宝塚歌劇には、日本物ショーというジャンルがある。
 着物を着て、日舞を中心とした舞を、オーケストラの洋楽で踊る。
 それはタカラヅカのタカラヅカらしさであり、決して絶やしてはならない伝統だ。
 「和物は人気がない」と、生前小林一三翁自ら言っていたくらい、和物が現代人に好まれないのは何十年と変わっていないのだろう。
 それでも、タカラヅカの和物は作り、守り続けなければならない。

 それは、わかっている。異存はない。
 だから、植爺が「この伝統を何としても護らなくてはならない」と、プログラムに書いてあることにも、うなずける。
 彼の言葉に、異論はない。

 しかし。

 今日見せられた、『宝塚ジャポニズム~序破急~』は、いったいなんなのか?

 『宝塚ジャポニズム』は、宝塚歌劇の和物ショーではない。

 わたしはたかだか、20年ほどしかタカラヅカを知らない。
 だから、100年の歴史を持つ宝塚歌劇団の言う「護らなくてはならない宝塚の和物ショー」というものがどんなものか、わかっていないのかもしれない。

 しかしこの20余年、一度も「護らなくてはならない宝塚の和物ショー」とやらは、上演されていないのか?
 『宝塚ジャポニズム』が植爺の言う「護らなくてはならない宝塚の和物ショー」だとするなら、わたしは生まれてはじめて見た。
 この20年間に、タカラヅカで一度も、こんなショーは観たことがない。

 わたしは、タカラヅカのショーとは、和物洋物関係なく考えていた。

 つまり、トップスターがいる。トップ娘役がいる。
 全員が女性で、男役と娘役がいる。
 大劇場には銀橋というエプロンステージがあり、花道がある。
 スターたちは主題歌を歌いながら、銀橋から花道まで、華やかにラインナップし、右に左に2階席に、そのきらびやかな姿を披露する。
 オープニングと中詰め、そしてフィナーレは必ず、銀橋にスターが勢揃いする。
 ショーの最中にも銀橋は使われるし、トップをはじめとする主立ったスターたちは、ひとり、もしくは少人数で銀橋を歌いながら渡る。
 くり返される主題歌。
 ショーの中の歌と踊り。

 それが、タカラヅカ・ショーだと思っていた。

 和物だから洋物だから、関係ない。


 銀橋もなければ、主題歌もない、スターの歌もない、花道もない、大がかりなセットもない、こんなものは、「タカラヅカ」じゃない。


 はじまって何分経っても、誰も歌わない。「さくらさくら」の音楽だけが流れる。
 銀橋は「ないもの」とされている。
 スター勢揃いもない。
 コーラスで「さくらさくら」が部分的に入るだけ。同じ曲の使い回しなので、場は持たない。
 そのまま、15分。
 舞台奥のナナメひな壇の下級生たちの、「揺れる大道具」ぶりもひどい。

 それでも洋楽で踊ってるから、タカラヅカの範疇といえばそうだし、さくらのボレロがタカラヅカの定番なのはわかっている。
 でもその「定番」の使い方がひどい。
 平面的な舞台に、平板な群舞が続く。

 タカラヅカというより、どこかの発表会のようだ。
 タカラヅカは、ガチに日舞を見せるところではない。日舞だけを一筋に、人生懸けてやってきた舞踊家たちではない。
 ナントカ流の発表会なら、その道の大家のみが踊るからスバラシイのかもしれないが、タカラヅカはそもそもカテゴリがチガウ。
 本格日舞を見せる場ではなく、「タカラヅカ」のショーとして見せるところだ。
 生徒たちの日舞が、ものすごくスバラシイ出来なのか、わたしにはわからない。その道の大家と比肩する出来なのかもしれない。
 でもわたしは、日舞を観に来たんじゃない。「タカラヅカ」を観に来たんだ。出演者たちはそりゃー真摯に務めているが、1観客として心が沈んでいくのを止められない。

 和物ショーならではの、華麗なオープニングではない、いきなり、どっかの作品の真ん中部分とかを切り取って見せられたような、ぽかーんさ。

 いや、それでもまだこれは、「タカラヅカ」なのかもしれない。
 こんなつまらないオープニングを見たことが、たかが20年しか記憶にないハナタレ小僧のわたしがないだけで、本物の「タカラヅカ」には銀橋もスター勢揃いも主題歌もないのかもしれない。

