ところで『愛と革命の詩』って、いろんな既存作品を思い出すよね。

 『エリザベート』とか『スカーレット・ピンパーネル』とか『ロミオとジュリエット』とか、どの場面がどれでどの演出がどれっぽいとか、いちいち挙げていくのがめんどくさいくらい、あーっちこっち記憶に引っかかる。
 加えてわたしは、キムシン作品も彷彿とする。わたしがキムシン好きだからってのもあるだろう。酒場場面ではいつアーサーが現れて歌い出すか、「馬」「鹿」という紙が出てくるかと思ったし、シェニエ逮捕後からラストまで、たか花の姿がちらついた。

 ヅカの既成作品に似ていること、彷彿とさせる部分があり過ぎているのは、たしか。
 でもパクリだとは思いません。景子せんせはこだまっちとはチガウ。
 パクっているのではなく、「ありがち」なだけ。
 浅いだけだと思います。ありがちな表現しか出来なかっただけ。

 『ジャン・ルイ・ファージョン』は良かったし、成功していたと思うんだけど、だからって同じ柳の下でチョーシこいたら失敗しちゃった、って感じかなあ。バウでやめときゃよかったのに。
 景子タンってそーゆーことするよね、セルフリメイク。バウでやって同じことを大劇でやって、そして失敗する、と(笑)。『HOLLYWOOD LOVER』やってバウだからキャストファンから絶賛されて、同じ話の焼き直しを今度は大劇で『My dear New Orleans』としてやったら失敗した、てな。

 既視感ばりばりでも別にかまわない。
 良いモノは良いし、「勝てる」ルール……大衆に受ける設定や展開……は限られるわけだし。

 ただわたしは、『愛と革命の詩』のキャラもストーリーもラストの決着の仕方も、好みではないなあ。
 原作があるから、というのは関係ない。原作オペラまんまを一言一句変えず、ビジュアルも音楽もすべて再現した舞台だというなら「文句は原作に言え」だけど、そうではない以上、演出家の裁量でしょう。原作をどう料理し、どう変更するのも景子タンの自由。原作は原作、元ネタってやつでしかない。
 だから今わたしがまな板に上げているのは、景子タン作の『愛と革命の詩』。

 なまじ好きな作品に似ているだけに、「同じことをしていながら、すべて好きじゃない展開になる」のがストレスだなあ、と思う。

 男が捕まった。名ばかりの裁判で死刑になる。
 男の恋人であるヒロインは、男を捕らえている権力者のところへ、男の命乞いに行く。
 権力者はヒロインを愛し、横恋慕しているんだ。権力者は当然ヒロインに言う、「男を助けたくば、私のモノになれ」。

 権力者と取引したヒロインは、彼の手を借りて牢獄へ行く。明日処刑される男の牢へ忍んでいく。
 最後の夜の、最期の逢瀬。

 翌朝、男は処刑される。
 死する男の背景に、巨大な天使の翼が広がる。

 ……と、ここまで同じでありながら、書いていない部分は全部反対。

 権力者のもとへ決死の覚悟で出向いたマッダレーナは、懇願するだけでジェラールを動かしてしまう。
 ジェラールの詰めが甘いというか、半端なキャラなので仕方ないっちゃーないが、なんとも盛り上がらない展開だなと思う。

 愛する男を助けたければ私のモノになれと、容赦のない伯爵、恋人を助けるためにすべてを捨てるレオノーラ。
 犠牲を払わなければ、欲しいものは手に入らない。等価交換の法則。救いはない。でも、それが現実。

 ジェラールが自分を愛しているのだと知ったマッダレーナは、彼を言い含めて(人の良さにつけ込んで?)言うことを聞かせる。シェニエの牢に案内させる。

 身と人生を売る代償としてレオノーラは恋人を助ける手段を得る。
 何故そこまでするのか、何故彼を愛しているのか、彼女の人生を、愛を絶唱する。
 一方、囚われの恋人マンリーコは死を前に、愛するレオノーラが生きていることが救いだと歌う。

 シェニエの牢へ、「共に死刑になるために来た」と言うマッダレーナに、シェニエも大喜び。ふたりで死ねるなんて幸福、崇高、至上の愛!!

 マンリーコの牢へ「逃げ道を教えに来た」と言うレオノーラに、マンリーコは激昂。自分の命を助けるために、愛を売ったのかとレオノーラを責める。
 そうじゃない、レオノーラはマンリーコを逃がし、残った自分は死ぬつもりだった。愛する人の命を、未来を望んで、自分は犠牲になる覚悟だった。

 ふたりでしあわせに天使の羽根をバックに微笑むシェニエとマッダレーナ。
 「永遠の愛・普遍のモノ」と大絶賛ソングと共に、同時代を生きた人々がそれぞれの思いを胸に至高の恋人たちを囲んでEND。

 毒を飲んでいたレオノーラは息絶え、彼女の愛を一瞬でも疑ったマンリーコは逃げることもできず泣き崩れる。「レオノーラが生きていること、それだけが救い」……だったのに。打ちひしがれたまま処刑台に上がる。
 「許しを……!」……あらゆる人間の、誰もが心の奥に持つ闇を、毒を、すべてを背負って。罪をくり返す人々の合唱の中。
 そして、巨大な白い翼が舞い降りる。
 マンリーコを中心に、愚かな……あまりにも「人間」である人々が、宗教画のように静止して、END。


 最初から最後まで、きれいで、高尚で、崇高なシェニエ。一度も汚れることなく、自分の心のままに生きるシェニエ。
 革命によって苦労はするけれど、それによってなんの成長もなく、ただ依存する相手が貴族社会からシェニエかに変わっただけの、なんの犠牲も払わずおいしいとこ取りのマッダレーナ。
 苦悩はしているらしいけれど、中途半端でどっちつかず、結局ナニもしないジェラール。

 誰も本当の意味では傷つかず、「人間って汚い」と言いながら、実際のところ本当の絶望はどこにも描かれておらず(邪魔者はギロチン!という短絡展開だけが闇表現らしい)、「愛は素晴らしい」と言葉だけで重ねて、とにかくきれいに、ただただきれいに、ハッピーエンド。
 しかも「どんだけ彼が素晴らしいか」と蛇足解説付き。

 使われているモチーフや展開が同じであるだけに、ひとつひとつ「好きじゃない展開キターー!」の連続で、いっそウケる(笑)。

 でも、人間の醜さ・救いのなさ山盛りだったキムシン作品より、「汚いモノは見たくありませんから!」と「きれいなモノ」だけで作り上げた景子タン作品の方が、多くの人に支持されるのかもな。

 ただわたしは、今回の『愛と革命の詩』はどーにも消化不良、つまんない。
 うすっぺらくて、心が冷える。

 そして。
 キムシンの『炎にくちづけを』が好きだったなあ、と心から振り返る。

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