世界を創造する重みと痛み。@ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌
2013年2月16日 タカラヅカ 2月16日土曜日、『ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌』12時公演。
わたしははじめて、「舞台がこわい」と思った。
The show must go on. 舞台は止まらない。
そのことを、こわいと思った。
この公演で、BJ@まっつは喉を痛めた。
体調管理云々よりも、「事故に遭った」的な印象。
いつもと同じ素晴らしい歌声を響かせ、心のこもった熱演をしていた。それが、カイト@咲ちゃんに怒鳴りまくる場面で、なにか、引っかかった。
精密に回り続ける歯車の間に、なにかしら異物が挟まった。きれいに詰まったニットの編み目に、なにか引っかかった。
ぷつん、と、ナニか切れる感じ。
規則正しい波形に、一瞬乱れが生じ、そこから、変わっていった。
もとの波形にならない。届かない。
まっつの声は一瞬の詰まり、引っかかりのあと、濁った。
透明な板に泥水が跳ね、見る見るうちにグレーに染まっていくように。
まっつの声はクリアさを失い、濁り、しわがれた。
それでも車輪は回っていた。
本体から離れたあともしばらくは転がるタイヤみたいに。
濁った声で芝居を続けた。
声のコントロールが、できない。
まっつの意図したところに声が届かない。
上がるべきところで上がらないため、台詞が棒読み調になる。
喋る範囲の音程でも、出ない部分があったのだから、歌になるとどうしようもない。
カイトが退場したあとのピノコを想う歌が、ひどいことになった。
声が変質し、ひび割れている上に、音が足りない。ある音程から上は「音」が消える。伸ばすこともできないので、出る音程だとしても途中で消える。
そんな状態なのに、芝居は続く。
ただごとじゃない、のは明白だった。それでも舞台は止まらない。
まっつはそのまま芝居を続ける。
両翼をもがれたまま、それでも飛ぼうとする。
揺るがずに。
不思議な気がした。
明らかな異変。トラブル。
これがわたしの知る「日常」でなら、すべてがストップして大騒ぎになるレベル。
なのに、舞台ではなにも変わらない。そんなトラブルなど存在しないかのように、いつも通りに芝居が進んでいく。
それが、舞台なんだ。
人の手で作り上げた別世界。異次元。
別の世界として「存在している」のだから、こちら側でナニが起こっていたとしても、あちらの世界ではそれに影響を受けてはならないんだ。
世界創造。
舞台に立つというのは、そういうことなんだ。
だけどわたしはこちら側から、無責任に舞台というもうひとつの世界を眺めている人間で。
こちら側の常識やら感覚やらを引きずったままなので。
こわかった。
舞台が、止まらないことが。
別世界が別世界として存在し、回り続けていることが。
まっつが舞台から袖に引っ込むたびに、祈るキモチだった。
誰か、なんとかして。正塚先生はどこにいるの? 演出を変えるなり、SEでフォローするなり、なにかして。医者を呼ぶなりなにか手当をするなり、なにかして。
だけど、なんのフォローもないまま、まっつはまた舞台に出てくる。
演出の変化なし。まったくのいつも通り。
まっつは芝居をする。技術を駆使する。
台詞声すら、通常ではないんだ。
出ない音は使わずに喋る。感情は音程ではなく、抑揚や起伏で表現する。
その集中力。
舞台の上で、今の自分の傷の範囲を確かめながら、残った武器でだけ戦う。なにが出来るのか判断し、そこから最良を叩き出す。
がむしゃらに暴走しない。がんばっているんだ、というアピールはない。
ただ黙々と前へ進む。
青い炎は、赤い炎より高温である。
出ない音をがんばってひり出すのではなく、出る音だけでプロの仕事をしようと努める。
どの音が出るのかわからないので、いったん声を出そうとし、出ない、とわかるとすぱっと切り替える。
その判断力。
細かい積み木が、緻密に積み上げられていく様を、見るかのようだった。
そこにあるべきはずの積み木がない、欠けた分を他の積み木でどう埋めるか。空いたままの箇所はそのままで、どう上に積み木を組めばいいか。
一歩まちがえれば、全部崩れ落ちる。
雑に置いても、崩れ落ちる。
1mm、2mm、わずかな位置を探って、積み木を置く。
丁寧に、計算に計算を重ね。
歌おうとし、音が出ない、出たとしても聞き苦しいものでしかないと判断すると、途中からでも台詞に変更する。
伴奏を聴きながら、タイミングを合わせ、歌詞を台詞として発する。
