分解と再構築による発見・その2。@追憶のバルセロナ
2015年2月22日 タカラヅカ 物語というものについての、発見。
てゆーか、自分的アタマの体操。……の、続き。
というか、こっからが本題(笑)。
『追憶のバルセロナ』という作品について。
大劇場本公演のときは、びみょー作だった。
が、歌とダンスと無駄な出演者数を削って、20人ほどで演じる30分のストレートプレイにすると、面白かった。
なんだよ、プロットは面白いんじゃん! と、目からウロコ。
それはともかくとして、だ。
興味深かったのは、「視点」。
正塚作『追憶のバルセロナ』は、宝塚音楽学校第101期生文化祭の演劇『黒い風の物語』として焼き直された。
そう、なんでいきなり、今さら、『追憶のバルセロナ』の話をはじめたかって、文化祭を観たからなのよ!(笑)
最初は『追憶のバルセロナ』だと知らずに観た。キャラ名おぼえてないし、スペイン物でよくある名前だから気にしてなかった。
主人公の青年が男前で、その恋人が華やかな美女で、このふたりが出てきただけで「タカラヅカ」として納得。ああこれからこのふたりの物語がはじまるのねと。
文化祭の悲しさで、登場人物の年齢がわからない。主人公とその親友、その父親たちの年齢差がわからない。主人公は男前でいかにもな主役っぽさがあるからいいんだけど、親友くんはひょろりと頼りなく、お父さんとの差別化がわたしにはわかりにくい。
まあいいや、主人公とヒロインがこんだけ美形で主役度高いんだから、このふたりだけ区別ついてりゃなんとかなるだろ。
そう思って観ていたから。
その後出征した主人公が戦死、だが実は彼、記憶を失いジプシーに拾われていたのだった……ってこれ、『追憶のバルセロナ』じゃん!!←このあたりでよーやく気づいた。
てことは、ヒロインは最初に出てきた美女じゃなくて、今よーやく出てきたジプシー娘よね……えええ?
タカラヅカの番手マジック。
観客は、観る前から「誰がヒロインか」を知っている。
『追憶のバルセロナ』本公演時は、トップ娘役はまひるちゃんだと知っているから、どんだけとなみちゃんが美女然として先に登場しても、「ただの脇役、当て馬ね」と思って見ている。
が、予備知識なしの文化祭では、そうはいかない。
あの美女がヒロインじゃなかったの?! てゆーか真のヒロイン、地味~~。
いやその。まひるちゃん役の子も、単体で見るとちゃんとかわいくて華があるんだと思う。でも、演出が悪いわー。
短編書くときの鉄則。
メインキャラは、先に出す。
読者・視聴者は最初に出てきたキャラを主人公・ヒロインと認識する。刷り込まれちゃうのな。ソレを覆すのは大変だし、無駄に技術と時間が必要だから、短編でやるこっちゃない。
マンガやドラマで、ヒロインより先に当て馬の女の子が登場することももちろん物語上いくらでもあるが、その場合は絵柄や書き込み方、カメラワークなどで「ヒロインは別にいますよ」とわかるように、読者・視聴者がこの子をヒロインだと誤解しないように演出する。
でも、舞台ではそういう小細工できないから。
あとから現れたジプシーの女の子が、主人公の婚約者の美女よりも自力で輝かなければ、ヒロインに見えないのだわ……。
そして、気の毒なことにこのジプシー娘ちゃん、華と美貌という点では、婚約者美女ちゃんに完敗していた……。
『追憶のバルセロナ』だと気づいたあとも、あのジプシー娘ちゃんがまひるの役だって気づくのにタイムラグがあったよ……婚約者美女ちゃんのインパクトが強すぎて。
物語冒頭の主人公と婚約者美女ちゃんの似合いっぷりが強烈だったために、元の話を知っていてなお、「時代に引き裂かれた恋人同士の物語」と見てしまった。ヒロインは婚約者美女ちゃん。ジプシー娘ちゃんは、癒しキャラ。や、悲恋ENDだと救いがないから、主人公ラヴで後ろに勝手にくっついてくる子犬系少女がいると救いになるなと。
