なんというか、改めて思ったの。
 『若き日の唄は忘れじ』って、プロット面白いなあ。
 藩の権力争いとそれゆえに非業の死を遂げた無実の父の敵討ち、そして運命に引き裂かれた初恋。「時代小説のテンプレートみたいな、よくある話」なんだけど、そのシンプルなありがちな話を、90分にまとめていることに、感動する。
 1本物じゃないのよ、ショーとの2本立てなのよ。なのにその「通常のタカラヅカ枠」で、ちゃんとした物語を起承転結させている……これって、すごい。めずらしい。
 そして、主役ふたりだけの物語ではなく、比重は軽いとしても複数のキャラクタの物語も平行して存在する。90分なのに。
 『仮面のロマネスク』のプロットに対して感じたのと同種の感動だわ。
 同じ濃度のプロットを、1本物でやられても感動はしない。半分の時間でやるから、感動なの。

 本公演だった初演は、「ヅカでやらなくていいのに」と思ったもの。題材が渋すぎる。梅田コマ劇場でもいいじゃん。
 そしてなんつっても、主人公が物語の半分において「子役」扱いの芝居は、ヅカに向かない。大人っぽい持ち味だったシメさんたちがいつまでも無理のある子役姿で芝居しているのは、見ていてたのしいものではなかった。わたしには。

 先日の再演、中日版ではえりたんの妖精っぷりに、「大人が無理して演じる子役の気持ち悪さ」は感じず、ふつーに楽しんで観ることが出来た。
 いい話だし、泣けるけれど、わたしは基本的にいじめ話が好きではないので、「1回ならいいけど、リピートはつらいな」と思った。弱い者が一方的にいじめられる描写が長かったりくどかったりすると、それだけで辟易するの。

 それが今回の全ツ版では、あらゆる「苦手」箇所が修正されていた。
 テーマの渋さは初演から一貫して変わらないけれど、わかりやすい悪役の存在で、物語がエンタメ寄りになった。
 いろんなことが重なって偶然不幸になりました、結ばれずに終わりました、人生って儚いですね……ではなく、確実な悪意を持った者が裏で操作し、それゆえに不幸が加速した。最終的に主人公がその悪を倒し、親の敵を討って終了。
 平坦だった本筋に、起伏とスピード感が付いた。
 ちゃんとした悪役がいるので、いじめ度も下がった。日常にある悪意、ふつーの人々が持つ毒ではなく、いかにも物語っぽい悪の策略なんだもの。
 そして、その悪役が「タカラヅカ的な色悪」であるため、梅コマ風だった初演よりもヅカ度が上がった。

 すげー。
 オリキャラひとり放り込んで、あちこちネジを締め直すだけで、こんだけ物語はぴりりと締まるんだ。
 大野せんせすごーい。

 そしてこの、キャラバランス。

 清廉潔白な主人公・文四郎@えりたん。
 きりっとまっすぐに前を見つめている若者。素晴らしい両親の元で、健やかに育ったのだということが、よくわかる。
 ただ純真で爛漫なだけでなく、すごく「まとも」な少年なんだ、ってとこが、わたしにはポイントが高い。
 祭りに女連れでいることをひやかされたとき、「大人になれば人の目を気にするものだ」と言い切るのがいい。自分の感情や欲望だけに素直な「純真さ」じゃない。理性や常識を持ち、自分を律することを知っている。
 ああ、いい子だなあ。きちんとした家で、正しく躾けられた子なんだなあと思う。
 こういう子だから、なにがあっても曲がらずに生きることが出来たんだろう。
 少年時代から青年時代への変化が、とても自然。人格にブレがなく、ストレスなく「文四郎」という人物に感情移入出来る。

