世界が割れる音、その拳。@フットルース
2012年8月22日 タカラヅカ 「I’m Free」が好きだ。
わたしが「ミュージカル」に求めるモノが、ここに凝縮されている。
ふつーに芝居してりゃ済むものを、わざわざ歌う。踊る。
その意味。
テーマを表現するための、手段。
そこ、にたどり着くための道。方法。
それが、歌であり、ダンスである。
その場面で表現するもののタイプにもよるが、「描きたいテーマ」に対する、ほんとうの「最上級の表現」がぴたりとハマったときって、魂が、湧き立つ。
それは個人の感覚によるモノだから、わたしにとっての「最上級」が他人にとっても同じかどうかは、わからない。
ただ、「ミュージカル」という表現媒体は、うまくハマったときわたしにとてつもない快感を与えてくれる。
たとえそれが、悲しみの場面であっても、恐怖の場面であっても、幸福だとか癒しだとか、おだやかな場面であっても。
魂が、沸き立つ。
細胞がぐつぐつ煮えるのがわかる。
五感すべてが叫びだし、踊り出すのを感じる。
制御するのが、難しいくらい。
大人だから、羞恥心あるから、必死に耐えるけど。
わたしに理性がなく、本能だけのケモノだったら、まちがいなく立ち上がり、叫びだしている。
……そんな感覚。
や、滅多にないけどね。
まれに、ある。
そして『フットルース』の1幕ラスト、「I’m Free」は、そういった場面なんだ。
その場面のテーマと、曲と言葉とダンス、歌唱力とダンス力と演技力と、ビジュアルとストーリーとキャラクタが、完璧にマッチした。
フィクションを愉しむ、ミュージカルを愉しむ、すべてのベクトルが正しく重なり、ひとつの高見に向かって駆け上り、爆発した。
快感。
それは、快感だ。
わたしのすべてが叫び出す。
立ち上がり、叫びたい。
そう、踊り出したい。
Footloose……解き放たれるとは、こういう気分なのか。
や、物語のテーマを、理屈ではない部分で、体感できるの。
アタマで考えるのではなく、細胞にたたき込まれる感じ。
正しく、まっすぐな少年が言う。
「町議会とも闘うさ。自由のために!」
過去の傷にとらわれ、うつむくこと、あきらめることしか出来なかった者たちに。
長いものに巻かれてあきらめて、不満を抱きながらも楽をすることしか考えなかった者たちに。
現実から目を背け、逃げ出すことしか考えない者たちに。
拳を握ってみせる。
「闘う」という方法があることを示す。
「I’m Free!」
胸を張って。うつむくのでなくあきらめるのでなく逃げ出すのではなく。
自分自身に、叫べ。
「神様に聞こえるように!」
檻を破る音。
走り出す音。
世界が、割れる音。
少年たちの声が、ひとつになり、ダンスがはじまる。
それまではレン@キムひとりの歌だった。
それがみんなの合唱になり、同時にダンスもはじまる。彼らの「決意」が「行動」になる。心がアクションにつながる。
それが「ミュージカル」。
力強いダンス。
アクロバティックな振付。
女性には難しいんじゃ、てな筋力必要なことを、キムくんたち男子がダイナミックにこなし、観客を感嘆させる。さらに、彼らの輪の外側に、ピンスポが当たる。浮かび上がるのはダイアン@あゆみ、サラ@ひーこ。雪組を代表するダンサーふたりが、パワフルにダンスソロを決める。
この流れ!
