センスの違いはどうしようもない。@パパ・アイ・ラブ・ユー
2019年1月31日 タカラヅカ2019年1月31日 バウ専科『パパ・アイ・ラブ・ユー』初日
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『パパ・アイ・ラブ・ユー』初日観劇。
イシダせんせとは、笑いのツボが乖離していることが多く、笑えずに途方に暮れることがある。
たとえばわたしは、「イボ痔」という単語で笑えない。
作中で嘘に嘘を重ねる主人公が、口から出任せを言う。それが「痛風でイボ痔の患者」。
痛風だけでも別に構わないと思うけど、わざわざ「イボ痔」を強調する。
わたしは、「うわあ、嫌なセンスだ」と引く。
ここで語られる「イボ痔」は病名ではなく、ただの「笑わせるための、蔑称」として使われるんだ。
観客は「イボ痔」という単語に反応して笑う。
イボ痔とは恥ずかしい、笑える病気だから、「よりによってイボ痔かよ」と盛大に草を生やしていい、という認識で使われている。
「病気を笑いのネタにするなんて、ほんとうにその病気で苦しんでいる人が見たら、どう思うか考えないの?! 非人道的な脚本だわ!!」とは別に、思ってない。や、病名を蔑称として利用する以上、そう非難されても仕方ないと思うし、そういう意味でも「やめておけよ」と思うけど、そこで過剰反応しているわけじゃない。
笑いを作るための手法として、「キライだ」と思うだけだ。
笑わせるために、ただそれだけのために、「イボ痔」を連発する。
その安直さがキライ。
「イボ痔」でも「カンチョー」でも「うんこ」でも、シモを連想させる言葉を「面白い」と思うセンスが、わたしの好みとはかけ離れている。
趣味の問題っすよ。
大きな注射器を持って「カンチョーしてやる!!」と追いかけてくるナース、というネタを、面白いと思えないように。
カンチョーってそんな面白いか?
素で首をかしげるわ。
下品だから嫌だ、というよりも、「そんな簡単な方法で笑いを取ろうとする品性が嫌」って感じかなあ。
谷せんせの「皆殺し」と同じだと思うの。
人が死ぬと、観客は泣くじゃん? どんだけ整合性も必要性もなくても、無残に登場人物が死ぬと、観客は泣く。
泣いたからって、「感動作」「名作」かは、別よね。人が死ぬから泣く、のはただの条件反射。
それと同じだと思う。「イボ痔」も「カンチョー」も。
整合性も必要性もなくても、とにかく「イボ痔!」とか「カンチョー!!」とか言えば、笑う人がいるの。それって条件反射じゃない? イボ痔も浣腸も、病名や医療行為であって、本来笑う言葉ではないのに、反応するわけだから。
とりあえず皆殺ししとくか、とりあえずシモ関係の単語入れとくか、それで観客大泣き、大爆笑、苦労してプロットだの演出だの工夫する必要なし、簡単簡単。
……的な、嫌さ。
イシダ作品には、そういう「センスの相容れなさ」が満ちている。
男子脳ギャグがダメなのかな。「イボ痔」が面白いのって、「ともだちんこ」に喜ぶ男子小学生に通ずるモノがあると思う。わたし、それ系ダメなんよ……。
さらに、タカラジェンヌという、清く正しく美しい女性たちに、あえて下ネタを言わせ、下品なポーズを取らせることに面白味を感じているんだろうな、と思えるところがまた、ドン引きポイント。
「イボ痔」でお尻を突き出すポーズを、若い女性にやらせることが、楽しいんだろうな。楽しいと思ってるから、やらせてるんだよな。……うわー……引く……。(はっ。トド様はもう「若い」に該当しないか……い、いやその、フェアリーだから、うん)
「イボ痔」も「カンチョー」も原作にそのまま書いてあるのかしら。イギリスでも「イボ痔」は「笑える病気」「笑っていい病気」だから?
