たかちゃんキタ〜〜っ!!

 『茶々 天涯の貴妃』試写会行ってきました。

 や、今日は午前午後とゆーひくんの『HOLLYWOOD LOVER』Wヘッダーして、それから『茶々 天涯の貴妃』試写会。宝塚から、大阪のリサイタルホールまで駆けつけましたよ。びんぼーなので阪急使って。梅田駅から20分でリサイタルホールまで踏破したぞ。帰宅ラッシュの波を逆走するのは消耗した……。(お金のある人は、宝塚からJRで北新地駅に行きましょう。もしくは西梅田から1駅だけ地下鉄に乗り、肥後橋駅で降りましょう)
 なんのなんの、同じようにゆひバウWしたあと、『A-“R”ex』を観に行ったnanakoさん(しかもサバキ待ち)にはかないませんとも(笑)。

 試写会告知時になんの予告もなかったけれど、試写会前の解説にて、「上映後に出演者の舞台挨拶があります」と言われ……出演者つったらふつー主演が来るじゃん? 以前同会場へ試写会見に来たとき、主演女優の長澤まさみちゃんとかも挨拶来てたし! リサイタルホールだから、舞台あるし! でもって、舞台があるからその分スクリーンが遠いので、前寄りの席に坐ってるしあたし! しかも、観劇帰りだからオペラグラス持ってるし!!

 たかちゃんが来るってみんな知ってたのかなあ。そのわりにヅカファンらしき人は少なかった。
 なにしろスポニチと競艇主催の試写会だからなあ……おじさん率おじーさん率高い。スポニチで試写会告知見たとき「この客層相手にこれだけの人数のご招待記事出しても、応募者少ないぞ? ハガキ出したら絶対当たるな」と思って1枚応募、当たる気満々行く気満々で予定を空けて当選通知を待っていた(笑)。

 まさか、主演女優と監督の舞台挨拶付きだとは思ってなかった。
 わーいわーい。

 て、ゆーか。

 はじめての、ナマたかちゃんなの。

 あの日。
 2006年7月2日。

 美しい美しいたかちゃんを、東宝前で見送ってから、はじめての逢瀬。
 コンサートもなにも、観てないし。FC入ってるわけじゃないから、イベントとか知らないし。

 1年半ぶりに会うたかちゃんは……ええっと。

 セミロングの茶髪に、黒のレギンスにピンヒール、黒のミニスカ……もしくはチュニックかな? 黒と茶でまとめているわりには「びみょー……」なファッション。
 もちろん、並び立つ監督より背が高かった(笑)。

 ありきたりな挨拶の他、テンション高い司会者さんがいろいろ話を振るんだが、たかちゃんの喋りは、ええっと、その。

 相変わらず、アタマ悪そう……。
 たかちゃん、変わってない。わーい。(←うれしいらしい・笑)

 すぐに場がしーんとしてね。会話が続かなくてね。司会者の質問の意図を、ぜんぜん酌んでいない返答したりね。
 いやあ、たかちゃんだわ。すっごくたかちゃんだわー(笑)。

 場が冷めているのを察してか、司会者さんが「大阪出身の和央さん」としきりに水を向けているのに、大阪弁で話したりしないしね。地元ならではのこととか言わないしね。

 そこはべったべたな大阪弁を披露するところだろう!! なにか地元ネタでも披露して「こんなに大阪人です」とアピールするところだろう!! と、じれじれした。
 客席にいるほとんどは「誰この人?」状態の大阪のおっちゃんたちなんだから、「大阪の女の子」をアピールすれば親近感持ってもらえるのにー。

 てゆーかこのトーク、台本ないんか……。
 司会者がなにか言うたび、たかちゃんが詰まるのが気になった。

 「タダだから見に来た」だけのおっちゃんおばちゃんたちに、たかちゃんのことを、好きになってもらいたい。好意を持ってもらいたい。
 そう思いながら客席にいる身としては、はらはらし通しでした。や、わたしが気をもんでも仕方ないんだが。

 男役時代のかっこいいたかちゃんは、そのままヅカファン以外の人にも「かっこいい」と思ってもらえる人だと思うから、服装も「かっこいい」系で来てくれた方がよかったかなぁ、とか。
 しかしびみょーだ……あの服装、あの髪型(笑)。

 や、トークがぐだぐだでも、服装ビミョンでも、とにかくたかちゃんに会えたのがうれしかった。
 うれしかった。
 もー、すげーうれしかった。

 
 で、問題の映画『茶々 天涯の貴妃』は。

 おもしろかった。

 意外。

 いやその。

 ゆりちゃんの例を知っているからさ。
 当時ものすげー人気で、ものすげー鳴り物入りで芸能界入りした天海祐希が、当初どんなへっぽこ映画でコケまくっていたか、刷り込まれているから。
 『MISTY』とか、ひどかったなー……。ガラガラの映画館で、ツレとふたりぽつんと見たなー。わざわざポスカ付き前売り券とか買って、見に行ったんだよ、ヅカファンとして。

 女優としては素人で、世間的知名度ゼロなヅカの男役をいきなり主役に使っての時代劇映画ときた。
 こりゃ絶対つまんないぞ、と。
 わざわざ史実無視の男装シーンまででっちあげての「ヅカファン動員」目当て。『千年の恋 ひかる源氏物語』くらいつまんなくてどーしよーもないものにちがいない。

 と、思い込んでいたので。(つかオレ、天海の映画けっこー見てるんだ……女優・天海祐希は好きよん)

 ふつうに、映画として、エンタメとしておもしろいので、おどろいた。

 茶々という女性がどーゆー人で、どんな人生をたどったのかは、ふつーに知っている。……て、みんな知ってるよな?
 信長の妹・お市の方の娘で、秀吉の側室で、秀頼の母で、淀殿で、大坂城で息子と共に果てる人。
 原作は読んだことナイ。わたしの戦国時代知識は司馬遼太郎に偏っている。司馬遼の淀殿はあんましいいイメージないっす……。

 その、よく知る女性の一代記を、エンタメとして気持ちよく再構築してくれた。
 現代女性が感情移入できるカタチで。

 秀吉@渡部篤郎がイイ。

 かわいい。
 秀吉は茶々よりはるかに年上の、権力尽くで彼女を手に入れる男なのだけど、設定だけ見るとひでー男なんだけど、この物語の中では十分魅力的なの。
 欠点はいろいろあれど、「恋」できる相手なの。
 この男を抱きしめ、この男の夢を、子どもを、守って生きていこうと思えるくらいの。

 やっぱ秀吉を愛せないと、はじまらないよなー。
 秀吉が愛すべき男だから、それだけでもたのしい。

 たかちゃんファンとしては、かなり安心して見られると思う。

 だって、男役時代と、違和感ないんだもんよ。

 でかいよ茶々、でかいよ(笑)。

 ときどき鴨居よりでかくてびびる(笑)。
 秀吉よりでかく見えてびびる(笑)。

 立ち居振る舞いもだが、なにより声が男役のままだ。
 ふつーの声はがんばってたおやかにしているが、高ぶるとまんま男役。いつものたかこ。
 男装してなくても、違和感なし。男装するとさらに、いつものたかこ。

 そして、「茶々だしな。ベッドシーンと、出産シーンは、絶対あるよな」と、おびえていたんだが。

 女になったたかちゃん、までは許容範囲だが、上記ふたつだけは、かなり抵抗ある。ぶっちゃけ、見たくない。

 大丈夫。
 どっちもなかった。

 それどころか、キスシーンもなかった……(笑)。
 すげーストイックに寄り添ったり抱きしめたり程度で、「儂の子を産んでくれ」(プロポーズの言葉)のわりに、性を感じさせる場面はナシ。
 ただ、別々の布団に並んで寝ている場面は何度も出てくる(笑)。

 豪華絢爛……を謳うわりに、女優陣はあまりキラキラしてない、いぶし銀オンパレード。つか、みんな年齢層高すぎないか……? もう少し若くてキラキラした子をそろえてもよかったんぢゃあ……? たかちゃんの年齢に合わせた?
 ええ、ぶっちゃけたかちゃんもあまり美しくないし。舞台では誰より美しいと思っているが、スクリーンではびみょー。なんつーか、地味な、映えない顔立ちだなぁ。
 ちゃんとしたエンタメ映画だったので、映画クオリティ的にはたかちゃんではなく、もっと美人のスクリーン向け女優使った方がよかったのでは? とか、思ってしまう。

 でもわたしはたかちゃんファンだから、ふつーにおもしろい映画に、たかちゃんが主演として出てくれるのはうれしい。……一般人の反応はわからんが。


「早く強くなって、俺を守ってくれよ」

 いやあ、ひさしぶりにラヴい映画を見た。

 あー、ここで映画の感想を書かなくなって1年近く経つけど、映画はふつーに見てるよ。月3本くらいのペースに落ちちゃったけど。

 タカラヅカの感想書くだけでいっぱいいっぱいで、映画まで手が回らない(笑)。また、感想書きたくなるよーな映画って、少ないしね。

 そんななか、ひっさびさにラヴい映画を見た。
 タカラヅカも裸足で逃げ出すラヴっぷり(笑)。

 平均的サラリーマンの鈴木さん@堤真一は、都心から微妙に離れた新興住宅地に「一戸建てのマイホーム」を持ち、35年ローン(残りはあと20何年!)を背負い、美しい妻@愛華みれとかわいい娘@星井七瀬と仲良く暮らしていた。
 が。
 ある日、かわいい娘が不良高校生・石原@須藤元気に襲われ、大ケガをした。石原は政治家の親を持ち、どんな悪事も表沙汰にはならないインターハイ優勝ボクサー。
 身体の傷だけでなく、心にも深く傷を負った娘のため、鈴木さんは立ち上がる!!
 格闘の達人高校生・朴舜臣@岡田准一に弟子入り、過酷なトレーニングをはじめた。がんばれ、おとーさん!!

 
 鈴木さんと舜臣、ラヴすぎ!!

 見ていて呼吸困難になるかと思った。

 舜臣は過去に心と身体に深い傷を負っており、現在も家族の愛に飢えている、ストイックな少年。
 ぶっきらぼうで、素直じゃない彼の、張りつめ突き放した美しさが秀逸。

 鈴木さんはなさけな〜い中年男。いい人だけど、トホホ感漂うおじさん。
 娘と同じ年の舜臣を師と仰ぎ、本気で「ですます調」で従っているという、なさけないけどある意味寛大かつ公正な人。

 強く美しくクールな、空を舞う鷹のような小柄な高校生と、彼に命令され従う、雑種わんこ(カラダは大きいけど、しっぽ垂れてます)な中年男。

 ……って、この「関係」だけですでに「どこのBL?!」てな萌え設定ですが。

 なさけない中年男ががんばりがんばりがんばりぬき、その覚悟と志を見せ、たくましく成長してゆくにつれ、クールな高校生もそのおっさんに心を開いてゆくのだわ。
 この過程が、すばらしい。
 目眩がするほど、ラヴい。

 強くてかっこよくて隙のまったくない舜臣が、実はどれほどの傷を、飢えを、その心に隠し持っているのか。
 何故彼が、鈴木さんのトレーニングに手を貸したか。彼が、鈴木さんになにを見、なにを求めていたのか。

 それがわかったときに、この物語のタイトルが二重の意味を持つことがわかる。

 舜臣の告白を聞いた鈴木さんが、思わず舜臣に手をさしのべてしまう、その気持ちがわかる。

 いや、あれは手が出るって! 抱きしめたくなるって! 髪をくしゃくしゃっと撫でたくもなるって!

 愛しくて。
 あまりに、愛しくて。

 この欄の冒頭の台詞は、舜臣が自分の過去を告白した際に、鈴木さんに言う台詞。
 誰よりも強い少年が、強くなろうとあがいている父親に言う。

 
 大切なものを守るために、なりふりかまわず努力して、どんなにみっともない姿をさらしても、それでもがんばりつづける鈴木さんに拍手。
 よれよれになりながらも前に進む彼の姿に胸を熱くし、そのわんこっぷりのかわいさに感動し。

 鈴木さんを導くかっこいー舜臣の、「ここまでやるか」な美しさを堪能したあと、実は彼こそがほんとーはものすげーかわいい男だと気づく。
 いちばん強い彼こそが、守ってあげたい、抱きしめてあげたい、いたいけな少年だということに、さらに感動し。

 キャラクタの逆転ぶりに、感動する。

 弱い鈴木と、強すぎる舜臣。
 なさけなくてかわいー男鈴木と、美しすぎる舜臣。
 もの知らずな子どもの鈴木と、叡智にあふれた大人の舜臣。

 なのに、力関係はそのままに、キャラクタの持ち味と精神的立ち位置が、ある意味逆転するんだ。

 父親である鈴木と、父に捨てられた子どもである舜臣。
 子どもを守るために戦う鈴木と、守ってくれる父がいないから自分で戦い続けてきた舜臣。

 父と子ども。
 大人と子ども。

 逆転するキャラクタ。
 それが、すごい。

 なのに、彼らみんな、「男の子たち」というカテゴリで、実は年齢なんか関係ない輝きの中にいるんだよね。

 舜臣も、彼の仲間ゾンビーズの連中も。鈴木さんも。鈴木さんと同じバスで通勤していた中年サラリーマンズも。
 みんなみんな、ただひたすら、あきれるほどに「男の子」なんだ。

 年齢の存在しない男たちの熱さと輝きに、ただただ気持ちよく感動した。

 あー、もー、男の子っていいよなー。

 
 そして、男の子って、恥ずかしいよなー(笑)。
 男が本気で描いた男の友情モノほど、恥ずかしくてラヴいものはない(笑)。

 定番ですが、鈴木さん×舜臣で!!
 うわーん、このふたりでやほひが読みたいぞーっ。夏コミ、本ないかなー。ジャニーズファンじゃなくて、作品ファンの人が描いたモノが読みたいよー。(役者萌えと混同した二次作品は苦手なんだ……でもソレ、探すの超困難……)

 わんこな鈴木さんが、舜臣の心弱いとことかのぞいちゃって、ついうっかり愛しくなって抱いちゃいました、舜臣も愛に飢えてるからついうっかり抱きしめ返しちゃいました。そしたら鈴木さん、ついうっかりブレーキきかなくなって、最後までやっちゃいました。……みたいな話が読みたいなー。
 そのあともちろん気まずくなって、猫背に鞄抱えて視線を逸らす鈴木さんと、ふつーに振る舞ってるけどそんな鈴木さんの態度に内心傷つきまくりの舜臣。……みたいな話が読みたいなー。

 
 あああ、ヅカでだったら、ワタトウで見たいな。と、思う、腐りっぷり。

 鈴木さんがワタさんでー、舜臣がトウコちゃん。
 ああっ、ハマるわっ、ハマりまくるわー。うっとり。

 
 それにしても、腹のたるんだなさけない中年男が堤真一つーのは、無理のあるキャスティングだ。
 かっこよすぎるじゃん。
 ほんとなら、もっとなさけない、ぶさいくなおっさんなんじゃないの?

