タカラヅカの申し子だから。@花組千秋楽
2012年8月27日 タカラヅカ 『フットルース』から頭が切り替わっていないままに、大劇場へ行く。
時は待ってくれない。
花組公演『サン=テグジュペリ』『CONGA!!』千秋楽。
みわっちが、卒業してしまう。
「みわっちがいない花組」がぴんとこない。
わたしが「花組」を意識するようになったとき、みわっちはみわっちで、すでに「スター」だった。
超下級生時代から、なにかにつれ「スター」だということで、スポットライトを浴びていた。ショーのちょっとしたおいしい場面や役、新聞や雑誌の記事。
10年以上、ずっとずっと「スター」だった。
花組をろくに観たことのない頃のわたしだって、顔は知らなくても名前だけは知っていた。花組の新進スターだと。
わたしだけが特別じゃないと思う。
花組をろくに知らなくても、花組の舞台をろくに観たことがなくても、タカラヅカファンなら名前と顔は知っている、そんな下級生スターだったはず。
抜擢は早く、その扱いは安定していた。
10数年、ずーっとずーっとスターだったし、それが当たり前だったから。
彼がいなくなることが、理解できない。
いて当然の人だもの。
花組を観に行ったら、みわっちに目線とウインクをもらわなきゃなんないんだもの! 仕様だもの! お約束だもの!
代表的な、花男。他組でその魅力が受け入れられるとも思えない、花組でだけ、花組でこそ、生きる魅力。
みわっちを見ると、「花組を見た!!」という気持ちになった。
そのみわっちが、いなくなるなんて。
花組の舞台に立たなくなるなんて。
感情として、理解できていない。
みわっちの最後の役、メルモーズ@『サン=テグジュペリ』は、谷作品らしい、ひどい役で。
人格も物語もなく、突然出てきては谷せんせの大好きな「なにかを成すため(誰かのため)に死ぬ美学」を語って、1曲演歌を歌って、いなくなる。
みわっちの退団を知っている観客に、退団と死を重ね合わせて泣け、という仕掛け。
それまでの物語がないから、突然出てきて「泣いて止める女を振り切って、死へ旅立つ男」をやられても、ぽかーんとする。
会話が、特攻隊員とその恋人……。
100%死ぬ前提ですか。や、みわっちの退団は100%決まったことで、覆らないので、それに掛けているのはわかるけど。
死ぬために出撃するわけじゃないんだがな……。危険の高い仕事に赴く、だけで、生きて帰ることが第一の使命であり、メルモーズは自殺志願者ではないはずなんだが。
谷せんせにとって「死ぬことがロマン」なので、「100%の死」を前提にうだうだやるのが萌えなんだよね。
ひどい役、ひどい脚本なんだけど、みわっちはそんなこと、カケラも思ってない。絶対。
素直に、退団する自分と重ね合わせもし、死地に赴く男という男役冥利に尽きる役を、誠心誠意演じているはず。
みわっちは芸幅の広い人で、子役から美女、うさんくさいおっさんまで、なんでも演じてしまう。
年齢も性別も、超越している。
時代錯誤な大芝居も出来るし、リアルで繊細な芝居も出来る。
これだけ可能性を持つ人なのに。演出家から頼りにされ、いろんな役を、役割を、担わされていたのに。
スカステのニュース内のトークコーナーで、今までのタカラヅカ人生で、「好きな台詞」がオスカル@『ベルばら』で、言ってみたい台詞(やりたかった場面)がオスカルのバスティーユ@『ベルばら』と語っているのを見て、うわ、マジだと震撼した。
これだけタカラヅカ・スターとして、役者として、幅広い実力を持ちながら、こんだけ長い間スターとして活躍していろんな役と出会っていながら、複雑な役、繊細な役、その魅力を理解しアテ書きされた役があったにも関わらず、『ベルばら』なのか。
みわっちはほんとうに、「タカラヅカ」が好きなんだ。
「タカラヅカ」=『ベルサイユのばら』、そういうベッタベタな感覚の、愛すべき古い古いタイプの、タカラジェンヌなんだ。
あのめちゃくちゃな『外伝 ベルサイユのばら-アンドレ編-』にもなんの疑問も持たないし、心底感動しちゃえる人なんだ。
そういう人だからこそ、「ザ・男役!」だった。
賢しい懐疑心なんか持たない。与えられたモノを素直に受け止め、感動を持って舞台に立つ。
確かに古いタイプ、昭和系スターかもしれない。
でも、それが、「タカラヅカ」だ。
女が男の格好して、厚化粧で歌ったり踊ったり、ラヴシーンしたりする劇団だよ?