 そんな文四郎と恋に落ちるヒロインおふく@あゆっち。
 こちらもきちんとした家で育った性根の良い女の子。まだ幼くても家の中の仕事をきちんとし、その上で素直で勇気のある行動を取ることが出来る。
 あゆっちは外見以外の芝居はほんとに良くて、無邪気な少女時代から、大人になったあともしっかり泣かせてくれる。
 幼なじみの恋の不幸は、いつの時代も「少女の方が先に大人になる」ことだよなあ。文四郎よりふくの方が確実に大人……「女」で、それゆえに彼女はいろんな足枷を自ら架してしまう。彼女が文四郎くらいに「子ども」でいられたなら、ふたりの恋は違った展開を見せたかもしれない。
 おふくの飲み込んだ、言えなかった、いろんな言葉が切ない。

 主人公とヒロインの恋は、きちんと描いてある。
 淡い少年時代の想いから、離れたまま激しく求め合っていた青年期の恋、すべてを超えて諦念や思い出に昇華させた恋のあとまで。

 ここは揺らがすことなく締めておいて、それ以外のバランスはいじってある。

 彼らに対する悪役、武部@まっつ。
 絵に描いたような悪役、ラスボス。家老の命に従っているように見えて、実は彼こそがすべてを操っているのだろうとわかる。
 初演、再演の佐竹と武部をひとつにまとめたキャラクタ。
 石栗道場の師範代で心正しい武人である佐竹と、流れの中で悪に染まる武部をまとめることで、よくこんだけうまく「悪」を際立たせたなと。
 文四郎と反対に、彼は成長しない。最初から大人であり、文四郎の「越えるべき壁」として現れる。
 徹頭徹尾「悪」とだけ描かれ、「何故彼が悪の道に堕ちたのか」「彼の真の目的はナニか」など、潔いほどに描写されない。
 これがドラマシティなどの1本物ならば、増える30分の上演時間で、武部側の心理描写が加わったのかもしれない。でも、90分の芝居では、武部の内面を描く必要はない。ただ「悪」とだけで十分。
 それは観客の想像にゆだねられている。……また、まっつが、うまい。求められる役割通りの「悪」を過不足なく演じ、くわえて、想像を許すぎりぎりのところで踏みとどまっている。……このバランスが絶妙。やりすぎると余白がなくなって「ただの悪役」という記号になってしまうか、反対に「悪」の役割を超えて泥臭くなってしまう。

 武部の比重が上がったことで、文四郎の親友たちの比重は下がり、武部側の山根の比重が上がった。
 初演・再演共に「文四郎と親友たちの友情」が大きく描かれていた印象がある。でも、全ツ版では友情云々より「文四郎の敵討ち」の色が濃くなった。

 2番手役だった逸平は、ラストのソロも削られ、たしかに比重は下がっている。……とはいえ、この役が2番手役であったことの方がおかしいと思う。だって別に、なにがあるわけじゃない役なんだもの。
 ただずーっと主人公のそばにいて、なにも変わらずに「脳みそまで筋肉」的な豪快さを出すだけ。
 彼の善良さ、裏切らない「変わらなさ」は救い。もちろん大切な役だけど、この役の比重を高くするのは無理がある。中日でちぎくんが演じていて、「役不足さ」に驚いた。しどころなさすぎだ……。
 初演マリコさんのキャラに頼った配役だったんだなあ。再演で、番手順に割り振ると、ちぎくんにはキャラ違いで魅力を発揮しにくかった。

 だから全ツ版の比重がちょうどよく思える。わたしには。
 またともみんのキャラが、役に合っている。さすが星組っこ。
 ストーリーの本筋とは関係ない、だけど主人公の心のそばに変わらず在る、揺るがない存在。

 与之助@咲ちゃんも同様、比重は下がっている。
 初演のイメージではそれほどでもないんだけど、中日のコマは場をさらっていっていたから、より目立ってたんだよなあ。逸平より本筋に関係あっただけに、親友ふたりの比重が揺らいでいた印象。
 だから逸平よりさら比重の下がった全ツ版がちょうどいい。

 文四郎-おふく、そして文四郎VS武部。
 マトリックスが明快になり、初演よりは情感は下がったかもしれない。
 だけど、全国ツアー公演としてより良い作品になったと思う。

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