相変わらず、配役を確認しないまま観劇したので、黒鳥@カレー、白鳥@ルナシーにびっくりした、『愛と革命の詩-アンドレア・シェニエ-』
 カレーくんはまだわかるけど、ルナくんはそんな学年ではナイので「えっ?」と2度見しちゃったよ(笑)。
 『ロミオとジュリエット』を4年連続上演し、今現在東宝劇場で星組が上演中なのにコレをやるのか、という驚きもひとつ。
 そして、景子タンの『ロミオとジュリエット`99』のレミちゃんを痛烈に思い出していた。幕開きから白い世界で踊り、慟哭してたなああ。

 景子タン変わらないなあ、99年からだから、14年かよ、と肩を落としつつ眺めていたんだけど、鳥さん2羽は超絶かわいいので、それだけで目に楽しい。

 問題は、観劇後に、役名とその解説を読んだときだ。

Angel White(白い天使) 冴月 瑠那
 (この世の善なるものの象徴)
Angel Black(黒い天使) 柚香光
 (この世の悪なるものの象徴)

 う・わー……。

 ごめん、どん引きした。

 鳥2羽が天使だということは、役名を知らなくても想像が付く。
 役名がAngel White(白い天使)、Angel Black(黒い天使)なのも別にいい。ベタ過ぎて興ざめっちゅーか恥ずかしいセンスだけど、大劇場だからそれくらいわかりやすい役名は必要かと思う。
 ここまでがわたしの許容範囲で、その解説はわたしの境界線をぶっちぎりで遙か遠く超えてくれた(笑)。
 無理。
 わたし、無理、このセンス!! ついて行けない!(笑)

 善と悪ときましたよ……。

 あー……。

 わたしのこの拒絶反応は、言葉にして説明しにくい。
 なんだろ、「言葉による限定」が苦手なの。
 せっかく舞台演劇で、この世に存在しないものをダンスやその役者の肉体表現で創作しているっちゅーに、「カレーくんの黒い天使はね、この世の悪なるものの象徴なんですよ。苦しむ人々を見て彼がにやりと笑うのは、彼が悪を表現しているからなんです。第何場のなんという台詞を言うときの誰々の背景で踊るのも、そのためです。ああ、あのキャラのあの歌もそうです、悪なんですよねー」といちいちテロップ出して解説されるウザさ……!
 アホかと。
 んなもん、解説されるまでもない。

 そして、「この世の悪なるものの象徴」と限定されていると知らずに見ていた初日はまだ良かったけど、その解説を読んだあとで見た翌日は、設定のブレが、不愉快だ。

 悪の象徴なら象徴でいいよ。あほくさいと思うけど、それをやりたいなら止めない。
 でもさ、わざわざ「この世の悪なるものの象徴」としておきながら、黒い天使くんは別に「この世の悪なるものの象徴」じゃない。ズレてる。それは「この世の善なるものの象徴」の白い天使ちゃんも同じ。
 善と悪と謳うからには、まず教えてくれ。なにが善であり、なにが悪なのか。
 景子タンの言う「善」と「悪」が、わたしには「思春期前の少女が、『大人って汚い! キィ~~~っ!』と叫んでいる」ように見える。そこにあるのは「善」ではなく、「キレイゴト」とか「偏った視界にだけ映る理想」に見える。
 「善」に見えないのに「この世の善なるものの象徴」として、「この世の絶対正義」として打ち出されると、キモチ悪い。
 また、景子タンの言う「悪」は、ショッカーか『りぼん』『なかよし』レベルの画一的な悪だし。せいぜい幼稚園バスでも襲っていてくださいよ、「主役が欲しかったら愛人になれ」とか言ってバレリーナの女の子に取引を持ちかけてくださいよ。
 それを「この世の絶対悪」として歌い上げられてもなー。

 ヒロインのマッダレーナが絶望したとき、黒い天使がナイフを示す。マッダレーナは自殺を考える。白い天使がシェニエの詩を示す。マッダレーナは生きる意欲を取り戻す。
 ……これが「この世の悪なるものの象徴」と「この世の善なるものの象徴」の行動ですよ。
 うわー……。勘弁してくれ。

 「言葉による限定」がなければ、そこで描かれている出来事や概念が幼稚であっても、こっちが勝手に想像して見ていられたのに。
 カレーくんもルナくんもきれいでかわいい、彼らの存在に勝手に夢を見られるのに。
 ふたりが対立する存在でありながらも表裏一体、実際仲良しであることなんかにも、勝手に深くこじつけて楽しめたのに。

 つまんないなあ。

 や、「解説にはそう書いてあるけど、実はそれはカモフラージュ、本当の意味は別にあって……!」てなことがあるのかもしんないけど、わたしは解説文だけで萎えたのでもういいです、考えない(笑)。
 『ロミジュリ』の愛と死が解説無しに「愛です」「死です」と投げられてるんだから、「劇団命令で無理矢理『この世の悪なるものの象徴』と解説を書かされたんです」なんてのは信じない。あの解説まで含めて景子タンの意志なんだろうと。

「景子作品が薄っぺらいのなんか、世の常識でしょう。何年ヅカファンやってるの」
 と、友人には両断されましたが。

 でもわたしさー、景子せんせの「キレイゴト」もけっこー好きだったりするんだ。
 あえてきれいなモノだけ見る、てのはありだと思うの。なしくずしの人情オチとか、詰めの甘い大団円とか、盛り上げてくれるならそれでいいの、好きなの。
 今回はそれすらなくて、ただ薄いだけで、つまんない。


 そんでさあ、この白い天使と黒い天使、なんのためにいるの?

 『ロミジュリ』の愛と死を、「なんのためにいるの?」とは思わない。作品に必要だと思えるから。
 主人公のロミオとジュリエットに深く関係した存在だから。

 だけどこの『愛と革命の詩』に、白黒天使は必要か?
 善と悪の人格化は必要か?

 いらんやろ。

 だって、主人公アンドレア・シェニエは、善と悪の狭間にいない。葛藤していない。

 シェニエさんは善で正義で高潔。最初から最後までそう。迷わないし、悩まない。
 彼は最後まで自分を貫き、自分が嫌なこと、心に背くことは一切せずに、「俺正しい」と言って処刑されていく。
 善と悪の間で葛藤しない。

 クリエイターとしても人生においても、シェニエさんって一度も深く悩まないし、挫折もしないんだよね。
 素晴らしい作品を発表し続け(理解しない時代が悪い)、恋愛はなんの障害もなく成就(時代のおかげ)、生き延びる方法はあるのに「信念を曲げない」から死刑勧告(周囲が苦しむ)、恋人が「一緒に死ぬわ」とやってきて、ふたりでしあわせに昇天。

 こんな都合のいい男の周りで、善と悪の象徴天使がひらひら踊る、世界観って。

 シェニエさんが悩み多い男なら良かったのに。
 創作にも人生にも悩み、傷つき迷いながら、悪の誘惑に乗り身を汚したり心を踏みにじられたりしながらも、善なるものにたどり着く物語なら、感動的なのに。
 そんな彼に、白い天使と黒い天使が関わってくれたら、感動的だったのに。

 もしくは、シェニエさんは善=白い天使、ジェラールさんは悪=黒い天使、と二極化して描くとか。
 シェニエさんの正義っぷりも半端なら、ジェラールさんの敵対ぶりも半端なのよね。だからシェニエさんの物語は起伏が乏しい。
 ジェラールさんこそが善と悪の狭間で葛藤してるのよねー。白黒天使を中心に画面を構築すると、シェニエさんいらないわ。

 つくづくトホホだな、今回の景子せんせ。

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