そして、原作を一字一句変えてはならないという契約なのかしら。
それなら仕方ないけど。
原作は名脚本らしいし、シモ単語を声高に繰り返すことで笑いを取る手法を使っている可能性は、たしかにある。
「イボ痔」という単語が出るたびに笑う人は一定数いるのだから、手法として使うこと自体は間違ってない。
ほんと、趣味の問題。
わたしなら「イボ痔」なしでも、なにか他のことで笑わせる努力をするけどな。「カンチョー!!」なしで笑わせたいと思うけどな。
好みの相違なので、仕方ない。
あちこち相容れないセンスにドン引きしつつ、プロットの面白さに引き込まれた。
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『パパ・アイ・ラブ・ユー』初日観劇。
イシダせんせとは、笑いのツボが乖離していることが多く、笑えずに途方に暮れることがある。
たとえばわたしは、「イボ痔」という単語で笑えない。
作中で嘘に嘘を重ねる主人公が、口から出任せを言う。それが「痛風でイボ痔の患者」。
痛風だけでも別に構わないと思うけど、わざわざ「イボ痔」を強調する。
わたしは、「うわあ、嫌なセンスだ」と引く。
ここで語られる「イボ痔」は病名ではなく、ただの「笑わせるための、蔑称」として使われるんだ。
観客は「イボ痔」という単語に反応して笑う。
イボ痔とは恥ずかしい、笑える病気だから、「よりによってイボ痔かよ」と盛大に草を生やしていい、という認識で使われている。
「病気を笑いのネタにするなんて、ほんとうにその病気で苦しんでいる人が見たら、どう思うか考えないの?! 非人道的な脚本だわ!!」とは別に、思ってない。や、病名を蔑称として利用する以上、そう非難されても仕方ないと思うし、そういう意味でも「やめておけよ」と思うけど、そこで過剰反応しているわけじゃない。
笑いを作るための手法として、「キライだ」と思うだけだ。
笑わせるために、ただそれだけのために、「イボ痔」を連発する。
その安直さがキライ。
「イボ痔」でも「カンチョー」でも「うんこ」でも、シモを連想させる言葉を「面白い」と思うセンスが、わたしの好みとはかけ離れている。
趣味の問題っすよ。
大きな注射器を持って「カンチョーしてやる!!」と追いかけてくるナース、というネタを、面白いと思えないように。
カンチョーってそんな面白いか?
素で首をかしげるわ。
下品だから嫌だ、というよりも、「そんな簡単な方法で笑いを取ろうとする品性が嫌」って感じかなあ。
谷せんせの「皆殺し」と同じだと思うの。
人が死ぬと、観客は泣くじゃん? どんだけ整合性も必要性もなくても、無残に登場人物が死ぬと、観客は泣く。
泣いたからって、「感動作」「名作」かは、別よね。人が死ぬから泣く、のはただの条件反射。
それと同じだと思う。「イボ痔」も「カンチョー」も。
整合性も必要性もなくても、とにかく「イボ痔!」とか「カンチョー!!」とか言えば、笑う人がいるの。それって条件反射じゃない? イボ痔も浣腸も、病名や医療行為であって、本来笑う言葉ではないのに、反応するわけだから。
とりあえず皆殺ししとくか、とりあえずシモ関係の単語入れとくか、それで観客大泣き、大爆笑、苦労してプロットだの演出だの工夫する必要なし、簡単簡単。
……的な、嫌さ。
イシダ作品には、そういう「センスの相容れなさ」が満ちている。
男子脳ギャグがダメなのかな。「イボ痔」が面白いのって、「ともだちんこ」に喜ぶ男子小学生に通ずるモノがあると思う。わたし、それ系ダメなんよ……。
さらに、タカラジェンヌという、清く正しく美しい女性たちに、あえて下ネタを言わせ、下品なポーズを取らせることに面白味を感じているんだろうな、と思えるところがまた、ドン引きポイント。
「イボ痔」でお尻を突き出すポーズを、若い女性にやらせることが、楽しいんだろうな。楽しいと思ってるから、やらせてるんだよな。……うわー……引く……。(はっ。トド様はもう「若い」に該当しないか……い、いやその、フェアリーだから、うん)
「イボ痔」も「カンチョー」も原作にそのまま書いてあるのかしら。イギリスでも「イボ痔」は「笑える病気」「笑っていい病気」だから?
そして、原作を一字一句変えてはならないという契約なのかしら。
それなら仕方ないけど。
原作は名脚本らしいし、シモ単語を声高に繰り返すことで笑いを取る手法を使っている可能性は、たしかにある。
「イボ痔」という単語が出るたびに笑う人は一定数いるのだから、手法として使うこと自体は間違ってない。
ほんと、趣味の問題。
わたしなら「イボ痔」なしでも、なにか他のことで笑わせる努力をするけどな。「カンチョー!!」なしで笑わせたいと思うけどな。
好みの相違なので、仕方ない。
あちこち相容れないセンスにドン引きしつつ、プロットの面白さに引き込まれた。
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