつひとつが。客席へのアピールが。でもって、彼が歌うとほっとする。
これまでよくわかってなかったんだが、主演の大貴氏は歌はアレらしい……たまたまかもしれないが、けっこー大変なことになっていた。や、大貴氏は他がかっこいーから歌がアレでも問題はないんだが。
歌手好きなわたしは、耳にやさしい人へアンテナが動くきらいがあるんだわ。だから『春のおどり』のときは桜花氏に反応していたし。
高世氏のよく動く表情と、豊かな歌声を堪能。
『Joyful! Joyful!』は耳馴染みのある曲ばかりで構成された、ノリのいいショー。わくわく眺めているだけで、あっちゅー間に終わってしまった。
コンパクトな舞台でのショー作品はいいねえ。なんつーか、「届く」感じがする。派手なセットとかべつにいらないもん、ショースターが「こちら」に向かって放つオーラを浴びるだけでたのしい。
さて、『春のおどり』でわたしが「謎」として注目していた汝鳥伶サマこと、清盛様には、ここでもまたお会いできました。
やっぱり、謎です。
芝居では老け役というか、かなり大人の役。でもショーではバリバリに若い役。キュートだったりします。
そしてどこにいても目立つし、アゴも立派です。
いやあ、いい味出してるよなあ、清盛様。
さて、この公演。
トップスターの大貴誠さんが制作側にも回っているそうで。大貴さんって、脚本や演出をやりながら主演もつとめる舞台人なんだー。すげーや。
舞台制作のノウハウなど素人のわたしにはわかるはずもないけれど、なめらかに進むたのしい舞台だったよ。
芝居もショーも、大貴さんがなんか「かわいこちゃん」な感じで、幅の広い人なんだなと思った。大人の男一辺倒で攻めることもできるだろうに、やわらかいところをあえて突くというか。
てゆーか芝居のバロンくんとトミーのやりとりがなー、かわいいっつーか微笑ましいっつーか。
カーテンコールで大貴さんと高世さんがじゃれてるの見て、さらにかわいこちゃん度アップ(笑)。
バロンくんがたどりついた不思議の国では、「心を相手に向けないと、言葉が通じない」の。
自己中で世間知らずの男の子バロンくんは、最初もちろん、言葉が通じない。
だけどトミーに諭され、感謝の気持ちを相手に向けたときに、はじめて言葉が通じる。
不思議の国の人たちはみんな善良で、ある意味おバカなんだけど。
「言葉」が口先だけでのモノではなく、「心」と同義語であるってのは、こーゆーことなんだと思わせてくれる、やさしい明るさに満ちている。
彼らはケンカしたりしたら、言葉が通じなくなるのかな。
相手のことを思いやらなくなったら、言葉が通じなくなるのかな。
そしたら反省するよね。言葉が通じないなんて嫌だもの。相手のこともそうだし、自分のことも伝わらないなんて嫌だもの。
そーやって反省して、心を開く。そしたら、言葉もまたわかる。
それって、いいなあ。
泣けるくらい、じんとする。
相手をわかりたいと思う気持ち。相手にわかってほしいと思う気持ち。
それが「言葉」なんだ。
口先だけでなく。「伝えたい」と思う心がある。それが「カタチ」になった世界。
深読みすればいくらでもこわくなるテーマだけれど、それをとてもやさしい目線で描いてあるの。
恋愛と夫婦パートはちと端折りすぎというか、ご都合主義過ぎて突っ込んだけどな(笑)。
大貴さんって、やさしい物語を作る人なんだなぁ。目線のやさしさって、出るからさー。
しかし、OSKではオペラグラスは使わないものなのかな。
前回観劇時はまさかの最前列だったので自分も使ってなかったしで、わかんなかったけど。
目に入る限り、わたし以外誰もオペラグラス使ってないし。ところ変われば、なのに、ヅカファン丸出しな行動だったかしら……。
手拍子を奏でる。@1万人の第九
2006年12月3日 その他 毎年恒例、『1万人の第九』コンサート当日。
会場の大阪城ホールの自分の座席にてわたしは、『ヘイズ・コード』のチケ取りしてました。うわーん、つながらねえええ。販売画面は見たのよ、販売画面は! 千秋楽B席がまだ売っていたのよ。でも、購入のための操作をしているウチに「販売枚数終了」。わーん! 1分経ってないよね?!
無謀だとわかっていて楽を入力したのは、トウコちゃんの千秋楽が好きだから。本人もファンもめちゃくちゃ盛り上がるんだもん。あの興奮と狂乱が好き。……手に入るわけナイって、わかってたけど、万に一つの願いをかけて!
で、あわてて他日を入力、よかった、まだある……しかしまた、その後の操作をしているウチに「販売枚数終了」。がーん。時計を見たら、まだ開始から3分足らず。
DCも取れてないんですが……どこにあるのよチケット。
そーいや昨年もわたし、『1万人の第九』会場で、星組『ベルばら』のチケ取りやってたわ……アレも販売画面まで行って、「販売枚数終了」になったんだった……。
日曜日の朝9時半集合なんだもん、『1万人の第九』。日曜朝10時から発売のチケットがあるのは常識でしょう。これからも毎年、会場で不自由な思いしながらチケ取りすることになるのかしら……自宅でなら取れたかもしれないのにー。
えー、『第九』の朝10時はなにをやっている時間かというと、「座席決め」です。
わたしたち合唱出演者は「仮座席」に坐っているので、当日席が決まるの。
まず合唱席の「中心」となる男性席を決めてから女性が決まるので、しばらくなにをするでもなくヒマなのね。自分の順番が来るまで、仮座席に坐って待機。
その間を利用して、わたしはもっぱらチケ取りですよ。……取れた試しないけど。
さて、今年の『1万人の第九』、今年のテーマはなんだっけか。プログラム買ったことナイからわかんない……。
公式ゲストは元ちとせ、当日まで秘密(恒例)のゲストは優香+落語家の月亭八方&桂ざこば。
優香はテレビ放送時のナビゲータらしいな。こーゆーとこも恒例。
参加するたびに気になることはチガウんだけど、今年わたしは、何故かティンパニばかり注目してました。
なんだろう。目をつぶっていても、ティンパニの音だけ追っているの。
打楽器は永遠のあこがれだからかなぁ。
わたしは音楽的才能が皆無のかなしい人間だが、とくにリズム感のなさは致命的だ。運動音痴で反射神経激ニブなのも関係しているだろう。
小学2年生だったかのとき、クラス対抗音楽会でわたしは木琴をすることになった。曲の最初にわたしのソロパートがある。
自分でも、そして音楽の先生も、気づいてなかったのよね、わたしがリズム感皆無だってことに。ただ、わたしが音楽ダイスキだったから、先生もわたしにやらせてあげよう、と思ったんだろう。
単調にリズムを刻む木琴ソロのあと、他楽器による演奏がはじまり、合唱に続く、という曲。わたしの木琴が曲の最初、冒頭、イントロ、ここでコケるとヘタレた印象で曲がはじまる……とゆーのに。
わたしには、リズム感がなかった。
言われたとおりに演奏しているつもりなのに、先生は苦い顔。
あまりに下手っぴだから、途中で奏者変更されそーになった。練習の最中、突然他の子を指名して、わたしの代わりに演奏させたのよ、先生。
でも、突然やれと言われてやった子は、わたしより下手だった。そりゃそーだ、どんなにわたしに才能がないからって、1ヶ月毎日練習してたんだ、今はじめてやる子よりはマシだろうよ。
音楽会まで時間もないしと、先生もあきらめたんだろう。結局わたしが演奏することになった。
本番がどーだったのかは知らない。先生は満足したのだろうか、わたしの演奏で。
ただ、下手なわたしを責める先生の顔が、脳裏に焼き付いている。
クラス全員の前で、1ヶ月ずーっとみんなと一緒に練習していたわたしを降ろし、他の子に変更しようとした、あのときの空気とか。
代わりに演奏させられた子も、気まずかったろうなあ。
わたしには自分の演奏のどこがダメなのか、ぜんぜんわからなかった。メトロノームを友だちに、正しいテンポで叩いていたつもりだったのに、ぜんぜんダメだったらしい。
むしろ、旋律のある他の楽器の方がまだ少しは上手に演奏できたんだよ、わたし。楽器演奏の成績はふつーだったのに。
リズム命のあんなパートでさえなければ……。
とゆートラウマ。
きっと一生忘れない。
その記憶を、苦く思い出していた。ティンパニの音を聴きながら。
さて、今年の第1部のクラシック曲は、ヨハン・シュトラウス1世の「ラデッキー行進曲」。さすがのわたしも部分は知ってる有名曲、ラデッキーって将軍の名前だよね?
