物語というものについての、発見。
 てゆーか、自分的アタマの体操。

 『追憶のバルセロナ』という作品がある。

 正塚先生のオリジナル大劇場作品。ハリーの大好きな「記憶喪失」ネタに加え、当時の流行り(タカラヅカで・笑)の義賊ネタまで入ったサービス作。
 当時、正塚せんせの人気は高かったけれど、その作風から「大劇場向きではない」とも言われていた。2500人の大衆相手に80名の出演者を使って芝居もミュージカルも未体験の団体客からコアなヅカヲタまで、小学生からお年寄りまで等しく楽しませる派手でわかりやすくてキャッチーな作品よりも、小中劇場で少数の出演者で少数のヅカヲタ相手にディープな物語を展開する方が向いている作家だと言われていた。
 『追憶のバルセロナ』は、そんな正塚せんせの5年ぶり(!)の大劇場作品。
 ぶっちゃけ、びみょーだった。

 キャラと出番を無理矢理増やし、歌とダンスシーンを無理矢理増やし、エンタメにしようと努力しているのはわかるけど、整合性には欠けるわ無理した部分が浮いてるわ、なんともいびつなびみょー作に。
 がんばってるのはわかるけど、そのがんばった部分がプゲラな感じになってるのはどうしたもんか。
 ナルセが萌えだからいっか。……と、当時のわたしは今と変わらず、萌えキャラがいるからオールオッケー(てへぺろ)てな阿呆な思い入れで終了させてました。や、わたしもブレずにアレな人ですね(笑顔)。

 この「正塚黒歴史作品」のひとつとして数えられるんじゃないかという作品を、正塚自身が焼き直し利用していた。
 歌もダンスもない、ストレートプレイ作品として。
 出演者20名ほどのバウホール作品として。

 面白かった。

 面白いことが、驚きだった。
 元の作品は、びみょーだったのに。

 なんで面白いのか、考えた。

 バウホールだからだ!

 小中劇場向きと言われたハリーが、5年ぶりの大劇場本公演ってことで、かなり無理してサービスした作品。
 「本公演用」に装飾した部分が、ことごとくスベッていた……そして、焼き直しはバウホール公演、そのすべっていた部分を全部取っ払って、プロットだけ利用したところ……ちゃんと、面白かった。

 ほんとに、大劇場向いてないんやな、ハリー……。

 目からウロコ、実に興味深い発見でした。

 『追憶のバルセロナ』は、四角関係モノなんだな。

 ヒロイン → 主人公 ←→ 主人公の婚約者 ← 主人公の親友

 という関係性。
 この4人の恋愛が、動乱期のスペインを舞台に描かれる。

 主人公フランシスコとその婚約者セシリアは愛し合っている。
 が、フランシスコは戦争で記憶を失ってしまった。彼を助けたのはジプシーの娘イサベル。ここで新たな恋愛がスタートする。
 一方、主人公の親友アントニオは、実はセシリアを愛していた。フランシスコがいれば、一生口にすることのない想いだったはずだが……フランシスコは戦死した、とみんな思っているので、アントニオは死んだ親友の分までセシリアを守ろうとする。
 記憶の戻ったフランシスコが故郷に戻ったとき、セシリアはアントニオの妻になっていた……。

 や、「記憶喪失モノ」の定番展開ですな!!
 戦争と記憶喪失さえなければ、主人公とその婚約者はなんの問題もなく結ばれているのに。愛し合っていたふたりが、運命のいたずらによって引き裂かれ……てな。

 その定番メロドラマに、「敗戦」という味付けがしてあるのがミソ。
 主人公とその親友の、生き方というか、立ち位置の違いが面白いの。

 主人公フランシスコは、「主人公」らしく、「誇り高く、勝利を求める」。
 戦争に負け、敵国の支配を受けている故郷を奪還すべく、レジスタンスとして闘いつつける。暴力に訴えても、血を流しても、故郷を取り戻そうとする。
 親友アントニオは、その逆。「敗北を受け入れ、最善の道を探す」。
 敵国の協力者となり、命と生活の保証を得る。支配されるという形であっても、生き延びることが一番大切、暴力や血を流すことなどあってはならない。
 ふたりの男の考え方は、真っ向から対立する。

