『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』は、つまらない。
 だけど、出演者は魅力的。

 出演者の力だけ、魅力だけで、成り立っている!
 それってとっても「タカラヅカ」。
 だから、大丈夫Myフレンズ。

 たのしめるよ。


 今回の『フェルゼン編』、作品はひどいけれど、生理的嫌悪感が少なくすんでいるので、リピートはかなりしやすい。
 これってスズキケイの功績なのかな? 月組の『オスカルとアンドレ編』でも感じたことだけど、好悪のメリハリが薄くなっている。
 嫌っっ!!と嫌悪感に身震いする度合いが減り、かわりにわくわく高ぶる部分も減っている。
 つぎはぎ部分の地均しをし、できるだけ穏便になあなあで済ませる感じ。
 なにもかも薄いのが「現代風」なのかな。「~的な?」っつー喋り方で本質をごまかして成立する的な?

 まあおかげで、わたしが危惧した「嫌悪感で観劇すらできない」状況にはならずにすんだ。
 『外伝 ベルサイユのばら-アンドレ編-』は観劇すら無理だったもん、わたしには。

 いちばんおかしいのは主人公のフェルゼンで、ありがたいことにフェルゼンは単体で、変。狂ったことをひとりでがなりたてている。

 あと変度が高いのはブイエ将軍だけど、彼の出番は少ない。(台詞は長いけど)

 つらいのは、狂った人たちがタッグを組んでがなりたてたり、狂った人しか出てこない、狂った人の出番がやたら多い、てなことで、単体で変でも、周囲の人たちがまともだと、破壊力は少ない。

 たとえば『どんぐり編』では、いちばん出番の多いマロン・グラッセが完璧におかしくて、「お前の使命はオスカル様を守って死ぬことよ」「失明するなんて、この役立たず! それじゃオスカル様を守れないじゃないの!」とがなりたて続けていた。
 それに対してアンドレも「オスカルのため」と、誰のためにもならない意味不明の行動を繰り返していた。まともならしないだろうことばかりを、自己犠牲に酔って。
 そしてヒロインは言わずもがな、30年近くアンドレのストーカーを続け、拒絶されたからとアンドレとオスカルの殺害を企む狂った女。
 常識では理解できない、ゆがんだ思考しか持たない人ばかりが舞台を占めていて、しかも彼らが「正しい」という姿勢で物語が終始し、観ているとこちらの頭がおかしくなりそうだった。

 植爺のスタンダードがあれくらい狂っているのだとしたら、どんな作品ももれなく『どんぐり編』並におかしくなる可能性は大いにある。
 だからわたしは、それをひたすらおそれていた。

 でも、それは杞憂だった。
 頭の中身を疑うような人たちが少ないのは、ありがたい。

 フェルゼンは明らかにおかしいんだけれど、えりたんがそれを力づくでぶっ飛ばしているし。

 なにより、オスカルとアンドレがまともな人なので、心から命拾いした。

 オスカルは過去のどの『ベルばら』よりも、シンプルに心の動きが描かれていて、近衛兵から衛兵隊へ、そして民衆側について戦死するまでの流れがスムーズだ。

 フェルゼンというおかしな男に惚れていることと、そのあといつの間にかアンドレに心変わりしていること、ここだけがおかしいんだが、大丈夫、そんな部分をきちんと描いた植爺『ベルばら』は、そもそも存在しないので、問題なし。
 『オスカル編』でも『オスカルとアンドレ編』でも、描かれたことないんだもん、『フェルゼン編』で描かれるわけない。
 植爺の恋愛観は「立場が同じ」。「同じ貴族」とか「同じ境遇」とか、目に見える「同じ」ものがなければならない。つまり、「同じ」ものがあればすなわち恋愛。
 ロザリーとベルナールが恋をしたのは「同じ貴族の生まれで、同じように貴族に親を殺された」からだし、アントワネットとフェルゼンが恋に落ちたのも「同じように、習慣やしきたりの違う異国で孤立している」から。
 オスカルとアンドレだって、「長年一緒に育った」「ずっとそばにいた」からだし。
 それ以上書けない人で、なにか付け加えるとその分だけ破綻するんだから、「フェルゼンを好きだったけど、今はアンドレ愛してる!」でいいよ。

