泣きながら歩く、人生という名の道。@若き日の唄は忘れじ
2013年8月26日 タカラヅカ「暗い夜道を泣きながら、いっそ死んでしまおうかと、泣きながら帰りました」
ラストシーンのふく@あゆっちの台詞が、耳に残る。
これがこの物語の……いやさ、人生の、すべて、だよなあ。
『若き日の唄は忘れじ』を観ると、日本人で良かったと思う。
言葉に出さない想い、飲み込む言葉、自制ややせ我慢……礼儀と謙虚さを尊ぶ日本人ならではのメンタリティ、精神構造。
言えばいいのに言えなくて、より傷つく、それがわかっていてなお耐える。それを言語化せずに共感する。
あー、日本物っていいなあ。
ふくは文四郎@えりたんを愛している。だけどその愛を口に出来ない。
自分本位になれるなら、いくらでも愛を叫べばいい。でも、いろんなしがらみゆえに、そう出来ない。
相手のため、家族のため、社会秩序のため。
自分を押し殺し、誰かのために身を削る。
ままならぬ人生。
死にたいくらいの絶望や哀しみを抱きながら、泣きながら夜道を歩く。自分のあるべき場所へ帰る。
死なずに、帰る。
そして、生きる。
死にたいくらいの痛みを抱いたまま。
生きる。
「泣きながら」と2回くり返すのがいいなあ。
詩のように、この台詞をおぼえたわ。
悲恋に終わることを知っているからこそ、2回目からがなお切ない。
祭りの夜のラブラブデート、ささら笹舟。
恋い慕いながら、どうすることもできずに泣き崩れる、中盤の「望郷」場面もいい。
海坂藩と江戸と、離れた場所で。
藩主の子を抱いたふくを守り、櫂を握る文四郎、命懸けの逃避行、小舟の上。
この作品が20年経ってなお色あせないのは、音楽の力が大きいと思った。
なんかすげーアップテンポなんですが。
ふつー日本物で、切ない恋の場面で、こんだけチャカチャカ忙しい曲調は使わんだろう。「恋の笹舟」なんて、歌詞だけ見てたら曲調は想像も付かん。主旋律だけでなく、伴奏がまたにぎやかなんだこれが。
初演でもそうなのかな。さすがに曲のテンポまでおぼえてない。
大野くんのアレンジだったら、心からグッジョブ!!
音楽は大事ですよ、テンポ感は大事ですよ。退屈なスローな曲だと、盛り下がるしあきるし。
……『ナルシス・ノアールII』の音楽の冗長さに閉口したからなー。20年以上前ならそれで良かったのかもしれんが、今、21世紀だしね。
意外なところで音楽のテンポがいい。
最初のラブラブデートがそうだから、クライマックスの逃避行も心地よいテンポ。
父の遺体を載せた大八車を引く文四郎を、人々が蔑む場面すら、テンポがいい。
全体的に曲自体がミーハーに派手な印象。わかりやすい、どっちかってーと安っぽい感じ。がちゃがちゃしてノリノリで。
でもそれが、物語の渋さと素敵に合っている。話の渋さや悲しさに合わせてたら、めんどくさい音楽になっちゃうよ。
にぎやかでわっかりやすい音楽の合間合間のしんと張り詰めた空気、蝉の声……そのコントラストもいい。
しみじみ響くひぐらしの鳴き声の切なさ。
いろんな意味で、日本人だなあ、日本の作品だなあと思う。
あゆっちはやっぱ「少女」を演じると強いと思った。
最初から「おふく様」だとキツイかもしれないけど、最初が少女時代からなので、得意分野で勝負!になっていて良かったなと。
少女といっても耽美的な幻想的な意味での少女ではなく、リアルな肉を持った存在。足りないところや甘いところを持ちながらも、十分かわいらしい、愛されてしかるべき存在。
なんつーんだ、変に幻想がない「少女」なんだな、あゆっちって。少女の持つ「ずるさ」や「毒」もふつーに持っていそう。それをまるっと含めて、「少女」ってのは特別で、愛しい存在だと思うんだ。
リアルだからこそ、「この子が幸せになってもいいじゃない」と思う。幸せになれないことに心を痛める。
大人になったあと……おふく様になったあとは、ほんとにもう、芝居よりナニより欲しいのは「外見の美しさ」なんだよなあ。
あゆっちを最初に認識したのは『堕天使の涙』の新人公演だった。あまりの太さに驚いて、それ以外ナニもおぼえていない、という感想だった。
あれから7年かあ。
その7年間ずーーっと、「痩せれば美少女なのに」「どうして痩せないんだろう」と思い続けたあゆっち。
学年が上がれば、立場が変われば、いつか痩せてきれいなる、なってくれると思っていた。
トップスターになって半年以上、3公演過ごしてなお痩せないってことはやっぱ、「あゆっち比で少し痩せた」現在がMAXの状態なのかしら。
ビジュアルに関してはあきらめるしかないのかなあ……。
あゆっちは華やかなかわいこちゃんだし、きれいな声だし歌もうまいし芝居も出来る。
ほんとに、惜しいなあ。なんで痩せないんだろう。
7年間ずーっとスターとしてスポットライトを浴びながら、痩せなかったんだもの、いきなり今痩せるわけもないんだろうけど。
おふくちゃんの芝居がいいだけに、『若き日の唄は忘れじ』という作品がいいだけに、あゆっちの外見が残念でなあ。
藩主に見初められるだけの美貌が欲しいのですよ、ただひとえに。持って生まれた顔立ちが残念ならともかく「痩せるだけ」という、努力でなんとかできそうな部分なだけに、あきらめきれないというか、切ない話だ……。
文四郎@えりたんの魅力はなんといっても「常識人」であること。って、えりたんで、常識人?!