 ……が。
 この物語が秀逸なのは、この対立するふたりの男が、互いを認め合っていること。

 自分とチガウ考え方をしている、というだけでヒステリックに反発するのではなく、「その考え方(生き方)も、間違ってはいない」と思っているの。
 相手の考えは間違ってない。ただ、自分はその生き方を選ばない。……というだけのこと。
 そして同時に、自分の考えは間違っているのかもしれない。だが、自分はこの生き方を自分で選んだのだ。……という、自覚。

 絶対の正義も善もなく、ただ、自分が選び、親友が選んだ。
 そして、自分は親友を愛し、信頼している。だから、そんな親友が選んだ道も大切に思う。

 観ながら、あたしなんかこれ知ってる、ついこの間、よく似たシチュエーションを観たわ……と、デジャヴ。
 命を捨てて戦うべきだと主張する男と、命こそがもっと大切なのだと主張する男の言い争い。ふたりは無二の親友同士。
 同じことをやっているのに、ふたりが話している内容はわけがわからなかったし、感情的にも理解不能だった。
 そして、わけわかんなことを言い合っている男たちは、「無二の親友」という設定なのに、互いを思いやることも認め合うこともせず、ただ感情だけでキーキー叫んで、ヒステリックにケンカ別れしていた。
 で、その結果、戦うべきだと主張する男が、命命と言っていた男を射殺して終わった。

 『白夜の誓い』って、ほんとひどかったな……。
 直近で最悪なモノを観ているせいもあるんだけど、『追憶のバルセロナ』のフランシスコとアントニオの意見の対立は、すげー納得できるものだった。互いの主張内容もだし、感情としても、わかるわかる、どっちも正しい、だからこそ答えが出ないし、ぶつかっちゃってつらいんだよねえ、と思えた。

 愛する女性をめぐる三角関係と、時代と男としての生き方。
 それがきれいにリンクしていて、わかりやすくドラマティック。

 こりゃ面白いわー。

 歌とかダンスとか、80人もの出演者とか。
 そんなもんを全部取っ払って、動きさえ最少の会話劇として再構築したら、ふつーに面白かった。
 だって、プロットと会話だけだもんね。
 会話以外のストーリー解説は、語り部が全部ナレーション。だから気を散らすことなく、ドラマだけを楽しめる。

 んで、この焼き直し版『追憶のバルセロナ』……タイトルは『黒い風の物語』になってたんだけど、この話はさらに二重構造に仕上げてあった。

 ある旅の一座が上演する「芝居」という設定。
 だから「語り部」がいる。
 フランシスコやアントニオたちを演じているのは、その一座の役者たち。
 んで、フランシスコはレジスタンス活動として、「黒い風」という義賊になって、傲慢な支配者たちを翻弄するわけなんだが。
 「黒い風」が敵の支配者と大立ち回りをしたクライマックスに、まさにその、「芝居の中の敵の支配者」たちと同じ姿の兵士たちが現れ、芝居自体を中止させる。
 今現在、「黒い風」を追う兵士たちだ。反逆者「黒い風」を賛美するような芝居は上演禁止、彼らを匿うモノは逮捕するぞと脅す。
 わたしたちが今観ている「旅の一座による芝居」自体が、「黒い風」だった……? てな。
 ああだから、『黒い風の物語』なんだ。

 てな。
 まあ、正塚ワンパタのバックステージものじゃん、と言ってしまうと身もフタもナイなんだけど(笑)。
 今回は、マジでうまく機能していたと思う。

 いやあ、驚いたよー。
 『追憶のバルセロナ』が面白いなんて!!

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