不毛だとわかっているが、自分のために記す。
 『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』の脚本の嫌いなところ。

 どれだけ嫌いか、どこが嫌いか、ナニが嫌いか。
 きちんと考え、書き記したい。
 文章化しないことには、落ち着かない。
 ただ漠然と「嫌いだ。嫌いだ」と思って観劇しているのは。

 わたしは今回、自分史上最高回数『ベルばら』を観劇した。
 いつものわたしなら、1回でアウト、脱落している。役者が変わるたびに別モノと考えるから、役替わりを1回観るだけが精一杯、同じモノは2回観られない、わたしの精神が死ぬ。それくらいダメ。

 それでもリピートしたのは、贔屓がアンドレ役をやっているためだし、贔屓だけでなく、雪組キャストの熱演が素晴らしかったからだ。
 繰り返し観れば観るほど、作品への嫌悪感と、演じているキャストへの好意が、わきあがってくるんだ。

 この正反対の感情、嫌悪と好意。
 それを整理するためにも、「嫌い」なことを書き記す。

 「嫌い」語りなので、悪いことばかり、マイナスなことばかりになる。
 だから、そーゆーのが無理な人はどうか見なかったことにしてやってください。

 ただ。

 その場面に出ている生徒さん、役にはなんの含みもない。
 「**さんの出番、**さん役をdisってる! **さんを貶めたいのね!」という意図はまったくない。役者への愛情や敬意とはまったく別の話。

 それだけは、誤解しないで欲しい。



第1幕
第5場 王家の紋章

 地味なプロローグが終わったあと、さらに地味なカーテン前場面。しかも登場するのはおっさん3名。しかも無意味説明台詞をただ垂れ流し続ける。しかも、話の内容に整合性がない。
 無意味なのは、同じ会話を別の場面で別の者たちが語るからだ。同じ説明台詞はいらない。
 また、ここで登場する固有名詞は、この舞台に登場しない、不要な知識だ。無用な固有名詞乱発は、観客の理解を妨げるだけ。混乱させるだけ。説明になっていない。
 さらに、キャラクタの人格を破壊している。ルイ16世はここでわざわざKYで無能な人物として描かれる。その後たびたび語られる「思慮深く聡明」「立派な国王」という設定をぶち壊している。(ちなみに、ルイ16世の趣味は「錠前作り」であって「錠前を開けること」ではない)

 話の内容に「意味がある」か「簡潔でわかりやすい」か、あるいは、まーーったく意味もなくナニ言ってんのかすらわからない外国語を流しているのであったとしても、最低限「美しい」なら許されるが、この3つの要員をなにひとつ満たしていない。
 よってわたしは、この場面の存在を全否定する。


 それ以外に、直接的に引っかかること。
 2006年の『フェルゼンとアントワネット編』でもほぼ同じやりとりがあったのに、今回は不快感が増している。
 それはすべて、不要な台詞が加えられているためだ。
 モノカキにありがちな現象なんだけど、ひとつの作品をいつまでも自分の手の中に置いておくと、どんどん加筆してしまう。過去の自分に現在の自分からなにか言いたくなるんだ。加筆することでよくなる場合もあるが、客観的な目を持たないまま「出来上がった作品」に加筆を続けると、それは大抵「不要」なものを加えて自己満足に陥っているだけ。ただのオナニー。
 植爺作品が再演されるたびに改悪されているのは、ここに原因のひとつがあると思う。もともとあるモノに、チガウ時点から加筆するので、悪い方向にしか進まない。

 てことで、次項へ続く。
 実際に脚本を引用して説明する。

 引用している脚本は、「ル・サンク」からの抜粋。がんがん引用してますよー。文字数多いっすよー。

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