殻を割らなければ、雛は生まれることが出来ない。
今ある世界を壊さなければ、新しい世界は創造できない。
殻を壊し、古い世界を壊す。
それは、若者の力。彼らに与えられた権利。……そして、使命。
ひとは、生まれなければならないんだ。
だから苦しくても、こわくても、進め、前へ。
まるで戦車のように隙なく固まる若者たちの上方に、「敵」が立つ。
彼らが反乱の旗を揚げれば、必ず制圧しに来るだろうとわかっていた強大な敵……ラスボスが現れる。
揺るぎない力で、反乱を叩きつぶすことを宣言する。
いやもおそりゃ、この闘いの過酷さ、これからはじまるドラマの波乱を予感させて。
このラスボス登場!!の演出に、ぞくぞくする。
この敵……物語のラスボスであるムーア牧師@まっつは、「悪」としての台詞を吐かない。
彼が口にするのはあくまでも「正道」だ。
「我々は正しき道を歩まねばならない」
「正しい」大人へ、「正しい」子どもたちが、闘いを挑む。
悪などない。
退治していい悪者がいるのは、テレビの中だけ。
ここは現実、わたしたちの世界。
ヒーローもいないし、悪もいない。
だから、拳を握り、声を上げる。
ヒーローでない、ごくふつーのわたしたちが、拳を握るんだ。
自分で、自分の信じたモノのために闘うんだ。
自分の力で。
自分の責任で。
「I’m Free」
叫ぶんだ。
この三重唱が、すごい。
「自由を手に入れろ」と歌う子どもたち、ミサの曲を歌う大人たち、ただひとりで「正しき道」を歌うムーア。
確固たる意志を歌う子どもたち、他人の言葉を歌う大人たち。
そのコーラスの中、ひとり響くムーアの声。「正義」のもと、すべての意志を押さえ込む、威圧する声。
やがて子どもたちのコーラスの中から、ひとりの声が明確に響き出す。
それまでひとりだったムーアの声を塗りつぶすように。入れ替わるように。
「掴み取る 人生を」……レンの声。
そして全員の叫び、「I’m Free」で暗転、幕。
この演出が、かっこよすぎる。
これぞ、ミュージカルだ。
血湧き、肉躍る。
じっとしてなんかいられない。
すごいもん見た。すごいものを見たんだ、見ているんだ!
その幸福な興奮。
カッコイイ。
それだけで、涙が出る。
レン@キムくんが、すごすぎる。
芝居もダンスもビジュアルも。
そしてなんといっても、歌声が。
ひとは、出会いによって成長する。
舞台人は、舞台に出会い、役に出会い、成長する。
キムくんは間違いなく、この作品と役に出会うことで、大きく成長した。
もともとうまい人で、なんでも出来る人だったけれど、ここに来てまた、大きく変貌した。
タカラヅカのトップスターという特殊な立場は、やはり数年経験しないといけないんだろう。
ただのポジションではないからだ。
この位置でしか出会えないナニかと出会い、さらに上のステージへ行くんだ……トップスターって。
トップになり、そこでさらに変わるんだ。成長するんだ。
音月桂は、ここからはじまるのだろう。
それがわかるだけに、くやしい。
何故、待てなかったのかと。
これからこそ彼は、新しい世界を、円熟した魅力を見せてくれただろうに。
「I’m Free」は、キムくんなくしては、存在できなかった場面だ。
これほどまでに「ミュージカル」なものを見せてもらえた。
その幸福感に酔う。
大好きだ、「I’m Free」。
わたしが「ミュージカル」に求めるモノが、ここに凝縮されている。
ふつーに芝居してりゃ済むものを、わざわざ歌う。踊る。
その意味。
テーマを表現するための、手段。
そこ、にたどり着くための道。方法。
それが、歌であり、ダンスである。
その場面で表現するもののタイプにもよるが、「描きたいテーマ」に対する、ほんとうの「最上級の表現」がぴたりとハマったときって、魂が、湧き立つ。
それは個人の感覚によるモノだから、わたしにとっての「最上級」が他人にとっても同じかどうかは、わからない。
ただ、「ミュージカル」という表現媒体は、うまくハマったときわたしにとてつもない快感を与えてくれる。
たとえそれが、悲しみの場面であっても、恐怖の場面であっても、幸福だとか癒しだとか、おだやかな場面であっても。
魂が、沸き立つ。
細胞がぐつぐつ煮えるのがわかる。
五感すべてが叫びだし、踊り出すのを感じる。
制御するのが、難しいくらい。
大人だから、羞恥心あるから、必死に耐えるけど。
わたしに理性がなく、本能だけのケモノだったら、まちがいなく立ち上がり、叫びだしている。
……そんな感覚。
や、滅多にないけどね。
まれに、ある。
そして『フットルース』の1幕ラスト、「I’m Free」は、そういった場面なんだ。
その場面のテーマと、曲と言葉とダンス、歌唱力とダンス力と演技力と、ビジュアルとストーリーとキャラクタが、完璧にマッチした。
フィクションを愉しむ、ミュージカルを愉しむ、すべてのベクトルが正しく重なり、ひとつの高見に向かって駆け上り、爆発した。
快感。
それは、快感だ。
わたしのすべてが叫び出す。
立ち上がり、叫びたい。
そう、踊り出したい。
Footloose……解き放たれるとは、こういう気分なのか。
や、物語のテーマを、理屈ではない部分で、体感できるの。
アタマで考えるのではなく、細胞にたたき込まれる感じ。
正しく、まっすぐな少年が言う。
「町議会とも闘うさ。自由のために!」
過去の傷にとらわれ、うつむくこと、あきらめることしか出来なかった者たちに。
長いものに巻かれてあきらめて、不満を抱きながらも楽をすることしか考えなかった者たちに。
現実から目を背け、逃げ出すことしか考えない者たちに。
拳を握ってみせる。
「闘う」という方法があることを示す。
「I’m Free!」
胸を張って。うつむくのでなくあきらめるのでなく逃げ出すのではなく。
自分自身に、叫べ。
「神様に聞こえるように!」
檻を破る音。
走り出す音。
世界が、割れる音。
少年たちの声が、ひとつになり、ダンスがはじまる。
それまではレン@キムひとりの歌だった。
それがみんなの合唱になり、同時にダンスもはじまる。彼らの「決意」が「行動」になる。心がアクションにつながる。
それが「ミュージカル」。
力強いダンス。
アクロバティックな振付。
女性には難しいんじゃ、てな筋力必要なことを、キムくんたち男子がダイナミックにこなし、観客を感嘆させる。さらに、彼らの輪の外側に、ピンスポが当たる。浮かび上がるのはダイアン@あゆみ、サラ@ひーこ。雪組を代表するダンサーふたりが、パワフルにダンスソロを決める。
この流れ!