実際に目の当たりにした「ヒロイン変更」っぷりに、改めて考えるわけだ。
どこに「視点」を置くか。
文化祭の演劇には、「主役」は存在しないのかもしれない。
正塚せんせがそう思っているのか、彼が演劇担当した文化祭では、配役表の書き方がひどかった。主役が配役表の一番上に来るのではなく、「出演者」のあいうえお順表記……。いちばん上が、本名「あ」ではじまる人……出席簿か。
今回、ちゃんと主役のフランシスコ役が、一番上に書かれてて、かえって感心したくらいさ……。
てな正塚せんせだから、一応フランシスコ主役で書いてはいるけれど、文化祭らしい群像劇になっている。いろんな子に役と台詞が行き渡るように。
その分散漫な作りにはなっているんだけど。
それにしても、「ヒロインが誰か」わかりにくかった。
『追憶のバルセロナ』では、主人公フランシスコと、彼を助けたジプシーの娘イサベルの恋物語だった。フランシスコとその婚約者セシリアには、あまり強い恋情は感じなかった。
が、『黒い風の物語』では、フランシスコとセシリア、そしてアントニオの三角関係が強く印象づけられた。イサベルは、脇役にしか見えなかった。……出番も台詞も多いのに。
理由は先に挙げた通り、セシリア役の娘役ちゃんがあまりに華やかな美少女だったためだ。
フランシスコ役の美青年とお似合いで、ふたりがぶっちぎりに「タカラヅカ」していたため、彼らを「トップコンビ」だとわたしがインプットして観てしまったんだ。
が。
ここで考える。
もしも、最初に登場していたのが、イサベルだったらどうだろう?
イサベルがフランシスコを助けるところから、物語がスタートしていたら。
記憶喪失のフランシスコと、優しく奔放なイサベルが、徐々に気持ちを近づけていく様を観て、素直にふたりの恋物語だと思ったろう。
そのあとでフランシスコの記憶が戻って婚約者セシリアが登場しても、そのセシリアがすっげー美女でも、「ヒロインはイサベル」だと揺るがずに思っただろう。
これが「短編の鉄則」か!!
作劇のルールは知ってたけど、身をもって知ると感慨深いな!
てことで、同じプロットでも「視点」の位置でここまで変化するのだと、改めて知ったわけだ。
てゆーか、自分的アタマの体操。……の、続き。
というか、こっからが本題(笑)。
『追憶のバルセロナ』という作品について。
大劇場本公演のときは、びみょー作だった。
が、歌とダンスと無駄な出演者数を削って、20人ほどで演じる30分のストレートプレイにすると、面白かった。
なんだよ、プロットは面白いんじゃん! と、目からウロコ。
それはともかくとして、だ。
興味深かったのは、「視点」。
正塚作『追憶のバルセロナ』は、宝塚音楽学校第101期生文化祭の演劇『黒い風の物語』として焼き直された。
そう、なんでいきなり、今さら、『追憶のバルセロナ』の話をはじめたかって、文化祭を観たからなのよ!(笑)
最初は『追憶のバルセロナ』だと知らずに観た。キャラ名おぼえてないし、スペイン物でよくある名前だから気にしてなかった。
主人公の青年が男前で、その恋人が華やかな美女で、このふたりが出てきただけで「タカラヅカ」として納得。ああこれからこのふたりの物語がはじまるのねと。
文化祭の悲しさで、登場人物の年齢がわからない。主人公とその親友、その父親たちの年齢差がわからない。主人公は男前でいかにもな主役っぽさがあるからいいんだけど、親友くんはひょろりと頼りなく、お父さんとの差別化がわたしにはわかりにくい。
まあいいや、主人公とヒロインがこんだけ美形で主役度高いんだから、このふたりだけ区別ついてりゃなんとかなるだろ。
そう思って観ていたから。
その後出征した主人公が戦死、だが実は彼、記憶を失いジプシーに拾われていたのだった……ってこれ、『追憶のバルセロナ』じゃん!!←このあたりでよーやく気づいた。
てことは、ヒロインは最初に出てきた美女じゃなくて、今よーやく出てきたジプシー娘よね……えええ?