毎年ゲネプロは進行をすべて真面目にやっていたのに、今年はなんか略しまくり。
「はい、ここはトークをする予定」
とか言って省略するの。前日のリハーサルも、ゲストの出演なかったし。……なかったよね?(遅刻した上に、タニ茶へ行くために早退した女)
まあ、同じトークを何度も聞かされるのも萎えるんで、本番のみにしてくれるのはいいんだけどさー。
てなふーに、省略しまくりのゲネプロだったので、「ラデッキー行進曲」もシークレットゲストの説明なし、トークなしでとにかく演奏。
だからゲネ時の「ラデッキー行進曲」の手拍子はおざなり、途中からどんどんしぼんでいく。
少なくとも、手拍子を入れる練習は、しなかった。練習になっていなかった。とくに「しろ」とも言われていなかった。
ところが。
本番、八方・ざこば両師匠を迎えてのトークから続く「ラデッキー行進曲」。
合唱団と観客、あわせて1万数千人の手拍子が、ぴたりと合うんですよ。
指揮者・佐渡裕に導かれるままに。
指揮って、楽器や歌手相手だけじゃないんだ。
観客を含む拍手や手拍子も、操れちゃうんだ。
100人越えの多人数オーケストラによる演奏と、1万数千人の素人たちの手拍子が、ひとつの音楽を作る。
す・げぇ。
あの一体感。
どこまで行くの、コレ?!
曲が終わったあと、どっちかの落語家が、「手拍子って音楽なんやな」と呆然と言ったのが、納得。
すごいすごーい。
手拍子もまた、リズム感が必要なモノだから。
わたしは苦手なんだけどねー。
だけどそんなこと忘れて、一緒になって手を叩いた。
指揮者の意図するままに。強く、速く、小さく、激しく!
すごいなー。
ひとって、こんなこともできるんだ。
第2部「第九」は、ゲネでいねむりこいていたのが嘘のよーに、目をランランさせて指揮者やオケや客席、合唱席を見てました。
ティンパニの音に集中しながら。
いろーんなことを、漠然と考えていた。
この長い長い曲は、考え事に最適だよな……毎年恒例だからこそ、1年を振り返る回想にうってつけ。暗いこと考えるとドツボにはまるので、そこは回避しつつ。
合唱自体は、わたし的に声のコンディションよかったっす。両隣の人よりアタマひとつでかかったが(笑)、今年は後ろの人から「アンタがでかすぎるせいで指揮者が見えないのよ!」とゆーよーなクレームは来なかったし。(去年は段差の少ないアリーナ席だったからなー)
歌、うまくなりたいなあ……。どうしてこう才能がないんだろう。
心残りは、張り切ってDS持っていったのに、誰ともすれ違えなかったこと!
誰も『ぶつ森』やってないのー?!
「きょうは1まんにんのだいくのひ」って手紙書いて、わざわざとたけけさんの音楽をプレゼントに付けて、海に流したのに!!
参加年齢を考えたら、無理もないか……。
わたしも含め、中・高齢者が大半を占めているイベントだもんよ……。
女の子はまだ多少若いお嬢さんたちもまざってるけどさ……。
会場の大阪城ホールの自分の座席にてわたしは、『ヘイズ・コード』のチケ取りしてました。うわーん、つながらねえええ。販売画面は見たのよ、販売画面は! 千秋楽B席がまだ売っていたのよ。でも、購入のための操作をしているウチに「販売枚数終了」。わーん! 1分経ってないよね?!
無謀だとわかっていて楽を入力したのは、トウコちゃんの千秋楽が好きだから。本人もファンもめちゃくちゃ盛り上がるんだもん。あの興奮と狂乱が好き。……手に入るわけナイって、わかってたけど、万に一つの願いをかけて!
で、あわてて他日を入力、よかった、まだある……しかしまた、その後の操作をしているウチに「販売枚数終了」。がーん。時計を見たら、まだ開始から3分足らず。
DCも取れてないんですが……どこにあるのよチケット。
そーいや昨年もわたし、『1万人の第九』会場で、星組『ベルばら』のチケ取りやってたわ……アレも販売画面まで行って、「販売枚数終了」になったんだった……。
日曜日の朝9時半集合なんだもん、『1万人の第九』。日曜朝10時から発売のチケットがあるのは常識でしょう。これからも毎年、会場で不自由な思いしながらチケ取りすることになるのかしら……自宅でなら取れたかもしれないのにー。
えー、『第九』の朝10時はなにをやっている時間かというと、「座席決め」です。
わたしたち合唱出演者は「仮座席」に坐っているので、当日席が決まるの。
まず合唱席の「中心」となる男性席を決めてから女性が決まるので、しばらくなにをするでもなくヒマなのね。自分の順番が来るまで、仮座席に坐って待機。
その間を利用して、わたしはもっぱらチケ取りですよ。……取れた試しないけど。
さて、今年の『1万人の第九』、今年のテーマはなんだっけか。プログラム買ったことナイからわかんない……。
公式ゲストは元ちとせ、当日まで秘密(恒例)のゲストは優香+落語家の月亭八方&桂ざこば。
優香はテレビ放送時のナビゲータらしいな。こーゆーとこも恒例。
参加するたびに気になることはチガウんだけど、今年わたしは、何故かティンパニばかり注目してました。
なんだろう。目をつぶっていても、ティンパニの音だけ追っているの。
打楽器は永遠のあこがれだからかなぁ。
わたしは音楽的才能が皆無のかなしい人間だが、とくにリズム感のなさは致命的だ。運動音痴で反射神経激ニブなのも関係しているだろう。
小学2年生だったかのとき、クラス対抗音楽会でわたしは木琴をすることになった。曲の最初にわたしのソロパートがある。
自分でも、そして音楽の先生も、気づいてなかったのよね、わたしがリズム感皆無だってことに。ただ、わたしが音楽ダイスキだったから、先生もわたしにやらせてあげよう、と思ったんだろう。
単調にリズムを刻む木琴ソロのあと、他楽器による演奏がはじまり、合唱に続く、という曲。わたしの木琴が曲の最初、冒頭、イントロ、ここでコケるとヘタレた印象で曲がはじまる……とゆーのに。
わたしには、リズム感がなかった。
言われたとおりに演奏しているつもりなのに、先生は苦い顔。
あまりに下手っぴだから、途中で奏者変更されそーになった。練習の最中、突然他の子を指名して、わたしの代わりに演奏させたのよ、先生。
でも、突然やれと言われてやった子は、わたしより下手だった。そりゃそーだ、どんなにわたしに才能がないからって、1ヶ月毎日練習してたんだ、今はじめてやる子よりはマシだろうよ。
音楽会まで時間もないしと、先生もあきらめたんだろう。結局わたしが演奏することになった。
本番がどーだったのかは知らない。先生は満足したのだろうか、わたしの演奏で。
ただ、下手なわたしを責める先生の顔が、脳裏に焼き付いている。
クラス全員の前で、1ヶ月ずーっとみんなと一緒に練習していたわたしを降ろし、他の子に変更しようとした、あのときの空気とか。
代わりに演奏させられた子も、気まずかったろうなあ。
わたしには自分の演奏のどこがダメなのか、ぜんぜんわからなかった。メトロノームを友だちに、正しいテンポで叩いていたつもりだったのに、ぜんぜんダメだったらしい。
むしろ、旋律のある他の楽器の方がまだ少しは上手に演奏できたんだよ、わたし。楽器演奏の成績はふつーだったのに。
リズム命のあんなパートでさえなければ……。
とゆートラウマ。
きっと一生忘れない。
その記憶を、苦く思い出していた。ティンパニの音を聴きながら。
さて、今年の第1部のクラシック曲は、ヨハン・シュトラウス1世の「ラデッキー行進曲」。さすがのわたしも部分は知ってる有名曲、ラデッキーって将軍の名前だよね?