 ぶさいくなおっさんなんか、スクリーンで見たくないから、堤さんでよかったと思ってるけどさっ。
 ちゃんと彼は、演技で「ダメダメ中年」「カラダたるんでます」を表現してくれたけど。
(ちなみに、隣のスクリーンでは、二枚目堤真一主演の『姑獲鳥の夏』をやってるんだが……)

 そんでもって、いくらなんでも、岡田准一は17歳に見えないぞっ。
 彼、もう24とか5だよね。
 さすがに高校2年生は無理だろ。ちょっと前までは子どもっぽかったからよかったかもしれないが、今の彼はもう、ちゃんと「男の顔」してんじゃん。
 17歳は無理だよ……。

 にしても、舜臣の美しさは素晴らしかった。今までいちばん美しい岡田くんを見た。

 
 わたしも、ダイエットがんばろー、と、汗を流そう、と思った。

 がんばりたい、と思った。

 そんな映画。


話題先行型映画。カンヌ国際映画祭史上最年少の最優秀男優賞、ですか。現実の事件をモチーフにした、ドキュメンタリー・タッチの作品。
 『誰も知らない』、監督・脚本・編集・是枝裕和、出演・柳楽優弥、北浦愛、木村飛影。

 どっかで聞いた名前だなと思っていたら、監督はあの『幻の光』の人だという。
 まだわたしが自分の意志で映画をろくに見ていなかったころ。映画好きのWHITEちゃんに誘われる作品だけを、タイトルも出演者もなにも知らずに見ていたころ。
 やはり、WHITEちゃんに誘われて見に行ったんだ。
 わたしが「モデルの江角マキコが好き」と言っていたのをおぼえていたWHITEちゃんが、「江角マキコ、今度女優デビューするらしいよ。見に行く?」と誘ってくれたんだ。
 なにしろ江角マキコは雑誌の中だけの人。動いて、喋っている姿を見るだけでも興味深い。彼女にあこがれて、彼女が雑誌で着ていたのと同じ服を買ったりしていた(笑)わたしなので、よろこんで見に行きましたよ。

 理由はわからないが、「来る」作品というのがある。
 自分でも説明つかないんだが、魂を揺さぶられてえらいめに遭うモノがある。

 『幻の光』は、そーゆー作品のひとつだった。

 なんでかわかんないけど、後半はぶっちぎりで泣き通した。なにがどう、じゃないけど、なんかずーっと泣いてた。
 新人・江角マキコの演技は微妙で、台詞が少ないのがせめてもの救い、あとはモデルゆえの存在感だけで強引に持っていった、力技な世界なのにね。

 
 そうか、あの『幻の光』の監督か……。
 しかも「痛い」「つらい」映画だと、世間の風評もかしましいし。
 痛いモノは好きだから、たのしみだわー。監督のデビュー作『幻の光』くらい、「来る」映画だといいなっ。

 
 ある街のあるアパートに、4人の子どもが暮らしていた。子どもだけ。母親はてきとーなことを言って新しい男の元にいってしまった。残された4人の子どもたちは、出生届も出されていない、「存在しない子ども」たち。大都会の真ん中の、子どもだけの漂流生活はつづく……。

 「来る」作品ではありませんでした。
 ふつーに平静に見られる。
 周囲の人たちのすすり泣きはすごいぞ。みんな「可哀想なモノ」が大好きだよな。

 それこそ、「ロビンソン・クルーソー」的な「漂流生活モノ」として見たよ。なるほど、そうやって工夫しますか、すり抜けますか。
 もちろん子どもたちが可哀想ではあるんだけど。いろんなテーマを含んだ、観客に「投げかける」映画ではあると思うんだけど。

 可哀想がるだけの映画じゃないと思うんだよなあ。
 どっちかってーと、「投げっぱなし」のモノが多くて、それを受け止め考えることが「おもしろい」映画じゃないかと思う。

 大都会の「漂流」はおもしろいし、子どもたちが大人の庇護も監視もなく自分たちの力だけで生きていく様を見るのもおもしろい。社会と個人、組織とそれに属さないモノの構図、母親と子どもの関係、などなど、おもしろいものがたくさん盛り込まれている。
 宝石入りの砂場にいるみたい。
 お城を造ろうとスコップで砂をいじっていたら、いろんなところから宝石が見つかる。お城を造ることもたのしいが、宝石を探すのもたのしい、みたいな。

 わたしはもとになった事件を知らなかったので、ほんとーにただ「映画」として見たよ。一緒に行ったきんどーさんは、先に事件のことを調べてから見たそうなので、「事件通りになるのかと思って、気が気じゃなかった」そうだ。
 事件通りになるなら、サブタイトルに事件名をつけるとかするんじゃないか?
 先に「ノンフィクションである」と思い込んでしまった場合、それに囚われた見方しかできなくなるんだろうなあ。
「実際の事件はもっと悲惨なの。映画はマシだったからほっとしたわ」
 ……って、そんな感想になっちゃうのか……。

 わたしも、帰宅してから「西巣鴨子供置き去り事件」のことは調べたけれど。
 現実は現実でしかなく、わたしの「フィクション」をたのしむハートとはまったく関係ないモノだった。

 事件の概要と、映画の中の子どもたちのキャラクタと心理展開は、別物でしかないと思うよ。
 『凍てついた明日』が現実のボニー&クライドとまったく別物であったよーに。

 でも世間の人って「史実とチガウ」とか「学校で習ったこととチガウ」とか言うらしいからなあ。
 それはつまり、「知識として先にあるモノに囚われてフィクションを見る」ということだもんなあ。
 いいじゃん、現実とちがったって。そのためのフィクションなんだから。

 
 クライマックスの、「帰りの電車の中の、彼と彼女」には、詩的な美しさを感じた。
 過不足ない、張りつめた、透き通った美しさ。

 
 主役の柳楽優弥はすごく目がいいねー。演技しているのかいないのか、わたしにはわからないが(笑)、この子のリアルな存在がすべてを収束した気がする。
 あとは、母親役のYOU。このキャラでこそ、映画が成立したよね。

 
 余談だけど。
 大河ドラマ『新選組!』で、「山南さんを殺さないで!」って署名活動があったんだって? 友人から聞いて、ウケたんだけど。
 そんな、『冬ソナ』じゃないんだから、署名集めたからってストーリーが変わるわけないじゃん。
 てゆーか。

 山南敬助が切腹するのは史実だってことを、知らない人があたりまえにたくさんいたことに、ウケました。

 すまん、わたし的に常識の範疇だったもんで。
 坂本竜馬暗殺くらい、ポピュラーな話だと思ってた。
 ちがったのか。

「ふつーの人は、そんなこと知らないって」
 と、ダイコに断言されて、反対に感心した。
「ドラマの中の話で、三谷幸喜の創作だろうから、『殺さなくていいじゃん』と思って署名集めたみたいよ。新聞に載ってた」

 「史実とチガウ!」と文句をつける人もいれば、「いくらフィクションでも、最低限揺るがすことのできない史実」さえ知らないで変更を迫る人もいる。

 歴史物(現実をモチーフにしたフィクション)って、おもしろいな。

        
なんかひさしぶりに、升毅の正しい使い方を見た気がする。
 升さんはこーでなくちゃねー、と、その存在のうさんくささのみに感心していた。

 『NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE』 鑑賞。
 見る予定はまったくなかったんだが、映画の日の恐怖。きんどーさんと待ち合わせて某シネコンに足を運ぶと、見る予定だった映画が完売。どうするどうする? 代わりになんか見る? 罪なく笑えそうだから、という理由でチョイス。

 にしても、『誰も知らない』を見に行って、『ハットリくん』を見てしまう人生の急転直下ぶりはどうよ?(笑)

 忍者の服部カンゾウ@香取慎吾は、修行のために江戸……東京へやって来た。そこで最初に会った人を主君とするそーで、うっかり出会ってしまったヘタレ小学生ケンイチ@知念侑季が主になった。
 ケンイチのもとでハットリくんが修行?しているうちに、世間では奇妙な事件が起こっていた。謎の変死と、その陰にうごめく超人……忍者の存在。その真相は……?
 監督・鈴木雅之、出演・香取慎吾、田中麗奈、ゴリ。

 
 ひさしく、「いい人」の升さんしか見てない気がしたからさー。
 升さんって、『沙粧妙子・最後の事件』の怪人・梶浦なのよー。あのうさんくさい役をやってしまう人なのよー(笑)。

 わたしが升毅と最初に会ったのは、近松門左衛門作品をテーマにしたお芝居だった。タイトル忘却。
 WHITEちゃんからチケットを渡されても、自分がなにを観るのかさっぱりわかってなかった。誘われるとなんでもほいほいOKしてしまうタチなので、そーゆーのはよくあることだ。映画や芝居の内容もそりゃ大事だが、わたしにとっては「友だちとデート」「わたしと一緒に観たいと思ってくれた」ってことも大事。誘われたことがうれしくて、芝居のタイトルさえ理解してなかった。
 そのときWHITEちゃんがわたしを誘った理由ははっきりしていた。上演場所が、わたしの家から徒歩5分だったからだ。
「他の人は誘えないよ、こんな場所」
 だそーだ。たしかにな(笑)。市民文化ホールの小ホールなんてところ、地元民だが入ったのは後にも先にもそれ1回こっきりだ。まあさらにもうひとつ、
「アンタ、国文科なんだから近松知ってるでしょ」
 というのも理由だったよーな。たしかにわたしの専攻は近世文学だから、近松も範囲だったけどさー。でもわたしのゼミは「男色大鑑」だったのよー。卒論は「西鶴が愛したホモのカタチ」てなテーマで、ホモの勉強で手一杯、近松はまったく門外漢だったのよー。のよー。のよー。

 しかし、そのときの芝居が、めちゃくちゃおもしろかった。
 全編ギャグとテンポ命の会話で進められていくんだが、実はミステリで、どんでん返しが爽快。ギャグだと思ってスルーしていたころに伏線ばりばり。
 プロットが緻密な話が好きなもんで、この物語には魅了された。相関図とか自力で書いて、何度も思い出しては感心したさ。……パンフレットさえ発売されてなかったんだよなー、あるのはちらし1枚だけ。なんなのこのショボさ。
 その芝居の主役が、升毅だった。今から10年くらい前だろうか。

「おもしろかったわ」
 とわたしが言うとWHITEちゃんはとてもよろこんでくれて、さらに芝居に誘ってくれた。升毅主宰劇団の公演に。

 なにを観たんだっけかな。あのころ升さんのお芝居立て続けに観たんで記憶が混同。
 なんにせよ、わたしは生の升毅を見て、おどろくことになる。

「ええっ、ハンサム?!」

 ものすげー色男ですがなっ。びっくり。

「なにを今さら」
 とWHITEちゃんは言うけれど。
 だってだって、わたしが市民文化ホールで観た升さんは、よぼよぼのじじい役だったじゃない。腰曲がってて顔は皺とシミだらけで。
「……そういえば、そうか」
 素顔の升さんは知らなかった。こんな男前だったの?
 そして升さんの美形ぶりにおどろいたその公演のロビーに、でかでかと貼ってあったさ。「テレビドラマ『沙粧妙子・最後の事件』に出演! 見逃すな!」と。

 ええ、見ましたとも、『沙粧妙子』。愉快なドラマだったわ。
 しかしテレビで見る升さんはくどすぎて、受け付けなかった。
 なんか、存在も演技も浮いてる……怪人役だから、それでいいのか?

