ヲタの言い訳(笑)。@ルパン三世―王妃の首飾りを追え!―
2015年1月27日 タカラヅカ 小柳タンの作品がマンガ的である、ということについてうだうだ語る。
日本のコミックのすごさは、どんな題材も「現代」に自動変換されることだと思う。
もちろん程度の差はある。時代感を大切に再現した作品もある。
でも、大半は自動変換機能付きで描かれている。だってそれがマンガという表現手段の持つ特色であり、強みなんだもん。武器は使ってなんぼっしょ。
たとえば江戸時代が舞台だからって、史実のみで描く必要はない。着物だって「絵として映える」ものにしていいし、生活習慣や文化も「わかりやすくデフォルメ」していい。
言葉も時代劇にしなくていい。ふつーに現代の若者語を喋っていいし、巨乳やツインテール、ツンデレなどの言葉もOK、それが通じる・当たり前に在る世界観。
「江戸時代ですよ」という説明があり、それらしく見えるモチーフさえあればいい、あとは全部「現代感覚」でOK。
描きたいのは歴史書ではなく、その時代を使った「別のナニか」だから。
現代と同じ生活をしている人間が、現代と同じ価値観で繰り広げる物語を、何故わざわざ江戸時代でやるの? それなら現代でいいじゃん。……てコトはない。
だって、チャンバラやりたかったら現代じゃ無理じゃん。
幕末とかの「その時歴史が動いた」系の話も無理じゃん。
そんな大きなことでなくても、身分違いの恋も、ご近所人情モノも、かけおちも心中も、命懸けの友情も、義賊や怪盗、名探偵ものだって、現代でリアルに描くとなると大変じゃん。
それより別世界を借りた方が手っ取り早い。
もちろん、別世界を構築する苦労は別にある。手っ取り早い、というのは簡単という意味じゃない。
手段と特長の話。
どんな世界の話でも、ふつーに現代感覚で表現出来るジャンル。
マンガすげーー。
で、小柳タンの『ルパン三世―王妃の首飾りを追え!―』。
タカラヅカのお家芸であるフランス革命、マリー・アントワネットを使っているから余計に強く感じた……「マンガ的」であること。
フランス宮廷の描き方、その時代の人々の喋り方などが、「現代」なのね。
自動変換済みなの。
当時の人々の価値観や文化に合わせた表現じゃない。
たとえばルパンがアントワネットに語る自身の冒険譚。「モナリザの笑み、ギザのピラミッド」……観客であるわたしたちにはわかるけれど、アントワネットに理解出来るのか?
「キリストの爪、ブッダの髪」って、わたしたちには別にどーでもいいことだけど、ガチの宗教民にはやばくないか?
18世紀の人々の生活や価値観は関係ない、そこにあるのは「現代のわたしたちの目線」。
だからそこになんの説明もない。
もっとわかりやすい例だと、ルパンは「イケメン」という単語を使う。それがどういう意味かの説明はない。通じてるんだ、18世紀のフランスで。
それをいったらそもそも日本語で上演してるじゃん、という話ではないよ。
作品中のルパンたちは18世紀のフランス語を話しているんだろう、ただそれを日本語で演じているだけで。
その前提だとしても、「イケメン」はおかしい。現代ではふつーの言葉だけれど、10年前にはなかったような言葉だ。10年後にも、ないかもしれない言葉だ。
ついでにいうと、ルパンがいうところの「現代」も、いつかわからない。2015年なのか、アニメ『ルパン三世』がガチに放映されていた昭和時代なのか。2015年を表すような表現はなかったと思う。首飾りの警備も実に昭和的だったし。
時代感むちゃくちゃ。
でも、それでいい。細かい時代考証なんか重要ではないんだ。「現代の」わたしたちがわかりやすいから。
だから18世紀のアントワネットは「現代のふつーの女の子」の感性で生きているし、カリオストロ伯爵もまた「現代のふつーの青年」の鬱屈を抱えている。
どんな題材も現代へ自動変換。とてもマンガ的な手法。
小柳タンが自覚してやっているのかどうかは、よくわかんない。
『ルパン三世』でなくても、他の作品もみんな、マンガ的なんだもの。
だから無意味な「アニメ手法をそのまんま舞台で再現しました」などたばたを、心から不要だと思う。
そんなことしなくても、全体を通してマンガなんだもん。小柳タン作品は。
それより「タカラヅカ」を尊重して欲しかったなあ。
てな話ののちに、ひとりごと。