嘘くさいとか、バカらしいとか、思う人は思うだろうさ。
嘘を真実に変える力、ただの虚構でなくそのとき確実に「世界」を創る力……それは、斜に構えて疑って、出来ることじゃない。
みわっちの持つ「フェアリー力」は、彼がタカラヅカというシステムをまったく疑っていない、素直にあるがままに愛しきっている、そこにある気がする。
愛音羽麗は、「タカラヅカ」の申し子だ。
前後して卒業する、星組のすずみんと、似て非なる。
すずみんは、すずみんがタカラヅカを愛し、己れの意志でタカラヅカ・スタァであろうとしていたけれど、みわっちはナチュラル・ボーンのタカラヅカの申し子で、もちろん愛しているけれど、そもそも愛する愛さない以前の問題かと。
どちらのスターも、得がたい人たちだ。
タカラヅカを愛しきっているすずみんと、タカラヅカの申し子みわっちが、前後して卒業していくのか。
いなくなってしまうのか。
時代が変わろうとしているんだ。
で。
みわっち卒業に関して、なにがなんでも彼を見送るんだと意気込んでムラへ行ったけれど、結局出のギャラリーは出来なかった。
袴姿の大階段見るだけで、号泣し過ぎてフラついた。
……ヘタレにも、逃げ帰ったんだ。
なんかもお、途中からこわくてこわくて、仕方なくなった。
いろいろと、重なって。
次は、ウチなのかと。
いやその、次ってなんだよ、それがいつかなんてわかってない、考えても怯えても仕方ないことだって、わかっていても。
みわっちの隣に、当たり前にいた人。
対で踊ることも、肩を並べて歌うことも、がっつり組んで芝居することも、当たり前だった人。
彼のことに、想いが至ってしまってだな。
こわくてこわくて、仕方なくなった。
トップさんと一緒に辞めない場合はパレードがないから、楽屋口の出を花の道から見送ることになるんだ、とか、リアルに考えちゃって、もうダメだ。
すずみんでも、みわさんでも、長く愛着持って見守ってきた人の退団は、こんなに哀しい。寂しい。
そして次は、さらに愛情持って見つめてきたキムくんの卒業が控えている。
なんかもお、考えれば考えるほどこわくなって、耳をふさいで目をつぶって、一気に逃げ帰った。
ヘタレでごめん。
でもこわい。
ほんとに。
みわさん、東宝公演がんばってね。
タカラヅカの申し子、ナチュラル・ボーン・フェアリー。
ずっと、ずっと、忘れない。
時は待ってくれない。
花組公演『サン=テグジュペリ』『CONGA!!』千秋楽。
みわっちが、卒業してしまう。
「みわっちがいない花組」がぴんとこない。
わたしが「花組」を意識するようになったとき、みわっちはみわっちで、すでに「スター」だった。
超下級生時代から、なにかにつれ「スター」だということで、スポットライトを浴びていた。ショーのちょっとしたおいしい場面や役、新聞や雑誌の記事。
10年以上、ずっとずっと「スター」だった。
花組をろくに観たことのない頃のわたしだって、顔は知らなくても名前だけは知っていた。花組の新進スターだと。
わたしだけが特別じゃないと思う。
花組をろくに知らなくても、花組の舞台をろくに観たことがなくても、タカラヅカファンなら名前と顔は知っている、そんな下級生スターだったはず。
抜擢は早く、その扱いは安定していた。
10数年、ずーっとずーっとスターだったし、それが当たり前だったから。
彼がいなくなることが、理解できない。
いて当然の人だもの。
花組を観に行ったら、みわっちに目線とウインクをもらわなきゃなんないんだもの! 仕様だもの! お約束だもの!
