エトワールのときににさ。

 まっつの目線がこっちに来たの。
 別に向こうはわたしを見ているわけではナイんだろうけど、こっちは客席で、「あ、目が合った」と思う、タカラヅカあるある。

 最後の最後の場面で。
 スポットあびて朗々と歌うそのときにさ。

 まっつと目が合った、気がした。

 よりにもよって、歌詞が。

「君への思いをここに残して」


 …………。

 君への思い、でわたしを見た。ように思えた。
 おお……。すげーなそれ。カンチガイでも偶然でも、なかなかナイ神タイミング。

 ファンなのでもちろんこれは、グッとくる。てゆーか反射的に泣けた。

 しかし。
 それと同時に、別の思いも込み上げた。

 あたし、なんでコレを信じられないんだろう?

 「タカラヅカ」なんて、「嘘」で成り立っている世界だ。
 そもそも女性が男を演じている時点で嘘。日本人なのに金髪にしてガイジンのふりしてるのも嘘。なんで日本人がコスプレしてガイコクのために生きて死ぬ話とか真剣にやってんのよあり得ない。
 嘘、嘘、嘘。舞台なんて全部嘘。
 卒業するスターはみんな「ありがとうソング」歌うけど、他人が書いた歌詞じゃん。本人の言葉じゃない、つまり全部台本、ヤラセ、全部嘘。
 …………と、わかった上で、それを楽しむ。それが「タカラヅカ」。
 「嘘」を楽しむことが出来ない人は、「タカラヅカ」を楽しめない。
 虚構を虚構とわりきって、夢を見る。楽しむ。

 だって、たとえそれが嘘でも台本でも、演じているひとの心は本物だからだ。

 男役はほんとうに男性になりきってその役の人生を舞台で生きるし、ライトの当たらないすみっこの子でも、舞台を愛し誠心誠意演じ歌い、踊っている。
 ほんとうのこと、って、伝わる。
 ひとの心って、伝わる。
 「嘘」で成り立った舞台の上で、「真実」を込めて存在するジェンヌたちがいるから、「嘘」は「夢の世界」になる。

 そしてわたしは、その「夢の世界」を愛している。

 このルールでいけば、わたしはまっつの「舞台上の言葉」を額面通りに受け取るべきなんだ。
 「♪君への思いをここに残して」「♪君を強く強く抱き寄せて」「♪離れていても君のことを思い続ける」……せっかく演出家が卒業する生徒へのはなむけに言葉を贈ってくれているのに。
 わたしはそれを、「まっつの言葉」としては、受け取れずにいる。

 まあな、まっつに関してはいろいろ余計なことを知りすぎていて、それで素直に受け止められない、というのはある。確実にある。

 でも、それ以上に。
 それこそ、「嘘を嘘として楽しむ」わたしの立ち位置からすれば、だ。

 愛の言葉を信じられない、と思わせる「未涼亜希」というドリームが成立している、てことなんだな。

 わたしのまっつ観ってやつぁ。

 素直に「まっつがわたしへの思いを歌ってくれてる☆」と思えるような、そんなドリームを描けるジェンヌ像だったらよかったのに。
 「与えられた歌詞を歌っているだけにしろ、愛を歌うまっつを見るのって萌えだわ」というややこしいドリームは、まっつだけ。まっつならでは。

 最後の最後、神タイミングで目線来て、ズキュンとなりつつも、同時に思う、「あー、なんであたし、これをこのまま信じられないんだろ?」。

 最後の最後に、泣き笑い。

 信じられないのがあたしで、信じさせてくれないのがまっつだった。

 こんなジェンヌは他にいない。

 だから、まっつなんだ。
 まっつ以外、いないんだ。

 だから、どこにもいかないで。
 「嘘」で作られた「夢の世界」にいて。
 ややこしいわたしに、ややこしい夢を見させ続けて。

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