すべての原因は、そこにある。@星逢一夜
2015年8月25日 タカラヅカ 『星逢一夜』についてうだうだ語る、前日欄からの続き。
以上のことから、結論する。
『星逢一夜』のすべての歪みの原因は、吉宗にある。
……結論する、ですよ、ナニこの人断言してますよ。ナニ言ったところでわたしが勝手に思っているだけのことで、他人様から見れば「え、マジで言ってんの、的外れ過ぎる」てなもんだとしても、考えることが、語ることがたのしいから、勝手に語っちゃいますのよ(笑)。
これまでわたしが抱いてきた疑問。違和感。
・源太の情報量の少なさ
・冒頭ナレーションの違和感
・2度目の江戸城場面の不可解さ
・逃げ出す晴興、誰も救われない物語
源太@だいもんを、晴興@ちぎの親友だと思って観ていたから、「ただの知り合い」レベルの描き方に驚いた。
泉@みゆちゃんをめぐっての三角関係であり、がっつり組んだ2番手の役柄だと思うからこそ、その書き込みの少なさに首をかしげた。
初見で「なんだ、源太は親友じゃなかったのか」と思った翌日、2回目の観劇で「私たちがはじめて出会ったのは星逢の夜だった。あの娘と、あの少年と、私がはじめて出会ったのは……」という冒頭ナレーションを聞いて、すげー違和感を持った。
運命の恋人・泉と同じレベルで語られるほど、晴興は源太に好意も興味もないじゃん? 「2番手の役だから、持ち上げておくしかない(消去法にて、仕方なくそうした)」ということ?
2度目の江戸城の場面のみ、視点が乱れている。
晴興も吉宗@エマさんも、突然人格が変わっている。
人格が変わった理由を、「泉との別れのせい」だとミスリードしている。他に理由があるはずなのに、そこには触れない。ことさら三日月藩を俎上に載せて、それこそが原因であるように見せかける。
一揆を起こした三日月藩の農民たちは、処刑は免れたけれど状況は上向くどころか悪化。一揆前より酷い生活になる。晴興ひとり重責から逃げ、楽になる。源太犬死に。
檻の中へ逃げた晴興も含め、登場人物誰ひとりしあわせにならないEND。
これらの疑問はすべて、「吉宗の描き方」に起因がある。
晴興にとって最も重要な人物が、吉宗だからだ。
「天野晴興」という人物にいちばん大きな影響を与えたのは、恋人・泉でも恋敵・源太でもない。
吉宗だ。
極端な話、泉がいなくても、源太がいなくても、吉宗がいれば、『星逢一夜』を今とまったく同じストーリーで、構築出来る。
泉はヒロインだからいてもいいけれど、ぶっちゃけ、源太はいなくていい。
物語の本筋に絡むキャラ(吉宗)を脇役にし、いなくてもいいキャラ(源太)を無理矢理本筋に絡めた……ことに、すべての歪みが生じている。
『星逢一夜』は晴興と泉のラヴストーリーだが、晴興は恋愛だけ考えて終わる男ではなく、恋愛しつつも別の軸で人生を生きている。
国政に関わる者としての、人生だ。
将軍・吉宗の下で、享保の改革を行う、という大物人生。
そして、このふたつのファクタは、相反する位置にある。
愛(泉)を取れば、仕事(吉宗)を捨てねばならない。
第一段階、星逢祭りの時点で、晴興は泉を捨てて吉宗を取っている。
祭りの幻想ダンスにて、吉宗が登場し、泉-晴興-吉宗の三角関係を表現している。晴興の泉への愛に立ちふさがる者は、源太ではなく吉宗。
晴興は、泉か吉宗か、どちらかしか取れないんだ。
惑った結果、晴興は吉宗を取った。
だが、最終的に晴興は吉宗を捨てる。
共に歩むと誓ったのに、吉宗ひとりを修羅の道へ残し、晴興はケツをまくる。
櫓の上で泉と再会し、愛を語るのは、吉宗を捨てたあとだからだ。
