これは、「タカラヅカ」じゃない。@宝塚ジャポニズム~序破急~
2012年11月16日 タカラヅカ 宝塚歌劇には、日本物ショーというジャンルがある。
着物を着て、日舞を中心とした舞を、オーケストラの洋楽で踊る。
それはタカラヅカのタカラヅカらしさであり、決して絶やしてはならない伝統だ。
「和物は人気がない」と、生前小林一三翁自ら言っていたくらい、和物が現代人に好まれないのは何十年と変わっていないのだろう。
それでも、タカラヅカの和物は作り、守り続けなければならない。
それは、わかっている。異存はない。
だから、植爺が「この伝統を何としても護らなくてはならない」と、プログラムに書いてあることにも、うなずける。
彼の言葉に、異論はない。
しかし。
今日見せられた、『宝塚ジャポニズム~序破急~』は、いったいなんなのか?
『宝塚ジャポニズム』は、宝塚歌劇の和物ショーではない。
わたしはたかだか、20年ほどしかタカラヅカを知らない。
だから、100年の歴史を持つ宝塚歌劇団の言う「護らなくてはならない宝塚の和物ショー」というものがどんなものか、わかっていないのかもしれない。
しかしこの20余年、一度も「護らなくてはならない宝塚の和物ショー」とやらは、上演されていないのか?
『宝塚ジャポニズム』が植爺の言う「護らなくてはならない宝塚の和物ショー」だとするなら、わたしは生まれてはじめて見た。
この20年間に、タカラヅカで一度も、こんなショーは観たことがない。
わたしは、タカラヅカのショーとは、和物洋物関係なく考えていた。
つまり、トップスターがいる。トップ娘役がいる。
全員が女性で、男役と娘役がいる。
大劇場には銀橋というエプロンステージがあり、花道がある。
スターたちは主題歌を歌いながら、銀橋から花道まで、華やかにラインナップし、右に左に2階席に、そのきらびやかな姿を披露する。
オープニングと中詰め、そしてフィナーレは必ず、銀橋にスターが勢揃いする。
ショーの最中にも銀橋は使われるし、トップをはじめとする主立ったスターたちは、ひとり、もしくは少人数で銀橋を歌いながら渡る。
くり返される主題歌。
ショーの中の歌と踊り。
それが、タカラヅカ・ショーだと思っていた。
和物だから洋物だから、関係ない。
銀橋もなければ、主題歌もない、スターの歌もない、花道もない、大がかりなセットもない、こんなものは、「タカラヅカ」じゃない。
はじまって何分経っても、誰も歌わない。「さくらさくら」の音楽だけが流れる。
銀橋は「ないもの」とされている。
スター勢揃いもない。
コーラスで「さくらさくら」が部分的に入るだけ。同じ曲の使い回しなので、場は持たない。
そのまま、15分。
舞台奥のナナメひな壇の下級生たちの、「揺れる大道具」ぶりもひどい。
それでも洋楽で踊ってるから、タカラヅカの範疇といえばそうだし、さくらのボレロがタカラヅカの定番なのはわかっている。
でもその「定番」の使い方がひどい。
平面的な舞台に、平板な群舞が続く。
タカラヅカというより、どこかの発表会のようだ。
タカラヅカは、ガチに日舞を見せるところではない。日舞だけを一筋に、人生懸けてやってきた舞踊家たちではない。
ナントカ流の発表会なら、その道の大家のみが踊るからスバラシイのかもしれないが、タカラヅカはそもそもカテゴリがチガウ。
本格日舞を見せる場ではなく、「タカラヅカ」のショーとして見せるところだ。
生徒たちの日舞が、ものすごくスバラシイ出来なのか、わたしにはわからない。その道の大家と比肩する出来なのかもしれない。
でもわたしは、日舞を観に来たんじゃない。「タカラヅカ」を観に来たんだ。出演者たちはそりゃー真摯に務めているが、1観客として心が沈んでいくのを止められない。
和物ショーならではの、華麗なオープニングではない、いきなり、どっかの作品の真ん中部分とかを切り取って見せられたような、ぽかーんさ。
いや、それでもまだこれは、「タカラヅカ」なのかもしれない。
こんなつまらないオープニングを見たことが、たかが20年しか記憶にないハナタレ小僧のわたしがないだけで、本物の「タカラヅカ」には銀橋もスター勢揃いも主題歌もないのかもしれない。
だが、次の場面は、「これは、タカラヅカではない」と胸を張って言える。
タカラヅカは、女性だけで構成された劇団だ。
男役がいて、娘役がいる。
これだけは、20年ぽっちしか知らないわたしでも、タカラヅカの基本だと知っている。
なのに。
男性の声を背景に、1場面まるまるマツモト大先生様の踊りだった。
