答えを、神に問う。@ベルサイユのばら-フェルゼン編-
2013年5月14日 タカラヅカ 植爺の描く『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』をキライ過ぎゆえ、原点に立ち返り、「フェルゼン」というキャラクタを考える、その2。
植爺『ベルばら』もアニメも関係なく、シンプルに原作のフェルゼンだけをまな板に載せる。
フェルゼンというキャラクタの立ち位置というか、性質は、全部で3つの時期に分けられる。
1・空気読むことはできるけど、まだなにも考えてない青年時代
2・王妃様ラヴ!愛が止まらない!熱病時代。
3・自分がなにをすべきかわきまえた、大人時代。
フェルゼンさんも地味に成長しているんですよ。
彼が「脇役」でしかないのは、彼の「成長」はまったくもって原作では描かれていないこと。いつもいつも彼は紙面の外側、いないところで勝手に変化して、バージョンが変わってから紙面に戻ってくる。
ということで、フェルゼンさんのバージョンが変わるタイミングはとってもわかりやすい。
ベルサイユからいなくなると、バージョンが変わる。
1の無邪気青年時代。
仮面舞踏会でアントワネットと出会ったかと思うと、次は堂々と名乗り出て謁見を申し込んでいる。
人目もなにもあったもんぢゃねえ、心の望むままアントワネットのとりまきとなる。
また、アントワネットも世間知らずの少女なので、フェルゼンへの好意を垂れ流し。
双方若いし、ともにちやほやされた宮廷のスターだから、悪いようには受け取られていないが、そろそろ関係を危ぶむ人も出てきた。
のでフェルゼンは、オスカルの助言を受け、自らフランスを後にする。
自ら、ね。植爺フェルゼンみたいに説得されるわけでも、耳に痛い意見を言ってくれる相手を罵ったりするわけでもない。
2の愛の暴走特急フェルゼンは、留学が終わり、大人の男として再度フランスにやってきた。父親の跡を継ぐこと、身を固めることを、当たり前に考えている。
だけどアントワネットと再会し、またアントワネットが恋愛ハートむき出しなこともあり、「淡い初恋」だったはずの想いが一気に加熱、ふたり揃って愛に暴走。
ふたりともいい大人だし立場もあるしで、ふたりの恋はシャレにならない。
周囲の目は冷たくなる一方なのに、愛の炎は止まらない、ああ止まらない。
「王妃様を愛している」でも、自分がそばにいると、王妃様を愛していると「王妃様のためにならない」……ああ、ジレンマ。
このままぢゃ破滅だよ、ということで、フェルゼンは自ら関係を断ち切る。
戦争へ行くわけだ。
自ら、ね。植爺フェルゼンみたいに説得されるわけでも…(以下略)。
そして、3の大人フェルゼン。
戦争から帰ったフェルゼンは、なんかもう達観していた。悟りを開いていた。
アントワネットへの恋もあきらめない。だけど、アントワネットの不利になることはしない。
自分はあくまでも影として、ひそかにアントワネットを支える覚悟。
王妃としてのアントワネットの立場を想い、フランスの未来を想い、アントワネットにどう生きるべきかを語る。教える。
私欲で群がってくる貴族たちを遠ざけろ、ぜいたくをするな、公務を果たせ……王妃として当たり前のことをしろと説く。
大人になっているアントワネットは、それを素直に受け入れ「王妃として」目覚めた。
アントワネットとフェルゼンの成長はリンクしてるんだよなー。
そして、アントワネットの成長のきっかけ、理由として、バージョンアップしたフェルゼンの登場を使っているけれど、そのフェルゼン自身は、何故成長したのか描かれていない。
これでフェルゼンを「主役のひとり」と公言する作者は、言葉と行動が伴っていないなと常々思う。企画段階ではフェルゼンも主役だったんだろうけど(1話を見ても)、描いているうちに男主人公の地位はアンドレに取られちゃったんだろう。ヒロイン(光)を愛し、支える影としての男性キャラ、という役割は。
てことて、「フェルゼン」というキャラクタのかっこいいところは。
いちばんは前日欄にに書いた、すべてに見捨てられたアントワネットの元に、胸を張って戻ってくるところ。
次はバージョン3になって登場したところだと思うの。
それまでの幼さや弱さと決別し、毅然と人生を肯定しているところ。
そして、その達観した男になるまでの過程だと思えば、言動不一致ぶりもエンタメとしてぜんぜんOKなのよ。
3でばーんとカッコ良くなる、その布石としてそれまでのうだうだがある分には。
フェルゼンがいちばん能動的に動くのはバージョン3になってからの「ヴァレンヌ逃亡事件」だけど、わたしはこのエピソード自体はわりにどーでもいーと思っている。
