いちばん「カッコイイ」彼は?@ベルサイユのばら-フェルゼン編-
2013年5月13日 タカラヅカ 植爺『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』が嫌い過ぎる、植爺の書くフェルゼンという男がキチガイ過ぎる。
フェルゼンというキャラクタはそもそも本筋の外側にいる脇役、彼を主役にすることに無理がある。
脇役を主役にエンタメを書くには、かなりの力量が必要。
と、えんえん繰り返してきた。
それは変わらない。
だけど今、その「脇役」フェルゼンを考えてみようと思う。
植爺『ベルばら』についても、オスカルについても、2006年版のときにさんざん語ったので、もういい。わたしの意見は変わってないし、植爺の酷さもかわってないから、同じことを語る気にはなれない。
ちなみに、2006年の『フェルゼンとアントワネット編』当時の、「植爺の女性蔑視」についての記事と、原作オスカルについての私感。
http://koalatta.blog48.fc2.com/blog-entry-1280.html 持ち上げながら、じつは貶める。それが植爺クオリティ。@ベルサイユのばら-フェルゼンとマリー・アントワネット編-
http://koalatta.blog48.fc2.com/blog-entry-1281.html オスカルの横顔。
2006年は『フェルゼンとアントワネット編』『オスカル編』と、いろいろ鼻息荒く『ベルばら』感想を書きまくったなああ。ブログをはじめて、はじめての『ベルばら』だったから(笑)。
自分の変わらなさと、植爺の変わらなさに苦笑しつつ。
今回は、以前書いてなかった、フェルゼンのこと。
植爺の悪作を離れて忘れて、長浜・出崎監督のオリジナル化していたアニメも関係なく、ただひたすら、原作のみに焦点を当てて。
フェルゼンのいちばんかっこいい場面、台詞って、なんだと思う?
アントワネットとの愛の告白? 甘く交わされるいちゃいちゃ会話?
やたらくり返される「アントワネット一途」台詞?
「すまないが、わたしは逃げる」と戦争へ行くこと?
唯一彼自身がアクティヴに行動する、ヴァレンヌ逃亡事件?
わたしが「フェルゼン」という動きの少ないキャラクタで、最大級に「かっこいい!!」と思う場面は。
人権宣言決定後、決断を迫られる国王ルイ16世、でもなにしろ彼は優柔不断でなにもできず、「こんな国王につきあっていられない」と貴族たちがこぞってベルサイユを捨てて逃げ出していったあと。
誰もいなくなったベルサイユに、フェルゼンだけが戻ってくる。
「あなたはばかです。みんながベルサイユをすて、わたしをすてていくときに…こんなときに…!」と泣くアントワネットに、胸を張って手を差し出す。
「ともに死ぬためにもどってまいりました…
あなたの忠実な騎士(ナイト)にどうぞお手を…」
かかかかかっこいいぃ!!
ここの台詞だけは、唯一子どもの頃からおぼえてた。
オスカルやアントワネット、アンドレの台詞ならいろいろおぼえているのに、フェルゼンだけはさーっぱり興味なくて、なんも心に残ってなかったのに。
大人になってから読み返すと、やっぱりここのかっこよさが群を抜いている。
アントワネットが何者であろうと、どんな立場だろうと関係なく、ほんとうにただ、アントワネット個人を愛したんだ。
もちろんそれはずっと台詞で表されてきたけれど、フェルゼンが有言実行した最初がコレであるはず。
だってそれまでは、どんだけ言葉で言ったところで、アントワネットは王妃様で、王妃様の寵を受けることは「得」であると傍目には受け取れることだから。
アントワネットのそばにいることは「得」ではない、むしろ「損」であると誰もが判断するようになったときだからこそ。
フェルゼンは胸を張って高らかに宣言する。
「いまこそ、あなたの盾となり、あなたをささえ、あなたを愛するのはこのわたくしなのだと…ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンなのだと、フランス国民のまえに名のりでましょう!」
本人たちがどう受け取っていようとそれはカタチのないものだった、それが物理的に証明されたんだ。