男の人に歌わせるなら、男性の歌声が必要だというなら、外部でやれ。
タカラヅカじゃない、そんなの。
歌ですらない。
お経なんですかね、あれ。
大音響でおっさんの声がずーーっとがなり続けられていて、無知無教養のわたしはただただ苦痛でした。
声明、という、仏教音楽らしいですな。
そーゆー文化があることはかまわない。わたしが興味ないだけで、ありがたいものなんでしょう。
だがしかし、どんだけありがたいものであったとしても、タカラヅカでやるな。
「護らなくてはならない宝塚の和物ショー」と言いながら、やっていることは、「タカラヅカ」否定、「タカラヅカ」無視。
全員女性、海外ミュージカルの男性俳優の難しい歌だって、女性である男役が歌ってきた。
それを、真っ向から否定した。
外部の男性を使うことによって。
そもそも、マツモト大先生様は、現代に求められていない。
すばらしい芸の持ち主なのかもしれないが、彼女をありがたがるキモチと、それを拝見して楽しいかということは、まったく別だ。
それでも彼女の芸は守り、伝えなければならないのだろう。
だとしたら、「見せ方」を考えるものだろう?
どんなに高尚な芸術様であっても、求められなければ居場所がなくなる。
マツモト大先生様の踊りには、美形男役のエスコートを付け、「マツモト大先生様のすばらしい芸がわからない阿呆どもには、美形男役スターの顔でも見ていろ」と、観客へ選択肢を差し出すべきなんだ。
もしくは、かわいらしい娘役たちを背後で踊らせ、「若手娘役の点呼でもしていろ」とやるとか。
歌ウマさんのソロを朗々と響かせ、そっちに集中していられるようにするとか。
舞台にはマツモト大先生様ただひとり、音は耳障りなおっさんのがなり声のみ。
逃げ場が、ナイ。
ショー作品を観ていて、途中で席を立ちたくなったのは、20年来、はじめての経験だ。
すみません、ありがたいお坊様の声明を、おっさんのがなり声扱いして。
いくら無教養なわたしでも、お寺だとか、相応しい場所で聞くならそんな風には思わないと思うの。
大好きな「タカラヅカ」を観るんだ! と思って客席にいたのに、夢にも思わないモノを聴かされたから、そう思ってしまったの。
トップスター、れおんくんの「声」を聴いたのは、幕が開いて、実に30分経過してからでした……。
ちなみに、45分間のショーなんですよ。
しかも、完全なソロじゃなく、コーラスかぶってるしね。
や、もーネタとしてね、時計確認しちゃったのよ。あんまりなことの連続なんで。
銀橋はれおんくんひとり、言い訳のようにささーっと1回だけ歩き去ったのみ。
まともにソロがあったのは、ベニーひとり。で、その歌も花道手前からカーテン前扱いで、銀橋の存在はガン無視。
植爺は前述のプログラムにて、タカラヅカのみならず、テレビ界でも和物が激減している昨今を嘆き、それを「世の中の趨勢」と述べている。
そのうえで、「しかし、テレビはテレビ、宝塚は宝塚である。」と演説しているんだ。
だから、「護らなくてはならない宝塚の和物ショー」を今、自分が上梓するのだと。
そのまま、返したい。
テレビはテレビ、宝塚は宝塚だ。
「宝塚」を見せろ。これは、「宝塚」じゃない。
主題歌を歌いながら、トップスターが登場し、銀橋にスターが勢揃いするタカラヅカを見せろ。
華やかな「和物ショー」を見せろ。
こだまっちの『仮面の男』初日と同じ憤りだな。
これは、「タカラヅカ」じゃない。
海外公演へ使い回し予定だから銀橋もろくなセットもないんだ、は言い訳にならない。
同じ台湾公演予定のフジイショー『Étoile de TAKARAZUKA』が、いつものフジイくんショーで、銀橋も舞台装置も使いまくった華やかなモノだからだ。
こんな「タカラヅカ」じゃない作品を、「タカラヅカの伝統でござい」とどや顔で海外へ持って行くのはやめて。
「タカラヅカ」は、もっともっと素晴らしいんだから。
着物を着て、日舞を中心とした舞を、オーケストラの洋楽で踊る。
それはタカラヅカのタカラヅカらしさであり、決して絶やしてはならない伝統だ。
「和物は人気がない」と、生前小林一三翁自ら言っていたくらい、和物が現代人に好まれないのは何十年と変わっていないのだろう。
それでも、タカラヅカの和物は作り、守り続けなければならない。
それは、わかっている。異存はない。
だから、植爺が「この伝統を何としても護らなくてはならない」と、プログラムに書いてあることにも、うなずける。
彼の言葉に、異論はない。
しかし。
今日見せられた、『宝塚ジャポニズム~序破急~』は、いったいなんなのか?
