伝わるのはまず光、それから音。@JIN-仁-
2012年10月16日 タカラヅカ サイトー作の『JIN-仁-』はひどい話だ。
主人公の仁@キムは、ただ単に結命@みみの顔が好きなだけで、顔が同じならなんでもいいらしい。
ガンで死んだ結命、江戸時代の咲@みみ、そして再び出会ったスーパードクターの結命、全員、顔が同じなだけの別人だが、それだけでOK、LOVE問題なし!
ということになっているけど、別にわたし、本気でサイトーくんが「女なんて外見だけだろ、好みの外見なら中身なんかどーでもいい、どれでも同じ」とか「原作ヒロインの咲なんてどーでもいい、自分が作ったオリジナルの結命だけが大事」とか「仁は結局歴史を変えないし、江戸時代はただの夢オチだし、なーんにもせずに都合のいいパラレルワールドに行ってハッピーエンド」とか、思って書いてるとは、思ってない。
単に、能力が足りなくて、書けなかっただけだよね?
咲や江戸の人々をないがしろにする気なんかない。
咲こそをヒロインだと思っている。
江戸で仁がやってきたことを無駄だなんて思ってない、それこそがメインだと、意味があると思っている。
タイムスリップものだと思っているし、顔が同じなら誰でもいいわけじゃない。咲と結命がWヒロインなのにもSF的仕掛け・意味があると思っている。
ただ、能力がなくて、できなかったんだよね?
心はあるんだよね? のーなしなだけで。
悪意や欺瞞ゆえに物語をぶっ壊しているのではなく、善意と熱意にあふれ、ただバカだから台無しにしているだけなんだよね?
えーと、「タカラヅカ」によくある光景です。
演出家の先生は、みんなタカラヅカを、そして生徒たちを愛している。愛にあふれた作品を作り、卒業公演ならなおさら、愛情いっぱいに生徒を送り出したいと思っている。
ただ、悲しいかな能力が足りてないだけで。
目指す高見と、現実がチガウのは、人間である以上、いくらでもあることです。
そして、そんな作品を客席で観ているのは、わたしたち人間。
作品のおかしさよりもまず、愛情を受け取る。
演じている生徒たちの真摯さ、作った演出家の愛情。
なにより先に、それを受け取る。
花火と同じっす。
まず光が先に目に入る。遅れて、重い音が響く。
伝わる速度がチガウの。
なにより先に、「愛」が届く。
この世界で、もっともシンプルに、ストレートに、早く伝わるモノ。
愛情。
理屈や計算じゃない、そこにあるから、伝わる。感じる。
思考する必要すらない。
在る。だから、わかる。
作品がおかしいこと、壊れていることが伝わるのは、時差がある。
「いっぱい泣いた、感動した。でも話はよくわからない部分があった」……なんて感想が、タカラヅカではままある。
時差があるから、最初に伝わる愛だけを受け止め、それ以外の部分を受け取らずに終了させているのね。全部受け止める必要はない、欲しいところまででシャットアウトすればいい。
『JIN-仁-』は、愛情がある。
退団者にもだし、キャスト全員にも、「タカラヅカ」にも。
宝塚大劇場という、日本屈指のキャパと設備を誇る劇場にも、愛情と誇りを感じる。
そしてもちろん、原作にも。
『エル・アルコン』のときに感じた、「サイトーくん、うれしいんだね」が、そこかしこに感じられる。
大劇場の舞台設備使いまくり、セリも盆もスクリーンもフル稼働、銀橋使いまくり。
ストーリーも整合性もないけど、原作のキャラクタたちが見せ場をもらって生き生きと見得を切っている。
辻褄合ってないけど、なんか「いい台詞」を言って、「いい場面」をやっている。
芝居というより、「ショー」の方法論で作られた舞台。
同じコワレ方でも、ガチガチに台詞や理屈でぶっ壊されるより、ショーの中のストーリー性のある場面くらい、話が足りず雰囲気だけで味わう系のコワレ方の方が、わたしには害が少ない。
わたしやっぱ、台詞で壊れたことを言われるのが、いちばんダメみたい。
「人としておかしいよソレ」な内容を、主人公が涙ながらに「正義」として熱弁するのが、いちばん逆ツボ。