能動的ではあっても、フェルゼンとしては御者をやっているだけで、画面としてトピックがあるわけじゃない。
同じくらい動きがないなら、「気持ち」がもっとも大きく揺れているところ、大きく光彩を放っているところを「カッコいい」と認定したい。
フェルゼンを主役にするならば、彼が三段階に成長していること、立ち位置や考え方が変わり、人間としてバージョンアップしていることを、「ドラマ」にするべきだ。
最初はまだ、幼かった。恋の意味も身分や立場の意味も知らず、素直に好意を表し、また、受け止めていた。
次に、運命の恋だと燃え上がった。
世間の目がどうあれ、止めることが出来ないほどに。
それが何故、最終的にバージョン3の大人の男に変わったか。
戦争に行ったからだ。
禁じられた恋を断ち切るために、フェルゼンはあえて戦場へ行っている。
アメリカの独立戦争に志願して参加。
戦争体験が、フェルゼンを変えたんだろう。
熱病を患ったと言っていたけれど、それだけでなく、何度も死線をくぐり抜けたんだろう。
生と死の狭間で、「愛」について、「人生」について、考えたんだろう。
なにをどう思ったのかはわからない。どんな経験をしたのかはわからない。
ただ、フェルゼンのこの戦争の意味は、軍人貴族が抱える政治や思想云々ではなく、ひとつの賭けだったのではないかと思う。
この愛の正誤を、神に問う行為だったのではないか。
過ちだというならば、この戦争で死ぬ。
生き残ることが出来たら、愛に殉じる。
そう決意しての志願だったのではないか。
自ら望んで戦地へ赴き、そこでも困難な任務、危険な作戦を率先してこなし、仲間を助け正義を行い、その上で、生き延びることが出来るかどうか。
自分ではもうどうすることもできない。
アントワネットへの愛を捨てられない。
ならばあとは、神に問う。
生きてあのひとのもとへ戻ることが出来るならば、この命をすべてあのひとのためだけに捧げる。
それが過ちだというならば、止め立てするというならば、この命を奪うがいい。
神に問う。
命を懸けて。
この愛に生きる、その正誤を。
そしてフェルゼンは、生き残った。
生きて、フランスへ……アントワネットのもとへ戻った。
彼はもう、一切迷わなくなっていた。
アントワネットの影として生きることを、揺るがなく悟っていた。
それこそが、フェルゼン最大の格好良さだと思うんだ。
フェルゼンは十分、「主人公」たり得るキャラクタだよ。
てことで、次項ではわたしがフェルゼン主人公で物語を作るなら、を考える。
植爺『ベルばら』もアニメも関係なく、シンプルに原作のフェルゼンだけをまな板に載せる。
フェルゼンというキャラクタの立ち位置というか、性質は、全部で3つの時期に分けられる。
1・空気読むことはできるけど、まだなにも考えてない青年時代
2・王妃様ラヴ!愛が止まらない!熱病時代。
3・自分がなにをすべきかわきまえた、大人時代。
フェルゼンさんも地味に成長しているんですよ。
彼が「脇役」でしかないのは、彼の「成長」はまったくもって原作では描かれていないこと。いつもいつも彼は紙面の外側、いないところで勝手に変化して、バージョンが変わってから紙面に戻ってくる。
ということで、フェルゼンさんのバージョンが変わるタイミングはとってもわかりやすい。
ベルサイユからいなくなると、バージョンが変わる。
1の無邪気青年時代。
仮面舞踏会でアントワネットと出会ったかと思うと、次は堂々と名乗り出て謁見を申し込んでいる。
人目もなにもあったもんぢゃねえ、心の望むままアントワネットのとりまきとなる。
また、アントワネットも世間知らずの少女なので、フェルゼンへの好意を垂れ流し。
双方若いし、ともにちやほやされた宮廷のスターだから、悪いようには受け取られていないが、そろそろ関係を危ぶむ人も出てきた。
のでフェルゼンは、オスカルの助言を受け、自らフランスを後にする。
自ら、ね。植爺フェルゼンみたいに説得されるわけでも、耳に痛い意見を言ってくれる相手を罵ったりするわけでもない。
2の愛の暴走特急フェルゼンは、留学が終わり、大人の男として再度フランスにやってきた。父親の跡を継ぐこと、身を固めることを、当たり前に考えている。
だけどアントワネットと再会し、またアントワネットが恋愛ハートむき出しなこともあり、「淡い初恋」だったはずの想いが一気に加熱、ふたり揃って愛に暴走。
ふたりともいい大人だし立場もあるしで、ふたりの恋はシャレにならない。
周囲の目は冷たくなる一方なのに、愛の炎は止まらない、ああ止まらない。
「王妃様を愛している」でも、自分がそばにいると、王妃様を愛していると「王妃様のためにならない」……ああ、ジレンマ。
このままぢゃ破滅だよ、ということで、フェルゼンは自ら関係を断ち切る。
戦争へ行くわけだ。
