この世にミュージカルがある意味。@ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌
2013年2月18日 タカラヅカ まあぶっちゃけ、わたしはまっつファンなので、まっつが舞台にいるだけでうれしい。
なにがどうあれ、まっつが主演で、まっつがいっぱい見られる。
それだけで、たのしい。
ということは、置いておいて。
『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』という作品の「作り方」を改めて考えた。
まっつが喉を痛め、自在に歌うことが出来なくなったことにより、作品がどうにも、違って見えて。
この作品は、BJ@まっつを幹に、バイロン侯爵@ともみん、カイト@咲ちゃんのエピソードが、枝葉として広がっている。
バイロンとカイトの物語はそれぞれどんな描き方であろうと、起承転結する。
しかし、根幹であるBJの物語は、わかりやすい起承転結をしない。
ピノコ@ももちゃんは1幕終わりに無事誕生したし、あとはほのぼのホームドラマを繰り広げているだけ。
よーやくなんか展開がありそうだ、と期待する「指が動かなくなる」話は途中で放置。
じゃあBJ先生の物語はどうなってんの?
や、彼の物語もちゃんと起承転結してるんだよ。わかりにくいし、とっても地味だけど。
指の件は解決まで書くべきだと思うけど、作者的にはわざと書いてないらしいしな。
その「明確な答えを提示しない」部分も含め、ちゃんと完結している。
BJの物語は、「なにがどうなって、だからどう思って、どうなりました」と口で説明するようなことじゃない。
感じろ。それでわからなかったら、わからないままでいろ。
そーゆーことだと思う。
そんな不親切な表現をされているんだ、よりによって主役が(笑)。
正塚ェ、と思うけど、それが正塚ワールド、彼の美学。
正塚の美意識全部まるっと任された、まっつってばどんだけ信頼されてんだ、とにらにらする(笑)。
それはともかく、表現方法。
今回の正塚ワールドは、「まっつの歌声」に因るところが大きい。
台詞で長々説明する気はない。そんなかっこ悪い(と、ハリーが思っている)ことはしない。
歌で、制限された歌詞だけで、あとは観客の感性に託す。
だから2幕のBJは、大きな事件も出来事もないまま、ただやたらと歌う。観念的な歌を。
何故そこでその歌なのか。
説明はされない。
歌詞だけ抜き出したところで、それがすべてではない。
作品すべてを味わい尽くし、感じ続けた上で、ここでBJが歌う歌を聴いて、それゆえに伝わるモノを受け止める。
BJの歌には、総合的な「BJの物語」が表現されている。
だから。
まっつが歌わない、ただ歌詞を朗読するだけになると……『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』という作品自体が、揺らぐ。
ちょっと、呆然とした。
こういうことになるのか、と。
まっつは歌えない分、ものすごい勢いで表現していた。発光していた。
あの地味とか小さいとか低温とか言われているまっつが、高速回転して燃え上がり、スパークしまくっていた。
未涼氏、渾身の演技。
正直、ここまで「前へ」出る芝居をするまっつを、見ることがあるなんて、思ったことがなかった。
「歌」という武器を封じられたまっつは、それ以外のところでカバーしようと、すごいことになっていた。
いいもんを観た。すごいものを観た。そう思う。
……思う、けど、それとは別問題。
ハリー新作『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』は、BJの「歌」で完成する作りになっているんだ。
だから、まっつの「歌」は必要不可欠な、作品を構成する主要部品なんだ。
それは、どんだけまっつがまっつの域を超えた熱演をしていたとしても、届かないんだ。
だって、そういう作りじゃないんだもの。
もしも歌ナシの語りだけで完成するモノなら、それ用の「台詞」を書いていただろう。
いくら歌詞を朗読しても、それはただの「歌詞」、音楽と共に在ってはじめて完成するものだ。
歌詞の朗読だけで「歌」を超えられるなら、この世にミュージカルは不要ってことになってしまう。歌う必要ナイじゃん。
ただ語るだけでなく、メロディを得ることによって、言葉を超えた感動を創り出すもんでしょう? だからミュージカルが存在するわけでしょう?
『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』には、まっつの歌が必要だった。
正塚せんせはほんと、まっつの歌声好きなんだろうな。改めて、そう思ったよ。
歌わないと成立しない構成になっているんだもの。
他の表現方法はいくらでもあるのに、作品の根幹表現を、あえて歌にした。それは、クリエイターとして、いちばんのテーマ部分をまっつの歌声で表現して欲しいと思ったから、でしょう?
まっつならできる、と思ったからでしょう?