『JIN-仁-』において、ありがたいことに主人公は、誰かにえんえん説教して相手を否定したりしない。間違ったことを「涙ながらに熱弁」することで「正義」にしない。
相手を屈服させること・征服することでオスとしての快感を得る、男性的な原理を根っこに置いた「クライマックス」を作っていない。
熱弁を振るうのがクライマックス、盛り上がり、ではないけれど、ソレのない『JIN-仁-』はクライマックスがないっちゅーか、盛り上がってないけどね(笑)。
盛り上がってるのは中盤まで、つーかねえ……。
ショーの方法論で作られた舞台だから、深みはないし、人間ドラマもハナから描いてない。
キャラが出てきてわいわいやっているだけ。
それでいいし、全編「お祭りだー!」で終始してくれるのは、ぜんぜんいい。
でも困ったことに、前半はソレで通しているんだけど、後半で方向性を失ってきてるんだよなー。
「神の手」を持つスーパードクター仁すげえ! で通してきた祭りだったのに。
クライマックスになるべき後半で、仁先生は医者としてナニもしてないからさー。
えんえん手術場面を舞台でやるわけにはいかないためだろうけど、野風@あゆっちの手術は舞台奥のイメージのみ? 大火事の傷病者手当もせず、龍馬@ちぎも助けない。
ガンだと結婚できない、と言っていたのにしれっと大金もらって結婚した野風は結婚詐欺師、仁はその共犯者になっちゃうから、結婚式こそ舞台奥のイメージとか花道でどっかの場面のついでにしてもいいから、手術をしたことを「わかるように」描かなければならなかった。
これはもお、場面の取捨選択ミスだよな。
その他は、根本的な間違い。
とりあえず、火事で医者がやることは、炎の中に飛び込んで咲を救うことではなく、炎も恐れず傷病者を手当することだろうよ……。
命を狙われている龍馬を救う、ってのは、斬り合いの中で龍馬をかばうことではなく、斬られた龍馬を手当てすることだろうよ……。
サイトーくんが、途中から仁が医者だってこと、忘れたんじゃないかと、心配するレベルで、仁先生ナニもしてません(笑)。
仁が医者であり、「人の命を救う」ことを使命としているのがテーマでありながら、後半はソレが皆無なので、盛り上がらないのな。
危機に陥った→仁が医術で救った→みんな幸せ、祭りだわっしょい! ……だったのに。
それでも、仁が突然涙ながらに説教はじめなかったから、ぜんぜん許容できる(笑)。
仁が医者だってことも、タイムスリップがなにかってことも、みんな忘れてるみたいだけど、まず愛情が伝わるから、間違っているところ壊れているところは単に能力が足りてないだけで、描きたかった高見は別にあることが、わかるから。
愛だけを、見ようと思う。
主人公の仁@キムは、ただ単に結命@みみの顔が好きなだけで、顔が同じならなんでもいいらしい。
ガンで死んだ結命、江戸時代の咲@みみ、そして再び出会ったスーパードクターの結命、全員、顔が同じなだけの別人だが、それだけでOK、LOVE問題なし!
ということになっているけど、別にわたし、本気でサイトーくんが「女なんて外見だけだろ、好みの外見なら中身なんかどーでもいい、どれでも同じ」とか「原作ヒロインの咲なんてどーでもいい、自分が作ったオリジナルの結命だけが大事」とか「仁は結局歴史を変えないし、江戸時代はただの夢オチだし、なーんにもせずに都合のいいパラレルワールドに行ってハッピーエンド」とか、思って書いてるとは、思ってない。
単に、能力が足りなくて、書けなかっただけだよね?
咲や江戸の人々をないがしろにする気なんかない。
咲こそをヒロインだと思っている。
江戸で仁がやってきたことを無駄だなんて思ってない、それこそがメインだと、意味があると思っている。
タイムスリップものだと思っているし、顔が同じなら誰でもいいわけじゃない。咲と結命がWヒロインなのにもSF的仕掛け・意味があると思っている。
ただ、能力がなくて、できなかったんだよね?
心はあるんだよね? のーなしなだけで。
悪意や欺瞞ゆえに物語をぶっ壊しているのではなく、善意と熱意にあふれ、ただバカだから台無しにしているだけなんだよね?
