『ドン・ジュアン』DC版について。

 回想場面の母@うきちゃんは、聖書を持っていたりロザリオを持っていたり、なんか日替わりでやっていたらしい。
 演出している生田せんせに、答えが出ていないのかな。

 細部はともかく、わかっていることは、「母の死はドン・ジュアンと無関係」ということだ。
 ドン・ジュアンが母を死に追いやったわけではなく、母はなんらかの要因で亡くなり(病死と思われる)、ドン・ジュアンはそれゆえに神を信じなくなる。

 えーと。
 このエピソード、よくわかんない……。

 そんなことぐらいでドン・ジュアンが今の人格になったの?

 そんなこと、って、「母の死」を軽く扱っているわけではなくて。
 母の死は大ごとですよ、もちろん。
 しかし、「ドン・ジュアン」という男の存在が強烈であるがゆえに、「物語あるある」の簡単お手軽理由を取って付けられると、すごく萎えます……。

 マザーファッカーは最悪、いくらなんでも行きすぎ設定、ってことでNGが出たため、仕方なく改編したとしても、今のネタは安直すぎてかえって意味がわからない。
 それならいっそ、「美しい優しい母」が微笑んでくるくる踊っているだけでよかったわ。
 美しい母と、しあわせそうな少年ジュアン@ひまりちゃん。
 それだけで、なんの作為もなく答えもなく、ドン・ジュアン@だいもんが舞台手前でうずくまり、爪を噛んでいる。
 犯さなくていいし、死ななくていい。ただしあわせなだけでいい。
 ……それでも、現在のジュアンの歪みっぷりから、いくらでも観客は想像の翼を広げることが出来るはずだ。
 母とナニがあったの? 母はどうしたの? あの少年が何故こうなったの?
 想像出来ない人は置き去りにしていいよ、そんな「誰もが平等に同じ答えを得られるように導いてくれないなんて駄作だ」てな姿勢の人は放置してヨシ。それぞれが自分の身の丈に合った範囲で楽しめばいい、受け取ればいい。そういう作品でしょコレ。

 DC初日を観て「整理が着かない」と書いた。
 でもわたしはすぐに、投げ出した。

 どう考えても、KAAT版が正しいじゃん?
 企画からKAAT初日まで「母自殺」版で練られてきて、丸1ヶ月かけてお稽古して、KAAT千秋楽まで舞台上で熟成されてきたんでしょう?
 それを変更したのは、なにかしらアクシデントがあったからよね?
 最初から「DCでは演出変更します」と2パターンの芝居を作り、2パターンのお稽古をしてきたわけじゃないよね? だったらDC初日から母の芝居が日替わりで試行錯誤中になるわけないもん。
 急遽変えざるを得なくなった。しかも、あまりに急すぎるから決定稿がDC初日に間に合わなかった。幕開いてからいろいろ試すしかないほどに。……という想像をしてしまう。この迷走ぶり。

 どう考えても、正しいのはKAAT版じゃん。
 劇団のおえらいさんとかスポンサー筋とか、どこから変更指示が入ったのかは知らないが。
 たとえ原作サイドからの変更指示だったとしても、KAAT版を正解だと思う。
 原作は原作でしかなく、宝塚歌劇団で上演が決まった段階で、原作とは別モノだからだ。や、出演者全員女性、ってだけで、別モノ必至でしょ。
 母自殺、マザーファッカーを必要不可欠な要因として、この物語は構築された。
 すべての展開、感情、バランスは、それゆえに。

 原作者だろうと運営側だろうとスポンサーだろうと、作品に口出しすること自体は仕方ないことだし、してもいいと思うよ。
 それによって変更されるのは、残念だけど、商業社会にはままあること。どんなに阿呆な改悪指示であったとしても、だ。
 クリエイターは口をつぐんで、自作にハサミを入れる。「スポンサーに口出しされたから、変更を余儀なくされました。とても不本意です」とは言えない。言ってはいけない。ソレも含めて「仕事」だからだ。

 生田くんも劇団も、変更理由の公式アナウンスはしないだろう。
 KAAT版はソフト化されないらしいし、「なかったこと」にされるのだろう。

 でも、「変更され前の、本来の作品」を観た者が、「変更される前の作品を観て感じたこと」を「肯」としてもいいはずだ。


 DC版を観て「え、なにコレわからない」と思った。
 そしてすぐに、解決した。

 見なかったことにしよう。

 回想シーンは、KAAT版のままってことで。
 ドン・ジュアンの後ろで繰り広げられているのは、「究極の悪徳」ということで。

 ごめんね、うきちゃん、ひまりちゃん。
 熱演はちゃんと見ているよ。
 でも、「物語」としては別なの。

 これは観客の特権。
 フィクションを好きに受け取り、咀嚼する。

コメント

日記内を検索