 だが、次の場面は、「これは、タカラヅカではない」と胸を張って言える。

 タカラヅカは、女性だけで構成された劇団だ。
 男役がいて、娘役がいる。
 これだけは、20年ぽっちしか知らないわたしでも、タカラヅカの基本だと知っている。

 なのに。

 男性の声を背景に、1場面まるまるマツモト大先生様の踊りだった。

 男の人に歌わせるなら、男性の歌声が必要だというなら、外部でやれ。
 タカラヅカじゃない、そんなの。

 歌ですらない。
 お経なんですかね、あれ。
 大音響でおっさんの声がずーーっとがなり続けられていて、無知無教養のわたしはただただ苦痛でした。

 声明、という、仏教音楽らしいですな。

 そーゆー文化があることはかまわない。わたしが興味ないだけで、ありがたいものなんでしょう。

 だがしかし、どんだけありがたいものであったとしても、タカラヅカでやるな。

 「護らなくてはならない宝塚の和物ショー」と言いながら、やっていることは、「タカラヅカ」否定、「タカラヅカ」無視。

 全員女性、海外ミュージカルの男性俳優の難しい歌だって、女性である男役が歌ってきた。
 それを、真っ向から否定した。
 外部の男性を使うことによって。


 そもそも、マツモト大先生様は、現代に求められていない。
 すばらしい芸の持ち主なのかもしれないが、彼女をありがたがるキモチと、それを拝見して楽しいかということは、まったく別だ。
 それでも彼女の芸は守り、伝えなければならないのだろう。
 だとしたら、「見せ方」を考えるものだろう?
 どんなに高尚な芸術様であっても、求められなければ居場所がなくなる。

 マツモト大先生様の踊りには、美形男役のエスコートを付け、「マツモト大先生様のすばらしい芸がわからない阿呆どもには、美形男役スターの顔でも見ていろ」と、観客へ選択肢を差し出すべきなんだ。
 もしくは、かわいらしい娘役たちを背後で踊らせ、「若手娘役の点呼でもしていろ」とやるとか。
 歌ウマさんのソロを朗々と響かせ、そっちに集中していられるようにするとか。

 舞台にはマツモト大先生様ただひとり、音は耳障りなおっさんのがなり声のみ。

 逃げ場が、ナイ。

 ショー作品を観ていて、途中で席を立ちたくなったのは、20年来、はじめての経験だ。


 すみません、ありがたいお坊様の声明を、おっさんのがなり声扱いして。
 いくら無教養なわたしでも、お寺だとか、相応しい場所で聞くならそんな風には思わないと思うの。

 大好きな「タカラヅカ」を観るんだ! と思って客席にいたのに、夢にも思わないモノを聴かされたから、そう思ってしまったの。


 トップスター、れおんくんの「声」を聴いたのは、幕が開いて、実に30分経過してからでした……。
 ちなみに、45分間のショーなんですよ。
 しかも、完全なソロじゃなく、コーラスかぶってるしね。

 や、もーネタとしてね、時計確認しちゃったのよ。あんまりなことの連続なんで。

 銀橋はれおんくんひとり、言い訳のようにささーっと1回だけ歩き去ったのみ。
 まともにソロがあったのは、ベニーひとり。で、その歌も花道手前からカーテン前扱いで、銀橋の存在はガン無視。


 植爺は前述のプログラムにて、タカラヅカのみならず、テレビ界でも和物が激減している昨今を嘆き、それを「世の中の趨勢」と述べている。
 そのうえで、「しかし、テレビはテレビ、宝塚は宝塚である。」と演説しているんだ。
 だから、「護らなくてはならない宝塚の和物ショー」を今、自分が上梓するのだと。

 そのまま、返したい。

 テレビはテレビ、宝塚は宝塚だ。
 「宝塚」を見せろ。これは、「宝塚」じゃない。

 主題歌を歌いながら、トップスターが登場し、銀橋にスターが勢揃いするタカラヅカを見せろ。
 華やかな「和物ショー」を見せろ。

 こだまっちの『仮面の男』初日と同じ憤りだな。

 これは、「タカラヅカ」じゃない。


 海外公演へ使い回し予定だから銀橋もろくなセットもないんだ、は言い訳にならない。
 同じ台湾公演予定のフジイショー『Étoile de TAKARAZUKA』が、いつものフジイくんショーで、銀橋も舞台装置も使いまくった華やかなモノだからだ。


 こんな「タカラヅカ」じゃない作品を、「タカラヅカの伝統でござい」とどや顔で海外へ持って行くのはやめて。
 「タカラヅカ」は、もっともっと素晴らしいんだから。

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