祭りのはずなのに。@ベルサイユのばら-フェルゼン編-
2013年4月21日 タカラヅカ 今回の『ベルサイユのばら-フェルゼン編-』にいちばんナイのは、「祭り感」だと思う。
前回の月組『ベルサイユのばら-オスカルとアンドレ編-』では、問答無用の「祭りだ!!」という感覚があった。
『ベルばら』嫌いだけど、祭りだからいいや、たまにはいいよね、と思えるような、非日常感。
観客も劇場もそわそわきゃっきゃっして、浮き足立っている。
きらきらわくわく、よくわかんないけど、楽しい空気。
それが今回はナイ……。
4月で初舞台生お披露目で、トップコンビお披露目の、何重にも「めでたい」、これ以上なく「祭り」にふさわしいお膳立ては出来ているのに。
主人公が所詮脇役のフェルゼンだから、派手になりようがない、というのはもちろんある。
でもそんなの、最初からわかっていることなんだから、それを踏まえた上で盛り上げなくてはならないだろう。
まず必要なのは、派手なオープニング。
別に絵の中からキャストが出てこなくてもいいから、とにかくわかりやすく派手に盛り上げる。
歴代名曲メドレーやりながら、大階段にスターたちが登場する。
そして銀橋でのラインアップ。
主役のフェルゼンはもちろんのこと、初心者たちの度肝を抜く豪華ドレスのアントワネット、なにも知らない一見さんでも名前とビジュアルくらいは知っているだろう最大有名キャラオスカル、その相手役アンドレ、原作や往年のヅカファンにはわかるロザリー、ベルナール、ジェローデル……有名キャラをこれでもか!と披露する。
次から次へと登場してくるドレスの貴婦人たち、宮廷服の紳士たち。『フェルゼン編』は貴族編でもあるわけだから、ひたすら派手に「これぞタカラヅカ!」な世界を展開できる。
それこそが「祭り」だ。
観客が観たいのは「タカラヅカの『ベルばら』」だ。
ただドレスを着た人たちが揺れている姿を見たいわけじゃない。それはただの「タカラヅカ」。
『ベルばら』なんだから、『ベルばら』のキャラクタを見せようよ。
2006年『フェルゼンとアントワネット編』のオープニングは派手だったなああ。
次から次へと現れるスターたち……拍手に次ぐ拍手。
アントワネットの頭に、船が載ってたくらいだもんな。
つくづく、2008年スタートの『外伝』は百害あって一利なしだったと、またひとつ新たに思ったのは、植爺に変な癖を付けたこと。
『外伝』は3組で上演すると最初に宣言していて(のちに前言を意図的に忘却し、さらに2公演もやった)、「経費節減」がいちばんの理由なんだろうけど、「オープニングはすべて同じ」てなアホなことをやった。
主役もストーリーも時代も違うのに、同じオープニング。
つまり、『ベルサイユのばら』である必要のない、ドレスや宮廷服で歌い踊るだけのオープニングだ。
『ベルばら』のキャラクタが出なければ、『ベルばら』である必要なんかない。なのに、1作分の予算で3組分作るために、そんな愚策を行った。
経費の問題だけでなく、植爺の手抜きの言い訳だと思ってるけど。1作分の労力で、3作分のギャラを得たいんだなと。
『外伝』が罷り通っちゃったから(無理矢理通したから)、味をしめたんだろう。
『ベルばら』のオープニングを作るのは面倒だから、てきとーに「ふつーのオープニング」を作ってお茶を濁す。
各キャラクタとして見せ場を考えるのは面倒、貴公子とか貴婦人とかいう役名なら、てきとーでもいい。
てきとーにきれーな衣装の人々が、てきとーにゆらゆらして、はいオープニング出来上がり。
……って、そんなん誰も求めてないから! みんな『ベルばら』を求めてるんだから!!