 『沙粧妙子』以来、升さんはテレビに出ずっぱりだけど、どれもふつーな役ばっかで、わたし的には不満だった。
 最初に見たのがトリックスターのじじい役だったからなー。そしてテレビで最初に見たのが、怪人・梶浦だったからなー。
 ふつーに「いい人」は物足りない……。

 ……だもんで、ほんっとーにひさびさに、見たい升毅を見た気がした。
 『忍者ハットリくん』の、敵役。
 どこぞの映画のパクリのよーな安直なキャラだとしても、ぜんぜんOK(笑)。
 うさんくさくて、大仰で、二枚目で。
 いいなあ、升毅(笑)。
 こんなうさんくささを、モノにしてしまう個性はいいですよ。
 華のない人がやると、失笑ものの薄っぺらい悪役ですからなっ。

 
 映画自体は「こんなもんー?(語尾上がる)」って感じでした。
 罪なく気軽に見て笑って、それでおしまい。意義は果たしているんじゃないかな。『スマスマ』のコーナーのひとつであってもかまわない程度のノリだとしても。
 わかって見ているので、気にならなかった。
 お約束の嵐で、全体的に「テキトー」な感じもまた、親しみやすくていいんじゃないかと。慎吾がかわいいから、それでいいんだと思う。

     
マッツ・ミケルセン目当てで見に行った、『キング・アーサー』の感想、続き。

 わたしは知らずに見に行ってしまったんだが、この映画はいわゆるアーサー王伝説ではなく、その元となった人たちの物語、だそうだ。

 ローマ時代、ローマ・コーラ社ブリテン支店長のアーサー@クライヴ・オーエンは本社幹部の命令で、任期満了寸前の契約社員たちをなだめすかし、最後の仕事をすることになった。
 彼らのいるブリテン地域はもともとコーラという飲み物に対して懐疑的。「こんなにおいしいんですよ」と宣伝しても、地元のブリテン人たちは耳を貸さない。「コーラなんて飲んだら骨が溶ける。コーラ会社はブリテンから出て行け!」と地元飲料同業組合ウォードからは過激な反発があるし、どうにも販売成績がふるわない。
 そのうえ、ライバル社サクソン・コーラがブリテンをターゲットに決め、猛攻をかけてきていたからたまらない。
 もともと大した売り上げがない土地を守るために、わざわざ莫大な経費を掛けてライバル社と争うのもバカバカしい。ローマ・コーラ社はブリテン撤退を決めた。
 なまじ大がかりなプロジェクトとしてブリテンに支店を出したため、撤退にはいろいろ雑事があった。それをやりくりしなければならないのが、支店長アーサーの仕事だった。
 アーサーはブリテン出身のローマ・コーラ社員だったので、コーラを必要としないブリテン人と、コーラを売る目的の社員としての板挟みになっていた。
 ローマ・コーラ社はブリテンを去るが、そうするとはるかに過激で販路拡大のために手段を選ばないサクソン・コーラがブリテンを蹂躙するのは目に見えている。地元同業組合ウォードは叩きつぶされるだろう。ウォードの美女組合員グウィネヴィア@キーラ・ナイトレイとの出逢いもきっかけのひとつとなり、アーサーはブリテンのために立ち上がった。
 ムカつく上司に辞表を叩きつけ、辞職したのだ。大企業の恩恵と束縛を断ち切り、ひとりの男として生き方を決める。「コーラなんかいらない! その地域にはその地域にしかない飲み物があるんだ」……同業組合と共に、大手サクソン・コーラと戦うのだ!

 いやべつに、コーラを例に挙げたことに他意はないです。
 アーサー支店長があまりに本社のやり方と大企業ってもんと、地元住民との軋轢に苦労してるもんでさー。
 契約社員でしかない円卓の騎士たちは言いたいこと言ってるしねえ。ローマ・コーラ社から給料もらってはいるけれど、会社のことは大嫌いだから、どんなにアーサー個人を好きでも「どーせアンタは正社員だしな。契約社員の気持ちなんかわかんねーさ」って。
 ああ、中間管理職のつらさ。
 上は横暴だし、下は権利ばかり主張するし。
 コーラなんかなくてもブリテンの人々は何百年機嫌良く生きてきてるんだ。なのによそからやってきて、「こんなにおいしいんですよ、これを飲まないと許しませんよ(にっこり)」とやられても、そんなの余計なお世話だし。アーサーだって知ってるし。なのに、アーサーはコーラを売る側の人間で。本社のやり方はひどいしまちがってるし。サラリーマンは辛いよ。

 ……って物語だと思って見てたんだけど、やっぱチガウんですかね。

 「人間アーサー」を描いた物語とするには、あまりに説明不足。
 何故ランスロット@ヨアン・グリフィズの少年時代からはじまるの? 彼を視点とするなら、彼とアーサーの関係をしっかり描かないとわけわかんないよ。しかもこの視点、途中であっさり死ぬし。最後まで見守ってこその視点だろうが。
 円卓の騎士とアーサーの関係がまったく描かれていないもんだから、薄いのなんのって。アーサーはただの小者、情けない中間管理職にしか見えない。

 戦闘シーンがかっこよくないことも、爽快感を下げているよなあ。
 主人公たちが強く見えないの。なまじ何人もいるから、個性を描き切れていない分埋没しちゃって。
 おもしろかったのは氷原のシーンだけだなんて。

 アーサー役の俳優は、わたしには宇梶剛士に見えて仕方なかったんだよね……でもって宇梶剛士っておおむねコメディ俳優だからさ……濃さとくどさで笑いを取る人だし……うわーん、見ててきついよーっ。
 宇梶剛士が苦悩してるーっ、宇梶剛士がマジで二枚目してるーっ、こそばゆいよーっ。
 てゆーか、顔が宇梶剛士だということは置いておいても、この地味で華のない人が何故英雄役なの? 華がないとセンターはつとまらないんだということを実感した。

 まあ、マッツ・ミケルセンを見られたからそれでいいか。作品に多くは望むまい。
 ミケルセンはトリスタン役でした。おお。いい役じゃないですかー! 無口で鷹がお友だちですよ。顔に入れ墨なんかしちゃってますよ。
 前に見た役がヘタレよろめき中年男(笑)だったので、コスプレしてアクションしているのが新鮮で新鮮で。
 このシワの目立つ地味な顔が、わたしはつくづく好みだと思いました。ああ、いい男だ……。

 ランスロット役の人はマジで美形で、目の保養でした。
 もっといい役だとよかったのにね。ポスターはかっこいいのにね。
 だってこのランスときたら、アーサーのヒステリー妻でしかなかったですよ。なにかっちゅーと「どーゆーことよ、アタシ聞いてないわっ。そんなだからアナタはダメなのよっ」みたいにきーきー言ってばかり。アーサーとランスは倦怠期の夫婦みたいでした……痴話ゲンカばっかり。
 言葉の少ない不器用な夫に、押しの強いヒステリー妻。……とほほな関係だな。
 ランスとアーサーの関係が描かれていないために、このランスの空回りぶりがまた、ふたりの男前度を下げるのだった……。
 萌えないわ。こんなの。

 ネタはいいのに脚本・演出で失敗した作品、でFA?

       
ここ数日、書きためてあった映画感想をUPしていってます。
 タカラヅカを語っていたら、映画の感想書く日記の欄がなくて(笑)。
 つーことで、最新の日付でUPされていても、見たのはずいぶん前だし、書いたのもけっこう前だったりします。
 だから文中に出てくることがらも、びみょーに古かったりします。今ごろ「トド様の個展」とか出てきたりねー(笑)。ふつーの日なのに「今日は映画の日」と書いていたりねー。
 まあ、日付のことは気にしないでやって下さい。日記のネタがないとき用に書きためてあった分だから。

 ……日記のネタは、いくらでもあるんだけど。いい加減、せっかく書いた映画感想が腐りそうだったもんでさー。ちょっくら、ヅカ語りは休止してここ3日ばかり映画な日々。

 ヅカ語りは明日以降再開かな。またしても『花供養』観に行くので(ええ、ファンですから・笑)。

          ☆

 あるときから、「マッツ・ミケルセン」という単語で検索して、わたしの日記に辿り着く人が多くなった。

 ?

 マッツ・ミケルセンといえば、眼鏡白衣泣き顔という3コンボをやってのけたデンマークの萌え俳優でしょう?
 デンマークでは有名なのかもしんないが、日本での知名度はいまいちの人じゃなかったっけ?
 なんでこんな、彼の名前で検索する人がたくさんいるの?

 と、思っていたら。

 そうか、有名アメリカ映画に出演したせいなんだね。
 検索元をたどって知りました。
 それならわたしも見に行きましょう。多くの人がマッツ・ミケルセンに興味を持ったその映画を。

 てことで、見に行きました『キング・アーサー』
 監督アントワン・フークワ、出演クライヴ・オーエン、キーラ・ナイトレイ。

 すみません、わたしにとって「アーサー王」というと、“希望よ光 遙かな空よ”で、“僕は叫ぶ おっおー 僕は叫ぶ おっおー”とかになっちゃうんですよ……。
 なんでカラオケには『白馬の王子』しか入ってないんすかね? わたしは『円卓の騎士物語・燃えろアーサー』の方が絶対好きです。かっこいいじゃん。ドラマチックじゃん。主題歌『希望よそれは』の“燃えるたてがみ 風切る翼”のフレーズとか、子ども心に「かっこいー歌詞だ」と思ってたんだが。記憶だけで書いてるんで、まちがっておぼえてるかもしんないですが(なにしろ4半世紀前のアニメだ)。
 当時はトリスタンが好きだったけど(そんな小学生……)、今思えばランスロットがいいかもなあ、と思う。あーゆー堅苦しい男、今のわたしなら好きだわ絶対。どのみちアーサーに興味はなかったな(そんな小学生……)。
 お昼のワイドショーで挿入歌を熱唱する神谷明の顔を見て、ショックを受けたのも忘れられない想い出だ……。

 アニメの『アーサー王』世代なもので、中学生になってから本を読んで、円卓の騎士のおっさんぶりにショックを受けたおぼえがある。
 アニメは全員少年もしくは青年だったからさ……ヒゲ男なんかひとりもいなかったし。
 なんかむしょーにアニメが見たくなってきたな……(笑)。
 
 という、あくまでも子ども時代の記憶だけ、映画に関しての予備知識なんぞ予告編以外になにもナシ、マッツ・ミケルセンはなんの役で出てるんだろー、まあ見りゃわかることは調べるまでもなかんべー、という軽い気持ちで見に行きました。

 これ、いわゆる「アーサー王伝説」とは別モンやったんか……。

 知らなかった……。
 予告編見てても、気づかなかったよ。
 だって少年アーサーがエクスカリバー抜いてたし! 救世主してたし! ギネビア王妃(わたしの読んだ本の表記がコレだったので、刷り込まれている)が弓かまえてるのは変だと思ったけど、それくらいのサービスはアリかと思ってたし!

 マーリンが魔法使いじゃない! エクスカリバーがふつーの剣だ! てゆーか円卓の騎士が人数少ない! さみしい! つーかアーサー地味過ぎ!! 中間管理職の哀愁背負いすぎ!!

 英雄譚を見るつもりで行ったら、ものすごーくびんぼくさいサラリーマン派閥苦労物語を見せられてしまった……。

 
 文字数足りないので、次の欄へ続く。

        
素朴な疑問。
 何故わたしの見た映画には、全編字幕がついていたのでしょう?

 しかも、台詞だけじゃないのよ?
 ト書きまで全部ついてたの。
 (ドアを開ける音)とか(バルブを閉める音)とかまで、( )つきで全部字幕が出るの。
 文字放送? 耳の不自由な人がわかるように、音関連は全部文字で説明?

 変だなと思ったし、目障りで仕方なかったんだけど、なんの説明もなかったので「そういう映画なんだ」と思って我慢した。

 でも、帰ってから調べてみたら、他の人が見た映画にはそんなものついてなかったって言うし!!
 なんで字幕付きだったの?!
 台詞だけならまだしも、ト書きまで!! 字幕のないときはほとんどない状態だし、絵が売りのアニメーション映画なのに、字幕でせっかくの絵が隠れる。

 ものすっげー邪魔。

 はじめて見た。文字放送映画。
 わかってたら、見なかった……。

 字幕が邪魔で気が散ってしまったことも、関係していると思う。いくら見ないでおこう、気にしないでおこう、と思っても、そこに読める言語で字幕があるとつい見てしまう。そして言葉の持つ意味にアタマの何割かが向いてしまう。
 本当の意味で、映画に集中できていなかったかもしれない。

 あまり、おもしろくなかった……。

 絵はすごかった。
 字幕でいつも絵が隠れていたけど、それでもやっぱり絵はすごくきれいで、見ていてたのしかった。

 でも、それだけだったよーな。

 『スチームボーイ』、監督・脚本・大友克洋、声の出演・鈴木杏、小西真奈美、中村嘉葎雄。

 質問。
 この映画の主人公は、誰ですか?


 レイ@鈴木杏が主役かと思って見ていたら、物語に入りそびれました……。
 というのもこの子、いてもいなくても、大差ないんですわ、物語的に。

 少年主役の冒険活劇で、主人公がいなくても大差ない、ってどういうことよ?!

 びっくりしたなー、もー。
 まさかこんな根本的なおどろきがあるとは思わなかった。

 レイの父と祖父が、壮大な親子ゲンカしているだけで、はじまり終わるのですよ。
 あのなじーちゃん、とーちゃん、そーゆーことは自分ちでやれ。
 ロンドン破壊して大量殺人してまでするな。な?