毎年ゲネプロは進行をすべて真面目にやっていたのに、今年はなんか略しまくり。
「はい、ここはトークをする予定」
とか言って省略するの。前日のリハーサルも、ゲストの出演なかったし。……なかったよね?(遅刻した上に、タニ茶へ行くために早退した女)
まあ、同じトークを何度も聞かされるのも萎えるんで、本番のみにしてくれるのはいいんだけどさー。
てなふーに、省略しまくりのゲネプロだったので、「ラデッキー行進曲」もシークレットゲストの説明なし、トークなしでとにかく演奏。
だからゲネ時の「ラデッキー行進曲」の手拍子はおざなり、途中からどんどんしぼんでいく。
少なくとも、手拍子を入れる練習は、しなかった。練習になっていなかった。とくに「しろ」とも言われていなかった。
ところが。
本番、八方・ざこば両師匠を迎えてのトークから続く「ラデッキー行進曲」。
合唱団と観客、あわせて1万数千人の手拍子が、ぴたりと合うんですよ。
指揮者・佐渡裕に導かれるままに。
指揮って、楽器や歌手相手だけじゃないんだ。
観客を含む拍手や手拍子も、操れちゃうんだ。
100人越えの多人数オーケストラによる演奏と、1万数千人の素人たちの手拍子が、ひとつの音楽を作る。
す・げぇ。
あの一体感。
どこまで行くの、コレ?!
曲が終わったあと、どっちかの落語家が、「手拍子って音楽なんやな」と呆然と言ったのが、納得。
すごいすごーい。
手拍子もまた、リズム感が必要なモノだから。
わたしは苦手なんだけどねー。
だけどそんなこと忘れて、一緒になって手を叩いた。
指揮者の意図するままに。強く、速く、小さく、激しく!
すごいなー。
ひとって、こんなこともできるんだ。
第2部「第九」は、ゲネでいねむりこいていたのが嘘のよーに、目をランランさせて指揮者やオケや客席、合唱席を見てました。
ティンパニの音に集中しながら。
いろーんなことを、漠然と考えていた。
この長い長い曲は、考え事に最適だよな……毎年恒例だからこそ、1年を振り返る回想にうってつけ。暗いこと考えるとドツボにはまるので、そこは回避しつつ。
合唱自体は、わたし的に声のコンディションよかったっす。両隣の人よりアタマひとつでかかったが(笑)、今年は後ろの人から「アンタがでかすぎるせいで指揮者が見えないのよ!」とゆーよーなクレームは来なかったし。(去年は段差の少ないアリーナ席だったからなー)
歌、うまくなりたいなあ……。どうしてこう才能がないんだろう。
心残りは、張り切ってDS持っていったのに、誰ともすれ違えなかったこと!
誰も『ぶつ森』やってないのー?!
「きょうは1まんにんのだいくのひ」って手紙書いて、わざわざとたけけさんの音楽をプレゼントに付けて、海に流したのに!!
参加年齢を考えたら、無理もないか……。
わたしも含め、中・高齢者が大半を占めているイベントだもんよ……。
女の子はまだ多少若いお嬢さんたちもまざってるけどさ……。
同じタイトルの倉庫。
2006年12月1日 その他 ちょっくらここでお知らせ。
この「DIARY NOTE」ときたらあらゆる意味でヘボいサイトなので、いい加減限界を感じ、よそに倉庫を作りました。
だってここさあ、書いている本人ですら過去ログ読むの一苦労なんだよ? カテゴリ分けも検索もできないんだからさー。
おまけに過去記事は壊れて紛失してるし。
カウンターもぶっ壊れてそのままだし。
つーことで、過去の観劇日記はこちらへ。
まだ作りかけなので、2002年と2006年4月以降のデータしか移してないんだけど、追々完成させる予定。
夏ごろからやっていたわりには、ちっとも進まなくてなー(笑)。なにしろ過去ログ、壊れてるから、PCの中から原文探して復元させつつなのよー。もーうんざり。
あちらは倉庫として活用予定なんで、最新記事は読みにくくなってる。
だからいちおー、こっちで最新記事の更新はする。や、倉庫にも同時にupしていくけどさ。
公演ごとの感想だとか、時系列順の感想が必要なときに、倉庫をのぞいてやってくださいませ。
別サイトで「さくいん」を作っていたけれど、そっちはとりあえず作業Stop。さくいんのない2006年4月以降は倉庫を探してくださいな。
この「DIARY NOTE」ときたらあらゆる意味でヘボいサイトなので、いい加減限界を感じ、よそに倉庫を作りました。
だってここさあ、書いている本人ですら過去ログ読むの一苦労なんだよ? カテゴリ分けも検索もできないんだからさー。
おまけに過去記事は壊れて紛失してるし。
カウンターもぶっ壊れてそのままだし。
つーことで、過去の観劇日記はこちらへ。
彼女は陽気な破壊的気質を持っている。 http://koalatta.blog48.fc2.com/
まだ作りかけなので、2002年と2006年4月以降のデータしか移してないんだけど、追々完成させる予定。
夏ごろからやっていたわりには、ちっとも進まなくてなー(笑)。なにしろ過去ログ、壊れてるから、PCの中から原文探して復元させつつなのよー。もーうんざり。
あちらは倉庫として活用予定なんで、最新記事は読みにくくなってる。
だからいちおー、こっちで最新記事の更新はする。や、倉庫にも同時にupしていくけどさ。
公演ごとの感想だとか、時系列順の感想が必要なときに、倉庫をのぞいてやってくださいませ。
別サイトで「さくいん」を作っていたけれど、そっちはとりあえず作業Stop。さくいんのない2006年4月以降は倉庫を探してくださいな。
箱の中の外。@服部有吉×首藤康之『HS06』
2006年8月20日 その他 なんてゆーかさぁ。
自分ちの茶の間で、テレビを見ていたわけよ。
テレビではなんかすごいことやってるけど、所詮テレビの中のことだし。すげーなー、へー、と阿呆面して眺めていたわけよ。
それが。
ふと気づいた瞬間。
自分が、テレビの中にいるの。
自分ちの茶の間でテレビ見ていたはずなのに。のんきにしていたはずなのに。
えええっ?! なんであたし、こんなとこにいるの?
