ところで、『JIN-仁-』の恭太郎さん@まっつ。
 23歳の役だそうです。
 仁先生@キムくんより、一回り年下です。
 23歳に見えているのかどうか、世間様のことは知りません。

 でもとりあえず言えることは。

 青天、似合いすぎ。

 この人、このまま生まれてきたんじゃないですか? タイムスリップして現代にやって来ちゃったんですよね?
 ヅカイチ青天が似合う人は蘭寿さんだと思ってたんですが、まつださんも負けてませんな!
 侍髷ならNo.1かも?!
 ってな勢いで似合ってます。ファンの欲目であろうとも(笑)。

 タイトな侍髷だと、顔の輪郭がむき出しになるんだなー。それこそスキンヘッド的に。
 頭部からデコのラインの完璧さに震える……(笑)。
 横顔の美しさが際立って、眺めているだけで楽しい。


 見た目が美しい侍だから、もーそれでいいのかなと思う。
 実際、それだけの役割なのかなとも思う。


 ただわたしは、ひたすらまっつを眺めているわけで。
 オペラロックオンして、恭太郎さんばかり見ているわけで。

 恭太郎の、細かい演技に震撼する。

 この物語の中で、いちばん「変わる」のは恭太郎だと思う。
 他のみなさんは、仁を見て「うさんくさい奴」→「神の手の仁先生万歳」になるけど、それは仁に対しての認識が変わるだけで、性格や生き方が変わるわけじゃない。
 劇中で6年経っているというけれど、誰も変化しない。年を取らない。

 恭太郎だけ、明らかに変わる。

 最初の方は、素直で屈託ない若者。まだ「少年」という方がしっくりくるあどけなさ。……いやその、まつださんの外見がそこまで若く見えているかどうか、わたしには判断不能だが(笑)、キャラとしてはそうだよなと。
 「もう子どもではありません」ってのは、少年が大人に向かって言う定番台詞。
 「咲は武士の娘です!」で暴走する咲さん@みみちゃんと同カテゴリの若さ。

 幕府のため国のため、シンプルに未来を信じて自分の能力を信じて、キラキラしている。

 たぶんそれが、挫折するんだろうな。

 ライバル、坂本龍馬@ちぎの存在によって。

 原作ともドラマとも違い、この作品では龍馬と恭太郎を「同門の仲間」として描いている。
 勝@みっちゃんはなにかにつれ、龍馬と恭太郎を同等に語る。共に自分の弟子であると。

 同じ師から教えを受け、恭太郎自身は十分優秀なつもりでいたし、実際の世間的な評価も恭太郎>龍馬なんだろう、公務員たちだーの武家娘たちだーのの間では。
 だけど実際、歴史に名を残す英雄は、龍馬で。
 龍馬と自分の違い、才能や器の違いは、如何ともしがたく。
 その、挫折感。
 周囲の評価ではなく、自分がいちばんわかっている。

 龍馬に対する敗北感が、恭太郎を歪ませていく。

 描かれていないところで、龍馬に対して恭太郎が思うところはいろいろあったんだろうと思うが。

 舞台上で、恭太郎がいちばん変わるのが中詰めショーパートのあと。
 茜ちゃん@さらさちゃんとの仲をからかわれ、龍馬の誘いをけんもほろろに拒絶して。

 「京に行く」と言い出した龍馬を見つめる、恭太郎の瞳。

 「日本」の未来を、そのためになにをすべきかを語る龍馬に、恭太郎の表情はどんどん変わっていく。
 彼自身の台詞「私は旗本。この命、徳川将軍様のために全うする」と言うときには、すでに表情が変わり終えたあと。

 恭太郎を変えたのは、龍馬。

 もともと幕臣として旗本としての矜持も忠誠心もあったけれど、それをよりコアに研ぎ澄まさせることになったのが、自分とは反対の考え方・生き方をする龍馬の存在だ。
 龍馬がいなければ、恭太郎はそこまで過剰に「我が使命」に反応することはなかったのではないか。
 京にまで行くことはなく、生まれ育った江戸で、江戸城にて、旗本としての勤めを果たすのみだったんじゃないか。