 じじいとおやじの親子ゲンカが主なストーリーなので、主役のはずのレイの活躍する余地がないのです。
 てゆーか、レイ、いなくてもいいし。
 じじいがもっと元気なら、自分で全部やってたでしょう。じじいがじじいで動けないから、彼のマリオネットとしてレイが走り回っていただけで。

 レイには個性も意志も目的もほとんどないし。

 なにがしたいんだお前……。いつもまきこまれ流されているだけの薄い男の子、でも気が強くて勇敢。ってすごい矛盾だなあ。ふつー気が強くて勇敢なら、ただ流されているだけじゃないだろうし、流されているだけなら内気でちょっと臆病な男の子、とかになりそうなもんだし。
 勇敢な男の子なら彼のまっすぐさで盛り上げ、臆病な男の子なら彼の成長と勇気とで盛り上げられると思うんだけど。
 なにしろ勇敢なのに流されているだけなので、盛り上がらないし、成長もしない。
 画面は派手に破壊の限りがつくされているのに、主人公に精神的な変化がまったくないままなので、盛り上がらないったらもー。

 世界設定だけ凝ったクソゲーみたいに映画だ(笑)。
 ゲームシステムはおざなり。でも画面は凝りまくり。設定資料集とスタッフの鼻息の荒い解説書だけ充実。みたいな。

 どれだけ世界設定が凝っていても、そこに生きる人たちが魅力的でないと、世界も色褪せるんだよなー。
 その見本みたいな映画。

 冒険活劇の主人公ならば、やはり彼の意志と行動で物語を回していくのが基本でしょう。じじいとおやじにテーマをだらだら台詞で語らせてないで、レイがどんな男の子で、なにを考えなにをし、彼の意志と行動でなにが変わっていくかに焦点を当てて話を作ろうよ。じじいとおやじはあくまでも脇役なんだからさ。

 それから、プロの声優を使おうよ……。たのむよ……。
 魅力のないキャラクタが、棒読みのせいでさらにつまらない人たちになってるよ。
 鈴木杏ちゃん、もっとうまいと思ってたんだけどな。やっぱり微妙に下手くそ。小西真奈美の方がキャラが変わっていたせいもあってか、うまく聞こえたよ。

 
 とにかく、絵はすばらしい。
 わたしは絵を見るためだけにお金を出したと思おう。
 ……だからこそ、わけのわかんねー字幕で絵が隠れていたことがくやしい。ト書きまで出すなー!!

     
 わたしは子どもが好きではない。ガキよりはじじいの方が好きだ。
 ついでに、子どもを主役格に据えた物語も好きではない。大人の視点で子どもを美化したり勝手な理想や郷愁を押しつけたりして描いている可能性が高く、気持ち悪いからだ。

 なのに何故、『ぼくセザール 10歳半 1m39cm』を見に行ったか。

 主人公役の子が、きりやんに似ていたから。

 それだけか。
 それだけなのか、自分?!

 チビでちょっとデブでこまっしゃくれた男の子、セザール@ジュール・シトリュク。
 1m39cmの男の子の目線で語られる物語。

 ……っていってもなあ。
 1m39cm?
 わたし、10歳半のときすでに160cm近くあったから、そんな目線おぼえてねーよ。
 
 監督リシャール・ベリ、出演ジュール・シトリュク、マリア・ド・メディルシュ、ジャン=フィリプ・エコフェ。

 多感な小学生セザール@ジュール・シトリュクはもちろんのことだが小学生の世界で生きている。大人の世界はよくわからないし、大人もセザールを大人の世界からつまはじきにする。
 おかげでセザールは父@ジャ=フィリップ・エコフェの仕事を誤解し、「パパは刑務所に入った」と思い込んでしまう。
 パパが受刑囚、というとんでもない嘘をついた子ども、としてセザールの子ども社会での立場も大人からの信頼も地に落ちた。……悪いのは、子どもだからって軽んじて、同じ目線に降りてきてコミュニケーションを取らないパパなのに。
 折しも、セザールの親友モルガン@マボ・クヤテが離婚のため一度も会ったことのない父を捜しにロンドンまで行くという。元ロンドン在住だった学校一の美少女サラ@ジョゼフィーヌ・べリもソレにつきあうという。サラに片想い中のセザールとしては、ふたりだけで旅行に行かせるなんてとんでもない! モルガンは背が高くてかっこいい男の子だし! ただでさえモルガンとサラは美男美女でお似合いだし!
 パパの顔を見たくないセザールは、パパに会いたいモルガンと、複雑な家庭に育ったサラと3人で国境を越える。大人たちを出し抜いて。

 
 この映画がわざわざ日本に入ってきたのって、ひとえに、子どもたちがかわいいからだろうなあ。
 悪いが、それ以上はナニもない映画だった。
 テーマはありふれていてストーリーも起伏に乏しい。テンポがいまいちでユーモアも薄い。かといってシリアスでもなく、ものすごーい感動があるわけでなく、どっちかってーと淡々と進む。
 セザールの一人称のナレーションに頼り切った作り。ナレーションの背伸びした「子どもの理屈」がなかったら、とてもじゃないが見ていられない。てかナレーション多すぎ。
 全体の何割がナレーションなんだ?? まるでラジオドラマのよーだ。
 もしも日本語吹き替えでテレビで放送したりするなら、声優を使わずに本物の子どもに声をやらせてくれ。この映画に関しては、本物の子どもを使わなきゃダメだ。プロの声優がどれほど上手に子どもの演技をしても、ダメ。
 だって、子どもがかわいい以外に魅力がないんだもの。
 演技が下手でもなんでもいいから、本物の子どもに喋らせなきゃダメだー。

 画面はきれいでおしゃれ。セザールの目線1m39cmにこだわったカメラアングルはうまいと思う。
 でも、視覚だけだもんなあ、たのしいのは。
 セザールかわいー、モルガンかっこいー、サラ美人ー。……これだけかい。

 子どもが好きな人にはいいと思う。
 わたしだって、これが本物の猫がいっぱい出てきて、ストーリーなんかあんまりないけど猫がとにかくかわいい、っていうなら、それはそれでたのしんで見たと思う。猫が動いているってだけでうれしいから。
 それと同じノリだな。
 好きなモノが出てかわいいことをしている、というだけで幸福になれる人向き。

 ああそして、やっぱりセザールってば、きりやんに似てるー。
 きりやんが子どもだったらこんな感じかなぁ。
 ……という観点では、たのしめました。

    
わたしは安い女なので、誘われるとよろこんでほいほいついていく。もちろん、好きな人限定。苦手な人に誘われてものらりくらり断るが、好きな人に誘われるとなんでもOK、即OK。金はないが、好奇心と時間だけはいくらでも持ち合わせがある。

 とゆーことで、友人のきんどーさんに誘われ、ほいほいOKした。
 タイ映画『マッハ!』を一緒に見に行くことを。

 ………………これほど、長く感じられた映画もひさしぶりだ。『ケイティ』以来だな、こりゃ(2003年11月18日の日記参照)。

 わたしはその日、父の病院とトド様の個展とに行く予定だったので、気が気じゃなかったよ。
 この映画、何時間あるの? アクション映画だし、てっきり2時間ぐらいだと思って入ったけど、実は3時間以上ある? 3時間半とか? うわ、病院閉まっちゃうよ、個展終わっちゃうよ〜〜!!

 映画館の中で携帯電話などの液晶画面を見るのはルール違反。破っている人がけっこうな数いるとしても、わたしが破っていいわけがない。ああでも、時計が見たい、液晶画面が見たい〜〜。(もちろん、見たりしません。ルール遵守)

 と、プレッシャーまで感じてしまった、長い長い映画。
 実際は108分、1時間48分の映画でした。倍以上の長さに感じたよ……遠い目……。

 見終わって映画館を出るときに、きんどーさんが乾いた笑いと共に言った。

「女の子の見る映画じゃなかったね」

 同感です(笑)。

 さて、この『マッハ!』という映画。
 売りは、

1.CGを使いません
2.ワイヤーを使いません
3.スタントマンを使いません
4.早回しを使いません
5.最強の格闘技ムエタイを使います

 だそうです。
 つまり、人件費の安い国で、人件費と気合いだけで作った金のかかってない映画なんだろーなー、と。宣伝を見たときに思いましたよ。
 監督プラッチャヤー・ピンゲーオ、出演トニー・ジャー、ペットターイ・ウォンカムラオ。

 ムエタイ修行中の純朴青年ティン@トニー・ジャーは、盗まれた村の神像の首を探し、大都会バンコクへやってきた。神像の首を探すうちに、なんだかんだとマフィアと戦うハメに。さあ、無事に神様の首を持って村へ帰れるかなっ。……というだけの物語に、えんえんえんえんえんえんえんえんつづくアクション・シーン。
 てゆーか、アクションの合間にストーリーがある感じかな。

  
 べつに、それほどおもしろくないわけじゃない。
 『ケイティ』よりはおもしろいんじゃないかな。サスペンス映画とちがってこちらは勧善懲悪単純明快アクション映画。悪役はとことん悪で、正義は勝つ。起承転結お約束、なにもかもワンパターンで父息子ネタや友情ネタでほろりとさせてみたりと、とにかくストーリー全部予想通りにしか進まないんだけど、そんなことは見る前からわかってるからかまわない。
 どこがどう悪いわけではなく、ただのワンパターン・アクション映画でしかないだけなのに、なんだってこんなに退屈なんだろう。
 わたしはお約束が大好きだし、エンタメらしいエンタメは大好きだ。
 なのに、このお約束エンタメ映画が、退屈。

 演出ですか。
 演出がダサイからですか。
 ……それにつきますか……。

 わたしにアクション・シーンだの格闘シーンだのの善し悪しはわかりません。
 実際、全部本物だというトニー・ジャーのアクションはものすごかったです。うわ、痛そう。うわ、絶対コレ、ケガ人出てるよね。うわー、人間ってこんなことまでできるんだー。ほえー。……てのは、終始ありました。
 が。
 人間は、飽きるのだ。
 同じテンションのアクションばっか見せられてたら、盛り下がっていくって。
 しかも、角度を変えてリプレイしまくりだし。飽きてくださいと言わんばかりのサービス精神。
 ストーリーが単純なんだから、せめて演出はひとひねりしようよ……。

 アクションが売りだから、不必要なくらいアクション・シーンがある。
 ありえねー、ってくらい、派手にどたばたしている。
 なのにそれは、どうにも突き抜けていない。
 中途半端なんだよな。やるならやるで、「ここまでやるか!」と「映画として」おどろくぐらいはじけてくれないと。
 「生身でここまでやるか!」というおどろきはあるんだけど。「映画として」は、大しておどろきがないのな。
 だから、せっかくの「生身でここまでやるのか!」も活きてこない。最初はびっくりするけど、どんどん飽きて盛り下がってくる。

 同じ話、同じアクションで、もっとおもしろい映画にできただろうに。生身のアクション以外見るとこない、なんて映画にはせずにさ。
 テンポの悪さは致命的だ。クライマックスの爽快感のなさも、センス悪。

 生身のアクションを見るだけでわくわくできる男性向け映画なんだろーなー。
 「映画」としてはかなりやばいレベルだコレ(笑)。

 映画館はけっこう混んでいたんだが(平日に8割の入りは立派だろ)、爆睡率と途中退場率の高さが目についた。てゆーかみんな、せめて最後まで見ようよー(笑)。

 主演のトニー・ジャー君は濃い目のサル顔で、織田裕二に似てました。
 てゆーか織田君がアッチ系の顔なんだなと再確認。うん、サル属オトコマエ科って感じでいい顔だったよ。
 これで彼の相棒役がもー少し男前か、あるいは色気があればたのしかったのにな。画面に美も色気もなにもなく(ヒロインの扱いも中途半端でどーしよーもないんだコレが)、淋しいことでしたよ。

      
 映画の感想、続けて書いておこう。……つっても、あんまりため込みすぎて、すでにわけわかんなくなりつつあるんだけど。

 日比谷シャンテシネで行われた「第26回 ぴあフィルムフェスティバル」とゆーのを、1回だけ見ました。
 コミケで同人誌を買うノリで、プロ予備軍映画監督作品を見てみよう、と。いちおーふるいにかけられたあとの作品だから、ちゃぶ台を返したくなるよーな駄作はないだろうし。
 ……東宝劇場で『スサノオ』の当日券に並んだあと、幕が上がるまでの間に、ちょーどよい上映時間だったから、なんて単純な理由だけではありませんてば(笑)。

 わたしが見たのは、『かりんとうブルース』監督・川西良子(24歳)と、『新しい予感』監督・浅野晋康(25歳)の2作品。ああ、若いっていいわねえ。

 「ぴあフィルムフェスティバル」っつーのがどういうものなのか、いまいちわかってなかったんで、「どんなもんじゃらほい」と映画館に入ったわけなんだけど。

 客席、さむっ。

 ガラガラでした。いやはや。
 平日の午前中だから仕方ないけど。……それにしても、そーゆーもんなのか。

 そして、思った通り、客席、関係者率高すぎっ。

 ほんとーになんの関係もない、純粋な客は何人いたんでしょう……わたしひとりでないことを祈るばかり。
 制作者や出演者の友人知人だけでなく、映画や芝居に関係していない、ほんとーにただの素人客って、わたしの他にいたんだろうか……。地方開催の小さな同人誌即売会みたいに、お客は書き手ばかり、みたいな感じ……サークル参加者が同時にお客でもある、つーか。
 
 わたしひとり場違いじゃないかい? と居心地悪さも感じつつ、それでも鑑賞、わたしはただの映画好き。

 1本目は『かりんとうブルース』。
 舞台は1軒のおんぼろアパート。味のあるおばあちゃんが大家さん。そこに住んでいるミュージカル女優志望の女の子と、不倫女子大生のそれぞれの人生と物語。R−15指定がついてたのは、こっちの映画かな? 女子大生の女体盛りがあったぞ(笑)。

 なんつーか、「ああ、キタキタ」と思った。
 わたしは今、たしかに同人誌即売会にいるんだな、と。
 商業作品が販売されている書店ではなく、アマチュアの書き手さんが自費出版している同人誌の、即売会。
 商業ベースにのっていないからこそ制約なく自由に才能をほとばしらせているんだろーけど、とどのつまり「こりゃわざわざ出版社が金を出して商品にしようとは思わないわ」と思えるよーな、そんな同人誌を読んだ気分。