音楽の力を借りられない分、顔やカラダの演技で、出る範囲の台詞の音程、抑揚で、補う。表現する。
それは、壮絶な姿だった。
わたしは、こわかった。
わたしなら、逃げ出したいくらいだ。
声がろくに出ない、歌えないことがわかっているのに、「歌う」ためにひとり舞台に出る、って。
しかも、自分の肩にすべての成否が掛かっているって。
いったん舞台袖に入ったら、もう二度とあそこへは出たくない、行きたくない、こわくてこわくて泣き出すだろう。
わたしとプロの舞台人を比べても仕方ないことはわかっている。おこがましいこともわかっている。
だけど、人間の感覚なんてそれほど隔たりはないだろう。
まっつも、こわいはずだ。
こわいのも、痛いのも、同じ。人間だもの。
ただ、その恐怖や痛みに対し、どう反応するか。ちがうのはそこだ。
こわかったろう。つらかったろう。
それでもまっつは、舞台へ出てくる。
満身創痍であっても、それを出してはならない場所へ。
「BJ」の仮面をはずしてはならない世界へ。
まっつ自身がなにを思っていても、BJとその世界には関係ない。まっつはBJとして、その世界に在る。
在り続ける。
下級生たちも、こわかったと思う。
彼らもまた、逃げることなく立ち向かった。舞台を止めないために。
闘い続けるまっつを受けて、支えて、共に闘った。
2幕はまっつソロがすべて台詞になった。
まっつ自身が生で判断し、台詞に切り替えていた印象。
水面下で水を掻く白鳥のように、解き放たれた表情の下で、すごい勢いで計算されていたと思う。どう歌詞を言えばいいか、タイミングや表現方法など。
唯一歌ったのは、最後の主題歌。「かわらぬ思い」……これだけは、なにがあっても歌いたかったんだろう。
出ない声を絞り出し、それでも歌った。
演出に変化があったのは、フィナーレのまっつソロ「かわらぬ思い」にカゲコーラスがついたこと。
1幕前半のアクシデントから、はじめてのフォローが2幕のフィナーレって……演出側の対応力の鈍さにびびる。ちなみに、正塚先生、劇場にいたんだけどね。
それだけ、まっつが信頼されていたってことか。
演出の変更がなくても、声が出ないままでも、まっつならなんとかするって。
舞台をナメていたわけじゃないけれど。
つくづく、舞台ってこわい、と思った。
こんなことが起こるんだ。
それでも、止まらないんだ。芝居として作品として、成り立たせてしまうところまで、どんなことをしても叩き出すんだ。
すごかった。
凄まじかった。
わたしははじめて、「舞台がこわい」と思った。
The show must go on. 舞台は止まらない。
そのことを、こわいと思った。
この公演で、BJ@まっつは喉を痛めた。
体調管理云々よりも、「事故に遭った」的な印象。
いつもと同じ素晴らしい歌声を響かせ、心のこもった熱演をしていた。それが、カイト@咲ちゃんに怒鳴りまくる場面で、なにか、引っかかった。
精密に回り続ける歯車の間に、なにかしら異物が挟まった。きれいに詰まったニットの編み目に、なにか引っかかった。
ぷつん、と、ナニか切れる感じ。
規則正しい波形に、一瞬乱れが生じ、そこから、変わっていった。
もとの波形にならない。届かない。
まっつの声は一瞬の詰まり、引っかかりのあと、濁った。
透明な板に泥水が跳ね、見る見るうちにグレーに染まっていくように。
まっつの声はクリアさを失い、濁り、しわがれた。
それでも車輪は回っていた。
本体から離れたあともしばらくは転がるタイヤみたいに。
濁った声で芝居を続けた。
声のコントロールが、できない。
まっつの意図したところに声が届かない。
上がるべきところで上がらないため、台詞が棒読み調になる。
喋る範囲の音程でも、出ない部分があったのだから、歌になるとどうしようもない。
カイトが退場したあとのピノコを想う歌が、ひどいことになった。
声が変質し、ひび割れている上に、音が足りない。ある音程から上は「音」が消える。伸ばすこともできないので、出る音程だとしても途中で消える。
そんな状態なのに、芝居は続く。
ただごとじゃない、のは明白だった。それでも舞台は止まらない。
まっつはそのまま芝居を続ける。
両翼をもがれたまま、それでも飛ぼうとする。
揺るがずに。
不思議な気がした。
明らかな異変。トラブル。
これがわたしの知る「日常」でなら、すべてがストップして大騒ぎになるレベル。
なのに、舞台ではなにも変わらない。そんなトラブルなど存在しないかのように、いつも通りに芝居が進んでいく。
それが、舞台なんだ。
人の手で作り上げた別世界。異次元。
別の世界として「存在している」のだから、こちら側でナニが起こっていたとしても、あちらの世界ではそれに影響を受けてはならないんだ。