周囲はテレビの中で広がっていた世界で、テレビの中にいた人たちで。あたしの茶の間はどこ?!
くわえてたポテチもそのままに、びびりきってきょろきょろ辺りを見回している。
……そーゆー感じでした、服部有吉×首藤康之『HS06』。
いやはや、アタマ悪い感想もここまでくるとすごいっすね。
nanakoさんのダーリンに会いに行った。
友だちの彼氏に会う、つーんでドキドキ(笑)。
すんません、「友だちがひとり行けなくなった、チケ代不要」というお誘いに「タダなら見たい」と正直すぎる返事をしました。譲ってくれたお友だちさんによろしくです。
や、今さらだけど。だってコレ、7月の話だし。
テキストだけはすぐに書いてたんだけど、まとめる時間と気力、UPする時間とタイミングがなかなかなくて……。
予備知識皆無だ! そのうえあたしはダンスを理解する能力なんぞ皆無だ!
nanaタンのダーリン服部王子が出演する、以外のことはなにも知らない! せっかくnanaタンが事前にパンフ見せてくれたのに、予備知識入れるの好きぢゃないからろくに見なかった! 2幕構成で2幕が「セロ弾きゴーシュ」らしい、つーことぐらいしかアタマに入れずに見た!
……なんてことを、開き直って言ってちゃイカンて。まさに猫に小判だよ……。
よーするにわたしは、「わかんないなら、わかんないでいーや」と思っていた。
世の中の「すばらしいもの」全部理解できるアタマも感性もない。自分にナニが欠けているかは、何十年も生きてきたからわかっている。
ただ、あるものをあるがまま、受け止めよう。理解できるできないは二の次。ソレ自体に「力」があるなら、ただ眺めているだけでもなにかしら跡は残していくだろう。
そして、安心感があった。
nanakoさんが絶賛している人の、舞台だから。
世界的な位置だとか名声だとか、そんなの関係ない。だってわたし、そんなのはじめから知らないし、興味ないし。
見て損はない。そう思えるのは、nanakoさんが「いい」と熱く語るモノだから。
世間の評価より、信頼できる友だちの評価の方がはるかに重い。
nanaタンのカレシだから、見てみたい。……ソレって、そーゆー意味だ。
わたしは無知で無教養だから、ほんとのとこは理解できないんだろうけど、それでも、そんなバカがバカなりに観る価値も意味もある。それだけのものが残る。
そう安心していたから、いつものよーに予備知識皆無、すっぴんのわたしが感じるものだけがすべて!状態で劇場へ。
そして、油断して「客席」から、ぼーっと舞台を観ていた。
舞台は、うつくしくてこわい物語を、展開していた。
まっしろな空間で、ロボットたちが人間と同じ姿で、でも人間とはチガウ動きをしているの。
無機質なまま調和していたロボットたちに、変化が起こる。とりあえず1体。その1体を起点に、波紋が広がる。軋みが広がる。
1体、また1体動かなくなる。
白い壁で区切られた四角い舞台。白く美しい、不安な世界。
つっても「所詮舞台の上のこと」で、わたしとは「直接関係ない」から、どんなにこわくてもぼーっとしていられた。
でも。
倒れて動かなくなったロボットたちの間で、主人公ロボットが手を伸ばす。
正面に。
わたしたち、客席の方に。
それは、不思議なことじゃない。舞台の上の人が客席に向けて演技するのはあたりまえのことだから。
ただ。
のばしたその手が、なにかにはばまれたんだ。
壁。
そこに、見えない壁があった。
客席に向かって開かれた空間、じゃない。
四方を壁によって閉ざされた箱の中なんだ。
閉ざされた。
あそこに、見えない壁がある。ずっとあった。でもわたしは知らなかった。彼らも、知らなかったのだろうか。それとも。
断絶。
今、なにか切れた。
目に見えない壁に触れた、そのときに。
いや、「つながった」のか。
ロボットの彼と、わたしが、一瞬シンクロした。
彼が視た「四角い箱」が、わたしにも見えた。
こわかったの。びっくりしたの。
わたし、自分ちの茶の間にいたのに! いきなりテレビの中なんだもん!!
のんきに眺めていたのに、油断していたのに、一気に心臓鷲掴み。
どきどきしながら夢中で観た。
閉塞感に喘ぎながら。
ロボットたちは結局みんな動かなくなって、作業服の人間たちによって運び出される。まさしく「モノ」として。
箱は開かれ、また閉ざされる。
そしてまた、次のロボットが上から降りてくる……はじまりと同じシーンにつながって、幕。
技術的なことはわからないから、ただ「作品」としてしか見ない。無知なわたしが「観た」だけの「作品」。
ロボットたちは美しく不安だった。
それがどういう意味を持つのであれ、「規則」のなかに「不規則」なものが混ざるのはこわい。
波紋のように、1体ずつ動かなくなるロボットが、そして不自然な形のまま止まり、打ち捨てられた姿がこわい。
ひとごとだと思って眺めていたのに、そこに「壁」があることで舞台と客席の「壁」が消えてシンクロしてしまった現実がこわい。
そこにあるのは、みんなうつくしいものなのにね。
わたしがあんまり疲れた顔をしていたからか、幕間のnanaタンは、
「2幕はたのしいから!」
と、はげまして(?)くれた。
その言葉の通り、2幕の「セロ弾きゴーシュ」をモチーフにした作品はとてもキュートで、素直に楽しかった。
「セロ弾き」を「ダンサー」に置き換えて、みそっかすダンサーくんのところに、動物たちがやってきてダンスを披露、一緒に踊っているうちにみそっかすくんはダンスの達人に!
着ぐるみが出るとは思わなかった。
てかみんなかわいー!!
1幕であんなに無機質で、こわかったロボットたちが、なんて表情豊かにキュートに踊ってくれることか。
素直に単純に、たのしみました。
にしても、服部王子、妖精属だなあ。
終演後真っ先に、王子の年齢をnanaタンに聞いちゃったよ(笑)。
大変興味深い体験をしました。
nanaタンありがとー。
猫に小判でごめんよう。
自分ちの茶の間で、テレビを見ていたわけよ。
テレビではなんかすごいことやってるけど、所詮テレビの中のことだし。すげーなー、へー、と阿呆面して眺めていたわけよ。
それが。
ふと気づいた瞬間。
自分が、テレビの中にいるの。
自分ちの茶の間でテレビ見ていたはずなのに。のんきにしていたはずなのに。
えええっ?! なんであたし、こんなとこにいるの?