フェルゼンの「行動」によって。
行動の伴った言葉だから、カッコイイ。
このあとフェルゼンはヴァレンヌ逃亡事件を代表として、アントワネットのために生きることを、「有言実行」する。
フェルゼンというキャラクタを(「そもそもこの人、脇役じゃん」ということは置いておいて)「主役」として考えると、なんつってもこの言動不一致さが、足を引っ張る。
彼は、言葉と行動が矛盾しているんだもん。
フランス王妃と不倫することで、王妃の立場が危うくなるのに、平気で愛人やってるんだもん。
美しい「愛」を口にしながら、行動はただの「欲」。
「愛している」と口で言うだけ、行動は大きな目で見ればただの「迷惑」。アントワネットや彼女の家庭、彼女の国をめちゃくちゃにしても、自分の気持ちが大事。
言動不一致。
それが恋なのよ、常識では計れないモノなのよ、と言いたいのはわかるが、被害者意識ばかりが先に出て、客観的に見るとただの偽善者言動。
愛している、と言っているだけで、あとはなにもいいこと・カッコイイことをしていない。コミックス9冊中、8冊までがそうなんだもん。これじゃ「主役」にも「カッコイイ」にも、遠く及ばない。
フェルゼンの言動が一致し、素直に「カッコイイ」アクションを起こせたのが、1冊だけ。
「主役」にするには、難しいよなああ。
矛盾している人生を、うだうだと心の内面・深層心理の奥底まで掘り下げて描く純文学ではなく、少女マンガや2時間半で完結する2500人劇場ミュージカルで、フェルゼンみたいな人を主役にするのは、ほんと無理があるわ。
と言い切りつつも。
フェルゼンはちゃんと、いい男だ。
9冊中8冊まで言動不一致なまま、ナニもしていない男なんだけど、その口先だけの8冊だって、原作のフェルゼンは筋の通ったキャラクタである。
正しいだけ、間違っていないというだけが、主人公の資質じゃない。
客観的事実だけだとダブスタにしか見えないけど、フェルゼン自身はブレのない男である。
フェルゼンは作中できちんと成長しているからだ。
成長する人間、は、物語の主人公たりうる。
フェルゼンの成長を正しく描けば、彼の半生を正しく追えば、まぎれもない『フェルゼン編』が成立する。
フェルゼンは、「ともに死ぬためにもどってまいりました」と胸を張って宣言する、「カッコイイ男」なのだから。
てことで、次項でその話。
フェルゼンというキャラクタはそもそも本筋の外側にいる脇役、彼を主役にすることに無理がある。
脇役を主役にエンタメを書くには、かなりの力量が必要。
と、えんえん繰り返してきた。
それは変わらない。
だけど今、その「脇役」フェルゼンを考えてみようと思う。
植爺『ベルばら』についても、オスカルについても、2006年版のときにさんざん語ったので、もういい。わたしの意見は変わってないし、植爺の酷さもかわってないから、同じことを語る気にはなれない。
ちなみに、2006年の『フェルゼンとアントワネット編』当時の、「植爺の女性蔑視」についての記事と、原作オスカルについての私感。
http://koalatta.blog48.fc2.com/blog-entry-1280.html 持ち上げながら、じつは貶める。それが植爺クオリティ。@ベルサイユのばら-フェルゼンとマリー・アントワネット編-
http://koalatta.blog48.fc2.com/blog-entry-1281.html オスカルの横顔。
2006年は『フェルゼンとアントワネット編』『オスカル編』と、いろいろ鼻息荒く『ベルばら』感想を書きまくったなああ。ブログをはじめて、はじめての『ベルばら』だったから(笑)。
自分の変わらなさと、植爺の変わらなさに苦笑しつつ。
今回は、以前書いてなかった、フェルゼンのこと。
植爺の悪作を離れて忘れて、長浜・出崎監督のオリジナル化していたアニメも関係なく、ただひたすら、原作のみに焦点を当てて。
フェルゼンのいちばんかっこいい場面、台詞って、なんだと思う?
アントワネットとの愛の告白? 甘く交わされるいちゃいちゃ会話?
やたらくり返される「アントワネット一途」台詞?
「すまないが、わたしは逃げる」と戦争へ行くこと?
唯一彼自身がアクティヴに行動する、ヴァレンヌ逃亡事件?