先日、このヅカ版『ルパン三世』を元に、個人的趣味でパロディ小説書きながら、自分に言い訳してたのね。
18世紀人のカリオストロの一人称小説を書くなら、もっとそれらしくしなきゃいけないのよ、本当なら。
彼の生きた時代を根幹に、言葉を選び、文章を構築しなければならないの。
たとえ舞台が現代であろうと、カリオストロが現代にタイプワープして現れたのであっても。
18世紀の人間が知らない言葉や概念は、使ってはならない。その言葉や概念を知らないという前提で、その言葉や概念に反応しなければならないし、知らないことは別のアプローチで表現しなければならない。
三人称ならともかく、一人称はなー。地の文=世界観だからなー。現代日本でのみ使われている安直なカタカナ語とか使っちゃいかんよなー。
それは小説を書く上で、当たり前のことだ。
でもわたしは、まったくの現代の言葉と感覚で、カリオストロを書いた。
だって、めんどくさいし。←
いちいち「これって18世紀ヨーロッパにあったかな?」とか調べて書くのめんどくせーよ。や、仕事なら調べて書くけど、遊びで書いてる二次創作でそこまでしたくないし。
というのが本音の大部分だが(笑)、それとは別に「だって小柳タンの『ルパン三世』ってそういうもんでしょ?」というのが、ある。
あの舞台の上の人たち、みんな現代人だったもん、感覚も言葉も。キャラのイメージを大事に描いたらどうしても、現代語になっちゃった。
や、本気でこだわって描くなら、たとえ原作舞台で現代人が現代語を使っていたとしても、小説ではあえて18世紀っぽい表現で、現代感覚を描くというめんどくせーことをするんだけど。
そーゆー手間をかけるよりも、パッションのままに筆を走らせるの優先、だってだって萌えなんだもの、萌えを文章にしたいだけなんだもの。
しちめんどくさい技法やら考証やらよりも、萌え優先。
そーゆーとこも全部ひっくるめて「『ルパン三世』パロ」だと。
言い訳ですねー(笑)。
小柳タン作品はマンガ的だからこそ、もともとマンガ・アニメ畑のヲタであるわたしは、とても素直に「遊べる」。
世界観やキャラを使って。
てことで。
好きですよ、小柳作品。
日本のコミックのすごさは、どんな題材も「現代」に自動変換されることだと思う。
もちろん程度の差はある。時代感を大切に再現した作品もある。
でも、大半は自動変換機能付きで描かれている。だってそれがマンガという表現手段の持つ特色であり、強みなんだもん。武器は使ってなんぼっしょ。
たとえば江戸時代が舞台だからって、史実のみで描く必要はない。着物だって「絵として映える」ものにしていいし、生活習慣や文化も「わかりやすくデフォルメ」していい。
言葉も時代劇にしなくていい。ふつーに現代の若者語を喋っていいし、巨乳やツインテール、ツンデレなどの言葉もOK、それが通じる・当たり前に在る世界観。
「江戸時代ですよ」という説明があり、それらしく見えるモチーフさえあればいい、あとは全部「現代感覚」でOK。
描きたいのは歴史書ではなく、その時代を使った「別のナニか」だから。
現代と同じ生活をしている人間が、現代と同じ価値観で繰り広げる物語を、何故わざわざ江戸時代でやるの? それなら現代でいいじゃん。……てコトはない。
だって、チャンバラやりたかったら現代じゃ無理じゃん。
幕末とかの「その時歴史が動いた」系の話も無理じゃん。
そんな大きなことでなくても、身分違いの恋も、ご近所人情モノも、かけおちも心中も、命懸けの友情も、義賊や怪盗、名探偵ものだって、現代でリアルに描くとなると大変じゃん。
それより別世界を借りた方が手っ取り早い。
もちろん、別世界を構築する苦労は別にある。手っ取り早い、というのは簡単という意味じゃない。
手段と特長の話。
どんな世界の話でも、ふつーに現代感覚で表現出来るジャンル。
マンガすげーー。
で、小柳タンの『ルパン三世―王妃の首飾りを追え!―』。
タカラヅカのお家芸であるフランス革命、マリー・アントワネットを使っているから余計に強く感じた……「マンガ的」であること。
フランス宮廷の描き方、その時代の人々の喋り方などが、「現代」なのね。
自動変換済みなの。
当時の人々の価値観や文化に合わせた表現じゃない。
たとえばルパンがアントワネットに語る自身の冒険譚。「モナリザの笑み、ギザのピラミッド」……観客であるわたしたちにはわかるけれど、アントワネットに理解出来るのか?