周囲はテレビの中で広がっていた世界で、テレビの中にいた人たちで。あたしの茶の間はどこ?!
くわえてたポテチもそのままに、びびりきってきょろきょろ辺りを見回している。
……そーゆー感じでした、服部有吉×首藤康之『HS06』。
いやはや、アタマ悪い感想もここまでくるとすごいっすね。
nanakoさんのダーリンに会いに行った。
友だちの彼氏に会う、つーんでドキドキ(笑)。
すんません、「友だちがひとり行けなくなった、チケ代不要」というお誘いに「タダなら見たい」と正直すぎる返事をしました。譲ってくれたお友だちさんによろしくです。
や、今さらだけど。だってコレ、7月の話だし。
テキストだけはすぐに書いてたんだけど、まとめる時間と気力、UPする時間とタイミングがなかなかなくて……。
予備知識皆無だ! そのうえあたしはダンスを理解する能力なんぞ皆無だ!
nanaタンのダーリン服部王子が出演する、以外のことはなにも知らない! せっかくnanaタンが事前にパンフ見せてくれたのに、予備知識入れるの好きぢゃないからろくに見なかった! 2幕構成で2幕が「セロ弾きゴーシュ」らしい、つーことぐらいしかアタマに入れずに見た!
……なんてことを、開き直って言ってちゃイカンて。まさに猫に小判だよ……。
よーするにわたしは、「わかんないなら、わかんないでいーや」と思っていた。
世の中の「すばらしいもの」全部理解できるアタマも感性もない。自分にナニが欠けているかは、何十年も生きてきたからわかっている。
ただ、あるものをあるがまま、受け止めよう。理解できるできないは二の次。ソレ自体に「力」があるなら、ただ眺めているだけでもなにかしら跡は残していくだろう。
そして、安心感があった。
nanakoさんが絶賛している人の、舞台だから。
世界的な位置だとか名声だとか、そんなの関係ない。だってわたし、そんなのはじめから知らないし、興味ないし。
見て損はない。そう思えるのは、nanakoさんが「いい」と熱く語るモノだから。
世間の評価より、信頼できる友だちの評価の方がはるかに重い。
nanaタンのカレシだから、見てみたい。……ソレって、そーゆー意味だ。
わたしは無知で無教養だから、ほんとのとこは理解できないんだろうけど、それでも、そんなバカがバカなりに観る価値も意味もある。それだけのものが残る。
そう安心していたから、いつものよーに予備知識皆無、すっぴんのわたしが感じるものだけがすべて!状態で劇場へ。
そして、油断して「客席」から、ぼーっと舞台を観ていた。
舞台は、うつくしくてこわい物語を、展開していた。
まっしろな空間で、ロボットたちが人間と同じ姿で、でも人間とはチガウ動きをしているの。
無機質なまま調和していたロボットたちに、変化が起こる。とりあえず1体。その1体を起点に、波紋が広がる。軋みが広がる。
1体、また1体動かなくなる。
白い壁で区切られた四角い舞台。白く美しい、不安な世界。
つっても「所詮舞台の上のこと」で、わたしとは「直接関係ない」から、どんなにこわくてもぼーっとしていられた。
でも。
倒れて動かなくなったロボットたちの間で、主人公ロボットが手を伸ばす。
正面に。
わたしたち、客席の方に。
それは、不思議なことじゃない。舞台の上の人が客席に向けて演技するのはあたりまえのことだから。
ただ。
のばしたその手が、なにかにはばまれたんだ。
壁。
そこに、見えない壁があった。
客席に向かって開かれた空間、じゃない。
四方を壁によって閉ざされた箱の中なんだ。
閉ざされた。
あそこに、見えない壁がある。ずっとあった。でもわたしは知らなかった。彼らも、知らなかったのだろうか。それとも。
断絶。
今、なにか切れた。
目に見えない壁に触れた、そのときに。
いや、「つながった」のか。
ロボットの彼と、わたしが、一瞬シンクロした。
彼が視た「四角い箱」が、わたしにも見えた。
こわかったの。びっくりしたの。
わたし、自分ちの茶の間にいたのに! いきなりテレビの中なんだもん!!
のんきに眺めていたのに、油断していたのに、一気に心臓鷲掴み。
どきどきしながら夢中で観た。
閉塞感に喘ぎながら。
ロボットたちは結局みんな動かなくなって、作業服の人間たちによって運び出される。まさしく「モノ」として。
箱は開かれ、また閉ざされる。
そしてまた、次のロボットが上から降りてくる……はじまりと同じシーンにつながって、幕。
技術的なことはわからないから、ただ「作品」としてしか見ない。無知なわたしが「観た」だけの「作品」。
ロボットたちは美しく不安だった。
それがどういう意味を持つのであれ、「規則」のなかに「不規則」なものが混ざるのはこわい。
波紋のように、1体ずつ動かなくなるロボットが、そして不自然な形のまま止まり、打ち捨てられた姿がこわい。
ひとごとだと思って眺めていたのに、そこに「壁」があることで舞台と客席の「壁」が消えてシンクロしてしまった現実がこわい。
そこにあるのは、みんなうつくしいものなのにね。
わたしがあんまり疲れた顔をしていたからか、幕間のnanaタンは、
「2幕はたのしいから!」
と、はげまして(?)くれた。
その言葉の通り、2幕の「セロ弾きゴーシュ」をモチーフにした作品はとてもキュートで、素直に楽しかった。
「セロ弾き」を「ダンサー」に置き換えて、みそっかすダンサーくんのところに、動物たちがやってきてダンスを披露、一緒に踊っているうちにみそっかすくんはダンスの達人に!
着ぐるみが出るとは思わなかった。
てかみんなかわいー!!
1幕であんなに無機質で、こわかったロボットたちが、なんて表情豊かにキュートに踊ってくれることか。
素直に単純に、たのしみました。
にしても、服部王子、妖精属だなあ。
終演後真っ先に、王子の年齢をnanaタンに聞いちゃったよ(笑)。
大変興味深い体験をしました。
nanaタンありがとー。
猫に小判でごめんよう。
100万ヒット達成。
2006年6月17日 その他 祝100万ヒット。
と、自分で言ってみる(笑)。
6桁しかないここのカウンタ、「999999」の次は「000000」に戻ってやり直しだと思っていたのに、なんなんだ。
「100000」からやり直しって、なんだそりゃ?!