えりたんというと無邪気な弟キャラ、傍迷惑なトラブルメーカーがハマった人。
花組時代の傍若無人キャラの魅力ときたら。えりたんはえりたんだから、もうそれだけですべてを吹き飛ばす。こんなのほんとにいたらただの迷惑野郎だ、でもえりたんだとなんか憎めない……そういう役で魅力を発揮してきた人。
ミラクルでフェアリーな魅力はそのままに、「大人」になった彼は、こんなに不思議な味のある芝居をするようになったんだ。
やっぱ、らんとむさんが花組に戻って来たのは、ずーーっと花組2番手だったえりたんの上に降ってきてトップスターになったのは、大きかったんだなあ。たぶん、えりたんはそこから変わっている。
再びえりたんの前をふさぐ形で現れたらんとむ、そしてキャリエール@『ファントム』という役……外から見る分には、アレが大きなターニングポイントだよな。
文四郎という役は、ひとつひとつのモチーフはかっこいいけれど、いわゆる現代のヒーロータイプじゃないというか、動と受なら受の人、辛抱役だ。耐え忍ぶことが美学、てな日本物の主役像だ。
この役を「素敵」に見せてくれることに、えりたんの底力を感じる。
キラキラはメッキじゃない、本物だから輝いているんだ、と。
で、ただの「耐える人」「常識人」ではない……というか、収まっていないところがまた、魅力かなと。
別項でじっくり語りたいんだが、武部さん@まっつの目的がどこにあるか、それがえりたん文四郎の「収まっていない」ところに関係していると思うの。ふふふ♪
ラストシーンのふく@あゆっちの台詞が、耳に残る。
これがこの物語の……いやさ、人生の、すべて、だよなあ。
『若き日の唄は忘れじ』を観ると、日本人で良かったと思う。
言葉に出さない想い、飲み込む言葉、自制ややせ我慢……礼儀と謙虚さを尊ぶ日本人ならではのメンタリティ、精神構造。
言えばいいのに言えなくて、より傷つく、それがわかっていてなお耐える。それを言語化せずに共感する。
あー、日本物っていいなあ。
ふくは文四郎@えりたんを愛している。だけどその愛を口に出来ない。
自分本位になれるなら、いくらでも愛を叫べばいい。でも、いろんなしがらみゆえに、そう出来ない。
相手のため、家族のため、社会秩序のため。
自分を押し殺し、誰かのために身を削る。
ままならぬ人生。
死にたいくらいの絶望や哀しみを抱きながら、泣きながら夜道を歩く。自分のあるべき場所へ帰る。
死なずに、帰る。
そして、生きる。
死にたいくらいの痛みを抱いたまま。
生きる。
「泣きながら」と2回くり返すのがいいなあ。
詩のように、この台詞をおぼえたわ。
悲恋に終わることを知っているからこそ、2回目からがなお切ない。
祭りの夜のラブラブデート、ささら笹舟。
恋い慕いながら、どうすることもできずに泣き崩れる、中盤の「望郷」場面もいい。
海坂藩と江戸と、離れた場所で。
藩主の子を抱いたふくを守り、櫂を握る文四郎、命懸けの逃避行、小舟の上。
この作品が20年経ってなお色あせないのは、音楽の力が大きいと思った。
なんかすげーアップテンポなんですが。
ふつー日本物で、切ない恋の場面で、こんだけチャカチャカ忙しい曲調は使わんだろう。「恋の笹舟」なんて、歌詞だけ見てたら曲調は想像も付かん。主旋律だけでなく、伴奏がまたにぎやかなんだこれが。
初演でもそうなのかな。さすがに曲のテンポまでおぼえてない。
大野くんのアレンジだったら、心からグッジョブ!!