自ら、ね。植爺フェルゼンみたいに説得されるわけでも…(以下略)。
そして、3の大人フェルゼン。
戦争から帰ったフェルゼンは、なんかもう達観していた。悟りを開いていた。
アントワネットへの恋もあきらめない。だけど、アントワネットの不利になることはしない。
自分はあくまでも影として、ひそかにアントワネットを支える覚悟。
王妃としてのアントワネットの立場を想い、フランスの未来を想い、アントワネットにどう生きるべきかを語る。教える。
私欲で群がってくる貴族たちを遠ざけろ、ぜいたくをするな、公務を果たせ……王妃として当たり前のことをしろと説く。
大人になっているアントワネットは、それを素直に受け入れ「王妃として」目覚めた。
アントワネットとフェルゼンの成長はリンクしてるんだよなー。
そして、アントワネットの成長のきっかけ、理由として、バージョンアップしたフェルゼンの登場を使っているけれど、そのフェルゼン自身は、何故成長したのか描かれていない。
これでフェルゼンを「主役のひとり」と公言する作者は、言葉と行動が伴っていないなと常々思う。企画段階ではフェルゼンも主役だったんだろうけど(1話を見ても)、描いているうちに男主人公の地位はアンドレに取られちゃったんだろう。ヒロイン(光)を愛し、支える影としての男性キャラ、という役割は。
てことて、「フェルゼン」というキャラクタのかっこいいところは。
いちばんは前日欄にに書いた、すべてに見捨てられたアントワネットの元に、胸を張って戻ってくるところ。
次はバージョン3になって登場したところだと思うの。
それまでの幼さや弱さと決別し、毅然と人生を肯定しているところ。
そして、その達観した男になるまでの過程だと思えば、言動不一致ぶりもエンタメとしてぜんぜんOKなのよ。
3でばーんとカッコ良くなる、その布石としてそれまでのうだうだがある分には。
フェルゼンがいちばん能動的に動くのはバージョン3になってからの「ヴァレンヌ逃亡事件」だけど、わたしはこのエピソード自体はわりにどーでもいーと思っている。
能動的ではあっても、フェルゼンとしては御者をやっているだけで、画面としてトピックがあるわけじゃない。
同じくらい動きがないなら、「気持ち」がもっとも大きく揺れているところ、大きく光彩を放っているところを「カッコいい」と認定したい。
フェルゼンを主役にするならば、彼が三段階に成長していること、立ち位置や考え方が変わり、人間としてバージョンアップしていることを、「ドラマ」にするべきだ。
最初はまだ、幼かった。恋の意味も身分や立場の意味も知らず、素直に好意を表し、また、受け止めていた。
次に、運命の恋だと燃え上がった。
世間の目がどうあれ、止めることが出来ないほどに。
それが何故、最終的にバージョン3の大人の男に変わったか。
戦争に行ったからだ。
禁じられた恋を断ち切るために、フェルゼンはあえて戦場へ行っている。
アメリカの独立戦争に志願して参加。
戦争体験が、フェルゼンを変えたんだろう。
熱病を患ったと言っていたけれど、それだけでなく、何度も死線をくぐり抜けたんだろう。
生と死の狭間で、「愛」について、「人生」について、考えたんだろう。
なにをどう思ったのかはわからない。どんな経験をしたのかはわからない。
ただ、フェルゼンのこの戦争の意味は、軍人貴族が抱える政治や思想云々ではなく、ひとつの賭けだったのではないかと思う。
この愛の正誤を、神に問う行為だったのではないか。
過ちだというならば、この戦争で死ぬ。
生き残ることが出来たら、愛に殉じる。
そう決意しての志願だったのではないか。
自ら望んで戦地へ赴き、そこでも困難な任務、危険な作戦を率先してこなし、仲間を助け正義を行い、その上で、生き延びることが出来るかどうか。
自分ではもうどうすることもできない。
アントワネットへの愛を捨てられない。
ならばあとは、神に問う。
生きてあのひとのもとへ戻ることが出来るならば、この命をすべてあのひとのためだけに捧げる。
それが過ちだというならば、止め立てするというならば、この命を奪うがいい。
神に問う。
命を懸けて。
この愛に生きる、その正誤を。
そしてフェルゼンは、生き残った。
生きて、フランスへ……アントワネットのもとへ戻った。
彼はもう、一切迷わなくなっていた。
アントワネットの影として生きることを、揺るがなく悟っていた。
それこそが、フェルゼン最大の格好良さだと思うんだ。
フェルゼンは十分、「主人公」たり得るキャラクタだよ。
てことで、次項ではわたしがフェルゼン主人公で物語を作るなら、を考える。
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