『夢現無双 「宮本武蔵」』初日感想メモより。

 緞帳が上がると、「夢現無双」の文字。うっわー、サイトーくんだ~~、やっぱ漢字でこうどーん!!とやらないと、サイトーくんじゃないよな。
 無の字が三日月になってるあたり、こだわってるなあ。
 わくわく。

 ナレーション付きで幕が上がると、そこに武蔵@たまきちが……!と思ったら、あれ、みやちゃんだ。というと、いきなり小次郎から?
 小次郎が誰かと立ち合って、勝利したそうですよ。
 またなんかナレーション、子役が出てきた、え、小次郎の過去話からはじまるの?
 やさしい母と幼い少年、マザコンのサイトーくん必須場面が冒頭かぁ。しかし、大人の小次郎が少年時代を回想するスタート、って、コレ「宮本武蔵」ちゃうんかい、これじゃ「佐々木小次郎」やん?

 と思ったら、少年は「タケゾー」って呼ばれてる。
 タケゾー、って、武蔵かい!
 冒頭の小次郎から武蔵の少年時代、って、構成おかしくない??

 武蔵の少年時代やるなら、冒頭は大人武蔵からはじまるべきじゃ?
 たしかに、ナレーションがたまきちに変わってるから、「たまきちの声だから、この子役はたまきちの少年時代だ」ってわかる……のか、すべてのお客さんに? 冒頭のみやるりの声とたまきちの声を、初見の団体さんに聞き分けろと……?!

 そりゃないぜ!!

 こんなはじまり方、作劇としておかしいやろ、構成変やろ、とアタマがつまずいて集中できない(笑)。
 年寄りは柔軟性に欠けるのよ。

 テレビドラマなら冒頭のみやるりに「佐々木小次郎」、ゆりちゃんに「新免無二斉(宮本武蔵の父)」、出て来た子役に「武蔵(たけぞう。のちの宮本武蔵)」と白いテロップ挿入して、顔もアップで映してキャラ整理させられるけど。
 これ、テレビドラマじゃないし。

 劇場に来るすべての人が「最初に出てきたのが小次郎。主人公武蔵のライバル」と一瞬でわかり、次の一人称ナレーションが「この声は主人公武蔵の声で、さっきの小次郎とは別人」と瞬時に理解出来、登場した子役を「主人公武蔵の子ども時代」だと飲み込める。
 の、かもしれない。
 それができると思うから、やってるんだろう。

 だとしても、だ。
 大河ドラマなら冒頭が小次郎でもいいけど、短編でやるこっちゃないな。
 視点がばらけてしまう。

 導入として登場するなら、主人公であるべきでは?
 登場する順番大事。観客は最初に登場するキャラクタを重要だと認識する。
 だから主人公とヒロインは最初に「運命の出会い」をする。子どもの頃に一瞬だけ、とか、街角でぶつかって、とか。
 そのあとどんだけ魅力的な女性キャラが出ても、「ヒロインは最初に運命を感じたあの子ね」とわかっているから、観客は安心して観ることが出来る。
 ……大河ドラマとか長期連載マンガとかなら、ヒロインが後半に出てきてもいいけど。31ページで完結する短編とか90分のミュージカルなら、「観客の無意識」に逆らってまで難しいことをしなくていい。
 実際、お通は朱実より先に登場するわけだし。これが朱実が先で、あとからお通が出てきたら、観客は「ヒロインは朱実。あとから出てきて『タケゾーさん』しか言わない女は、ただの当て馬」と認識するだろう。

 主人公以外で本編前の導入として出していいのは、語り部とか主人公の周囲にいる人とか。比重の低い人。あるいはヒロイン。
 「もうひとりの主人公」を冒頭に出すと、視点がふたつになる恐れがある。視点をふたつにしたかった、小次郎も主人公だ、これはダブルトップによるダブル主演作品だ、というならそれでもいいけど、そうじゃないなら、混乱を招く構成をわざわざやるのがわからない。

 ……てなことが、ぱぱぱーっとアタマの中を駆けめぐり、小次郎が相当大きな役だぞ。と結論に着地した。

 主人公のインプットを捨ててまで、小次郎を強く打ち出しているわけだから。
 小次郎の出番なんてほとんどなくて当然のところを、どうやって絡ませるんだろう、出番作るんだろう、と疑問視していたけど、そんな危惧を吹っ飛ばすくらい、小次郎ががんがん出て物語に絡み、動かすんだな!
 でないとこの導入はナイもんな!
 さすが『巌流』で小次郎主人公にしたサイトーくん、小次郎への思い入れ半端ナイんだな。

 みやるりがこれで卒業ってこともあり、ダブル主演くらいの勢いで小次郎が大きな役なんだ。
 原作がどうあれ、小次郎もすごくいい役なんだわ……!

 と、思った。

 冒頭だけで(笑)。

 や、小次郎のドラマを描かないのなら、わたしだったらあの導入場面はやらないから。
 素直に少年武蔵と又八、お通の場面から関ヶ原、派手な合戦オープニングにしてるわ。

 と、壮絶に思い込んじゃったのよ。
 わざわざ小次郎からはじまる構成ゆえに。

 てことで、終始違和感。

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