 興味深くはあるけど、ちーっともおもしろくないんだわ。

 コレを「売れ」と言われたらわたし、途方に暮れるなあ。一般視聴者はコレを求めてないもんなあ。
 いっそ一般人お断りの純文学路線なら、「わからない人が低俗なのよ」と高尚ぶりたい人をターゲットにした宣伝方法もあるだろうけど、そこまでも行ってないしなあ。
 半端にカジュアルで、半端に好き勝手。
 作者が「おもしろい」と思っているものを、他の人も「おもしろい」と思うかどうか、客観性に欠けているというか。もしくは、他の人に「おもしろい」と思わせるほど技量が足りていないというか。

 創造者なのだから、作者が面白いと思うモノ・書きたいモノを描けばいい。
 だけどわたしなんかは俗物だから、作者ひとりがたのしいモノより、より多くの人がたのしいと思うモノの方が好き。そーゆースタンスがある作品が好き。
 てゆーか、この作者はどちらの方向を目指しているのかなあ。わかる人だけがわかればそれでいい路線ってやつかな? 同人誌にはありがちなやつ。きっと琴線に触れる人には、とても素敵な作品になるんだろうと思う。
 残念ながら、わたしの琴線にはかすらなかった。

 
 1本目がソレだったので、わたしも耐性がついた。
 そうか、ここは同人誌即売会なんだ。プロじゃない、ってことは、客観性とかエンタメ性とかは関係ない場合があるんだ。ネタ一発の「ちょっといいじゃん」みたいな作品が「作品」として上映されちゃう場所なんだ。

 それをわかったうえで、たのしもう。

 と思った矢先の2本目、『新しい予感』。
 「少年バット」(笑)を思い出させる通り魔殺人事件から物語ははじまり、ダメ男のヘタレ恋の告白(大阪弁がちと寒い)、職業=空き巣・住居=車のこまったちゃんな男ふたり(片割れが告白していたダメ男)と、なんか泥沼な恋愛模様の女子大生が出逢い、ふつーにありそでなさそな彼らの物語が転がり出す。

 ……ええ?
 これって、同人誌?

 ふつーに、おもしろいんですけど。

 てゆーか、おもしろかった。
 かわいくて、ちょっぴりせつなくて、ちとテーマ全開だったりして(笑)、起承転結きちんと計算されてクライマックス盛り上がって、未来につながる気持ちのいいハッピーエンド。

 3人の主人公たち、みんな好き。それぞれかわいい。

 わかりやすいエンタメ映画。テーマの前向きさとか、基本となる物語のベースがほんとに「お約束」の安定感がある。

 わたし、エンタメの基本は、見終わったあとに「ああ、おもしろかった。わたしもがんばって生きるぞー」と思わせてくれるものだと思ってる。アンハッピーだろうと暗かろうと、ちゃんとエンタメしていたら、見終わったあとはそう思えるから。
 この『新しい予感』という作品は、ちゃんとそう思わせてくれた。
 うまい作品だと思う。いちいち小技が利いている。作者の人、アタマいいんだー、って感じ。感性云々より、「アタマいいんだろうな」と思った(笑)。そーゆー作り方。作者……つーか監督、25歳かぁ、すごいなー。この映画撮ったのはもっと前だろうし、そんなに若くして、これだけの技量があるんだ。そーだよなあ、オギーだって『凍てついた明日』を演出したときはまだ20代半ばとかだったんだよねえ、才能はトシじゃないよねえ。

 『かりんとうブルース』も『新しい予感』も、根っこにあるテーマは同じだと思う。
 「それでも、がんばって歩いていこうよ」てな。
 それでも、ってのが、ポイント。
 人生いろいろ、トラブル、アクシデントいろいろ、傷も痛みもいろいろ。それら全部ひっくるめて風呂敷で包んでよいしょっと背負って、ちょっとよろめいて、なんとか踏ん張って、歩き出す。前へ。
 それでも、前へ。

 エンタメというか、世の創作物の大半はそーゆーもんだ。お約束の中のお約束、基本の中の基本。
 問題は、その規定演技を、どう組み立て、演出するか。

 『新しい予感』がおもしろかったのは、その基本軸を、「見ているお客が気持ちいいように」過不足なく飾り立ててあったからだろう。
 通り魔殺人、ストーカー、ピッキング、自殺未遂、ヤクザ、という見た目に派手な要素を使い、だけどえげつなくはせず、風が通るくらいの密度で「青春」を描く。普遍的なものを、現代感覚で描く。

 なるほどなー。
 この2本をつづけて見たおかげで、大変勉強になりました。
 商業作品じゃないからこそ、よりテキストとしてわたしの血肉になる感じ。
 他のエントリー作品も見てみたかったわ、受賞結果の出る前に。

 この2作品は、フェスティバルの各賞にまったく入りませんでした。
 そんなもんなんだー。

 今度大阪でフェスティバルが開催されるので、グランプリ受賞作品ぐらいは見に行くかな〜。

        
「コレ、見に行ったの」

 と、人に言うと失笑される映画というものがある。
 最近では『マッハ!』を見に行ったと言ったら、あちこちで失笑された(笑)。そーよね、笑うしかないよねー、あんなもんお金出して見に行ったとか言われたら。

 人に言うと失笑される映画、『花咲ける騎士道』を見ました。『白いカラス』とハシゴするタイトルがコレかい(笑)、というセルフツッコミつきで。

 監督ジェラール・クラヴジック、製作・脚本リュック・べッソン、出演ヴァンサン・ペレーズ、ペネロペ・クルス。

 ファンファン大佐@岡田真澄の名前の由来となった美男子俳優ジェラール・フィリップの代表作『ファンファン・ラ・チューリップ』のリメイク作。邦題は半世紀前と同じ。
 とはいえ、そんな昔の作品、まったく知りませんとも(笑)。

 わたしがこの映画を見に行った理由はただひとつ、タカラヅカファンだからです。

 ははははは。
 タカラヅカで上演OKだよコレ。
 バカバカしくも華麗なコスプレ・アクション・ラヴコメ。

 18世紀のフランス。戦争真っ直中っていうか、そもそもなんで戦争やってんのか、誰もわかってないんぢゃねーかってくらいそれは日常。
 ひたむきな下半身と都合のいい舌と軽い人格、そしてすばらしい美貌を神から授かったプレイボーイのファンファン@ヴァンサン・ペレーズは、手を付けまくった女たちから逃げるために、軍隊へ志願する。おりしも彼は、ジプシーの占い師アドリーヌ@ペネロペ・クルスから「王女と結ばれる運命」と予言されていた。
 アドリーヌは軍の徴兵官の娘で、兵隊を集めるために嘘の占いをしていただけなんだけど、ファンファンはすっかりその気。そして偶然、森でポンパドール夫人と王女を助けることになり……。

 
 のーみそを回転させる必要はありません。
 深く考えず、お伽噺を見るノリで、目でだけたのしみましょう。
 コスプレがすてきで、アクションがにぎやかで、美男美女ががちゃがちゃやってるので、気楽に笑いたいときには最適。

 この映画を見ながら、ひどくなつかしかったのは、昔のジャッキー・チェンの映画を見ているようだったから。
 『プロジェクトA』とかジャッキー全盛期の、あのノリ。
 う・わー。なっつかしー。昭和時代のかほりだー。
 でも、ジャッキー映画より画面全部美しいから、イイ(笑)。

 登場人物、バカばっか。
 ついでに情緒もナシ。
 ディズニー・アニメのようにわかりやすいキャラ立て、お約束の演技、展開、オチ。
 いいですなあ、ここいうの(笑)。

 
 ここまで大劇場向けの作品を、映画館で見られるとは。
 ストーリーはシンプルなのに登場人物が多いので、大劇向きだよほんと。軍服もドレスも宮廷服もなんでもござれだし。
 いくらでも脚色できる隙間だらけだし。

 今のヅカの布陣でなら、やはり星組で観たいっすよ。

 ファンファン@ワタルくん!!
 バカで本能しかなくて、男前で女にだらしなくて。めちゃくちゃ強くてかっこよくて。
 アドリーヌ@檀ちゃん!!
 かっこいー美女。男装もしちゃいます。ドレスも着ちゃいます。アホ男ファンファンに舌打ちしつつ惹かれつつ。

 2番手男役の役は、ファンファンを助ける男あたりを二枚目リメイクして相棒にするか、あるいは敵の仮面の男をヅカらしい二枚目悪役に色を付けるかすればヨシ。

 兵士たちを若手の美形男の子たちに個性豊かに演じさせて、たのしげにわいわいやれば目にもたのしいだろーなー。
 別格女役のポンパドール夫人(男役がやってもいいな)、若手美形娘役の王女、それからファンファンを追いかける女たちで、娘役も花盛りに割り振って。

 フランス王とその側近たちも、巧者が演じればオイシイ役になるだろうし。

 …………ただ、Myダーリンのケロちゃんは、この布陣だとろくな役にならない気がする…………。きっとすごいバカな役に……。

    
 まあなんにせよ、罪なくたのしい映画でした。
 くだらないと言えば、その通りなんだけどねー。「見てきた」と言ったら失笑されるのも、わかるんだけどねー。

 あ。
 女性陣のおっぱいはすばらしかったです。ガイジンはああでなきゃねー。子どものころは、ガイジンさんはみんな、あんなおっぱいなんだと思っていた、その通りのお椀型のおっぱいです。
 ハリウッド女優のぺたんこの胸を見慣れていると、なんか新鮮なフランス映画(笑)。

     
愛する者を殺してまで、守りたかった秘密。

 実際に見てからものすっげー時間が経ってしまってるけど、感想書く余裕がなかったもんでな(ヅカの話ばっかしてるから・笑)。

 『白いカラス』、監督ロバート・ベントン、出演ニコール・キッドマン、アンソニー・ホプキンス、エド・ハリス。

 正直わたし、アンソニー・ホプキンス好きやないんやけどな……。原作のレクター博士@羊たちの沈黙他を好きで、映画のレクター博士@アンソニー・ホプキンスはあまりにもMyイメージとかけはなれすぎていて。その関連でどうも、苦手感がある。
 その苦手俳優のベッドシーン有り映画を見に行くあたり、チャレンジャーだよなー。

 それでも、「痛い系」の臭いを嗅ぎつけて、行ってきました。

  
 コールマン・シルク@アンソニー・ホプキンスは黒人差別発言を批判され、辞職に追い込まれてしまった大学教授。彼は作家のネイサン・ザッカーマン@ゲイリー・シニーズの自宅に襲撃をかけ、自分の辞職騒ぎを本にしてくれと依頼する。とーぜんネイサンは断るが、2人の間には不思議な友情が芽生えていった。しばらくして、コールマンにはフォーニア@ニコール・キッドマンという若い恋人が出来る。フォーニアは不幸のデパートメントストアってな生い立ちを持つ美女。だがコールマンも実は、負けてはいないかなしい秘密があった……。

 
 この映画もまた、予告が喋りすぎ。
 いちばんのクライマックスを、先に予告や広告媒体で全部見せている。
 真犯人の名前を先に見せられてしまったミステリを見ているよーだったよ……。

 たしかに、この映画を「売る」ためにはそこを宣伝するしかないんだろうけど、そこを先に言ってしまうのはほんと、真犯人の名前を先に教えるよーなもんだよ。
 それがいちばんかなしかった。

 
 痛い物語。
 ひとりの、卑怯者の物語。
 自分ひとりがかわいくて、自分ひとりが幸福になるために、それ以外の全部を裏切り、捨ててきた男の物語。

 人種差別がどうとか虐待だのDVだの、いろんな要素は含んでいるよーだが、わたしとしてはそれらはとりあえず蚊帳の外。
 それらのものは「ある」としたうえで、それらが「ある」世界で生きる、ひとりの卑怯者の物語として受け止めた。

 主人公コールマンの「いちばん」は、「自分」。
 自分を守るため、自分を「いい子いい子」するために、他人を傷つける。

 それは、仕方のないことかもしれない。
 誰だってそうかもしれない。
 彼をそんな風に追いつめてしまう、社会が悪いとは思う。
 だけどこんな社会の中で、みんながんばって生きているんだよ。コールマンだけが不幸なわけじゃない。

 彼だけが不幸なわけじゃないけれど、不幸から逃れるために彼は、「嘘」をつく。
 他人を騙す。

 嘘をつく、ということは、真実に関わるすべてを否定するということ。

 コールマンは自分の出自について嘘をついた。
 生まれてきたこと、育ってきたこと、それらすべてを偽った。

 彼を愛し、彼と想い出を共有してきたすべてを、裏切った。

 コールマンは家族と縁を切る。嘘で塗り固めたしあわせを手に入れるために、それまでのすべてを拒絶した。
 婚約者には、「母は死んだ」と教えた。出自を誤魔化している彼は、婚約者に家族を会わすことができないから。
 母は生きている。息子のことを愛している。愛と献身と誇りを持って、息子を育てた母親。なのにコールマンはその母親を殺す。
 「母は死んだ」……存在を否定するということは、殺したのと同じことだ。

 彼は母親を殺した。
 愛しているのに殺した。
 自分のちっぽけなしあわせのために。

 このひとごろしめ、ひとごろしめ、ひとごろしめ。

 そして彼は成功を手にするが、因果は巡り、次に愛する妻を殺すことになる。

 彼は嘘をつき通していた。妻にも、世間にも。
 その嘘ゆえに、妻は死んだ。
 彼が真実を口にしていたなら、死なずにすんだだろうに。
 その昔、母の存在と彼女の心を殺したように、今度は妻の生命を尽きさせた。

