で、彼は結局。@アルジェの男
2011年8月2日 タカラヅカ 『アルジェの男』、ストーリーについての感想、続き。
その、わたしは柴田せんせの古い古い再演作品がとーーっても苦手なので、つまりはそういう感想です、はい。
ジュリアン@きりやんを「女を利用して成功する」男とするならば、キャラクタの設定バランスをかなりいじらなきゃだわ。
まず、世の中的に「女を利用して成功する」のは、潔くないこと、悪いことだとされている。「成功する」のは、本人の才能や努力であるべきだからだ。
でもこの作品のポイントは、その「悪い」ことをする主人公を「かっこいい」と描くことにある。悪い色男は女性には魅力的であり、観客の大半が女性である宝塚歌劇団には正しいヒーローだからだ。
「悪い男」は格好いいけれど、そもそもなんでそんな「悪い」とわかっていることを主人公はするのか?
「成功するため」というが、主人公自身が才能にあふれているならば、女に頼る必要はないだろう。自分ひとりの力では出世できないから女を利用するってことだ。
これは主人公の「魅力」という面でマイナス。女を抱く以外に取り柄のない男、というレッテルはヒーローに相応しくない。
主人公には才能がある。実力がある。だが、なんらかの理由・障害があってそれを発揮できない。
障害を乗り越える手段のひとつとして、女を利用する。……これが、本来の『アルジェの男』、作者が書きたかったジュリアンと女たちの関係だろう。
だが、この物語のおかしなところは、主人公が才能を発揮できない障害が存在していないことだ。
たとえば人種や宗教、身分、性別などで絶対に出世できない、成功できない、という場合がある。
お貴族様しかえらくなれない時代と国で、平民の青年はどんなに才能があっても政治の要職に着くことはできないだろう。肌の色や民族、宗教で差別された時代と国でもそうだろう。
そんな風に「絶対に、正攻法ではどうすることもできない」場合に、裏技として色事でのし上がるのは物語としてアリだろう。
しかしジュリアンにはそういった絶対的な障害はない。
その優れた才能を見抜かれ、ボランジュさん@リュウ様という保護者がしっかり彼を守っているからだ。
ボラさんはジュリアンがアルジェでちんぴらをやっていたことを全部知った上で、才能のみで彼を評価し、盛り立ててくれている。
ボラさんがいる限り、ジュリアンの能力はいつも正しく評価され、出世するしないは彼の実力と等しく、不当な扱いなど受けていない。
この状態で何故、女を利用する必要がある?
「女を利用して成功する」というテーマを貫きたいのならば、パトロンなんぞ持っちゃいけない。
ボラさんは狭量なアホ親爺ってことで、ジュリアンを生まれ育ちだけで差別し、不当に貶める存在でなければならない。
でもボラさんの権力を必要とするジュリアンが、娘のエリザベート@りっちーを誘惑する、という流れ。
またボラさんがそんな人だから、ジュリアンは他にいいパトロンがいないか虎視眈々としていて、シャルドンヌ夫人@邦さんにコナを掛けられたらひょいひょい乗り、アナ・ベル@みくにも手を出しちゃいます、てな流れにしないと。
ボラさんがいい人である以上、そんな彼の元で出世できないジュリアンは「無能」ってことになる。能力がないから出世できない、仕事で評価されるのはあきらめて、娘婿になることを選びました……ってか。これならたしかに「女を利用して成功する」わけだが、無能な男はヒーロー失格。
ボラさんの能力や人格を落とすことでジュリアンを上げるか、ボラさんを上げるためにジュリアンを落とすか。
二者択一ですよ。
なのにこの物語は、ボラさんもいい人、ジュリアンも才能ある人、とダブルスタンダード、設定が破綻している。
女を新たに口説く必要もないのに、わざわざ口説くのはただの「ファンサービス」。
ほーら、こんな悪い男、女は好きだろ?
という意味っすか?