その中途半端さはなに?(笑)
いっそゼロからスタートしたかったんですが。
ブログ初心者なふりして。
いちお、いつだったか「こりゃー近いうちに100万超えるな」ってときに、DiaryNoteへ問い合わせたんすよ。6桁超えたらどーなるの、桁数増やしてもらうことってできないのかしら、てな意味のことを。
もちろん、スルーされました。
今までもやむを得ず問い合わせをしたことは何回かあったんだけど、返事もらえたことなんか一度もなく、放置がデフォルトだったから、期待なんかしてませんでしたけど(笑)。
えーと、ここで日記書きはじめて4年。
匿名希望で誰にも告げず、自分からは一切リンクもせず、細々とやってきました。
最初はふつーに日常日記だったんだよね。(日常日記はよそへ移した。今はヅカネタONLY)
カウンタを回すのはわたしだけが基本、だったから1日10カウンタが回っただけでもドキドキした。100回ったら取り乱してた(笑)。
日常と関係なく、日付けと関係なくヅカ語りするよーになってから、ひとつの話題が伸びる伸びる、長編しか書けなくなってしまった。短い文章書くのは、面倒だからさー。だらだら長く書く方が楽だ。
いちお今でも、3000文字前後でまとめるよーに努力はしているが、文字数の縛りがないのでかなり楽をしている(笑)。
日付と関係なく書くよーになって、「日記だから毎日書く」という意識が薄れ、書きたいときに数日分の欄を使って好きなだけ書く、という感じになった。
うーむ、もう少し「日記」として、日にちと内容をリンクさせ、毎日書くように戻したいなあ。初日とか楽の日付は合わすようにしているけど、それ以外は自分の観劇した日に観劇日記は書かなくなってる。ずーっと何日分も欄を使って感想書いてるから、日付が無意味という。
このサイトがヘボいので、同じ日にちで何本も記事を書きたくないのですよ。同じ日付で複数記事を書いていた昔のデータが、壊れて紛失してますからねー。ひとつの日付でひとつの記事、それ以外はこわくてできん(笑)。
DiaryNoteは、ブログと名乗ってはイカンだろと思うくらい基本装備がなにもないし、日記サイトとしても不親切で不備で不誠実だ。
これほどダメダメなサイトもめずらしいだろ。
だけどここを使い続けているのは、その時代から取り残されたような古さだとか、商業ベースのサイトにはない鈍くささと放置感、無名ゆえの気楽さ、できることが少なすぎるからはじめからなにもしなくていい、とことん小心に閉鎖的でいられる、など古い人間であるわたしには心やすい部分があるためだ。
DiaryNoteで書いていたからこその、出会いもあった。
kineさんと出会えたのは、大きいなあ。
わたしが自分からリンクしている人で、もともとDiaryNoteで日記書いてた人って、kineさんだけだもん。あとの人たちはみんな、友だちになったからDiaryNoteにやってきた人たち(笑)。
わたしは小心かつ人見知り、てゆーか筆無精なので、自分から知らない人にメール出したこともないし、会ったこともない人のサイトやブログに書き込むこともないし、某2だの8だのに書き込むこともないし、公演感想を求めてネットの海を漂うこともほとんどなく、自分と仲間たちのブログのみでいっぱいいっぱい。
リアル友のブログ以外でわたしが見に行くヅカ感想って、DiaryNoteの人たちぐらいっす、ほんと。
そーゆー意味で、過疎地であるDiaryNote「演劇」カテゴリは得難いところだったりする。人数少ないから、更新状況がひと目でわかる(笑)。
ここでヅカ語りをえんえんしていたからこそ出会えた人たち、「緑野こあら」として知り合い、親交を深めることが出来た人たちがいる、感動。
いつかどこかのちゃんとしたブログに引っ越す日が来ないとは言えないけど(DiaryNoteがヘボ過ぎてキレたときとか・笑)、今はまだここで、のんきにマイペースに過ごしていたいと思う。
……にしてもカウンタの桁数、増やしてくんないかなー(笑)。
えーと、今までも何度かカウンタがとんで、0から再スタートしていたんで今さらだけど。
現在のカウンタ数+100万−10万 = 本来のカウンタ数
ってことですか。
ややこしーなー(笑)。
しかし、昨日の晩から仲間たちが「カウンタ100万ゲットするぞ」、と盛り上がっていたのが愉快です。
指摘されるまで気づいてなかったよ、下4桁しか見てなかったから(いちお、日々の訪問者数の目安チェックはしてみる。おぼえていられる範囲で、だけど)。
そのくせ誰も「100万」踏めなかったんだねー。
だって、「100万」踏んだのわたしだもん!!(笑)
博多座チケット発売日だから、チケ取りしながらすんなりGET。そしてチケットは取れず(なにやってんだ)。
これからも、よろしくお願いします。
次は目指せ200万ヒットかな?(いつの話だそりゃ)
と、自分で言ってみる(笑)。
6桁しかないここのカウンタ、「999999」の次は「000000」に戻ってやり直しだと思っていたのに、なんなんだ。
「100000」からやり直しって、なんだそりゃ?!
その中途半端さはなに?(笑)
いっそゼロからスタートしたかったんですが。
ブログ初心者なふりして。
いちお、いつだったか「こりゃー近いうちに100万超えるな」ってときに、DiaryNoteへ問い合わせたんすよ。6桁超えたらどーなるの、桁数増やしてもらうことってできないのかしら、てな意味のことを。
もちろん、スルーされました。
今までもやむを得ず問い合わせをしたことは何回かあったんだけど、返事もらえたことなんか一度もなく、放置がデフォルトだったから、期待なんかしてませんでしたけど(笑)。
えーと、ここで日記書きはじめて4年。
匿名希望で誰にも告げず、自分からは一切リンクもせず、細々とやってきました。
最初はふつーに日常日記だったんだよね。(日常日記はよそへ移した。今はヅカネタONLY)
カウンタを回すのはわたしだけが基本、だったから1日10カウンタが回っただけでもドキドキした。100回ったら取り乱してた(笑)。
日常と関係なく、日付けと関係なくヅカ語りするよーになってから、ひとつの話題が伸びる伸びる、長編しか書けなくなってしまった。短い文章書くのは、面倒だからさー。だらだら長く書く方が楽だ。
いちお今でも、3000文字前後でまとめるよーに努力はしているが、文字数の縛りがないのでかなり楽をしている(笑)。
日付と関係なく書くよーになって、「日記だから毎日書く」という意識が薄れ、書きたいときに数日分の欄を使って好きなだけ書く、という感じになった。
うーむ、もう少し「日記」として、日にちと内容をリンクさせ、毎日書くように戻したいなあ。初日とか楽の日付は合わすようにしているけど、それ以外は自分の観劇した日に観劇日記は書かなくなってる。ずーっと何日分も欄を使って感想書いてるから、日付が無意味という。
このサイトがヘボいので、同じ日にちで何本も記事を書きたくないのですよ。同じ日付で複数記事を書いていた昔のデータが、壊れて紛失してますからねー。ひとつの日付でひとつの記事、それ以外はこわくてできん(笑)。
DiaryNoteは、ブログと名乗ってはイカンだろと思うくらい基本装備がなにもないし、日記サイトとしても不親切で不備で不誠実だ。
これほどダメダメなサイトもめずらしいだろ。
だけどここを使い続けているのは、その時代から取り残されたような古さだとか、商業ベースのサイトにはない鈍くささと放置感、無名ゆえの気楽さ、できることが少なすぎるからはじめからなにもしなくていい、とことん小心に閉鎖的でいられる、など古い人間であるわたしには心やすい部分があるためだ。