世界創造。
舞台に立つというのは、そういうことなんだ。
だけどわたしはこちら側から、無責任に舞台というもうひとつの世界を眺めている人間で。
こちら側の常識やら感覚やらを引きずったままなので。
こわかった。
舞台が、止まらないことが。
別世界が別世界として存在し、回り続けていることが。
まっつが舞台から袖に引っ込むたびに、祈るキモチだった。
誰か、なんとかして。正塚先生はどこにいるの? 演出を変えるなり、SEでフォローするなり、なにかして。医者を呼ぶなりなにか手当をするなり、なにかして。
だけど、なんのフォローもないまま、まっつはまた舞台に出てくる。
演出の変化なし。まったくのいつも通り。
まっつは芝居をする。技術を駆使する。
台詞声すら、通常ではないんだ。
出ない音は使わずに喋る。感情は音程ではなく、抑揚や起伏で表現する。
その集中力。
舞台の上で、今の自分の傷の範囲を確かめながら、残った武器でだけ戦う。なにが出来るのか判断し、そこから最良を叩き出す。
がむしゃらに暴走しない。がんばっているんだ、というアピールはない。
ただ黙々と前へ進む。
青い炎は、赤い炎より高温である。
出ない音をがんばってひり出すのではなく、出る音だけでプロの仕事をしようと努める。
どの音が出るのかわからないので、いったん声を出そうとし、出ない、とわかるとすぱっと切り替える。
その判断力。
細かい積み木が、緻密に積み上げられていく様を、見るかのようだった。
そこにあるべきはずの積み木がない、欠けた分を他の積み木でどう埋めるか。空いたままの箇所はそのままで、どう上に積み木を組めばいいか。
一歩まちがえれば、全部崩れ落ちる。
雑に置いても、崩れ落ちる。
1mm、2mm、わずかな位置を探って、積み木を置く。
丁寧に、計算に計算を重ね。
歌おうとし、音が出ない、出たとしても聞き苦しいものでしかないと判断すると、途中からでも台詞に変更する。
伴奏を聴きながら、タイミングを合わせ、歌詞を台詞として発する。
音楽の力を借りられない分、顔やカラダの演技で、出る範囲の台詞の音程、抑揚で、補う。表現する。
それは、壮絶な姿だった。
わたしは、こわかった。
わたしなら、逃げ出したいくらいだ。
声がろくに出ない、歌えないことがわかっているのに、「歌う」ためにひとり舞台に出る、って。
しかも、自分の肩にすべての成否が掛かっているって。
いったん舞台袖に入ったら、もう二度とあそこへは出たくない、行きたくない、こわくてこわくて泣き出すだろう。
わたしとプロの舞台人を比べても仕方ないことはわかっている。おこがましいこともわかっている。
だけど、人間の感覚なんてそれほど隔たりはないだろう。
まっつも、こわいはずだ。
こわいのも、痛いのも、同じ。人間だもの。
ただ、その恐怖や痛みに対し、どう反応するか。ちがうのはそこだ。
こわかったろう。つらかったろう。
それでもまっつは、舞台へ出てくる。
満身創痍であっても、それを出してはならない場所へ。
「BJ」の仮面をはずしてはならない世界へ。
まっつ自身がなにを思っていても、BJとその世界には関係ない。まっつはBJとして、その世界に在る。
在り続ける。
下級生たちも、こわかったと思う。
彼らもまた、逃げることなく立ち向かった。舞台を止めないために。
闘い続けるまっつを受けて、支えて、共に闘った。
2幕はまっつソロがすべて台詞になった。
まっつ自身が生で判断し、台詞に切り替えていた印象。
水面下で水を掻く白鳥のように、解き放たれた表情の下で、すごい勢いで計算されていたと思う。どう歌詞を言えばいいか、タイミングや表現方法など。
唯一歌ったのは、最後の主題歌。「かわらぬ思い」……これだけは、なにがあっても歌いたかったんだろう。
出ない声を絞り出し、それでも歌った。
演出に変化があったのは、フィナーレのまっつソロ「かわらぬ思い」にカゲコーラスがついたこと。
1幕前半のアクシデントから、はじめてのフォローが2幕のフィナーレって……演出側の対応力の鈍さにびびる。ちなみに、正塚先生、劇場にいたんだけどね。
それだけ、まっつが信頼されていたってことか。
演出の変更がなくても、声が出ないままでも、まっつならなんとかするって。
舞台をナメていたわけじゃないけれど。
つくづく、舞台ってこわい、と思った。
こんなことが起こるんだ。
それでも、止まらないんだ。芝居として作品として、成り立たせてしまうところまで、どんなことをしても叩き出すんだ。
すごかった。
凄まじかった。
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