 このひとごろしめ、ひとごろしめ、ひとごろしめ。

 他人を傷つけ、殺し、それでも自分だけがかわいいのか。自分だけを守りたいのか。
 世間が悪いのは言い訳だ。「世間」が差別と偏見に満ちているからって、「自分」が人を裏切っていいわけじゃない。傷つけていいわけじゃない。

 卑怯者め。

 世間への呪詛と、自分への憐憫と言い訳で、ぐるぐる巻きになったミイラみたいだ。
 それでも、しあわせになりたいのか。そんなになってまで、まだしがみつくのか。
 なんて無様でおぞましい。

 そう。
 それでも、心は生きている。
 汚れた包帯、腐った肉の奥で。
 無様でおぞましいミイラは、それでも救いを求めている。

 コールマンは、同じように傷を抱えた女、フォーニアに出会う。
 
 母を殺し、妻を殺し、愛する者を殺すことによって自分の心さえ殺してきた男が、それでも両腕を伸ばして愛を抱きしめる。
 ひとごろしの卑怯者は、ようやく己れの罪を解放する。
 傷みのなかで。
 痛みのなかで。

 こんなにこんなに、いたくてきたなくてまっくらななかで。

 清涼な光を感じる。

 希望を感じる。赦しを、誇りを、可能性を、よろこびを、感じる。

 
 ある卑怯者の物語。
 彼の汚さはわたしの汚さであり、彼が辿り着いた希望はわたしの希望でもある。

 だからやっぱり、人間を好きだと思う。
 生まれてきて良かったと思う。
 わたしは。

 
 暗くて重くて救いのない話なんだけど、ツボにハマる人には、ふつーのエンタメと同じく、「ああおもしろかった。さあ、明日からまた、がんばって生きるぞ」と元気をもらえる映画だぞっと(笑)。

 とりあえずニコール・キッドマンはきれい。『コールド・マウンテン』の謎の適齢期美女より、よっぽど説得力のある美女だぞ(笑)。
 あと、コールマン役がホプキンスでさえなければ、ネイサンとの関係は萌えだったと思う。アンソニー・ホプキンスぢゃ萌えられん……。

     

       
 ほんとに使えないな、このサイト……。
 と、すでに何度目かわからないつぶやき。

 テレビを付けたら、マーティン・ショートが出ていた。トニー賞の再放送らしい。
 マーティン・ショートかぁ、マーティン・ショートというと、わたしにとっては『三人の逃亡者』のすばらしいヘタレ受男ぶりが忘れられないのよねえ。

 と、なんかとってもなつかしくなって、そーだ、レビューなんか書いちゃおう、と思ったのにさ。

 Amazonにデータがあるにもかかわらず、リンクすることができないのよ……。つ、使えねえ。

 画像が欲しかったのに。
 腐女子ならアンテナ立っちゃう素敵なパッケージなのに。

 だって、男が男をお姫様抱っこしている写真なのよ?!

 んな写真の映画、腐女子なら見たくなるでしょう?

 
 出所したばかりのベテラン銀行強盗ルーカス@ニック・ノルティは、今度こそ堅気になろうと決心、シャバに出てまず最初に口座を作ろうと入った銀行で、まさかの銀行強盗事件に遭遇。人質にされたうえ、犯人の仲間だと誤解されてしまう。
 ルーカスを巻き込んだ銀行強盗のネッド@マーティン・ショートは、ドジでまぬけな素人強盗。彼は幼い娘メグのために金が必要で強硬手段に出たんだ。
 なんやかんやで一緒に逃げるうちに、ルーカスはネッドとメグに情が移ってしまい……。

 監督・脚本フランシス・ヴェベール、出演ニック・ノルティ、マーティン・ショート。1989年作品。

 わたしのツボを直撃する、立場のチガウ男ふたりが力を合わせて逃避行、徐々に心が通じ合う話。「手錠でつながれた刑事と犯人」モノっていうかね。

 ルーカスもネッドも、最初はなりゆき、仕方なく。嫌々一緒にいるわけなんだけど。
 だんだん、惹かれ合っていくのね。

 この映画が愉快なのは、ネッドが子持ちだってこと。
 ネッドの娘、メグ。この子がもー、めちゃくちゃかわいい。
 強面ルーカスは、まずこのかわいいメグちゃんにほだされるの。ネッドは最悪だし、巻き込まれた立場も最悪、でもこの子だけはかわいいから許すか、みたいな。
 天使にはかないません! てか。

 たしかに、態度が軟化したきっかけはメグちゃんかもしれない。
 でもそれだけじゃないだろう?

 ルーカスが、ネッドにはまっていくさまが、実に目に愉快なのです。

 バカでヘタレでなんにもできなくて。でも、娘を愛していて。めちゃくちゃだけど、娘のために一生懸命で。そんなネッドを見ているうちに……ルーカス、惚れちゃったのね。
 ネッドのことが、愛しくてしょーがない、らしい(笑)。

 だけどルーカスは、必死に言う。
「メグのためだ。かわいいメグのためにしていることだ」
 ソレ、言い訳だって! あんたがメグを救うために一生懸命なのは、メグを愛しているネッドのためだってば!!

 最高なのは、パッケージ写真にもなっている、お姫様抱っこ。

 愛娘メグを奪還し、抱きしめたネッド。
 ……ここまではいいんだが、ヘタレなこの男、動けなくなっちゃったんだわ。
 ぼやぼやしているヒマはないっちゅーに、愛だけあってあとはなにもないヘタレ男、さっさと動けよ!!
 業を煮やしたルーカスは、メグを抱きしめているネッドごと、ひょいっと抱き上げて、走り出すのよ!!

 愛。
 愛ですわよ!!

 どこのBLですかっ?!

 メグがかわいいからだ、と言い訳しながら、ネッドに恋してるルーカス、ヲトメの瞳でルーカスを見上げるネッド、ひたすら天使のメグちゃん。
 この3人がもー、ツボでツボで。

 そのうちメグちゃんはネッドのことを「ママ」、ルーカスのことを「パパ」と呼ぶんだろうなあ、微笑ましいなあ、とハッピーエンドのその先まで想像して、ほっこりしちゃいますよ。

 
 ヘタレ男好きのわたしには、こたえられないヘタレ・ラブコメ。
 素直になれない大男ルーカスがかわいらしく、バカ男ネッドがものすげーキュートに見えてうろたえます(笑)。
 ああ、今のわたしは「ヘタレ男」と言えばかしげちゃんだからなぁ、ネッドをかしげで見たいなぁ、とか思うのことよ(笑)。
 じゃあルーカスは誰よ、かっしーを姫抱っこできる男って……ワタルしかいないじゃん(笑)。
 ふと、アポリネールを姫抱きするアリスティドを想像してしまった……い、いいかも……。

        
しつこくてすまん、『スパイダーマン2』の感想その3。

 この物語、アクション・ヒーローものというより、恋愛モノとしてわたしはたのしんだ。
 愛しているのに、それを言えないもどかしさやせつなさ、両想いなのにすれ違っていくふたりを、とーってもたのしくじれじれして見た。

 それと、もうひとつ。

 ねえねえ、ピーター@トビー・マグワイアと、その親友ハリー@ジェームズ・フランコの関係、エロくない? 腐女子的に(笑)。

 ピーターとヒロインMJの関係は、「愛しているのに、言えない」だけど、ピーターとハリーの関係は「愛しているけど、溝を埋められない」だよねええ?

 ハリーの父親は、『1』でスパイダーマンに殺されている。
 なんでかっちゅーと、悪人だったから。しかも、悪の大怪人だもんよー。ラスボスだったんだもんよー。殺されても仕方ないわな。

 だけどハリーはそれを知らない。
 罪のない父親を、スパイダーマンが殺したと思っている。
 そして、ピーターのことを疑っている。ピーターはスパイダーマンのことをなにか知っているのに、自分がヒーローの知り合いっちゅーことでおいしい思いをするために秘密にしていると、勘ぐっている。
 ピーターへの友情と、反感と疑惑と。それがけっこー複雑にちらちら揺れている。

 ハリーは、自分の生活がうまくいっていて幸福なときは、ピーターにもやさしい。それが一転不幸になると、途端ピーターに冷徹になる。父親の死について、責めはじめる。
 キモチはわかるよ。心に余裕のあるときは誰にでも寛大でいられるけど、そうでなくなったら、そんなこと言ってられないもんな。
 親友、という心やすい立場にある分だけ、当たりやすいんだよね。

 ピーターは、ハリーを失いたくない。
 ハリーの父親を殺したことも、彼がものすっげー悪人で化物だったことをハリーに知らせて、傷つけたくもない。
 だから、「自己保身のためにスパイダーマンをかばう男」とハリーに罵られても、なにも言い返せない。
 「愛しているけど、溝を埋められない」のよー。ふふふー。

 そしてついに、ハリーはスパイダーマンの正体を知った!!

 囚われのスパイダーマンと、自暴自棄なハリー。
 ここ、なんかみょーにやんらすぃ画面で、よろこんじゃったんですが(笑)。

 ここでピーターはしっかりと説明して、ハリーの誤解を解かねばならんかったのですよ。
 ハリーだってそれを望んでいたでしょう。
 親友を憎みたくなんかないわけだから。
 だけどなにかと運のないピーター。ハリーに言い訳しているヒマがなかった。ハリーの傷ついた心より、怪人にさらわれたMJを助ける方が先だ!!

 父親を殺したのは、親友のピーターだった。
 という現実だけを突きつけられ、そのまま放置されてしまったハリー。

 …………そりゃあ、復讐の鬼になるでしょうよ。
 
 
 まあ問題は、父親の遺したあのお笑い変身マスクセットとかが再び出てきたので、「あー、あのなさけねー姿で親友と戦うことになるんやなー」と予想させることですが。
 ハリー、せっかく男前なのにねえ。変態マスクになるのかなあ。

 
 なんにせよ、ピーターとハリーは腐女子的に大変オイシイです。
 もー、うはうは♪
 3年後公開予定だっけかの『スパイダーマン3』では、おそらくハリーが敵キャラでしょう。
 『3』もたのしみだが、腐女子的な意味では『2』の寸止め感の方がいいかもしれん。変態マスクに変身してないから余計に(笑)。

 ハリーの、ピーターへの愛憎っぷりがいいんだよなー。
 ハリー×ピーターかなぁ。
 やっぱハリーには鬼畜属性で、ピーターをなぶりたおしてほしいなあ。ピーターには、健気に耐えてほしいなあ。
 縛られてるピーターが大変目にビタミンな光景だった(笑)ので、あそこでぜひ、ハリーにはエロ鬼畜野郎に変貌してがんばってほしかったですなあ。
 ここのエロシーンだけでも、やほひ界でよくある世界に突入可だよねえ。しみじみ。
 
 あとさ……その……。
 わたしは、ヅカ腐女子だからさ……。
 スパイダーマン云々じゃなくて、この親友愛憎劇のふたり、ハリーとピーターをさ……ケロとトウコで見たいと思っちゃったよ……。
 ハリー@ケロ、ピーター@トウコな……。ハリーの片想いぶりがまたいいんだよなー。ピーターのかわいこちゃんぶりとかな……。
 ふふ……ふ……。

 
 と、恋愛映画としても、アクション映画としても、腐女子映画としても、大変見事なすばらしい作品でした、『スパイダーマン2』。
 映画館の大きなスクリーンでたのしむべき1本。
 ただし、前もって『1』は見ておくこと。ほんとに話続いてるから、どこから見てもOKってわけじゃないよ。そりゃ『2』からでも見られるけど。

 おすすめナリ〜。

      
人は人を救えるんだってことさ。

 変身して巨悪と戦う必要はないよ。
 ビルの谷間を飛び回らなくていい。
 巨大怪獣や悪の組織と戦わなくてもいいんだ。

 人は、人を救えるんだよ。

 たとえば電車でさ、気分が悪くなってこのままだと絶対倒れる、てときに、
「どうしたの? 気分悪いの? ここに坐りなさい」
 って知らないおばさんに席譲られて、よくわかんないまま、新しいドリンクの缶握らされてて、気がついたらもうそのおばさんはいなくて。

 道ばたでたまたま通った人に、道順を聞いたら快く教えてくれた。言われた方へ歩いていると、すごい勢いでその人が走ってきた。
「ちがうの、わたしの説明が悪かったみたい。そっちじゃなくて、ここで曲がるの」
 言うだけ言って、またもときた方へ去っていく。

「助けてください」
 切羽詰まってどうしようもなくて、ぜんぜん知らない人に声をかけた。
「わかった。まかせなさい」
 迷いのない声が返り、救いの手がさしのべられた。「大丈夫だから、落ち着いて。自分のできることをきちんとしたら、間に合うんだから。可能性はあるんだから。落ち着いて、がんばりなさい」

 出来事自体、行為自体はとてもささやか。地球を救うわけでなし、災害を防ぐわけでなし。
 だけど彼らはぜんぜん関係ないのに、そんなことしてもその人の人生にはなんの得にもならないのに、わざわざ手を貸して、自分の時間使って労力使って、他人……わたしに、やさしくしてくれた。
 名前も知らない、通り過ぎただけの人たち。

 人は人を救える。
 助けられたわたしは、厚意を受けたわたしは、しつこく感謝の気持ちを持ちつづける。
 ありがとう、ありがとう。
 いつかわたしも、人を助けられる人になる。