殻を割らなければ、雛は生まれることが出来ない。
今ある世界を壊さなければ、新しい世界は創造できない。
殻を壊し、古い世界を壊す。
それは、若者の力。彼らに与えられた権利。……そして、使命。
ひとは、生まれなければならないんだ。
だから苦しくても、こわくても、進め、前へ。
まるで戦車のように隙なく固まる若者たちの上方に、「敵」が立つ。
彼らが反乱の旗を揚げれば、必ず制圧しに来るだろうとわかっていた強大な敵……ラスボスが現れる。
揺るぎない力で、反乱を叩きつぶすことを宣言する。
いやもおそりゃ、この闘いの過酷さ、これからはじまるドラマの波乱を予感させて。
このラスボス登場!!の演出に、ぞくぞくする。
この敵……物語のラスボスであるムーア牧師@まっつは、「悪」としての台詞を吐かない。
彼が口にするのはあくまでも「正道」だ。
「我々は正しき道を歩まねばならない」
「正しい」大人へ、「正しい」子どもたちが、闘いを挑む。
悪などない。
退治していい悪者がいるのは、テレビの中だけ。
ここは現実、わたしたちの世界。
ヒーローもいないし、悪もいない。
だから、拳を握り、声を上げる。
ヒーローでない、ごくふつーのわたしたちが、拳を握るんだ。
自分で、自分の信じたモノのために闘うんだ。
自分の力で。
自分の責任で。
「I’m Free」
叫ぶんだ。
この三重唱が、すごい。
「自由を手に入れろ」と歌う子どもたち、ミサの曲を歌う大人たち、ただひとりで「正しき道」を歌うムーア。
確固たる意志を歌う子どもたち、他人の言葉を歌う大人たち。
そのコーラスの中、ひとり響くムーアの声。「正義」のもと、すべての意志を押さえ込む、威圧する声。
やがて子どもたちのコーラスの中から、ひとりの声が明確に響き出す。
それまでひとりだったムーアの声を塗りつぶすように。入れ替わるように。
「掴み取る 人生を」……レンの声。
そして全員の叫び、「I’m Free」で暗転、幕。
この演出が、かっこよすぎる。
これぞ、ミュージカルだ。
血湧き、肉躍る。
じっとしてなんかいられない。
すごいもん見た。すごいものを見たんだ、見ているんだ!
その幸福な興奮。
カッコイイ。
それだけで、涙が出る。
レン@キムくんが、すごすぎる。
芝居もダンスもビジュアルも。
そしてなんといっても、歌声が。
ひとは、出会いによって成長する。
舞台人は、舞台に出会い、役に出会い、成長する。
キムくんは間違いなく、この作品と役に出会うことで、大きく成長した。
もともとうまい人で、なんでも出来る人だったけれど、ここに来てまた、大きく変貌した。
タカラヅカのトップスターという特殊な立場は、やはり数年経験しないといけないんだろう。
ただのポジションではないからだ。
この位置でしか出会えないナニかと出会い、さらに上のステージへ行くんだ……トップスターって。
トップになり、そこでさらに変わるんだ。成長するんだ。
音月桂は、ここからはじまるのだろう。
それがわかるだけに、くやしい。
何故、待てなかったのかと。
これからこそ彼は、新しい世界を、円熟した魅力を見せてくれただろうに。
「I’m Free」は、キムくんなくしては、存在できなかった場面だ。
これほどまでに「ミュージカル」なものを見せてもらえた。
その幸福感に酔う。
大好きだ、「I’m Free」。
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