成功するために女を利用する男は悪の魅力があるとしても、「ファンサービス」で女を利用する男はわけわかんないっす……。
ジュリアンがナニをしたいのか、わかんない……。
エリザベートと結婚するのは、リーマンには「よくあること」なので変じゃないし、コレは別に「利用している」ほどのこともないしな。
ジュリアンに現在進行形の恋人がいて、エリザベートと結婚後も変わらずにつきあい続けるならたしかに「利用する」に値するが、恋人ナシで独身だったんだから、別になにも悪くないよなあ。
元カノのことを内心引きずっているとしても、それは別に裏切りにも浮気にもならないし。元カノも、別の男と5年間も暮らし続けているわけだしな。
アナ・ベルに何故手を出したのかは、本気でわからん。
ジュリアンは彼女に惹かれている風でもなかったし、ボランジュさんというパトロンがいるので、出世という意味ではエリザベートで十分、アナ・ベルの出番はない。
実際、エリザベートを選んでアナ・ベルは一顧だにせずうち捨てて悔いナシ、だったわけだし。
その程度の女の子に何故……。
やはり、作者の脳内都合、「その彼に心惹かれ、悲しい運命を辿ることになる三人の女性たち。」という設定がまず最初にあって、ソレに合わせてキャラや物語を捏造した、ように思える。
「死んだから悲劇」という、簡単な設定のために、なにがなんでもアナ・ベルを登場させ、ジュリアンに手を出させ、彼女を自殺させねばならなかった。
んで、最終的にジュリアンが非業の最期を遂げる、という、これまた「死んだから悲劇」という、オチ優先のためだけにストーリーやキャラクタが用意されたっていうか。
ヒロインであるサビーヌ@まりもに至っては、かなりアレなストーカー女だし。
いや、彼女の歪みや弱さは魅力的だと思う。変な人の方がフィクションでは愉快だったりするから。
サビーヌがアレな女になっているのは、ねちっこい描き方にあると思う。
「言いたいことと、言っていることが別」であることを、大劇場クラスの箱で表現すると、あんなウザい演技になるわけだ。
これがバウホールならば、「本当は愛している。そばにいたい。でも、彼の足手まといになりたくないから、あえて離れる」「でもやっぱり近くにいたいから、追っていってこっそり様子を眺めている」というサビーヌのキモチと行動を気持ち悪くなく表現できたんだと思う。
ジャック@まさおとサビーヌは、もっと掘り下げて描くこともできるキャラクタなのに、すげー半端な描き方だから、なんともキモチワルイことになっている。
ジャックの執着になんの決着も答えもないまま、彼の物語はその死で終了。
そしてジュリアンの突然の心変わり。
ジャックとサビーヌをもっとちゃんと描いてくれていれば、カタルシスになるだろーに、なんだこの杜撰な展開は……と、思っていたら、怒濤のラスト。
なんつーか、「ファンが喜びそうなシーンをてきとーにつなぎ合わせてみました」感満載っす……。
場面場面はアリかもしんないけど、何故その場面になるのか、心のつながりや心の動く理由が、すげーいい加減。
ヅカファンには「ヅカファン脊髄反射」ってのがあって、この台詞を言われたら勝手にこう脳内補完して解釈するとかパターンが決まっている。それを利用した作りに思える、『アルジェの男』。ヅカヲタの脳内補完に頼った、杜撰な作り……。辻褄合ってないけど、萌えな場面があるからヨシ、みたいな。
でも、その萌えな場面の描き方が、古い……。
現代的な作りならば、わたしの単純なヅカヲタ脳がいろいろと脳内補完したんだろうけど、柴田作品の古さはわたしの脳内麻薬を出すに至らず、とても冷静に「そりゃないやろ」とツッコミまくりっす。
つーことで、ジュリアンさんがわかりません……。
結局ナニをしたかったんだ、あの人。
主人公の人格や行動は理解できないけど、作者の都合や計算は見える。
なんつーか、しょぼんな作品だ。
ほんとにコレ、名作なんですか。名作なのよね。なにしろ柴田作品だし。柴田作品は名作というのが前提だもんね。
その、わたしは柴田せんせの古い古い再演作品がとーーっても苦手なので、つまりはそういう感想です、はい。
ジュリアン@きりやんを「女を利用して成功する」男とするならば、キャラクタの設定バランスをかなりいじらなきゃだわ。
まず、世の中的に「女を利用して成功する」のは、潔くないこと、悪いことだとされている。「成功する」のは、本人の才能や努力であるべきだからだ。
でもこの作品のポイントは、その「悪い」ことをする主人公を「かっこいい」と描くことにある。悪い色男は女性には魅力的であり、観客の大半が女性である宝塚歌劇団には正しいヒーローだからだ。
「悪い男」は格好いいけれど、そもそもなんでそんな「悪い」とわかっていることを主人公はするのか?