えーと、「タカラヅカ」によくある光景です。
演出家の先生は、みんなタカラヅカを、そして生徒たちを愛している。愛にあふれた作品を作り、卒業公演ならなおさら、愛情いっぱいに生徒を送り出したいと思っている。
ただ、悲しいかな能力が足りてないだけで。
目指す高見と、現実がチガウのは、人間である以上、いくらでもあることです。
そして、そんな作品を客席で観ているのは、わたしたち人間。
作品のおかしさよりもまず、愛情を受け取る。
演じている生徒たちの真摯さ、作った演出家の愛情。
なにより先に、それを受け取る。
花火と同じっす。
まず光が先に目に入る。遅れて、重い音が響く。
伝わる速度がチガウの。
なにより先に、「愛」が届く。
この世界で、もっともシンプルに、ストレートに、早く伝わるモノ。
愛情。
理屈や計算じゃない、そこにあるから、伝わる。感じる。
思考する必要すらない。
在る。だから、わかる。
作品がおかしいこと、壊れていることが伝わるのは、時差がある。
「いっぱい泣いた、感動した。でも話はよくわからない部分があった」……なんて感想が、タカラヅカではままある。
時差があるから、最初に伝わる愛だけを受け止め、それ以外の部分を受け取らずに終了させているのね。全部受け止める必要はない、欲しいところまででシャットアウトすればいい。
『JIN-仁-』は、愛情がある。
退団者にもだし、キャスト全員にも、「タカラヅカ」にも。
宝塚大劇場という、日本屈指のキャパと設備を誇る劇場にも、愛情と誇りを感じる。
そしてもちろん、原作にも。
『エル・アルコン』のときに感じた、「サイトーくん、うれしいんだね」が、そこかしこに感じられる。
大劇場の舞台設備使いまくり、セリも盆もスクリーンもフル稼働、銀橋使いまくり。
ストーリーも整合性もないけど、原作のキャラクタたちが見せ場をもらって生き生きと見得を切っている。
辻褄合ってないけど、なんか「いい台詞」を言って、「いい場面」をやっている。
芝居というより、「ショー」の方法論で作られた舞台。
同じコワレ方でも、ガチガチに台詞や理屈でぶっ壊されるより、ショーの中のストーリー性のある場面くらい、話が足りず雰囲気だけで味わう系のコワレ方の方が、わたしには害が少ない。
わたしやっぱ、台詞で壊れたことを言われるのが、いちばんダメみたい。
「人としておかしいよソレ」な内容を、主人公が涙ながらに「正義」として熱弁するのが、いちばん逆ツボ。
『JIN-仁-』において、ありがたいことに主人公は、誰かにえんえん説教して相手を否定したりしない。間違ったことを「涙ながらに熱弁」することで「正義」にしない。
相手を屈服させること・征服することでオスとしての快感を得る、男性的な原理を根っこに置いた「クライマックス」を作っていない。
熱弁を振るうのがクライマックス、盛り上がり、ではないけれど、ソレのない『JIN-仁-』はクライマックスがないっちゅーか、盛り上がってないけどね(笑)。
盛り上がってるのは中盤まで、つーかねえ……。
ショーの方法論で作られた舞台だから、深みはないし、人間ドラマもハナから描いてない。
キャラが出てきてわいわいやっているだけ。
それでいいし、全編「お祭りだー!」で終始してくれるのは、ぜんぜんいい。
でも困ったことに、前半はソレで通しているんだけど、後半で方向性を失ってきてるんだよなー。
「神の手」を持つスーパードクター仁すげえ! で通してきた祭りだったのに。
クライマックスになるべき後半で、仁先生は医者としてナニもしてないからさー。
えんえん手術場面を舞台でやるわけにはいかないためだろうけど、野風@あゆっちの手術は舞台奥のイメージのみ? 大火事の傷病者手当もせず、龍馬@ちぎも助けない。
ガンだと結婚できない、と言っていたのにしれっと大金もらって結婚した野風は結婚詐欺師、仁はその共犯者になっちゃうから、結婚式こそ舞台奥のイメージとか花道でどっかの場面のついでにしてもいいから、手術をしたことを「わかるように」描かなければならなかった。
これはもお、場面の取捨選択ミスだよな。
その他は、根本的な間違い。
とりあえず、火事で医者がやることは、炎の中に飛び込んで咲を救うことではなく、炎も恐れず傷病者を手当することだろうよ……。
命を狙われている龍馬を救う、ってのは、斬り合いの中で龍馬をかばうことではなく、斬られた龍馬を手当てすることだろうよ……。
サイトーくんが、途中から仁が医者だってこと、忘れたんじゃないかと、心配するレベルで、仁先生ナニもしてません(笑)。
仁が医者であり、「人の命を救う」ことを使命としているのがテーマでありながら、後半はソレが皆無なので、盛り上がらないのな。
危機に陥った→仁が医術で救った→みんな幸せ、祭りだわっしょい! ……だったのに。
それでも、仁が突然涙ながらに説教はじめなかったから、ぜんぜん許容できる(笑)。
仁が医者だってことも、タイムスリップがなにかってことも、みんな忘れてるみたいだけど、まず愛情が伝わるから、間違っているところ壊れているところは単に能力が足りてないだけで、描きたかった高見は別にあることが、わかるから。
愛だけを、見ようと思う。
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