音楽は大事ですよ、テンポ感は大事ですよ。退屈なスローな曲だと、盛り下がるしあきるし。
……『ナルシス・ノアールII』の音楽の冗長さに閉口したからなー。20年以上前ならそれで良かったのかもしれんが、今、21世紀だしね。
意外なところで音楽のテンポがいい。
最初のラブラブデートがそうだから、クライマックスの逃避行も心地よいテンポ。
父の遺体を載せた大八車を引く文四郎を、人々が蔑む場面すら、テンポがいい。
全体的に曲自体がミーハーに派手な印象。わかりやすい、どっちかってーと安っぽい感じ。がちゃがちゃしてノリノリで。
でもそれが、物語の渋さと素敵に合っている。話の渋さや悲しさに合わせてたら、めんどくさい音楽になっちゃうよ。
にぎやかでわっかりやすい音楽の合間合間のしんと張り詰めた空気、蝉の声……そのコントラストもいい。
しみじみ響くひぐらしの鳴き声の切なさ。
いろんな意味で、日本人だなあ、日本の作品だなあと思う。
あゆっちはやっぱ「少女」を演じると強いと思った。
最初から「おふく様」だとキツイかもしれないけど、最初が少女時代からなので、得意分野で勝負!になっていて良かったなと。
少女といっても耽美的な幻想的な意味での少女ではなく、リアルな肉を持った存在。足りないところや甘いところを持ちながらも、十分かわいらしい、愛されてしかるべき存在。
なんつーんだ、変に幻想がない「少女」なんだな、あゆっちって。少女の持つ「ずるさ」や「毒」もふつーに持っていそう。それをまるっと含めて、「少女」ってのは特別で、愛しい存在だと思うんだ。
リアルだからこそ、「この子が幸せになってもいいじゃない」と思う。幸せになれないことに心を痛める。
大人になったあと……おふく様になったあとは、ほんとにもう、芝居よりナニより欲しいのは「外見の美しさ」なんだよなあ。
あゆっちを最初に認識したのは『堕天使の涙』の新人公演だった。あまりの太さに驚いて、それ以外ナニもおぼえていない、という感想だった。
あれから7年かあ。
その7年間ずーーっと、「痩せれば美少女なのに」「どうして痩せないんだろう」と思い続けたあゆっち。
学年が上がれば、立場が変われば、いつか痩せてきれいなる、なってくれると思っていた。
トップスターになって半年以上、3公演過ごしてなお痩せないってことはやっぱ、「あゆっち比で少し痩せた」現在がMAXの状態なのかしら。
ビジュアルに関してはあきらめるしかないのかなあ……。
あゆっちは華やかなかわいこちゃんだし、きれいな声だし歌もうまいし芝居も出来る。
ほんとに、惜しいなあ。なんで痩せないんだろう。
7年間ずーっとスターとしてスポットライトを浴びながら、痩せなかったんだもの、いきなり今痩せるわけもないんだろうけど。
おふくちゃんの芝居がいいだけに、『若き日の唄は忘れじ』という作品がいいだけに、あゆっちの外見が残念でなあ。
藩主に見初められるだけの美貌が欲しいのですよ、ただひとえに。持って生まれた顔立ちが残念ならともかく「痩せるだけ」という、努力でなんとかできそうな部分なだけに、あきらめきれないというか、切ない話だ……。
文四郎@えりたんの魅力はなんといっても「常識人」であること。って、えりたんで、常識人?!
えりたんというと無邪気な弟キャラ、傍迷惑なトラブルメーカーがハマった人。
花組時代の傍若無人キャラの魅力ときたら。えりたんはえりたんだから、もうそれだけですべてを吹き飛ばす。こんなのほんとにいたらただの迷惑野郎だ、でもえりたんだとなんか憎めない……そういう役で魅力を発揮してきた人。
ミラクルでフェアリーな魅力はそのままに、「大人」になった彼は、こんなに不思議な味のある芝居をするようになったんだ。
やっぱ、らんとむさんが花組に戻って来たのは、ずーーっと花組2番手だったえりたんの上に降ってきてトップスターになったのは、大きかったんだなあ。たぶん、えりたんはそこから変わっている。
再びえりたんの前をふさぐ形で現れたらんとむ、そしてキャリエール@『ファントム』という役……外から見る分には、アレが大きなターニングポイントだよな。
文四郎という役は、ひとつひとつのモチーフはかっこいいけれど、いわゆる現代のヒーロータイプじゃないというか、動と受なら受の人、辛抱役だ。耐え忍ぶことが美学、てな日本物の主役像だ。
この役を「素敵」に見せてくれることに、えりたんの底力を感じる。
キラキラはメッキじゃない、本物だから輝いているんだ、と。
で、ただの「耐える人」「常識人」ではない……というか、収まっていないところがまた、魅力かなと。
別項でじっくり語りたいんだが、武部さん@まっつの目的がどこにあるか、それがえりたん文四郎の「収まっていない」ところに関係していると思うの。ふふふ♪
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