 恭太郎が「使命」を語る口調が、どんどん行きすぎていくんだよね。
 龍馬の前で最初に語ったときは、まだ彼自身の意気込みが感じられるのだけど。

 次の勝先生とふたりで銀橋で話すときは、京へ行くことを事務的に報告する。
 勝に責められてはじめて、心を見せる。仁や龍馬に影響を受けたことを吐露する。
 責められなかったら、あの事務的な、心を見せない報告のまま終了してたんだよね。

 で、次の高岡@咲ちゃんの一味として登場するときの恭太郎の歪み方が、ひどい。
 心を閉ざした、不自然な姿。
 自分の選択、生き方に疑問を持ちながら、それを懸命に押し殺した結果、アンドロイドみたいな喋り方になっている。
 高岡さんがドSだから、わざと恭太郎を嬲るし。
 龍馬の名前を出されて、アンドロイド恭太郎は動揺する。心が揺れたことを認めまいと、外に出すまいと葛藤する。

 龍馬を斬ることを使命だと、納得している……しようと、自分に言い聞かせている。

 そして実際に、龍馬暗殺の場にて。
 龍馬はあまりに龍馬で。自分を殺しに来たかつての友を、責めることもせず。
 龍馬だけでなく、仁と咲というプライベートな関係のある人たちまでもがそこにいて、取り繕ってきた仮面が剥がれる。
「私はあなたが嫌いだった」
 使命忠実な旗本なら、その台詞はない。それは幕臣としての台詞ではなく、橘恭太郎自身の言葉だ。心の声だ。

 「嫌い」という言葉は、「好き」という意味。

 恭太郎は古い考えの武士、江戸という時代、オールドタイプの具現のようなモノだろう。
 真面目で実直、与えられたモノを守り続ける。
 龍馬は新しい時代、考え方そのもの。
 江戸という閉鎖された時代が、新しい時代の波に翻弄される。最初は強固に拒絶するが、やがれ関は崩れ、明治維新へつながる。

 龍馬に対して反発しながら、憧れていた。
 惹かれていた。

 龍馬という今までの自分の世界にない考え方があったからこそ、それに対峙する形で恭太郎は自分の生き方を模索した。
 龍馬は鏡だった。
 鏡を見ながら、恭太郎は自分の姿を改めて見ることになった。

 鏡に映った自分自身は、自分が「こうありたい」と望んだ姿だったのか。

 突きつけられる現実。
 極端な方向へ走ることでしか、守れなかったもの……。

 使命を語る恭太郎はどんどん「心」を失っていく。
 不自然に固く、無表情に。

 その歪みが、龍馬を前にして、壊れる。

 「私には出来ぬ」と泣き崩れる。
 龍馬を殺すことが「使命」だと言っていたのに。使命に忠実に生きるのが自分のアイデンティティだと言い聞かせてきたのに。

 幕臣であること、旗本であることは、間違いなく恭太郎の使命だったのに。キラキラした笑顔でそう語っていたのに。
 歪んだ無表情でしか、同じ言葉を語れなくなっていた。
 どこで間違えたのか。歪んだのか。

 龍馬に対峙するために創り上げた「使命」。
 ひとりの男として、龍馬と比肩するために、龍馬と別の道を行くしかなかった。

 龍馬によって歪んだ道は、龍馬によって正される。

 龍馬を斬れないと泣く姿こそ、恭太郎のほんとうの姿。
 歪みがなくなり、やわらかくも真っ直ぐな青年の顔が現れる。


 これら一連の芝居が、やべえ。
 この「祭りだわっしょい!」な作品の中で、恭太郎のドラマは起承転結、一本筋が通っている。

 わたしが恭太郎さんばかり見ているからそう感じるだけ、他の観客には特に伝わるものでもないのかもしれん。
 侍髷の似合うきれーな姿で花を添えている、それだけの役なのかもしれない。

 しかしわたしは、今回もまた、うろたえる。

 まっつって、すごいんじゃ?
 マジ芝居うまいんじゃ? と。

 主役ではないのだから、自分のドラマを派手に展開して、場を壊してはいけないのだし。
 自分の持ち場で、見事にひとりの人物像を演じきっている。

 どうしよう。
 さらに惚れる(笑)。
 

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