今回の『フェルゼン編』のオープニングには、フェルゼン@えりたん以外、誰も出ていない。
舞台上には、みんないる。あゆっちもちぎくんもまっつも、他のスターたちも。
だけどみんな、「その他大勢、名前なし」。
『ベルばら』のスターという扱いじゃない。
次の場面に出るためにオープニングに出られない、とかじゃないの。
みんないるのに、「物語としての」スポットライトが当たらないの。わざと地味にしてあるの。
なんのために?? 意味が分からない。
観客は「アントワネットだー!」「オスカルだー!」と言って喜ぶものなのに。
「待ってました!」と、「知っている有名キャラの登場」に拍手するものなのに。
また、スターが登場しないためか、銀橋ラインアップもない。
えりたんが「愛の面影」を歌いながらひとり歩くだけ。
地味だ……。
フェルゼンとアントワネットの物語は大人っぽくてしっとりとした悲劇だから、あえて地味な導入にするというのもアリだろう。
プロローグはそれでいいから、「パリ・オペラ座の仮面舞踏会の夜」を語ったあとに、「それはそれとして、『ベルばら』のオープニング開始!!」をやればいいのに。
あ、初演の『フェルゼン編』に派手なオープニングがなかったから云々、というのは別の話ですよ。初演まんま一切変更なしで再演します、じゃなく、現代とキャストに合わせて改稿、新しい『フェルゼン編』だと謳っているんだから。
現代の客のニーズに合わせると、アントワネットもオスカルもアンドレも登場しないオープニング、になるんですか。
おかげで「祭り感」が薄い。
盛り上がるつもりで会場に駆けつけたのに、祭りがしょぼい。
で、でもきっとこのあと盛り上がるんだわ、最初はわざと地味に抑えてあるのよ、と思ったら。
地味なオープニングのあと、なーんにもないカーテンだけの舞台で、おじさん3人が、えんえん立ち話。
これがまた、長い。無駄に、長い。
長いだけで、有益な情報がほとんどない。何故なら、同じことを他の場面でもえんえんくり返すからだ。ここでここまで説明する意味はどこにもない。
カーテン前だもの、きっとこのカーテンが開けば、そこには豪華なセットがあり、派手な場面がはじまるんだわ、今はその用意をしているのよ……!
と、遠くなる意識を総動員して期待をかけていても。
カーテンが開いた舞台は、また地味な書き割り。
歌もダンスもなく、ただ顔ぶれを変えて立ち話がはじまる。
……この、繰り返し。
「祭り感」が、ないっ!!
地味な立ち話の次は、歌い踊れよ?!
カーテン前と、地味な書き割りで、少人数立ち話しかないってナニゴト??
わくわくしない。
それがいちばんの問題だと思う。
前回の月組『ベルサイユのばら-オスカルとアンドレ編-』では、問答無用の「祭りだ!!」という感覚があった。
『ベルばら』嫌いだけど、祭りだからいいや、たまにはいいよね、と思えるような、非日常感。
観客も劇場もそわそわきゃっきゃっして、浮き足立っている。
きらきらわくわく、よくわかんないけど、楽しい空気。
それが今回はナイ……。
4月で初舞台生お披露目で、トップコンビお披露目の、何重にも「めでたい」、これ以上なく「祭り」にふさわしいお膳立ては出来ているのに。
主人公が所詮脇役のフェルゼンだから、派手になりようがない、というのはもちろんある。
でもそんなの、最初からわかっていることなんだから、それを踏まえた上で盛り上げなくてはならないだろう。
まず必要なのは、派手なオープニング。
別に絵の中からキャストが出てこなくてもいいから、とにかくわかりやすく派手に盛り上げる。
歴代名曲メドレーやりながら、大階段にスターたちが登場する。
そして銀橋でのラインアップ。
主役のフェルゼンはもちろんのこと、初心者たちの度肝を抜く豪華ドレスのアントワネット、なにも知らない一見さんでも名前とビジュアルくらいは知っているだろう最大有名キャラオスカル、その相手役アンドレ、原作や往年のヅカファンにはわかるロザリー、ベルナール、ジェローデル……有名キャラをこれでもか!と披露する。
次から次へと登場してくるドレスの貴婦人たち、宮廷服の紳士たち。『フェルゼン編』は貴族編でもあるわけだから、ひたすら派手に「これぞタカラヅカ!」な世界を展開できる。
それこそが「祭り」だ。
観客が観たいのは「タカラヅカの『ベルばら』」だ。
ただドレスを着た人たちが揺れている姿を見たいわけじゃない。それはただの「タカラヅカ」。