 無駄な書き込みがない分、女々しくもない。
 ちぎくんの硬質な美貌と生真面目さと相まって、一途で誠実な、男装の麗人オスカルになっている。

 そして、アンドレ。
 いったいどうしたことか、とてもクレバーで距離感のある造形になっている。
 勇み足なオスカルをからかったりたしなめたりしながら、彼女のすべてを受け入れている。オスカルの影であることを、わきまえたアンドレ。
 愛しているからと強姦しようとしたり、毒殺しようとしたり、しない。

 「毒殺未遂」場面は『ベルばら』の華だから、あるに越したことないけれど、その前後をきちんと描かない(描けない)植爺だから、毒殺未遂があることで、アンドレのキャラクタ破壊につながる。
 引いては、オスカルのキャラも壊れる。

 「出番や台詞が少ない方が人格破綻を逃れられる」という植爺ルール。
 『フェルゼン編』であるがゆえにオスアンは出番が少なく、おかげでまともになってくれている。


 そして、植爺の大好きな「女のくせに」「女だから」が、ほとんどない。
 わたしほんっとーにアレが不快で。

 実際にそういう思考や、物言いをする男性はいるだろう。
 現実にいるかもしれないが、それはどうでもいい。

 『ベルばら』で、オスカル絡みで使われるのが、心から不快。

 「オスカル」というキャラクタを根本から、カケラも、髪の先ほども理解していない人が作っているのだと、思い知らされるから。

 元凶はブイエ将軍。このキャラクタの出番が多いと、わたしの嫌悪感メーターが跳ね上がる。月組版では、大好きな越リュウが演じていてさえ、受け入れられなかった。また月組版のブイエ将軍は、歴代屈指の破綻ぶりだったし。

 雪組版では、ブイエ将軍の対オスカルの出番が少ないので、被害が最小になっている。(それでも嫌悪感のある会話が交わされているけど)


 狂った人が、少ない。
 助かった。
 マジ、命拾いした(笑)。

 だから問題は、「作品」として、つまらない、ってことなんだな(笑)。……いや、笑えない。


 今からでも、作り直してくれないかなあ。

 オープニング直後の長い長い長すぎるカーテン前の説明台詞立ち話をカットして、メルシー伯爵のお説教を8分の1くらいに短縮して、ルイ16世のお散歩をカットして。
 代わりに、フェルゼンとアントワネットの深夜の小舟デート入れて、退団するソルーナさんのためにも、パリに幽閉されたあとの国王一家の和やかシーンと別れを入れて、ルイ・シャルルと引き離されるシーンを入れればいいのに。

 そしたら、必然的に「フェルゼン」が盛り上がるのに。
 アントワネットと愛し合っている場面があるし、有名曲「愛それは」があるし、だからこそ「お別れです」が切なくなる。
 アントワネットと子どものエピソードがあれば、ラストで「母なんです」とフェルゼンの手をふりほどくアントワネットに説得力が増し、悲劇が盛り上がる。
 また、幸せソングだった「愛それは」を、ラストにフェルゼンが痛みに満ちて歌うことで、ラストシーンが盛り上がる。

 必要なのは、「アントワネット」の出番。『フェルゼン編』だから、オスアンと今のままでいいよ。バランス崩れるから。
 あくまでも、「フェルゼン」中心に考えて、必要なのは、アントワネット。

 植爺の行った改編って、全部全部、「フェルゼンのためにならない」ことばかり。
 アントワネットの出番を減らして、専科さんの出番を増やしても、フェルゼンを盛り立てることにはならない。
 唯一フェルゼンの見せ場として、彼の理屈は狂っているけれど、見た目の格好良さのある国境警備隊との立ち回りは、特出時は全カットだし。

 主役を盛り立てない限り、「作品」として面白くなるわけないじゃないか。

コメント

日記内を検索