『アル・カポネ―スカーフェイスに秘められた真実―』を独自に作ってみる、その2。

 1から作るのではなく、あくまでも今ある原田作品をベースに。
 変更部分のみ書いてるので、ジャックとエリオットの立ち位置解説になってます。


 誰も知らない「スカーフェイスに秘められた真実」を語るジャック、ゆえに「知らない者」を敵視・見下す。
 「知らない」から「表面的事実」のみを語るエリオット、ゆえに「スカーフェイスに秘められた真実」を知りたいと考える。

 ジャック@まなはるは、アル・カポネ@だいもんを愛し、それゆえなんでもかんでもカポネに都合良いいように解説していた。
 エリオット@かなとは、捜査官として得た資料をただ朗読していただけなので、冷徹に「客観的事実」のみを語っていた。
 が。

 エリオットは、昔自分を助けてくれた青年が、アル・カポネだと気づく。そこから、「アル・カポネ=悪」という世間の常識に疑問を持つ。
 捜査官として冷静に冷徹にカポネを追い詰めつつも、内心ではカポネ自身を知りたいと思う。
 依然「表面的事実」を語りつつも、その際後に必ず「事実ではなく、真実は?」と問いかける。
 立場を偽ってカポネに近づき、友人になる。カポネ自身を知ることで、自分が知っていた「表面的事実」がすべてではないことを知る。

 ジャックは私的な語りをしてきた。なんでもかんでもカポネに都合良くフィルターをかけてきた。ゆえに、そのフィルターが歪み出したとき、語られる「真実」も歪み出す。
 エリオットへの嫉妬が、それまでの「兄貴すげー」「兄貴をいちばん理解している俺」語りに影を落とす。
 カポネの言動解説に、いちいち「理解出来ない」「賛成出来ない」という意見が入るようになる。

 結局のところ、カポネはオヘア@あすの裏切りによって破滅するのだけど、それをとりまく「語り」では、ジャックとエリオットの立ち位置が最初と逆転している、と。
 ジャックは悪意寄りになり、エリオットは愛情寄りになっている。
 オヘアの裏切りも、ジャックの視点が濁ったことによって防げなかった、ぐらいに関連を持たせて。原田脚本のジャック、1幕であんだけ尺取ってソロまで歌わせてるのに、2幕なんにもしなさすぎ。

 つっても、ジャックが徹頭徹尾カポネLOVEなのは変わらない。語りに嫉妬と悪意が入るだけで、敵になるわけじゃない。ずっとずっとカポネの味方。家族。
 カポネの破滅は「防げなかった」だけで、ジャックが「陥れた」わけじゃない……けど、ジャックは自分を責める。「自分に、ナニか出来たんじゃないか?」と。
 エリオットもまた、「自分に、ナニか出来たんじゃないか?」と、自責の念にぐるぐるしている。オヘアさんを殴り倒していいけど「彼はボクの親友だ!」はカット。

 ジャックとエリオットの立ち位置だけ語ってきたから、まるで彼らこそが主役、彼らの物語みたいねー。
 そうじゃなくて、アル・カポネはアル・カポネとして、ふつーに一通りやっている。
 もとの原田作品の場面やエピソードの端々に、「意図」を持った解説入れるの。自分では、「パッケージ作業」と勝手に呼んでいる。別売りばらばら商品でも、ひとつの箱に入れてリボンを掛ければ、立派なひとつのプレゼントになるでしょ? それと同じ。
 原田くんの「出来事箇条書き」内容を、ひとつのパッケージに収めるの。「真実とは?」をキーワードに。

 原田脚本のままだから、カポネ自身はふつーに彼の人生生きていて、ドラマチックにドンパチやって、がおりさんと戦ったり、悪いことして大儲けしたり、妻のメアリー@せしこといちゃいちゃしたりしている。
 ジャックとの関係は基本原田脚本のまま、大幅に書き込むのはエリオット。ふたりの愛憎メイン、ってくらいに。
 妻メアリーは聖域扱い、カポネの癒しとして要所要所に登場。
 パパ・ジョニーは出番減ってるのではっちさんではなく、別の人で。はっちさんは長官単独。
 個人的にオヘアさんの出番増やしたい。裁判のどさくさとかで、歌って欲しいわ。あすくん歌わせないとか意味わかんない。
 ベン@ひとこは、これら「当事者たちの大騒ぎ」のさらに外側にいる存在。ドン・カポネの映画脚本執筆のため、資料集めをしている体で。気楽にゴシップを楽しみ、被害者にも糺弾者にもなれる立場の代表。歌ってくれてヨシ。

 ラストシーンは駅でいいし、妻子とジャックが見送りに来ているでいい。
 ただ、ここでジャックにもひとこと欲しい。
 遅れて登場するエリオットが、映画の話をするのもそのままで。友人のふりをしていたときに、カポネがモデルの映画があるぞ、と話題になり、「一緒に見に行こう」と、別れが決まっているふたりの定番「叶うはずのナイ約束」をしていたのさ、ああ切ない。
 「どうせ酷い悪党に描かれているんだろう」と決めつけていたカポネさん。実際、傍観者としてのベンは無責任に歌っていたし。
 だけど、エリオットは「映画の最後が良かった」と言う。世紀のギャングスター・カポネを讃えるかのようなフレーズのあるラストシーン。
 それはカポネがわざわざベンを誘拐して「俺は悪くない」と語ったから、カポネを讃えるラストに変更したのではない。当事者ではない・外側の事情しか知らない者が、想像力で、フィクションとして、描いたラストシーンだ。
 作家が調べた事実を元に自由に書いていいのがフィクションだし、そしてそれを見た者が、自由に受け止めてのがフィクションだ。
 悪党が死んだ、という事実は変わらなくても、それをどう受け取るのかは人によってチガウ。
 エリオットは、死せる悪党の人生を肯定する。映画の話のふりをして、友人カポネの人生を、肯定してみせる。

 ふたりで見るはずだった映画、の話をしつつ、カポネはエリオットの真意を受け取る。

 で、END。

 妻メアリーと息子ソニー、弟分ジャックと、親友エリオット。
 愛する者たちに見送られ、カポネは去って行くわけだ。


 カポネさんの堅気の少年時代からだらだら出来事羅列せんでヨシ。
 シカゴ時代を濃縮して「真実とはなにか」を、揺るがないだいもんをどーん、ばーーん、と描き、それに対する彩りとしてアツいまなはると、繊細に揺れ動くかなとくんとで描いてくれればヨシ。

 番手的には、やっぱ2番手がエリオット@かなと、3番手ジャック@まなはる。
 ジャックは語りをするだけで、「ドラマ」としてはエリオットが動かすから。原田くんは出来事箇条書きするだけで、エリオットを使い切れてないけど。ちゃんと使えば、エリオットはおもしろいキャラクタ。


 だいもんが力尽くで成り立たせちゃってるけど、これ、実力や求心力に欠ける人がやったら、大惨事やなあ。と、『アル・カポネ』を観たときに思った。
 平坦で盛り上がらない話がえんえん続き、感情移入どころじゃないうすっぺらなキャラが右往左往するだけって……。
 平らな道に、だいもんが自力で山場を作ってるの。
 まなはるもよく食らいついてる。かなとくんはもうちょいがんばれ。

 ネタがおいしいだけに、残念極まりない。
 だから勝手に、妄想構成。わたしに脚本書く素養はないので、ほんと勝手語りなだけっす。

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