DiaryNoteで書いていたからこその、出会いもあった。
kineさんと出会えたのは、大きいなあ。
わたしが自分からリンクしている人で、もともとDiaryNoteで日記書いてた人って、kineさんだけだもん。あとの人たちはみんな、友だちになったからDiaryNoteにやってきた人たち(笑)。
わたしは小心かつ人見知り、てゆーか筆無精なので、自分から知らない人にメール出したこともないし、会ったこともない人のサイトやブログに書き込むこともないし、某2だの8だのに書き込むこともないし、公演感想を求めてネットの海を漂うこともほとんどなく、自分と仲間たちのブログのみでいっぱいいっぱい。
リアル友のブログ以外でわたしが見に行くヅカ感想って、DiaryNoteの人たちぐらいっす、ほんと。
そーゆー意味で、過疎地であるDiaryNote「演劇」カテゴリは得難いところだったりする。人数少ないから、更新状況がひと目でわかる(笑)。
ここでヅカ語りをえんえんしていたからこそ出会えた人たち、「緑野こあら」として知り合い、親交を深めることが出来た人たちがいる、感動。
いつかどこかのちゃんとしたブログに引っ越す日が来ないとは言えないけど(DiaryNoteがヘボ過ぎてキレたときとか・笑)、今はまだここで、のんきにマイペースに過ごしていたいと思う。
……にしてもカウンタの桁数、増やしてくんないかなー(笑)。
えーと、今までも何度かカウンタがとんで、0から再スタートしていたんで今さらだけど。
現在のカウンタ数+100万−10万 = 本来のカウンタ数
ってことですか。
ややこしーなー(笑)。
しかし、昨日の晩から仲間たちが「カウンタ100万ゲットするぞ」、と盛り上がっていたのが愉快です。
指摘されるまで気づいてなかったよ、下4桁しか見てなかったから(いちお、日々の訪問者数の目安チェックはしてみる。おぼえていられる範囲で、だけど)。
そのくせ誰も「100万」踏めなかったんだねー。
だって、「100万」踏んだのわたしだもん!!(笑)
博多座チケット発売日だから、チケ取りしながらすんなりGET。そしてチケットは取れず(なにやってんだ)。
これからも、よろしくお願いします。
次は目指せ200万ヒットかな?(いつの話だそりゃ)
コンサート自体は素晴らしかったですよ。@1万人の第九
2005年12月4日 その他 神様、阪神タイガースが惨敗しますように。
もう二度と、阪神が優勝しませんように。思いっきり負けていてくれると、ありがたいです。
神様、お願い。合掌。
わたしはプロ野球にも阪神にも興味がないし、勝敗なんぞどーでもいいが、『1万人の第九』で阪神マンセー強要される限り、呪い続けることにします。
阪神マンセーしたいなら、「1万人の阪神ファンの集い」でも催してください。
あれほど恥ずかしい惨敗をした特定の球団を、わざわざ『1万人の第九』で持ち上げるのがわからない。
「阪神」=「大阪」というのもわからないし(阪神は大阪の球団じゃない。「宝塚」=「大阪」ぐらい別)、大阪を連呼するなら前日優勝したガンバ大阪こそ持ち上げるべきだろう。
大体、『1万人の第九』はグローバル化して全国都道府県から参加者がいると言ったその口で言うのもおかしい。
「終戦60年」ってことで、「平和」をテーマのひとつにあげた『1万人の第九』で、「勝利のための応援歌」つまり、敵を倒せ!とゆー意味の歌を何故、歌わなければならないのか。
なにもかも、変だ。
「世界の人々がひとつになる」「みんなが家族になる」という美しいテーマを掲げて、やっていることは「阪神マンセー」。
……こわいと思ったのは、わたしだけですか?
第九を歌う、という目的で集まった1万人に、なんの了承も得ず、だまし討ちで特定球団の応援を強要したわけですよ。
これってさ、別のこともできるじゃん。
特定の宗教とか、政党とか。
だまし討ちで、拒否できないムードやシステムで囲い込んで。
たしかに、某球団は人気があるんでしょー。わたしはよく知らないけど。
だから、『1万人の第九』で某球団を讃える歌を歌えばよろこぶ人も多いのかもしれない。
でもその理屈でいくと、「某政党を『1万人の第九』で応援すると、よろこぶ人も大勢いる。だからいいじゃないか」も同じ理屈だよな?
こわいなー。
思想統制したいなら、別でやってくださいよ。
『1万人の第九』を汚染しないで。
つーことで、今年も恒例の『1万人の第九』に参加してきました。
たのしかったですよ。
阪神マンセーの他は。
前日のリハーサルから、けっこー感動していたんだか、本番のだまし討ちで冷水を浴びせられ、気を取り直すのに精神力が必要だった(笑)。
やっぱ、権力ってのは必要なんだなあ、と思った。
わたしがものすごい実力者になって、人気者になって、『1万人の第九』をプロデュースできるよーなえらい人になったら、公私混同で「『1万人の第九』で『タカラヅカ・グローリー』を歌いましょう!」つーこともできるのね。
わたしが総監督だもーん、みんなわたしの名前で集まってきたんだもん、いいよね、なにやっても。わたしがタカラヅカ好きなんだし、タカラヅカといえば大阪のカオだし、みんなよろこぶよね?
……権力ってのは、そーゆーことだな。しみじみ。
わたしはしがない一般人なので、『1万人の第九』に参加して、1万人でひとつのことを成し遂げる感動を味わいたかったら、思想統制に耐えなければならないわけですよ。
嫌なら参加しなければいい、わけだから。
思想統制への嫌悪感と、第九の感動を秤に掛け、選ばなければならない。
毎年「阪神マンセー」させられるなら、マジで参加を考えるが、今のところ「優勝したときのみ」やるつもりらしい(今年はあんな負け方したのにな)。
ならば天災と同じだ。
わたしの住んでいる家は超絶古いボロ屋で、もう一度阪神大震災レベルの地震が来たら、おそらく潰れる。でも、建て替える経済力がないので「たぶん大丈夫」と思い、住み続けている。
大地震よ、来るな。
そう祈り続ける。
それと同じことだ。阪神が勝たなければいいんだ。
天災と同じ。大地震よ来るな。阪神よ優勝するな。平和を祈る、同じ気持ち。
来るかどうかもわからない天災を恐れて引っ越さないのと同じで、阪神を恐れて第九を嫌いになるのはやめよう。
佐渡裕はすばらしいアーティストだと思う。
そしてやっぱ、才能のある人って、変なんだな。
まあ、まったり眺めていよう。
あ、阪神の敗北を祈りつつ。
もう二度と、阪神が優勝しませんように。思いっきり負けていてくれると、ありがたいです。
神様、お願い。合掌。
わたしはプロ野球にも阪神にも興味がないし、勝敗なんぞどーでもいいが、『1万人の第九』で阪神マンセー強要される限り、呪い続けることにします。
阪神マンセーしたいなら、「1万人の阪神ファンの集い」でも催してください。
あれほど恥ずかしい惨敗をした特定の球団を、わざわざ『1万人の第九』で持ち上げるのがわからない。
「阪神」=「大阪」というのもわからないし(阪神は大阪の球団じゃない。「宝塚」=「大阪」ぐらい別)、大阪を連呼するなら前日優勝したガンバ大阪こそ持ち上げるべきだろう。
大体、『1万人の第九』はグローバル化して全国都道府県から参加者がいると言ったその口で言うのもおかしい。
「終戦60年」ってことで、「平和」をテーマのひとつにあげた『1万人の第九』で、「勝利のための応援歌」つまり、敵を倒せ!とゆー意味の歌を何故、歌わなければならないのか。
なにもかも、変だ。
「世界の人々がひとつになる」「みんなが家族になる」という美しいテーマを掲げて、やっていることは「阪神マンセー」。
……こわいと思ったのは、わたしだけですか?