それが奪われてしまった。失われてしまった。
DC公演の最後2日は、もちろんまっつのことや、組子や、興行自体のことも心配だったけれど。
それとはまったく別のチャンネルで、嘆いていた。
『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』という作品を、完全な形で味わえない。
わたし、この作品好きなのね。
めちゃくちゃ好きかー?! 名作かー?! って言われると「うーん……」となってしまうけれど、控えめに、「わたしは、好き」と言う感じ。
たとえば『フットルース』は「全世界に告げよう、すばらしい作品だと! タカラヅカの財産となる公演だと!!」と宣言できるんだけど。
『BJ』は正直、そこまでは思わない。
『フットルース』みたいに全方向性のあるエンタメではなく、マニアックな楽しみのある作品だと思う。
ツボる人間にはとことんツボる、そうでない人には眠いだけ、というような。
それは、キャストへの思い入れでも左右されるレベルだと思うし。
及第点は十分あるから、今の駄作だらけのタカラヅカにて、「いい作品だよ」とは言える。
でも、名作かと言われると「わたしにとっては名作」と答える、そのあたりの位置にある作品。
誰にも太鼓判の名作ではないにしろ、わたしは好き。
そして、「好き」な理由はやはり、作品の根幹部分であり、切なくもすがすがしい涙を流せることにある。
そこを託されているまっつの歌が、ダメだとなると。
作品自体、びみょーになる……。
作品を好きだから、残念だ。
DC公演ラスト2日、わたしは『BJ』という作品を味わい尽くす気でいたんだ。
そりゃ青年館はある。あるけど、地元公演とはまた別だしさ。
自分のホームで、思い存分耽溺する予定だったんだよ。
それが、損なわれた。
まっつが心配、ということを除いても、「まだあと何回観られるんだ」と楽しみにしていた公演が、なくなってしまった、わたしが愛したカタチ、完全な姿では観られなくなったんだ、ということが、残念でならなかった。
初見の人には「そういうもん」と思わせるくらいのクオリティに仕上げてきていたから、対外的には問題なしなのかもしれない。
ただわたしは、やっぱり元のカタチが好きだったなあ。
青年館でもやっぱり、歌はないんだろうなあ。そう簡単に回復しそうにないもんなあ。
となると、わたしはもう二度と、あの感動は味わえないってこと?
『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』の完成形は存在しないってこと?
うわ、それはやっぱ、どうあがいても、残念すぎるよ。
とまあ、勝手にしょんぼりしてました。
まあぶっちゃけ、わたしはまっつファンなので、まっつが舞台にいるだけでうれしい。
なにがどうあれ、まっつが主演で、まっつがいっぱい見られる。
それだけで、たのしい。
だから「どんな形の上演でも、ぜんぜんOK」って部分と、「でも、残念だ」って部分が、同時に存在していた。
……ファン失格っすかね。自分の「欲」も消えずにあるんだわ。どんなときも。
いろいろと、しょぼん。
なにがどうあれ、まっつが主演で、まっつがいっぱい見られる。
それだけで、たのしい。
ということは、置いておいて。
『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』という作品の「作り方」を改めて考えた。
まっつが喉を痛め、自在に歌うことが出来なくなったことにより、作品がどうにも、違って見えて。
この作品は、BJ@まっつを幹に、バイロン侯爵@ともみん、カイト@咲ちゃんのエピソードが、枝葉として広がっている。
バイロンとカイトの物語はそれぞれどんな描き方であろうと、起承転結する。
しかし、根幹であるBJの物語は、わかりやすい起承転結をしない。
ピノコ@ももちゃんは1幕終わりに無事誕生したし、あとはほのぼのホームドラマを繰り広げているだけ。
よーやくなんか展開がありそうだ、と期待する「指が動かなくなる」話は途中で放置。
じゃあBJ先生の物語はどうなってんの?