代表的な、花男。他組でその魅力が受け入れられるとも思えない、花組でだけ、花組でこそ、生きる魅力。
みわっちを見ると、「花組を見た!!」という気持ちになった。
そのみわっちが、いなくなるなんて。
花組の舞台に立たなくなるなんて。
感情として、理解できていない。
みわっちの最後の役、メルモーズ@『サン=テグジュペリ』は、谷作品らしい、ひどい役で。
人格も物語もなく、突然出てきては谷せんせの大好きな「なにかを成すため(誰かのため)に死ぬ美学」を語って、1曲演歌を歌って、いなくなる。
みわっちの退団を知っている観客に、退団と死を重ね合わせて泣け、という仕掛け。
それまでの物語がないから、突然出てきて「泣いて止める女を振り切って、死へ旅立つ男」をやられても、ぽかーんとする。
会話が、特攻隊員とその恋人……。
100%死ぬ前提ですか。や、みわっちの退団は100%決まったことで、覆らないので、それに掛けているのはわかるけど。
死ぬために出撃するわけじゃないんだがな……。危険の高い仕事に赴く、だけで、生きて帰ることが第一の使命であり、メルモーズは自殺志願者ではないはずなんだが。
谷せんせにとって「死ぬことがロマン」なので、「100%の死」を前提にうだうだやるのが萌えなんだよね。
ひどい役、ひどい脚本なんだけど、みわっちはそんなこと、カケラも思ってない。絶対。
素直に、退団する自分と重ね合わせもし、死地に赴く男という男役冥利に尽きる役を、誠心誠意演じているはず。
みわっちは芸幅の広い人で、子役から美女、うさんくさいおっさんまで、なんでも演じてしまう。
年齢も性別も、超越している。
時代錯誤な大芝居も出来るし、リアルで繊細な芝居も出来る。
これだけ可能性を持つ人なのに。演出家から頼りにされ、いろんな役を、役割を、担わされていたのに。
スカステのニュース内のトークコーナーで、今までのタカラヅカ人生で、「好きな台詞」がオスカル@『ベルばら』で、言ってみたい台詞(やりたかった場面)がオスカルのバスティーユ@『ベルばら』と語っているのを見て、うわ、マジだと震撼した。
これだけタカラヅカ・スターとして、役者として、幅広い実力を持ちながら、こんだけ長い間スターとして活躍していろんな役と出会っていながら、複雑な役、繊細な役、その魅力を理解しアテ書きされた役があったにも関わらず、『ベルばら』なのか。
みわっちはほんとうに、「タカラヅカ」が好きなんだ。
「タカラヅカ」=『ベルサイユのばら』、そういうベッタベタな感覚の、愛すべき古い古いタイプの、タカラジェンヌなんだ。
あのめちゃくちゃな『外伝 ベルサイユのばら-アンドレ編-』にもなんの疑問も持たないし、心底感動しちゃえる人なんだ。
そういう人だからこそ、「ザ・男役!」だった。
賢しい懐疑心なんか持たない。与えられたモノを素直に受け止め、感動を持って舞台に立つ。
確かに古いタイプ、昭和系スターかもしれない。
でも、それが、「タカラヅカ」だ。
女が男の格好して、厚化粧で歌ったり踊ったり、ラヴシーンしたりする劇団だよ?
嘘くさいとか、バカらしいとか、思う人は思うだろうさ。
嘘を真実に変える力、ただの虚構でなくそのとき確実に「世界」を創る力……それは、斜に構えて疑って、出来ることじゃない。
みわっちの持つ「フェアリー力」は、彼がタカラヅカというシステムをまったく疑っていない、素直にあるがままに愛しきっている、そこにある気がする。
愛音羽麗は、「タカラヅカ」の申し子だ。
前後して卒業する、星組のすずみんと、似て非なる。
すずみんは、すずみんがタカラヅカを愛し、己れの意志でタカラヅカ・スタァであろうとしていたけれど、みわっちはナチュラル・ボーンのタカラヅカの申し子で、もちろん愛しているけれど、そもそも愛する愛さない以前の問題かと。
どちらのスターも、得がたい人たちだ。
タカラヅカを愛しきっているすずみんと、タカラヅカの申し子みわっちが、前後して卒業していくのか。
いなくなってしまうのか。
時代が変わろうとしているんだ。
で。
みわっち卒業に関して、なにがなんでも彼を見送るんだと意気込んでムラへ行ったけれど、結局出のギャラリーは出来なかった。
袴姿の大階段見るだけで、号泣し過ぎてフラついた。
……ヘタレにも、逃げ帰ったんだ。
なんかもお、途中からこわくてこわくて、仕方なくなった。
いろいろと、重なって。
次は、ウチなのかと。
いやその、次ってなんだよ、それがいつかなんてわかってない、考えても怯えても仕方ないことだって、わかっていても。
みわっちの隣に、当たり前にいた人。
対で踊ることも、肩を並べて歌うことも、がっつり組んで芝居することも、当たり前だった人。
彼のことに、想いが至ってしまってだな。
こわくてこわくて、仕方なくなった。
トップさんと一緒に辞めない場合はパレードがないから、楽屋口の出を花の道から見送ることになるんだ、とか、リアルに考えちゃって、もうダメだ。
すずみんでも、みわさんでも、長く愛着持って見守ってきた人の退団は、こんなに哀しい。寂しい。
そして次は、さらに愛情持って見つめてきたキムくんの卒業が控えている。
なんかもお、考えれば考えるほどこわくなって、耳をふさいで目をつぶって、一気に逃げ帰った。
ヘタレでごめん。
でもこわい。
ほんとに。
みわさん、東宝公演がんばってね。
タカラヅカの申し子、ナチュラル・ボーン・フェアリー。
ずっと、ずっと、忘れない。
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