『群盗』を観ながら、どこに足を着けて観ればいいのかわからなかった。

 だが、クライマックスのどたばたのなかでひとつ、「よっしゃ!」と思うことがあった。

「何故それほどまでに私を憎む?!」
「私が貴方ではナイからだ!」

 コレ。
 ここで、膝を打った。

 わたしの大地はここだ。
 ここに足を着けて世界を観ればいい!

 兄と弟の葛藤。
 兄を憎む弟の図。

 …………主役とその弟の話ではない。
 主役の父とその弟。
 脇役の話。

 モール伯爵@りんきらと、その弟ヘルマン@希峰かなたくん。
 おっさんふたりの話。

 でも、いちばん萌えなのは、ここだった。

 …………あかんやん。
 主役と2番手でやれよ、そういうの。

 おっさんふたりは脇役なので、ドラマは短く濃密に集約されている。
 それまでちらちら出ていただけだったのが、クライマックスで爆発する。
 だから、わずかなやりとりだけでドラマを想像させてくれて、わくわくする。

 主役と2番手は、出番だけはおっさんふたりよりずーっと多いから、もっと深く濃く描かないとわくわくしない。むしろ、薄く感じる。
 おっさんたちのドラマ(愛憎)の方が濃いやん……主役と2番手、なにやってんの……。

 これは、『天は赤い河のほとり』でも感じたことなんだけど。
 小柳タンは、「同じ物語を持ったキャラクタ」をあえて描くよね。
 ナキアとウルヒ、ネフェルティティとマッティワザ。
 彼らを描くことで主人公とヒロインの関係性を強調したいのかもしれんが、うまく機能してないから!
 ナキアとウルヒはともかくとして、ネフェルティティとかに尺を割くヒマがあったら、主人公とヒロインがいつ恋に落ちたか描けよ、っていう。
 主人公サイドが薄くなるのに、何故描いた?

 今回も同じ。
 カールとフランツという、兄を憎む弟、殺し合うことになる兄弟、を描くのに、何故わざわざモール伯爵とヘルマンを出した……。
 ふた組を重ねて描くことでの効果を狙ってるんだろうけど、主役サイドが負けてるから! 逆効果だから!
 そんなもんに比重かけるなら、主人公と弟の愛憎をもっと描き込めよ。

 小柳タンもともと情緒薄い作風なんだから、無理にそっちがんばらんでいいから、得意なエンタメ部分で突き抜けてよ……。

 と、作者に対して肩を落としつつ。

 モールさんとヘルマンさんは萌えです。
 てゆーかヘルマンの闇がいい!(笑)

「私が貴方ではナイからだ!」って、アンタそれ、究極の愛の告白やん……。
 私は貴方になりたかったのだ、と言ってるのと同じやん……。

 そして、「何故私は~~(うろおぼえ、後から生まれたとか足が不自由だとか、そんなことを言ってたと思う)」「何故」「何故」とたたみ掛けて、最後の最後に「何故、生まれたのだ?」と虚につぶやいて、終わる、彼の人生。

 そもそも生まれてくるべきではなかったのだ、と。

 よっしゃ。
 ここだ。
 ここがわたしの大地、わたしの世界観だわ!

 次に観るときは、ここに視点を置く。

 ヘルマン役は、『Bow Singing Workshop』で気になった希峰くん。昭和な芸風が好みだった子だ!
 なるほど、こういう育ち方してるのか。真ん中向きではないのかもしれないけど、こういうタイプの子は好き。
 えーと、愛称はわんたくん。

 りんきらはもう、とってもりんきらで。
 あっさり「死んだ」と言われ「えええ?」と思っていたら、ちゃんと2幕で見せ場あった。そりゃそうだ、りんきらが父親役で、あれだけのわけないよな。


 どこに腰を落ち着けて観ればいいのかとまどったのは、初見だからだと思う。
 「こういうもの」と思って観れば、チガウものが見えてくるだろう。
 群盗メンバーたちも楽しみだし、もう一度観たいな。

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