『宝塚ジャポニズム』は、宝塚歌劇の和物ショーではない。
わたしはたかだか、20年ほどしかタカラヅカを知らない。
だから、100年の歴史を持つ宝塚歌劇団の言う「護らなくてはならない宝塚の和物ショー」というものがどんなものか、わかっていないのかもしれない。
しかしこの20余年、一度も「護らなくてはならない宝塚の和物ショー」とやらは、上演されていないのか?
『宝塚ジャポニズム』が植爺の言う「護らなくてはならない宝塚の和物ショー」だとするなら、わたしは生まれてはじめて見た。
この20年間に、タカラヅカで一度も、こんなショーは観たことがない。
わたしは、タカラヅカのショーとは、和物洋物関係なく考えていた。
つまり、トップスターがいる。トップ娘役がいる。
全員が女性で、男役と娘役がいる。
大劇場には銀橋というエプロンステージがあり、花道がある。
スターたちは主題歌を歌いながら、銀橋から花道まで、華やかにラインナップし、右に左に2階席に、そのきらびやかな姿を披露する。
オープニングと中詰め、そしてフィナーレは必ず、銀橋にスターが勢揃いする。
ショーの最中にも銀橋は使われるし、トップをはじめとする主立ったスターたちは、ひとり、もしくは少人数で銀橋を歌いながら渡る。
くり返される主題歌。
ショーの中の歌と踊り。
それが、タカラヅカ・ショーだと思っていた。
和物だから洋物だから、関係ない。
銀橋もなければ、主題歌もない、スターの歌もない、花道もない、大がかりなセットもない、こんなものは、「タカラヅカ」じゃない。
はじまって何分経っても、誰も歌わない。「さくらさくら」の音楽だけが流れる。
銀橋は「ないもの」とされている。
スター勢揃いもない。
コーラスで「さくらさくら」が部分的に入るだけ。同じ曲の使い回しなので、場は持たない。
そのまま、15分。
舞台奥のナナメひな壇の下級生たちの、「揺れる大道具」ぶりもひどい。
それでも洋楽で踊ってるから、タカラヅカの範疇といえばそうだし、さくらのボレロがタカラヅカの定番なのはわかっている。
でもその「定番」の使い方がひどい。
平面的な舞台に、平板な群舞が続く。
タカラヅカというより、どこかの発表会のようだ。
タカラヅカは、ガチに日舞を見せるところではない。日舞だけを一筋に、人生懸けてやってきた舞踊家たちではない。
ナントカ流の発表会なら、その道の大家のみが踊るからスバラシイのかもしれないが、タカラヅカはそもそもカテゴリがチガウ。
本格日舞を見せる場ではなく、「タカラヅカ」のショーとして見せるところだ。
生徒たちの日舞が、ものすごくスバラシイ出来なのか、わたしにはわからない。その道の大家と比肩する出来なのかもしれない。
でもわたしは、日舞を観に来たんじゃない。「タカラヅカ」を観に来たんだ。出演者たちはそりゃー真摯に務めているが、1観客として心が沈んでいくのを止められない。
和物ショーならではの、華麗なオープニングではない、いきなり、どっかの作品の真ん中部分とかを切り取って見せられたような、ぽかーんさ。
いや、それでもまだこれは、「タカラヅカ」なのかもしれない。
こんなつまらないオープニングを見たことが、たかが20年しか記憶にないハナタレ小僧のわたしがないだけで、本物の「タカラヅカ」には銀橋もスター勢揃いも主題歌もないのかもしれない。
だが、次の場面は、「これは、タカラヅカではない」と胸を張って言える。
タカラヅカは、女性だけで構成された劇団だ。
男役がいて、娘役がいる。
これだけは、20年ぽっちしか知らないわたしでも、タカラヅカの基本だと知っている。
なのに。
男性の声を背景に、1場面まるまるマツモト大先生様の踊りだった。
男の人に歌わせるなら、男性の歌声が必要だというなら、外部でやれ。
タカラヅカじゃない、そんなの。
歌ですらない。
お経なんですかね、あれ。