第九を歌う、という目的で集まった1万人に、なんの了承も得ず、だまし討ちで特定球団の応援を強要したわけですよ。
これってさ、別のこともできるじゃん。
特定の宗教とか、政党とか。
だまし討ちで、拒否できないムードやシステムで囲い込んで。
たしかに、某球団は人気があるんでしょー。わたしはよく知らないけど。
だから、『1万人の第九』で某球団を讃える歌を歌えばよろこぶ人も多いのかもしれない。
でもその理屈でいくと、「某政党を『1万人の第九』で応援すると、よろこぶ人も大勢いる。だからいいじゃないか」も同じ理屈だよな?
こわいなー。
思想統制したいなら、別でやってくださいよ。
『1万人の第九』を汚染しないで。
つーことで、今年も恒例の『1万人の第九』に参加してきました。
たのしかったですよ。
阪神マンセーの他は。
前日のリハーサルから、けっこー感動していたんだか、本番のだまし討ちで冷水を浴びせられ、気を取り直すのに精神力が必要だった(笑)。
やっぱ、権力ってのは必要なんだなあ、と思った。
わたしがものすごい実力者になって、人気者になって、『1万人の第九』をプロデュースできるよーなえらい人になったら、公私混同で「『1万人の第九』で『タカラヅカ・グローリー』を歌いましょう!」つーこともできるのね。
わたしが総監督だもーん、みんなわたしの名前で集まってきたんだもん、いいよね、なにやっても。わたしがタカラヅカ好きなんだし、タカラヅカといえば大阪のカオだし、みんなよろこぶよね?
……権力ってのは、そーゆーことだな。しみじみ。
わたしはしがない一般人なので、『1万人の第九』に参加して、1万人でひとつのことを成し遂げる感動を味わいたかったら、思想統制に耐えなければならないわけですよ。
嫌なら参加しなければいい、わけだから。
思想統制への嫌悪感と、第九の感動を秤に掛け、選ばなければならない。
毎年「阪神マンセー」させられるなら、マジで参加を考えるが、今のところ「優勝したときのみ」やるつもりらしい(今年はあんな負け方したのにな)。
ならば天災と同じだ。
わたしの住んでいる家は超絶古いボロ屋で、もう一度阪神大震災レベルの地震が来たら、おそらく潰れる。でも、建て替える経済力がないので「たぶん大丈夫」と思い、住み続けている。
大地震よ、来るな。
そう祈り続ける。
それと同じことだ。阪神が勝たなければいいんだ。
天災と同じ。大地震よ来るな。阪神よ優勝するな。平和を祈る、同じ気持ち。
来るかどうかもわからない天災を恐れて引っ越さないのと同じで、阪神を恐れて第九を嫌いになるのはやめよう。
佐渡裕はすばらしいアーティストだと思う。
そしてやっぱ、才能のある人って、変なんだな。
まあ、まったり眺めていよう。
あ、阪神の敗北を祈りつつ。
DVDレコーダの寿命。
2005年10月29日 その他「DVDレコーダは、わりとよく使われますか?」
と、質問された。
ええ、まあ、よく使ってる方なんじゃ……あ、でも、どれくらいをもって「よく使っている」かわかりませんよね。基準がわからないから、なんとも言えません。
「そうですね。1日2時間使っていたら、よく使っている方ですね」
…………。
……1日、2時間。
…………。
…………。
……あー、それなら、使ってますね、はい。1日2時間くらい、見てたりするし。ははは。
DVDレコーダが、壊れました。
レコーダを買って3年。パナソニックで家庭用DVDレコーダが出たハシリ、型でいうと2つめのやつです。ヅカでいうと、和央ようか氏のポジのヤツです。組のトップOGはまだずんちゃんただひとり。ふたりめのトップがたかちゃん。わたしのDVDレコーダより古い機種はひとつしかない、そーゆー型です。
購入してからの3年間で、数回壊れました。トラブル多かった。
それでも修理に来てもらうたび、無料ですんだ。保証期間過ぎてても無料。パナが太っ腹なのか、そもそもそんな故障が多い型番だったのかはわからない。
しかし、今回ついに。
「いちばん要の部分を、交換した方がいいですね。ずいぶん弱っていますから」
と、修理のおにーさんに言われてしまった!!
そ、それっていくらするんですか? え、そんなに? それじゃ、新しく買った方が早いですよね。
でも、DVDレコーダってそんなに早くダメになるもんなんですか?
まだ3年しか使ってないんですよ。
「ええ、まだ3年ですよね。DVDレコーダ自体が発売されたのがそのちょっと前ですから。このひとつ前の型が最初ですよね。そろそろそのあたりの型の修理依頼が来てます」
とゆー話の流れで、冒頭の会話になった。
「DVDレコーダは、わりとよく使われますか? 1日2時間ぐらい録画してたりとか。そういうよく使う人だと、消耗が早いですね」
…………。
…………。
黙って、おにーさんに出張費3255円を払いました。
新しいDVDレコーダは、明日にでも買いに行きます。
1日、2時間。
それが、世間的に言う「よく使う人」の定義なのか。
……すみません。
1日、20時間くらい、使ってます。
そりゃ、壊れるか。
文句言いません。買いに行きます、新しいの。
しくしくしく。
と、質問された。
ええ、まあ、よく使ってる方なんじゃ……あ、でも、どれくらいをもって「よく使っている」かわかりませんよね。基準がわからないから、なんとも言えません。
「そうですね。1日2時間使っていたら、よく使っている方ですね」
…………。
……1日、2時間。
…………。
…………。
……あー、それなら、使ってますね、はい。1日2時間くらい、見てたりするし。ははは。
DVDレコーダが、壊れました。
レコーダを買って3年。パナソニックで家庭用DVDレコーダが出たハシリ、型でいうと2つめのやつです。ヅカでいうと、和央ようか氏のポジのヤツです。組のトップOGはまだずんちゃんただひとり。ふたりめのトップがたかちゃん。わたしのDVDレコーダより古い機種はひとつしかない、そーゆー型です。
購入してからの3年間で、数回壊れました。トラブル多かった。
それでも修理に来てもらうたび、無料ですんだ。保証期間過ぎてても無料。パナが太っ腹なのか、そもそもそんな故障が多い型番だったのかはわからない。
しかし、今回ついに。
「いちばん要の部分を、交換した方がいいですね。ずいぶん弱っていますから」
と、修理のおにーさんに言われてしまった!!
そ、それっていくらするんですか? え、そんなに? それじゃ、新しく買った方が早いですよね。
でも、DVDレコーダってそんなに早くダメになるもんなんですか?
まだ3年しか使ってないんですよ。
「ええ、まだ3年ですよね。DVDレコーダ自体が発売されたのがそのちょっと前ですから。このひとつ前の型が最初ですよね。そろそろそのあたりの型の修理依頼が来てます」
とゆー話の流れで、冒頭の会話になった。
「DVDレコーダは、わりとよく使われますか? 1日2時間ぐらい録画してたりとか。そういうよく使う人だと、消耗が早いですね」
…………。
…………。
黙って、おにーさんに出張費3255円を払いました。
新しいDVDレコーダは、明日にでも買いに行きます。
1日、2時間。
それが、世間的に言う「よく使う人」の定義なのか。
……すみません。
1日、20時間くらい、使ってます。
そりゃ、壊れるか。
文句言いません。買いに行きます、新しいの。
しくしくしく。