 それは、「希望」だから。

 殺伐とした世の中で、こわい事件かなしいニュースの飛び交う日々の中で。
 そんななかで、この世界にはあんな人たちがいる。大したことじゃなくても、いや、大したことじゃないからこそ、ふつーにあたりまえに、日常の範囲内の出来事として、やってしまう人たちがいる。
 なんの気負いもなく、ひとに親切にできる人たちがいる。
 それは希望だから。
 誰かが特別なんじゃなくて、誰だってきっと、人を救うことができるんだって。人にやさしくすることができるんだって。

 わたしだって、誰かを救ったり、やさしくしたりできるんだって。

 希望だから。

 
 電車でわたしを助けてくれたおばさんは、わたしを抱え起こすだけの体力があったわけだね。道を教えてくれた人は、道を知っていた。
 親切にしたくても、自分が病気で起きあがれないとか、道を知らないとかだったら、してあげられないことだったよね。
 自分にある力で、余力の部分で、人になにかしてあげられたってことだよね。
 というと、聞こえが悪い? 余力でほどこした、とかに取られると嫌だな。
 たしかに余力だけど、いくら余力があっても、それをしなければならない、って決まってるわけでもないのに、自発的にしてくれたってことだよ。
 判断し、行動したのはその人たちだから。
 目の前で子どもが溺れてたら、なにかできないか、きっと本気で考えてわたわたするね。飛び込んで助けようとするかはともかく、警察に連絡するとか、泳ぎのうまそうな人を呼ぶとか、なにかアクション起こすよね。
 見て見ぬふりしたって、誰も責めないのにね。
 なにかできるなら、したいと思うよね。

 つまりは、そーゆーことなんだと思うのよ。
 スパイダーマンこと、ピーター・パーカー@トビー・マグワイアの抱え込んだ「現実」は。

 彼には「力」がある。
 人を助けられる力。
 あるから、使う。
 人を助け続ける。

 でも、そーやってヒーロー業をしていると、実生活に支障が出た。愛する女の子を自分のヒーロー人生に巻き込めないから、告白することもできないし、時間やスケジュールを守れないから仕事や勉強もできない。
 じゃあ、やめればいいじゃん。
 ヒーローやめて、ふつーに生活すればいい。好きな女の子に好きだって言えば?

 ピーターの迷いも悩みも、べつにぜんぜん、特別じゃないし。

 道を歩いてたら、目の前で倒れる人がいた。
 どうしよう、あたし今、時間ないんだ。救急車呼んだりなんだりしてる余裕ないよ! 生活かかってんのに!!
 ……てなときに、どうするか、でしょう?
 自分の都合を犠牲にして、知らない人を助けるか、「ごめんね、見なかったことにする」って立ち去るか。

 立ち去ったとしても、べつに罪にはならないし。助ける義理もないし。

 でもわたし、助けられたのに。わたししかできないことだったのに。
 できるのにしないって、どういうこと?
 あたし、そんなんでいいの?

 そりゃ、「なんであたしが」とか、「わたしばっか損してる」とか思うよ。
 思うけど……やっぱ、助けずに後悔するより、助けて後悔する方がいいでしょう?

 そーゆー傷み。
 われらがヒーロー、スパイダーマン。

 人助けして自分の生活助けられないなんて、なーんかバカげてるよね。損だよね。
 だけど、見て見ぬふりはできないんだよね。
 ヒーローだとか正義だとかいう以前に。

 だって、余力があるんだから。
 道を知ってるんだから、知らない人が教えてくれって言ってきたら、教えてあげるでしょうよ。

 これからどーしてもはずせない会議なんだよ、これすっぽかしたり遅れたりしたら、クビ切られるんだよ。
 なのになんで、今このタイミングで目の前で子ども溺れてるの? オレに助けろってか? でもそんなことしてたらオレの人生がおわっちまうっての。
 ……て、そんな選択、人生にいくらでもあるわな。

 ピーターの人生はまさにソレで。
 一度は「もうやめだ!」と投げ出したけど、やっぱり見捨てたままではいられずに、走り出す。

 子ども助けたのはいいけど、完璧遅刻だよ……。服もびしょびしょだし、書類も落とした。急いでるから、って名前も告げずに走り去ったから、親から礼金もらうこともできねーなー。
 もうダメだ、なにやってんだオレ。なんも意味ないじゃん。

 そりゃその通りで。どんなに善行したって、直接ピーターにいいことなんか返ってこない。
 だけど、人々は忘れない。
 スパイダーマンのことを。

 今日ね、知らない人が助けてくれたの。親切にしてくれたの。
 とてもとても、うれしかったの。感謝しているの。
 世の中には、あんな人がいるんだね。こわい人ばっかじゃないんだね。
 
 人は、人を救うことができる。
 通りすがりに助けてくれたひとのことを、忘れない。つらいときに、手をさしのべてくれた人の存在を、忘れない。

 いつかわたしも、誰かを救う。
 大したことはできなくても、ちっぽけでも、なにか、してあげられる人になる。

 人々はスパイダーマンを讃える。
 この世界に、ヒーローがいることを誇りに思う。
 人に救われた、だからこそ人を救うことを身をもって感じる。
 見せ場のひとつであった電車のシーン、身を挺して乗客を守ったスパイダーマンと、彼を守るために怪人の前に立ちはだかる「ふつうの人々」。

 ひとは、やさしくなれるんだよ。
 そう思える映画。

 だからこそ、ヒーローは必要さ。

   
1日ズレてるけど、昨日の分の日記を今日書いておきます。

 夏休みなんだね、世の中。
 それを失念していたので、大阪・梅田で途方に暮れたよ。

 てゆーのも映画館、軒並み2回分先までsold-outなんですが。

 2回分先、ってソレ、4時間待ちってこと?!
 なんじゃそりゃあ。

 夏休み入って最初の水曜日か……そりゃ、映画館も混むわな。

 暑くなってからこっち、映画を見る本数が減ってしまったのことよ。だって、いつもの映画館までとても行けないもん。40分も自転車乗ってたら死ぬって。
 仕方なく、映画を見るためだけに梅田まで出るハメになるんだけど……あああ、そうか、夏休みか……梅田は人でいっぱいニャ。いつもの映画館なら、こんなに混むことはないのに……郊外型シネコン万歳。

 見るつもりだった映画が売り切ればかりで、「なんでもいい、見られる映画はどれよ?」と映画館をはしごして、よーやくたどりついたのが、『スパイダーマン2』でした。

 こーゆービッグタイトルは複数の映画館が複数のスクリーンを使って一斉に上演しているので、どこかのスクリーンには空きがあるのさ。ありがたいねえ。
 もっとも、こーゆービッグタイトルに興味がなかった場合は地獄だけどな。どこへ行っても同じタイトルしか上演してないっちゅーことやから。

 場所はナビオTOHOプレックス、しかもシアター1。
 ええ、先日『ペイチェック』を見たスクリーン。
 ……ちょっと期待しました、春野寿美礼に会えることを。
 ナビシネ随一の巨大スクリーンで歌い踊る寿美礼ちゃんに再会できるかと、早いウチからシートに坐ってスタンバってたんですが……。
 会えませんでした。ちぇー。もうVISAのCMやってないんだー。

 まあ、なにはともあれ、『スパイダーマン2』。
 『1』がけっこうたのしかったし、口コミで耳にする評判もよいようなので、わりかし期待してました。

 期待以上。
 てゆーか、ものすげーおもしろかった。


 実はまだ他にも感想書いてない映画が何本もあるんだが(おぼえているだけで4本。他にもあるかな……なんか最近物忘れひどいから、忘れてるかな……)、それを置いておいて、先にこっちの感想書く!

 
 せつない系の恋愛映画が好きなら、ぜひ見るべし!!

 監督サム・ライミ、出演トビー・マグワイア、キルスティン・ダンスト。

 そもそも『1』のわたし的「つかみ」となったのは、最初のピーター@トビー・マグワイアのナレーションだったんだよね。
 「これはある女の子をめぐる話」だっけ? 『スパイダーマン』という強烈な特撮ヒーローもののタイトルで、最初のナレーションがコレ。
 特別でもなんでもない、どこにでもある、恋の物語。
 ふつうの男の子の、ふつうの恋の物語。

 そう。
 設定がとんでもない物語の場合、そこに出てくる人間たちはどこまでも「平凡」である必要がある。
 べつの惑星が舞台でも、異世界ファンタジーでも、大昔でも未来でも。
 設定を現代社会にしないなら、キャラクタは絶対に、リアリティを追求しなければならない。
 そうしなければ、「物語」が成立しなくなる。ありえない舞台でありえないものたちがありえないことをする話に、誰が感情移入できるだろうか。

 反対に、現代社会やら、わたしたちのいるところと地続きの舞台設定の場合は、キャラをとんでもなくするとおもしろくなる。平凡な世界に、型破りなキャラクタを、って。

 ありえない舞台では、ありがちなキャラとその言動を。ありがちな舞台では、ありえないキャラとその言動を。

 『スパイダーマン2』を見ていちばん「近いな」と感じたのは、あの『タイタニック』。
 舞台設定やそこで起こる出来事はとーんでもないことになってんだけど、そこにいる人たちはものすげーふつーに恋愛やら青春やらをやっている。

 物語のとんでもなさと、そこに生きる人たちのリアリティ。
 それが鮮烈で、きもちいい。

 あ、でも『タイタニック』は、同じ恋愛モノでも「ラヴラヴもの」であり、『スパイダーマン2』は「すれちがいもの」なのよねー。
 両想いのふたりが、互いに誤解したりなんだりで盛大にすれ違っちゃう、見ていて「痛い」系の話なのよねー。

 精神的に痛い恋愛が好きな人には、ツボな物語だと思う、『スパイダーマン2』。わたしのツボにクリティカル・ヒット。わーん、痛いー、痛くてキモチいいー(笑)。

 
 前回の大騒ぎから2年、ピーター@トビー・マグワイアはなんとも不器用な日々を送っている。だってヒーロー・スパイダーマンと貧乏大学生の二重生活だ、うまくいくはずがない。
 マスクかぶって無償の人助けしてたら、アルバイトも勉強もろくにやってるヒマがないんだ。
 ピーター最愛のMJ@キルスティン・ダンストは女優として活躍、エリート青年とつきあっている模様。ヒーローをやるために、ピーターの人生は真っ暗闇。恋をあきらめ、夢をあきらめ? 約束を守れないいい加減なヤツだと後ろ指をさされ、親友に罵られ、貧乏で、大切な唯一の家族である年老いた叔母にもなにもしてやれず?
 迷うピーターはついに、ヒーロー廃業を決心。手作りのスパイダーマン・スーツ(色落ちするので、洗濯には注意必要)を街角のゴミ箱へ……。

 ピーターの迷いっぷりがいい。
 彼の苦悩とヘタレ具合が、なんとリアルで愛しいことか。

 たまたま彼の抱えている事情が「ヒーロー」だってことなだけで、それ以外の彼の日常は、誰にでもありえることなんだ。
 一生懸命やっているのに、運が悪くてうまくいかない。
 両想いだってわかっているのに、愛していると伝えられない。
 誤解なんだけど、それを説明することができない。
 自分も不幸だけど、周囲にも迷惑な存在だよね。
 言い訳したいよ、今すぐに! わたしは悪くなんかないんだって。仕方がないの、わたしにもこれが精一杯なの。わたしを理解してよ。わたしを赦してよ。同情してよ、ほめてよ、感謝してよ!
 ……でも、言えない、ということ自体、自業自得なんだよね。わたしがヘタレだから、こんなふうになっちゃうんだよね。わたしが神様みたいになんでもできるなら、わたし自身も救うし、こんなふうに周囲に迷惑をかけたりもしないですむのに。
 結局、わたしが力不足だってことなんだよ……。

 そーゆー痛さ。
 ヒーローであることを隠して生きるために、いろいろつらい目に遭うピーターくん。でもソレ、自業自得だし。君がヒーローやりながらなお、ピーターとしての生活も完璧にできるくらい有能な男なら、なんの問題もなかったんだよ。世間一般の変身ヒーローみたいに。
 そうできないのは、自分のせい。そもそも変身しなくてもヘタレだったし、ヒーローになってなお、日常ではヘタレでしかない、そうとも人はそうそう変われるモノじゃないんだ。

 わたしかもしれない・あなたかもしれない傷みを抱いて、ヘタレ男ピーターくんは、今日も自分にできることをやっている。目の前の問題と精一杯戦っている。
 なんとも歯がゆい不器用ぶりで。

 そーゆー痛さがいいのね。

 ヒーローものなのに、なんとも開放感のない主人公。アクション・シーンの視覚的開放感とは対照的に。
 
 たのしいので、つづく。

        
とりあえず公開早々に見てきました、『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』。見に行った日付はすでに忘れた(笑)。
 監督アルフォンソ・キュアロン、出演ダニエル・ラドクリフ、ルパート・グリント、エマ・ワトソン。

 アズカバンを脱獄したシリウス・ブラック@ゲイリー・オールドマンがハリー@ダニエル・ラドクリフの命を狙ってる! てなことで、てんやわいや。

 
 えーとわたし、前に書いたかどうかわかんないけど、『ハリー・ポッター』シリーズはべつに好きじゃないです。キライというわけじゃなく、「好きじゃない」というのがいちばん近い感覚。もしくは、「どーでもいー」かな(笑)。
 原作は3巻まで読んだけど、2巻までは首をひねってたし。いや、たしかにおもしろいよ。おもしろいけどコレ、ほんとにみんな、そこまでおもしろいと思ってるの? マスコミが騒いでなくても、ほんとにおもしろいと思ってる?? とな。