大音響でおっさんの声がずーーっとがなり続けられていて、無知無教養のわたしはただただ苦痛でした。
声明、という、仏教音楽らしいですな。
そーゆー文化があることはかまわない。わたしが興味ないだけで、ありがたいものなんでしょう。
だがしかし、どんだけありがたいものであったとしても、タカラヅカでやるな。
「護らなくてはならない宝塚の和物ショー」と言いながら、やっていることは、「タカラヅカ」否定、「タカラヅカ」無視。
全員女性、海外ミュージカルの男性俳優の難しい歌だって、女性である男役が歌ってきた。
それを、真っ向から否定した。
外部の男性を使うことによって。
そもそも、マツモト大先生様は、現代に求められていない。
すばらしい芸の持ち主なのかもしれないが、彼女をありがたがるキモチと、それを拝見して楽しいかということは、まったく別だ。
それでも彼女の芸は守り、伝えなければならないのだろう。
だとしたら、「見せ方」を考えるものだろう?
どんなに高尚な芸術様であっても、求められなければ居場所がなくなる。
マツモト大先生様の踊りには、美形男役のエスコートを付け、「マツモト大先生様のすばらしい芸がわからない阿呆どもには、美形男役スターの顔でも見ていろ」と、観客へ選択肢を差し出すべきなんだ。
もしくは、かわいらしい娘役たちを背後で踊らせ、「若手娘役の点呼でもしていろ」とやるとか。
歌ウマさんのソロを朗々と響かせ、そっちに集中していられるようにするとか。
舞台にはマツモト大先生様ただひとり、音は耳障りなおっさんのがなり声のみ。
逃げ場が、ナイ。
ショー作品を観ていて、途中で席を立ちたくなったのは、20年来、はじめての経験だ。
すみません、ありがたいお坊様の声明を、おっさんのがなり声扱いして。
いくら無教養なわたしでも、お寺だとか、相応しい場所で聞くならそんな風には思わないと思うの。
大好きな「タカラヅカ」を観るんだ! と思って客席にいたのに、夢にも思わないモノを聴かされたから、そう思ってしまったの。
トップスター、れおんくんの「声」を聴いたのは、幕が開いて、実に30分経過してからでした……。
ちなみに、45分間のショーなんですよ。
しかも、完全なソロじゃなく、コーラスかぶってるしね。
や、もーネタとしてね、時計確認しちゃったのよ。あんまりなことの連続なんで。
銀橋はれおんくんひとり、言い訳のようにささーっと1回だけ歩き去ったのみ。
まともにソロがあったのは、ベニーひとり。で、その歌も花道手前からカーテン前扱いで、銀橋の存在はガン無視。
植爺は前述のプログラムにて、タカラヅカのみならず、テレビ界でも和物が激減している昨今を嘆き、それを「世の中の趨勢」と述べている。
そのうえで、「しかし、テレビはテレビ、宝塚は宝塚である。」と演説しているんだ。
だから、「護らなくてはならない宝塚の和物ショー」を今、自分が上梓するのだと。
そのまま、返したい。
テレビはテレビ、宝塚は宝塚だ。
「宝塚」を見せろ。これは、「宝塚」じゃない。
主題歌を歌いながら、トップスターが登場し、銀橋にスターが勢揃いするタカラヅカを見せろ。
華やかな「和物ショー」を見せろ。
こだまっちの『仮面の男』初日と同じ憤りだな。
これは、「タカラヅカ」じゃない。
海外公演へ使い回し予定だから銀橋もろくなセットもないんだ、は言い訳にならない。
同じ台湾公演予定のフジイショー『Étoile de TAKARAZUKA』が、いつものフジイくんショーで、銀橋も舞台装置も使いまくった華やかなモノだからだ。
こんな「タカラヅカ」じゃない作品を、「タカラヅカの伝統でござい」とどや顔で海外へ持って行くのはやめて。
「タカラヅカ」は、もっともっと素晴らしいんだから。
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