わたしが「フェルゼン」という動きの少ないキャラクタで、最大級に「かっこいい!!」と思う場面は。
人権宣言決定後、決断を迫られる国王ルイ16世、でもなにしろ彼は優柔不断でなにもできず、「こんな国王につきあっていられない」と貴族たちがこぞってベルサイユを捨てて逃げ出していったあと。
誰もいなくなったベルサイユに、フェルゼンだけが戻ってくる。
「あなたはばかです。みんながベルサイユをすて、わたしをすてていくときに…こんなときに…!」と泣くアントワネットに、胸を張って手を差し出す。
「ともに死ぬためにもどってまいりました…
あなたの忠実な騎士(ナイト)にどうぞお手を…」
かかかかかっこいいぃ!!
ここの台詞だけは、唯一子どもの頃からおぼえてた。
オスカルやアントワネット、アンドレの台詞ならいろいろおぼえているのに、フェルゼンだけはさーっぱり興味なくて、なんも心に残ってなかったのに。
大人になってから読み返すと、やっぱりここのかっこよさが群を抜いている。
アントワネットが何者であろうと、どんな立場だろうと関係なく、ほんとうにただ、アントワネット個人を愛したんだ。
もちろんそれはずっと台詞で表されてきたけれど、フェルゼンが有言実行した最初がコレであるはず。
だってそれまでは、どんだけ言葉で言ったところで、アントワネットは王妃様で、王妃様の寵を受けることは「得」であると傍目には受け取れることだから。
アントワネットのそばにいることは「得」ではない、むしろ「損」であると誰もが判断するようになったときだからこそ。
フェルゼンは胸を張って高らかに宣言する。
「いまこそ、あなたの盾となり、あなたをささえ、あなたを愛するのはこのわたくしなのだと…ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンなのだと、フランス国民のまえに名のりでましょう!」
本人たちがどう受け取っていようとそれはカタチのないものだった、それが物理的に証明されたんだ。
フェルゼンの「行動」によって。
行動の伴った言葉だから、カッコイイ。
このあとフェルゼンはヴァレンヌ逃亡事件を代表として、アントワネットのために生きることを、「有言実行」する。
フェルゼンというキャラクタを(「そもそもこの人、脇役じゃん」ということは置いておいて)「主役」として考えると、なんつってもこの言動不一致さが、足を引っ張る。
彼は、言葉と行動が矛盾しているんだもん。
フランス王妃と不倫することで、王妃の立場が危うくなるのに、平気で愛人やってるんだもん。
美しい「愛」を口にしながら、行動はただの「欲」。
「愛している」と口で言うだけ、行動は大きな目で見ればただの「迷惑」。アントワネットや彼女の家庭、彼女の国をめちゃくちゃにしても、自分の気持ちが大事。
言動不一致。
それが恋なのよ、常識では計れないモノなのよ、と言いたいのはわかるが、被害者意識ばかりが先に出て、客観的に見るとただの偽善者言動。
愛している、と言っているだけで、あとはなにもいいこと・カッコイイことをしていない。コミックス9冊中、8冊までがそうなんだもん。これじゃ「主役」にも「カッコイイ」にも、遠く及ばない。
フェルゼンの言動が一致し、素直に「カッコイイ」アクションを起こせたのが、1冊だけ。
「主役」にするには、難しいよなああ。
矛盾している人生を、うだうだと心の内面・深層心理の奥底まで掘り下げて描く純文学ではなく、少女マンガや2時間半で完結する2500人劇場ミュージカルで、フェルゼンみたいな人を主役にするのは、ほんと無理があるわ。
と言い切りつつも。
フェルゼンはちゃんと、いい男だ。
9冊中8冊まで言動不一致なまま、ナニもしていない男なんだけど、その口先だけの8冊だって、原作のフェルゼンは筋の通ったキャラクタである。
正しいだけ、間違っていないというだけが、主人公の資質じゃない。
客観的事実だけだとダブスタにしか見えないけど、フェルゼン自身はブレのない男である。
フェルゼンは作中できちんと成長しているからだ。
成長する人間、は、物語の主人公たりうる。
フェルゼンの成長を正しく描けば、彼の半生を正しく追えば、まぎれもない『フェルゼン編』が成立する。
フェルゼンは、「ともに死ぬためにもどってまいりました」と胸を張って宣言する、「カッコイイ男」なのだから。
てことで、次項でその話。
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