「キリストの爪、ブッダの髪」って、わたしたちには別にどーでもいいことだけど、ガチの宗教民にはやばくないか?
18世紀の人々の生活や価値観は関係ない、そこにあるのは「現代のわたしたちの目線」。
だからそこになんの説明もない。
もっとわかりやすい例だと、ルパンは「イケメン」という単語を使う。それがどういう意味かの説明はない。通じてるんだ、18世紀のフランスで。
それをいったらそもそも日本語で上演してるじゃん、という話ではないよ。
作品中のルパンたちは18世紀のフランス語を話しているんだろう、ただそれを日本語で演じているだけで。
その前提だとしても、「イケメン」はおかしい。現代ではふつーの言葉だけれど、10年前にはなかったような言葉だ。10年後にも、ないかもしれない言葉だ。
ついでにいうと、ルパンがいうところの「現代」も、いつかわからない。2015年なのか、アニメ『ルパン三世』がガチに放映されていた昭和時代なのか。2015年を表すような表現はなかったと思う。首飾りの警備も実に昭和的だったし。
時代感むちゃくちゃ。
でも、それでいい。細かい時代考証なんか重要ではないんだ。「現代の」わたしたちがわかりやすいから。
だから18世紀のアントワネットは「現代のふつーの女の子」の感性で生きているし、カリオストロ伯爵もまた「現代のふつーの青年」の鬱屈を抱えている。
どんな題材も現代へ自動変換。とてもマンガ的な手法。
小柳タンが自覚してやっているのかどうかは、よくわかんない。
『ルパン三世』でなくても、他の作品もみんな、マンガ的なんだもの。
だから無意味な「アニメ手法をそのまんま舞台で再現しました」などたばたを、心から不要だと思う。
そんなことしなくても、全体を通してマンガなんだもん。小柳タン作品は。
それより「タカラヅカ」を尊重して欲しかったなあ。
てな話ののちに、ひとりごと。
先日、このヅカ版『ルパン三世』を元に、個人的趣味でパロディ小説書きながら、自分に言い訳してたのね。
18世紀人のカリオストロの一人称小説を書くなら、もっとそれらしくしなきゃいけないのよ、本当なら。
彼の生きた時代を根幹に、言葉を選び、文章を構築しなければならないの。
たとえ舞台が現代であろうと、カリオストロが現代にタイプワープして現れたのであっても。
18世紀の人間が知らない言葉や概念は、使ってはならない。その言葉や概念を知らないという前提で、その言葉や概念に反応しなければならないし、知らないことは別のアプローチで表現しなければならない。
三人称ならともかく、一人称はなー。地の文=世界観だからなー。現代日本でのみ使われている安直なカタカナ語とか使っちゃいかんよなー。
それは小説を書く上で、当たり前のことだ。
でもわたしは、まったくの現代の言葉と感覚で、カリオストロを書いた。
だって、めんどくさいし。←
いちいち「これって18世紀ヨーロッパにあったかな?」とか調べて書くのめんどくせーよ。や、仕事なら調べて書くけど、遊びで書いてる二次創作でそこまでしたくないし。
というのが本音の大部分だが(笑)、それとは別に「だって小柳タンの『ルパン三世』ってそういうもんでしょ?」というのが、ある。
あの舞台の上の人たち、みんな現代人だったもん、感覚も言葉も。キャラのイメージを大事に描いたらどうしても、現代語になっちゃった。
や、本気でこだわって描くなら、たとえ原作舞台で現代人が現代語を使っていたとしても、小説ではあえて18世紀っぽい表現で、現代感覚を描くというめんどくせーことをするんだけど。
そーゆー手間をかけるよりも、パッションのままに筆を走らせるの優先、だってだって萌えなんだもの、萌えを文章にしたいだけなんだもの。
しちめんどくさい技法やら考証やらよりも、萌え優先。
そーゆーとこも全部ひっくるめて「『ルパン三世』パロ」だと。
言い訳ですねー(笑)。
小柳タン作品はマンガ的だからこそ、もともとマンガ・アニメ畑のヲタであるわたしは、とても素直に「遊べる」。
世界観やキャラを使って。
てことで。
好きですよ、小柳作品。
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