晴興は、どちらかしか得られない。泉に愛を告げるには、吉宗と別れるしかなかった。……泉とも共には生きられないけれど、たとえ一時の夢であれ「共に逃げる」話が出来たのは、吉宗を捨てたあとだから。
や、泉と吉宗を同列に語ってるけど、別に腐った意味じゃないよ(笑)。
恋と、仕事・同志への敬愛は、男にとって同等の重みがあるから。
晴興一人称小説を書こうとすると、物語の軸は2本になる。泉を中心にした恋愛面と、吉宗を中心にした仕事面と。
2本軸で展開する物語なのに、そのうちの1本を「なかったこと」にしているから、話がおかしくなる。
途中まではいいんだ。蛍村の子どもたち+泉との出会い、江戸での吉宗との出会い、三日月藩に藩主として戻り、星逢祭りで泉と再会、泉と生きることは出来ない、自分の居場所は吉宗の下だと決断。
ここまでは、ちゃんと2本軸で描かれている。
が、次の江戸城の場面。ここがおかしいのは、軸の片方、吉宗ラインを描くべき箇所で、それをしていないためだ。
晴興の人格が変わってしまったのは、泉や三日月藩が原因ではない。
泉ラインは星逢祭りまでしかない。それきり10年、無関係な場所で生きているのだから。
星逢祭りのあとも続いているのはもうひとつの軸、吉宗ラインだ。
吉宗ラインで10年の時が流れ、晴興になにかあり、人格が変わってしまった。
……となれば。
どう考えたって、その原因は、吉宗にある。
なのに、それを無視して、「10年も前の泉との別れ・三日月藩が原因」だと説明台詞をたたみ掛ける。
おいおいおい、なんだそれ気持ち悪いな。
目の前に転がった死体を無視して、「腐臭がするわ、なにかしら」「10年前に何百キロも離れた場所に死体があったから、それが原因よ」って話してる、ゆがんだ絵を見せられてるみたい。
や、そこに死体あるじゃん、足元見ようよ、みんなわかってるんでしょ? なんで見ないフリしてるの?
気づくとまずいから、不都合があるから、わざと「死体なんかありませんよ」という体で他の話をしているの。その場にいる人たち全員が結託して。
ホラーですわ。
吉宗が原因、だということを気づかせないために、この場面のみ晴興の一人称ではなくなっている。
地の文で嘘は書けないから、晴興自身の語りでは、書けなかったのね。ここだけ三人称にして、でも、三人称だということが読者に気づかれないよう細工する。うわお。
……続く。
以上のことから、結論する。
『星逢一夜』のすべての歪みの原因は、吉宗にある。
……結論する、ですよ、ナニこの人断言してますよ。ナニ言ったところでわたしが勝手に思っているだけのことで、他人様から見れば「え、マジで言ってんの、的外れ過ぎる」てなもんだとしても、考えることが、語ることがたのしいから、勝手に語っちゃいますのよ(笑)。
これまでわたしが抱いてきた疑問。違和感。
・源太の情報量の少なさ
・冒頭ナレーションの違和感
・2度目の江戸城場面の不可解さ
・逃げ出す晴興、誰も救われない物語
源太@だいもんを、晴興@ちぎの親友だと思って観ていたから、「ただの知り合い」レベルの描き方に驚いた。
泉@みゆちゃんをめぐっての三角関係であり、がっつり組んだ2番手の役柄だと思うからこそ、その書き込みの少なさに首をかしげた。
初見で「なんだ、源太は親友じゃなかったのか」と思った翌日、2回目の観劇で「私たちがはじめて出会ったのは星逢の夜だった。あの娘と、あの少年と、私がはじめて出会ったのは……」という冒頭ナレーションを聞いて、すげー違和感を持った。
運命の恋人・泉と同じレベルで語られるほど、晴興は源太に好意も興味もないじゃん? 「2番手の役だから、持ち上げておくしかない(消去法にて、仕方なくそうした)」ということ?