や、彼の物語もちゃんと起承転結してるんだよ。わかりにくいし、とっても地味だけど。
指の件は解決まで書くべきだと思うけど、作者的にはわざと書いてないらしいしな。
その「明確な答えを提示しない」部分も含め、ちゃんと完結している。
BJの物語は、「なにがどうなって、だからどう思って、どうなりました」と口で説明するようなことじゃない。
感じろ。それでわからなかったら、わからないままでいろ。
そーゆーことだと思う。
そんな不親切な表現をされているんだ、よりによって主役が(笑)。
正塚ェ、と思うけど、それが正塚ワールド、彼の美学。
正塚の美意識全部まるっと任された、まっつってばどんだけ信頼されてんだ、とにらにらする(笑)。
それはともかく、表現方法。
今回の正塚ワールドは、「まっつの歌声」に因るところが大きい。
台詞で長々説明する気はない。そんなかっこ悪い(と、ハリーが思っている)ことはしない。
歌で、制限された歌詞だけで、あとは観客の感性に託す。
だから2幕のBJは、大きな事件も出来事もないまま、ただやたらと歌う。観念的な歌を。
何故そこでその歌なのか。
説明はされない。
歌詞だけ抜き出したところで、それがすべてではない。
作品すべてを味わい尽くし、感じ続けた上で、ここでBJが歌う歌を聴いて、それゆえに伝わるモノを受け止める。
BJの歌には、総合的な「BJの物語」が表現されている。
だから。
まっつが歌わない、ただ歌詞を朗読するだけになると……『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』という作品自体が、揺らぐ。
ちょっと、呆然とした。
こういうことになるのか、と。
まっつは歌えない分、ものすごい勢いで表現していた。発光していた。
あの地味とか小さいとか低温とか言われているまっつが、高速回転して燃え上がり、スパークしまくっていた。
未涼氏、渾身の演技。
正直、ここまで「前へ」出る芝居をするまっつを、見ることがあるなんて、思ったことがなかった。
「歌」という武器を封じられたまっつは、それ以外のところでカバーしようと、すごいことになっていた。
いいもんを観た。すごいものを観た。そう思う。
……思う、けど、それとは別問題。
ハリー新作『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』は、BJの「歌」で完成する作りになっているんだ。
だから、まっつの「歌」は必要不可欠な、作品を構成する主要部品なんだ。
それは、どんだけまっつがまっつの域を超えた熱演をしていたとしても、届かないんだ。
だって、そういう作りじゃないんだもの。
もしも歌ナシの語りだけで完成するモノなら、それ用の「台詞」を書いていただろう。
いくら歌詞を朗読しても、それはただの「歌詞」、音楽と共に在ってはじめて完成するものだ。
歌詞の朗読だけで「歌」を超えられるなら、この世にミュージカルは不要ってことになってしまう。歌う必要ナイじゃん。
ただ語るだけでなく、メロディを得ることによって、言葉を超えた感動を創り出すもんでしょう? だからミュージカルが存在するわけでしょう?
『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』には、まっつの歌が必要だった。
正塚せんせはほんと、まっつの歌声好きなんだろうな。改めて、そう思ったよ。
歌わないと成立しない構成になっているんだもの。
他の表現方法はいくらでもあるのに、作品の根幹表現を、あえて歌にした。それは、クリエイターとして、いちばんのテーマ部分をまっつの歌声で表現して欲しいと思ったから、でしょう?
まっつならできる、と思ったからでしょう?
それが奪われてしまった。失われてしまった。
DC公演の最後2日は、もちろんまっつのことや、組子や、興行自体のことも心配だったけれど。
それとはまったく別のチャンネルで、嘆いていた。
『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』という作品を、完全な形で味わえない。
わたし、この作品好きなのね。
めちゃくちゃ好きかー?! 名作かー?! って言われると「うーん……」となってしまうけれど、控えめに、「わたしは、好き」と言う感じ。
たとえば『フットルース』は「全世界に告げよう、すばらしい作品だと! タカラヅカの財産となる公演だと!!」と宣言できるんだけど。
『BJ』は正直、そこまでは思わない。
『フットルース』みたいに全方向性のあるエンタメではなく、マニアックな楽しみのある作品だと思う。
ツボる人間にはとことんツボる、そうでない人には眠いだけ、というような。
それは、キャストへの思い入れでも左右されるレベルだと思うし。
及第点は十分あるから、今の駄作だらけのタカラヅカにて、「いい作品だよ」とは言える。
でも、名作かと言われると「わたしにとっては名作」と答える、そのあたりの位置にある作品。
誰にも太鼓判の名作ではないにしろ、わたしは好き。
そして、「好き」な理由はやはり、作品の根幹部分であり、切なくもすがすがしい涙を流せることにある。
そこを託されているまっつの歌が、ダメだとなると。
作品自体、びみょーになる……。
作品を好きだから、残念だ。
DC公演ラスト2日、わたしは『BJ』という作品を味わい尽くす気でいたんだ。
そりゃ青年館はある。あるけど、地元公演とはまた別だしさ。
自分のホームで、思い存分耽溺する予定だったんだよ。
それが、損なわれた。
まっつが心配、ということを除いても、「まだあと何回観られるんだ」と楽しみにしていた公演が、なくなってしまった、わたしが愛したカタチ、完全な姿では観られなくなったんだ、ということが、残念でならなかった。
初見の人には「そういうもん」と思わせるくらいのクオリティに仕上げてきていたから、対外的には問題なしなのかもしれない。
ただわたしは、やっぱり元のカタチが好きだったなあ。
青年館でもやっぱり、歌はないんだろうなあ。そう簡単に回復しそうにないもんなあ。
となると、わたしはもう二度と、あの感動は味わえないってこと?
『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』の完成形は存在しないってこと?
うわ、それはやっぱ、どうあがいても、残念すぎるよ。
とまあ、勝手にしょんぼりしてました。
まあぶっちゃけ、わたしはまっつファンなので、まっつが舞台にいるだけでうれしい。
なにがどうあれ、まっつが主演で、まっつがいっぱい見られる。
それだけで、たのしい。
だから「どんな形の上演でも、ぜんぜんOK」って部分と、「でも、残念だ」って部分が、同時に存在していた。
……ファン失格っすかね。自分の「欲」も消えずにあるんだわ。どんなときも。
いろいろと、しょぼん。
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