『ベルばら』なんだから、『ベルばら』のキャラクタを見せようよ。
2006年『フェルゼンとアントワネット編』のオープニングは派手だったなああ。
次から次へと現れるスターたち……拍手に次ぐ拍手。
アントワネットの頭に、船が載ってたくらいだもんな。
つくづく、2008年スタートの『外伝』は百害あって一利なしだったと、またひとつ新たに思ったのは、植爺に変な癖を付けたこと。
『外伝』は3組で上演すると最初に宣言していて(のちに前言を意図的に忘却し、さらに2公演もやった)、「経費節減」がいちばんの理由なんだろうけど、「オープニングはすべて同じ」てなアホなことをやった。
主役もストーリーも時代も違うのに、同じオープニング。
つまり、『ベルサイユのばら』である必要のない、ドレスや宮廷服で歌い踊るだけのオープニングだ。
『ベルばら』のキャラクタが出なければ、『ベルばら』である必要なんかない。なのに、1作分の予算で3組分作るために、そんな愚策を行った。
経費の問題だけでなく、植爺の手抜きの言い訳だと思ってるけど。1作分の労力で、3作分のギャラを得たいんだなと。
『外伝』が罷り通っちゃったから(無理矢理通したから)、味をしめたんだろう。
『ベルばら』のオープニングを作るのは面倒だから、てきとーに「ふつーのオープニング」を作ってお茶を濁す。
各キャラクタとして見せ場を考えるのは面倒、貴公子とか貴婦人とかいう役名なら、てきとーでもいい。
てきとーにきれーな衣装の人々が、てきとーにゆらゆらして、はいオープニング出来上がり。
……って、そんなん誰も求めてないから! みんな『ベルばら』を求めてるんだから!!
今回の『フェルゼン編』のオープニングには、フェルゼン@えりたん以外、誰も出ていない。
舞台上には、みんないる。あゆっちもちぎくんもまっつも、他のスターたちも。
だけどみんな、「その他大勢、名前なし」。
『ベルばら』のスターという扱いじゃない。
次の場面に出るためにオープニングに出られない、とかじゃないの。
みんないるのに、「物語としての」スポットライトが当たらないの。わざと地味にしてあるの。
なんのために?? 意味が分からない。
観客は「アントワネットだー!」「オスカルだー!」と言って喜ぶものなのに。
「待ってました!」と、「知っている有名キャラの登場」に拍手するものなのに。
また、スターが登場しないためか、銀橋ラインアップもない。
えりたんが「愛の面影」を歌いながらひとり歩くだけ。
地味だ……。
フェルゼンとアントワネットの物語は大人っぽくてしっとりとした悲劇だから、あえて地味な導入にするというのもアリだろう。
プロローグはそれでいいから、「パリ・オペラ座の仮面舞踏会の夜」を語ったあとに、「それはそれとして、『ベルばら』のオープニング開始!!」をやればいいのに。
あ、初演の『フェルゼン編』に派手なオープニングがなかったから云々、というのは別の話ですよ。初演まんま一切変更なしで再演します、じゃなく、現代とキャストに合わせて改稿、新しい『フェルゼン編』だと謳っているんだから。
現代の客のニーズに合わせると、アントワネットもオスカルもアンドレも登場しないオープニング、になるんですか。
おかげで「祭り感」が薄い。
盛り上がるつもりで会場に駆けつけたのに、祭りがしょぼい。
で、でもきっとこのあと盛り上がるんだわ、最初はわざと地味に抑えてあるのよ、と思ったら。
地味なオープニングのあと、なーんにもないカーテンだけの舞台で、おじさん3人が、えんえん立ち話。
これがまた、長い。無駄に、長い。
長いだけで、有益な情報がほとんどない。何故なら、同じことを他の場面でもえんえんくり返すからだ。ここでここまで説明する意味はどこにもない。
カーテン前だもの、きっとこのカーテンが開けば、そこには豪華なセットがあり、派手な場面がはじまるんだわ、今はその用意をしているのよ……!
と、遠くなる意識を総動員して期待をかけていても。
カーテンが開いた舞台は、また地味な書き割り。
歌もダンスもなく、ただ顔ぶれを変えて立ち話がはじまる。
……この、繰り返し。
「祭り感」が、ないっ!!
地味な立ち話の次は、歌い踊れよ?!
カーテン前と、地味な書き割りで、少人数立ち話しかないってナニゴト??
わくわくしない。
それがいちばんの問題だと思う。
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