タカラヅカの番手マジック。
観客は、観る前から「誰がヒロインか」を知っている。
『追憶のバルセロナ』本公演時は、トップ娘役はまひるちゃんだと知っているから、どんだけとなみちゃんが美女然として先に登場しても、「ただの脇役、当て馬ね」と思って見ている。
が、予備知識なしの文化祭では、そうはいかない。
あの美女がヒロインじゃなかったの?! てゆーか真のヒロイン、地味~~。
いやその。まひるちゃん役の子も、単体で見るとちゃんとかわいくて華があるんだと思う。でも、演出が悪いわー。
短編書くときの鉄則。
メインキャラは、先に出す。
読者・視聴者は最初に出てきたキャラを主人公・ヒロインと認識する。刷り込まれちゃうのな。ソレを覆すのは大変だし、無駄に技術と時間が必要だから、短編でやるこっちゃない。
マンガやドラマで、ヒロインより先に当て馬の女の子が登場することももちろん物語上いくらでもあるが、その場合は絵柄や書き込み方、カメラワークなどで「ヒロインは別にいますよ」とわかるように、読者・視聴者がこの子をヒロインだと誤解しないように演出する。
でも、舞台ではそういう小細工できないから。
あとから現れたジプシーの女の子が、主人公の婚約者の美女よりも自力で輝かなければ、ヒロインに見えないのだわ……。
そして、気の毒なことにこのジプシー娘ちゃん、華と美貌という点では、婚約者美女ちゃんに完敗していた……。
『追憶のバルセロナ』だと気づいたあとも、あのジプシー娘ちゃんがまひるの役だって気づくのにタイムラグがあったよ……婚約者美女ちゃんのインパクトが強すぎて。
物語冒頭の主人公と婚約者美女ちゃんの似合いっぷりが強烈だったために、元の話を知っていてなお、「時代に引き裂かれた恋人同士の物語」と見てしまった。ヒロインは婚約者美女ちゃん。ジプシー娘ちゃんは、癒しキャラ。や、悲恋ENDだと救いがないから、主人公ラヴで後ろに勝手にくっついてくる子犬系少女がいると救いになるなと。
実際に目の当たりにした「ヒロイン変更」っぷりに、改めて考えるわけだ。
どこに「視点」を置くか。
文化祭の演劇には、「主役」は存在しないのかもしれない。
正塚せんせがそう思っているのか、彼が演劇担当した文化祭では、配役表の書き方がひどかった。主役が配役表の一番上に来るのではなく、「出演者」のあいうえお順表記……。いちばん上が、本名「あ」ではじまる人……出席簿か。
今回、ちゃんと主役のフランシスコ役が、一番上に書かれてて、かえって感心したくらいさ……。
てな正塚せんせだから、一応フランシスコ主役で書いてはいるけれど、文化祭らしい群像劇になっている。いろんな子に役と台詞が行き渡るように。
その分散漫な作りにはなっているんだけど。
それにしても、「ヒロインが誰か」わかりにくかった。
『追憶のバルセロナ』では、主人公フランシスコと、彼を助けたジプシーの娘イサベルの恋物語だった。フランシスコとその婚約者セシリアには、あまり強い恋情は感じなかった。
が、『黒い風の物語』では、フランシスコとセシリア、そしてアントニオの三角関係が強く印象づけられた。イサベルは、脇役にしか見えなかった。……出番も台詞も多いのに。
理由は先に挙げた通り、セシリア役の娘役ちゃんがあまりに華やかな美少女だったためだ。
フランシスコ役の美青年とお似合いで、ふたりがぶっちぎりに「タカラヅカ」していたため、彼らを「トップコンビ」だとわたしがインプットして観てしまったんだ。
が。
ここで考える。
もしも、最初に登場していたのが、イサベルだったらどうだろう?
イサベルがフランシスコを助けるところから、物語がスタートしていたら。
記憶喪失のフランシスコと、優しく奔放なイサベルが、徐々に気持ちを近づけていく様を観て、素直にふたりの恋物語だと思ったろう。
そのあとでフランシスコの記憶が戻って婚約者セシリアが登場しても、そのセシリアがすっげー美女でも、「ヒロインはイサベル」だと揺るがずに思っただろう。
これが「短編の鉄則」か!!
作劇のルールは知ってたけど、身をもって知ると感慨深いな!
てことで、同じプロットでも「視点」の位置でここまで変化するのだと、改めて知ったわけだ。
コメント