2度目の江戸城の場面のみ、視点が乱れている。
晴興も吉宗@エマさんも、突然人格が変わっている。
人格が変わった理由を、「泉との別れのせい」だとミスリードしている。他に理由があるはずなのに、そこには触れない。ことさら三日月藩を俎上に載せて、それこそが原因であるように見せかける。
一揆を起こした三日月藩の農民たちは、処刑は免れたけれど状況は上向くどころか悪化。一揆前より酷い生活になる。晴興ひとり重責から逃げ、楽になる。源太犬死に。
檻の中へ逃げた晴興も含め、登場人物誰ひとりしあわせにならないEND。
これらの疑問はすべて、「吉宗の描き方」に起因がある。
晴興にとって最も重要な人物が、吉宗だからだ。
「天野晴興」という人物にいちばん大きな影響を与えたのは、恋人・泉でも恋敵・源太でもない。
吉宗だ。
極端な話、泉がいなくても、源太がいなくても、吉宗がいれば、『星逢一夜』を今とまったく同じストーリーで、構築出来る。
泉はヒロインだからいてもいいけれど、ぶっちゃけ、源太はいなくていい。
物語の本筋に絡むキャラ(吉宗)を脇役にし、いなくてもいいキャラ(源太)を無理矢理本筋に絡めた……ことに、すべての歪みが生じている。
『星逢一夜』は晴興と泉のラヴストーリーだが、晴興は恋愛だけ考えて終わる男ではなく、恋愛しつつも別の軸で人生を生きている。
国政に関わる者としての、人生だ。
将軍・吉宗の下で、享保の改革を行う、という大物人生。
そして、このふたつのファクタは、相反する位置にある。
愛(泉)を取れば、仕事(吉宗)を捨てねばならない。
第一段階、星逢祭りの時点で、晴興は泉を捨てて吉宗を取っている。
祭りの幻想ダンスにて、吉宗が登場し、泉-晴興-吉宗の三角関係を表現している。晴興の泉への愛に立ちふさがる者は、源太ではなく吉宗。
晴興は、泉か吉宗か、どちらかしか取れないんだ。
惑った結果、晴興は吉宗を取った。
だが、最終的に晴興は吉宗を捨てる。
共に歩むと誓ったのに、吉宗ひとりを修羅の道へ残し、晴興はケツをまくる。
櫓の上で泉と再会し、愛を語るのは、吉宗を捨てたあとだからだ。
晴興は、どちらかしか得られない。泉に愛を告げるには、吉宗と別れるしかなかった。……泉とも共には生きられないけれど、たとえ一時の夢であれ「共に逃げる」話が出来たのは、吉宗を捨てたあとだから。
や、泉と吉宗を同列に語ってるけど、別に腐った意味じゃないよ(笑)。
恋と、仕事・同志への敬愛は、男にとって同等の重みがあるから。
晴興一人称小説を書こうとすると、物語の軸は2本になる。泉を中心にした恋愛面と、吉宗を中心にした仕事面と。
2本軸で展開する物語なのに、そのうちの1本を「なかったこと」にしているから、話がおかしくなる。
途中まではいいんだ。蛍村の子どもたち+泉との出会い、江戸での吉宗との出会い、三日月藩に藩主として戻り、星逢祭りで泉と再会、泉と生きることは出来ない、自分の居場所は吉宗の下だと決断。
ここまでは、ちゃんと2本軸で描かれている。
が、次の江戸城の場面。ここがおかしいのは、軸の片方、吉宗ラインを描くべき箇所で、それをしていないためだ。
晴興の人格が変わってしまったのは、泉や三日月藩が原因ではない。
泉ラインは星逢祭りまでしかない。それきり10年、無関係な場所で生きているのだから。
星逢祭りのあとも続いているのはもうひとつの軸、吉宗ラインだ。
吉宗ラインで10年の時が流れ、晴興になにかあり、人格が変わってしまった。
……となれば。
どう考えたって、その原因は、吉宗にある。
なのに、それを無視して、「10年も前の泉との別れ・三日月藩が原因」だと説明台詞をたたみ掛ける。
おいおいおい、なんだそれ気持ち悪いな。
目の前に転がった死体を無視して、「腐臭がするわ、なにかしら」「10年前に何百キロも離れた場所に死体があったから、それが原因よ」って話してる、ゆがんだ絵を見せられてるみたい。
や、そこに死体あるじゃん、足元見ようよ、みんなわかってるんでしょ? なんで見ないフリしてるの?
気づくとまずいから、不都合があるから、わざと「死体なんかありませんよ」という体で他の話をしているの。その場にいる人たち全員が結託して。
ホラーですわ。
吉宗が原因、だということを気づかせないために、この場面のみ晴興の一人称ではなくなっている。
地の文で嘘は書けないから、晴興自身の語りでは、書けなかったのね。ここだけ三人称にして、でも、三人称だということが読者に気づかれないよう細工する。うわお。
……続く。
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