2月16日土曜日、『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』12時公演。

 わたしははじめて、「舞台がこわい」と思った。

 The show must go on. 舞台は止まらない。
 そのことを、こわいと思った。

 この公演で、BJ@まっつは喉を痛めた。
 体調管理云々よりも、「事故に遭った」的な印象。
 いつもと同じ素晴らしい歌声を響かせ、心のこもった熱演をしていた。それが、カイト@咲ちゃんに怒鳴りまくる場面で、なにか、引っかかった。
 精密に回り続ける歯車の間に、なにかしら異物が挟まった。きれいに詰まったニットの編み目に、なにか引っかかった。

 ぷつん、と、ナニか切れる感じ。

 規則正しい波形に、一瞬乱れが生じ、そこから、変わっていった。
 もとの波形にならない。届かない。

 まっつの声は一瞬の詰まり、引っかかりのあと、濁った。

 透明な板に泥水が跳ね、見る見るうちにグレーに染まっていくように。
 まっつの声はクリアさを失い、濁り、しわがれた。

 それでも車輪は回っていた。
 本体から離れたあともしばらくは転がるタイヤみたいに。
 濁った声で芝居を続けた。

 声のコントロールが、できない。
 まっつの意図したところに声が届かない。
 上がるべきところで上がらないため、台詞が棒読み調になる。

 喋る範囲の音程でも、出ない部分があったのだから、歌になるとどうしようもない。
 カイトが退場したあとのピノコを想う歌が、ひどいことになった。
 声が変質し、ひび割れている上に、音が足りない。ある音程から上は「音」が消える。伸ばすこともできないので、出る音程だとしても途中で消える。

 そんな状態なのに、芝居は続く。
 ただごとじゃない、のは明白だった。それでも舞台は止まらない。

 まっつはそのまま芝居を続ける。
 両翼をもがれたまま、それでも飛ぼうとする。

 揺るがずに。


 不思議な気がした。
 明らかな異変。トラブル。
 これがわたしの知る「日常」でなら、すべてがストップして大騒ぎになるレベル。
 なのに、舞台ではなにも変わらない。そんなトラブルなど存在しないかのように、いつも通りに芝居が進んでいく。


 それが、舞台なんだ。
 人の手で作り上げた別世界。異次元。
 別の世界として「存在している」のだから、こちら側でナニが起こっていたとしても、あちらの世界ではそれに影響を受けてはならないんだ。

 世界創造。

 舞台に立つというのは、そういうことなんだ。


 だけどわたしはこちら側から、無責任に舞台というもうひとつの世界を眺めている人間で。
 こちら側の常識やら感覚やらを引きずったままなので。

 こわかった。

 舞台が、止まらないことが。
 別世界が別世界として存在し、回り続けていることが。

 まっつが舞台から袖に引っ込むたびに、祈るキモチだった。
 誰か、なんとかして。正塚先生はどこにいるの? 演出を変えるなり、SEでフォローするなり、なにかして。医者を呼ぶなりなにか手当をするなり、なにかして。

 だけど、なんのフォローもないまま、まっつはまた舞台に出てくる。
 演出の変化なし。まったくのいつも通り。

 まっつは芝居をする。技術を駆使する。
 台詞声すら、通常ではないんだ。
 出ない音は使わずに喋る。感情は音程ではなく、抑揚や起伏で表現する。

 その集中力。
 舞台の上で、今の自分の傷の範囲を確かめながら、残った武器でだけ戦う。なにが出来るのか判断し、そこから最良を叩き出す。

 がむしゃらに暴走しない。がんばっているんだ、というアピールはない。
 ただ黙々と前へ進む。
 青い炎は、赤い炎より高温である。
 出ない音をがんばってひり出すのではなく、出る音だけでプロの仕事をしようと努める。

 どの音が出るのかわからないので、いったん声を出そうとし、出ない、とわかるとすぱっと切り替える。
 その判断力。


 細かい積み木が、緻密に積み上げられていく様を、見るかのようだった。

 そこにあるべきはずの積み木がない、欠けた分を他の積み木でどう埋めるか。空いたままの箇所はそのままで、どう上に積み木を組めばいいか。
 一歩まちがえれば、全部崩れ落ちる。
 雑に置いても、崩れ落ちる。
 1mm、2mm、わずかな位置を探って、積み木を置く。
 丁寧に、計算に計算を重ね。


 歌おうとし、音が出ない、出たとしても聞き苦しいものでしかないと判断すると、途中からでも台詞に変更する。
 伴奏を聴きながら、タイミングを合わせ、歌詞を台詞として発する。
 音楽の力を借りられない分、顔やカラダの演技で、出る範囲の台詞の音程、抑揚で、補う。表現する。

 それは、壮絶な姿だった。


 わたしは、こわかった。
 わたしなら、逃げ出したいくらいだ。
 声がろくに出ない、歌えないことがわかっているのに、「歌う」ためにひとり舞台に出る、って。
 しかも、自分の肩にすべての成否が掛かっているって。

 いったん舞台袖に入ったら、もう二度とあそこへは出たくない、行きたくない、こわくてこわくて泣き出すだろう。

 わたしとプロの舞台人を比べても仕方ないことはわかっている。おこがましいこともわかっている。
 だけど、人間の感覚なんてそれほど隔たりはないだろう。

 まっつも、こわいはずだ。

 こわいのも、痛いのも、同じ。人間だもの。

 ただ、その恐怖や痛みに対し、どう反応するか。ちがうのはそこだ。

 こわかったろう。つらかったろう。
 それでもまっつは、舞台へ出てくる。
 満身創痍であっても、それを出してはならない場所へ。
 「BJ」の仮面をはずしてはならない世界へ。
 まっつ自身がなにを思っていても、BJとその世界には関係ない。まっつはBJとして、その世界に在る。

 在り続ける。


 下級生たちも、こわかったと思う。
 彼らもまた、逃げることなく立ち向かった。舞台を止めないために。
 闘い続けるまっつを受けて、支えて、共に闘った。


 2幕はまっつソロがすべて台詞になった。
 まっつ自身が生で判断し、台詞に切り替えていた印象。
 水面下で水を掻く白鳥のように、解き放たれた表情の下で、すごい勢いで計算されていたと思う。どう歌詞を言えばいいか、タイミングや表現方法など。

 唯一歌ったのは、最後の主題歌。「かわらぬ思い」……これだけは、なにがあっても歌いたかったんだろう。
 出ない声を絞り出し、それでも歌った。

 演出に変化があったのは、フィナーレのまっつソロ「かわらぬ思い」にカゲコーラスがついたこと。
 1幕前半のアクシデントから、はじめてのフォローが2幕のフィナーレって……演出側の対応力の鈍さにびびる。ちなみに、正塚先生、劇場にいたんだけどね。

 それだけ、まっつが信頼されていたってことか。
 演出の変更がなくても、声が出ないままでも、まっつならなんとかするって。


 舞台をナメていたわけじゃないけれど。
 つくづく、舞台ってこわい、と思った。
 こんなことが起こるんだ。
 それでも、止まらないんだ。芝居として作品として、成り立たせてしまうところまで、どんなことをしても叩き出すんだ。


 すごかった。
 凄まじかった。

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