 『ハリー・ポッター』には、『ビッグ・ファット・ウェディング』と同じニオイを感じて、「これが売れる世の中って、わたしには生きにくい……」と遠い目をしてしまうよーな感じだし(笑)。

 まあわたしの周囲もみんな、声をそろえて言うけどな、「おもしろいのは3巻から」って。

 ほんとに、3巻はおもしろかった(笑)。

 はじめて理屈抜きでおもしろいと思えた、唯一の話が「アズカバンの囚人」だった。
 だからはじめて、映画版もたのしみにしていた。過去の2本は見ている最中ちょっくら気が遠くなっていた時間もあったんだが(笑)、今度はきっとそんなことなく見られるにちがいない、と。

 えーと。

 やっぱり、何分かは気を失っていたようです。
 たぶんわたし、ハリポタと感性合わないんだろうなあ……。
 理由はわかってるけどな(笑)。『ビッグ・ファット・ウェディング』がダメなのと同じ理由さ……。

 ま、とりあえず原作は置いておいて、映画単体としてたのしみました。

 シリーズものとして見た場合、前2作との違和感が全面にあって、不思議な感じがした。
 主人公たちが成長しすぎているのも、びっくりだ。子どもというより、大人の顔になってるんだよなあ。いやあ、よそさまの子は成長早いよねえ。
 作品の雰囲気もえらくチガウし(つーかコレ、ホラーだったんですか??)、ホグワーツの印象も記憶にあるものとチガウよーな。
 あちこち首をひねりながら。

 前2作とは切り離して考えれば、コレはコレでアリだなと思った。

 起承転結さっぱりと、めりはりつけて、盛り上げてまとめる。
 ダークな味付けと、サスペンス。
 エンタメとしての本筋重視で、切れる部分、省略できる部分はばっさり削除。
 画面の美しさはとても映画らしくて堪能。

 そう。
 原作を先に読んでいると、いろいろ不思議な省略の仕方をしているようだけど。
 原作読んだのが大昔で、熱意もないもんだから記憶も大してないわたしですら「え? あれ? そんな話だっけ? え、これでいいの?」とびびるくらいには、いろいろ省略されまくってたからなー(笑)。
 前後のことを考えず、この映画単体として考えるのがたぶん、いちばんいいんだろうという結論に落ち着いたわけよ。
 

 だから、罪なくたのしく見たよ。
 女の子ががんばる話は、大好き。ハーマイオニーかわいー。
 ハリーはやっぱり好きじゃなーい(笑)。
 ロン出番少なー。
 親世代の話が見たかったなー。でもま、いっかー。
 シリウス、貧相(笑)。それもまたよし(笑)。

 それにしても。

 エンドロール、長すぎないか?
 思わず時計見ちゃったけど、7分は確実にあったぞ?
 意地になって最後まで見たけど……つらかったわ……。

 
 たぶん、次も見るでしょう。キャラに愛着あるから。作品には苦手意識がなきにしもあらず、なんだけど(笑)。

           
「イギリス人ってつくづく、裸もんが好きだねえ」

 と、WHITEちゃんが言ったのは、梅田のナビオでだっけ。
 ナビオでたしか、試写会が当たる抽選用紙を配布してたんだよねー。
「当たったら一緒に行こうね」
 と言ってふたりで応募したけど、わたしははずれたな。WHITEちゃんはどうだったのかしら。誘ってもらえなかったら、彼女もはずれたのかな。

 『カレンダー・ガールズ』、監督ナイジェル・コール、出演ヘレン・ミレン、ジュリー・ウォルターズ、アンガス・バーネット。

 イギリスの田舎町。保守的でお堅い婦人会において、カレンダーを販売することになった。それがなんと、婦人会のおばさまたちのヌード・カレンダーっちゅーことで、町は騒然。やがてそれは、イギリス中で大反響を呼び……。

 
 『フル・モンティ』の女性版って感じ?
 その昔、わたしとWHITEちゃんはふたりで『フル・モンティ』の試写会に行ったのよ。
 だからWHITEちゃんの冒頭の台詞になるわけね。

 『フル・モンティ』の試写会を見に行ったとき、司会のおねーさんが言ってたな。
「“フル・モンティ”というのは俗語で、“素っ裸”というような意味です」
 と。

 さえないリストラ中年男たちが集まって、男性ストリップで一旗揚げようとする物語。
 ひとさまにお見せできるような肉体美から程遠い、なさけなーい男たちが、なさけなーい自分自身やら現実と戦って、服と一緒にそれまでの殻を脱ぎ捨てる物語。
 笑いと涙、そして幸福感を得られる映画。
 
 それを彷彿とさせるコンセプト、そしてストーリー。

 『フル・モンティ』はストリップを題材にしているだけで、あとはほんとーに真っ当な、お約束に満ちたハートウォーミング物語だった。
 それと似ているこの『カレンダー・ガールズ』もまた、気持ちのいいお約束物語だったよ。

 平凡な田舎町、平凡な主婦たち。
 あなたかもしれない彼女たちが、立ち上がり、現実を壊す痛快さ。
 基本理念になっている友情と、サクセス・ストーリーの気持ちよさ。

 なんにもできない、と思い込んでいる、あるいは社会から男たちから同じ女たちから、思い込まされているおばさんたちが、立ち上がるその姿に握り拳、声援を送るよ。
 彼女たちはキュートで愛しい。
 ふつうに見れば決して美しくないシワだらけ脂肪だらけの裸が、ファンタスティックに画面を作る。

 いいよなー、おばさん&おばあさんたち。

 できることなら、サクセス・ストーリーのまま突っ走ってほしかったな。その方がより「お約束」でエンタメ的だわ。

 何度も何度も繰り返される「NAKED(裸)」という単語に、ちょうどそのころ『NAKED CITY』に萌えまくっていたわたしはいちいち反応してもおりました(笑)。

 元気をもらえる、気持ちいい映画。
 わたしは裸にはなれないけど(笑)、彼女たちのようになりたいと思い、また彼女たちを応援するひとりになりたいと思うよ。

       
 いいかげん、溜まっている映画の感想書かないと、忘れるわ。この日記ってばタカラヅカ優先なんで、映画の話はどんどん後回しになっていく(笑)。

 
 『21グラム』、監督・製作アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ、出演ショーン・ペン、ナオミ・ワッツ、ベニチオ・デル・トロ。

心臓移植手術を受けないと1カ月の命という大学教授のポール@ショーン・ペン、夫とふたりの娘としあわせに暮らすクリスティーナ@ナオミ・ワッツ、前科者だが宗教と家庭の力を借りて更生中のジャック@ベニチオ・デル・トロ。
 みっつの人生が、ひとつの交通事故によって結びついた。
 夫と娘たちを一瞬で失ったクリスティーナ、事故を起こしたことにより生活を失ったジャック、そして、クリスティーナの夫の心臓を得ることによって生命を得たポール。
 人生は結びついてもいいが、実際に会ってはいけない被害者と加害者、ドナーとレシピエントが出会うことで、物語はさらにすすむ。

 
 タイトルの「21グラム」っつーのは、ひとが死んだときに減る重さだそうだ。
 もちろんそれはきっと、臓器が伸縮するとか乾燥するとかなにか、科学的な理由のある現象なんだと思う。たぶん。
 だけど……。
 それを「魂の重さ」だと思うセンチメンタルさが「人間」ってやつだと思う。思うよ。

 とことん痛い物語。
 誰が悪いわけでもなく、日常にありえる出来事を、時系列ばらばら視点ばらばらで畳み掛けるよーにサスペンス調に描いてある。

 時系列ばらばらだから、謎とせつなさが押し寄せてくるのね。
 幸福なクリスティーナの姿と、すべてを失ったあとの彼女、なにが起こるのか、不幸になる未来を断片的に知りながら、行き着く先は見えない。
 悲劇の予感があるからこそ、幸福に微笑む彼女がせつない。かわいらしい幼い娘たち、やさしそうな夫。ねえ、死んじゃうの? こんなにしあわせそうなのに? べつに、ものすごく恵まれてるとかじゃなくて、ふつうに、わたしやあなたが笑っている、そんな感じの彼女が?

 被害者のクリスティーナもせつないし、加害者のジャックもせつない。彼には彼の生活があり、愛する家族がある。好きで罪を犯すわけじゃない。取り返しのつかない過失。償いと真正面から向かい合う男。
 ジャックの妻が、自首ではなくバックレることを真剣に願うのもまた、せつないね。自首しないでくれ、どんなに卑劣でも、このままなかったことにしてくれ、そしてここにいてくれ。ここ--家庭。息子と娘の父親でいてくれと。赤裸々な欲望がかなしい。
 失いたくないから。大切な人を。

 そして、クリスティーナとジャック、ふたりの不幸のうえに、生命をながらえた男、ポール。
 他人の不幸を前提にしてある、自分の存在。そのことに苦悩する男。

 ポールがクリスティーナに近づくのは、わかるのよ。
 クリスティーナが立ち直り、幸福にしていてくれればいい。でも、不幸なままでいたら? 黙ってなんかいられないだろう。
 彼女が不幸なのは、彼の責任ではないけれど。
 でも、自分の生命が彼女の不幸の上に成り立っていることを、知っているのだから。
 放ってはおけない。

 まちがってるけどね。

 正誤は関係ないから。

 ありえないはずの男と女。
 あってはならない恋。
 ……恋ではなかったかもしれない。そんなロマンチックでプラスの衝動を持つ感情ではなかったかもしれない。
 それでも、クリスティーナとポールは、愛し合って。

 
 いったいこの物語はどこへ行くんだろう。
 てゆーか、終わりも決着もないだろ。

 人生が、つづくように。

 痛みに満ちた日々の中で、幾度となく繰り返される台詞。

「それでも、人生は続いていく」

 最後、物語が映画の冒頭のシーンにようやくたどりつくときに、感じているのは「希望」だった。
 これほどせつなくて、痛い物語なのに、ストーリーだけなぞっていたら、暗くて重くて救いのない話なのに。

 それでも、残るのは希望なんだ。

 苦しくない人なんかいない。かなしくない人なんかいない。わたしも苦しい。あなたもかなしい。
 それでもわたしたちは、生きていく。
 わたしはわたしの、あなたはあなたの痛みを背負って、それでも生きていく。

 生きることの、よろこびを抱きしめて。

 背中に絶望。胸に希望。
 矛盾をやどしながら、それでもわたしたちは歩いていくんだ。

 
 とか、そーゆー気持ちになる物語。

 痛くてかなしくて、いい映画だー。しみじみ。

         
美しい物語を見た。

 ストーリー自体は目新しいものじゃない。むしろかなりお約束。展開もオチも全部読める。
 だからこれは、ストーリーをたのしむものではないんだな。

 うつくしいものを見よう。

 ありえない、と笑う前に。
 うつくしいものを見よう。

 
 『ビッグ・フィッシュ』、監督ティム・バートン、出演ユアン・マクレガー、アルバート・フィニー。

 エドワード@アルバート・フィニー(若いころはユアン・マクレガー)は語る。彼が出会ってきたさまざまなことを。魔女や巨人、そして村の伝説だった“大きな魚”のこと、不思議な村、サーカスでの生活、運命の恋。彼の物語はとてつもなくロマンチック。
 だけど彼の息子@ビリー・クラダップは信じない。嘘つきの父と理解し合えないままでいる。
 父の余命がわずかになったとき、息子は父に「真実」を求めるが……。

 
 万人に受ける映画ではないと思う。なんせありがち類型的。お約束のオンパレード。たんたんと同じテンションで短いエピソードが流れ、盛り上がりもなにもあったもんじゃない。
 ツボに合うかどうか。琴線に触れるかどうか。それだけにかかっている。

 わたしはツボりまくりだった。
 全編、泣きっぱなし。

 いいんだよ、もう。美しいんだから。
 美しいもの、ありえないもの、わたしの魂はもう汚れていて、決して自分では見ることはできないものを、こんなに遠くから憧憬に胸を焦がしながら眺めている。
 わたしは大人になってしまったウエンディで、もうピーターパンに会うことはできないの。そこにいても、見えないの。そして、見えないんだということを知っているの。
 いっそ知らなければ、幸福でいられたのに。
 今、痛みを抱きしめる。

 うつくしい物語を見た。
 息絶えようとする父親の枕元で、息子が語る父の最期。
 そのうつくしさ。
 たぶん、忘れられないシーンになる。あのうつくしさはわたしの中で発酵し、わたしの血肉の一部になる。

 映画を見ていると、ときどきあるよね。
 ツボに入りまくって、そのシーンだけ忘れられなくなるの。なにがどうじゃなく、ふと思い出してだーだー泣いちゃうよーな。
 わたしは泣くのが得意だから、いつでもどこでも1・2・3、ハイ、で泣き出せるんだが、そーゆーときに思い出すシーンになると思う。『ビッグ・フィッシュ』の父と子の湖のシーンは。

 映像というすばらしさを思う。
 映像には、映像でしか表現できないものってあるよね。
 わたしは「〜〜でなければならない」ものが好き。代用の利くものは尊敬できない。
 この映画の映像の力を素直に感嘆するよ。文字や台詞で語るすべを持たない映像の饒舌さ。

 うつくしい物語を見たよ。
 陳腐なんだけどね。ストーリーなんか、最初から全部予想がつくよ。思った通りにすすんで、思った通りのオチで、なにも裏切られずに終わってしまうよ。
 だけどそれは、うつくしいんだ。
 とてつもなく、美しい物語なんだ。

 そして。
 このうつくしい物語を、うつくしいと思える自分でよかったと思うんだ。

       

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