「成功するため」というが、主人公自身が才能にあふれているならば、女に頼る必要はないだろう。自分ひとりの力では出世できないから女を利用するってことだ。
これは主人公の「魅力」という面でマイナス。女を抱く以外に取り柄のない男、というレッテルはヒーローに相応しくない。
主人公には才能がある。実力がある。だが、なんらかの理由・障害があってそれを発揮できない。
障害を乗り越える手段のひとつとして、女を利用する。……これが、本来の『アルジェの男』、作者が書きたかったジュリアンと女たちの関係だろう。
だが、この物語のおかしなところは、主人公が才能を発揮できない障害が存在していないことだ。
たとえば人種や宗教、身分、性別などで絶対に出世できない、成功できない、という場合がある。
お貴族様しかえらくなれない時代と国で、平民の青年はどんなに才能があっても政治の要職に着くことはできないだろう。肌の色や民族、宗教で差別された時代と国でもそうだろう。
そんな風に「絶対に、正攻法ではどうすることもできない」場合に、裏技として色事でのし上がるのは物語としてアリだろう。
しかしジュリアンにはそういった絶対的な障害はない。
その優れた才能を見抜かれ、ボランジュさん@リュウ様という保護者がしっかり彼を守っているからだ。
ボラさんはジュリアンがアルジェでちんぴらをやっていたことを全部知った上で、才能のみで彼を評価し、盛り立ててくれている。
ボラさんがいる限り、ジュリアンの能力はいつも正しく評価され、出世するしないは彼の実力と等しく、不当な扱いなど受けていない。
この状態で何故、女を利用する必要がある?
「女を利用して成功する」というテーマを貫きたいのならば、パトロンなんぞ持っちゃいけない。
ボラさんは狭量なアホ親爺ってことで、ジュリアンを生まれ育ちだけで差別し、不当に貶める存在でなければならない。
でもボラさんの権力を必要とするジュリアンが、娘のエリザベート@りっちーを誘惑する、という流れ。
またボラさんがそんな人だから、ジュリアンは他にいいパトロンがいないか虎視眈々としていて、シャルドンヌ夫人@邦さんにコナを掛けられたらひょいひょい乗り、アナ・ベル@みくにも手を出しちゃいます、てな流れにしないと。
ボラさんがいい人である以上、そんな彼の元で出世できないジュリアンは「無能」ってことになる。能力がないから出世できない、仕事で評価されるのはあきらめて、娘婿になることを選びました……ってか。これならたしかに「女を利用して成功する」わけだが、無能な男はヒーロー失格。
ボラさんの能力や人格を落とすことでジュリアンを上げるか、ボラさんを上げるためにジュリアンを落とすか。
二者択一ですよ。
なのにこの物語は、ボラさんもいい人、ジュリアンも才能ある人、とダブルスタンダード、設定が破綻している。
女を新たに口説く必要もないのに、わざわざ口説くのはただの「ファンサービス」。
ほーら、こんな悪い男、女は好きだろ?
という意味っすか?
成功するために女を利用する男は悪の魅力があるとしても、「ファンサービス」で女を利用する男はわけわかんないっす……。
ジュリアンがナニをしたいのか、わかんない……。
エリザベートと結婚するのは、リーマンには「よくあること」なので変じゃないし、コレは別に「利用している」ほどのこともないしな。
ジュリアンに現在進行形の恋人がいて、エリザベートと結婚後も変わらずにつきあい続けるならたしかに「利用する」に値するが、恋人ナシで独身だったんだから、別になにも悪くないよなあ。
元カノのことを内心引きずっているとしても、それは別に裏切りにも浮気にもならないし。元カノも、別の男と5年間も暮らし続けているわけだしな。
アナ・ベルに何故手を出したのかは、本気でわからん。
ジュリアンは彼女に惹かれている風でもなかったし、ボランジュさんというパトロンがいるので、出世という意味ではエリザベートで十分、アナ・ベルの出番はない。
実際、エリザベートを選んでアナ・ベルは一顧だにせずうち捨てて悔いナシ、だったわけだし。
その程度の女の子に何故……。
やはり、作者の脳内都合、「その彼に心惹かれ、悲しい運命を辿ることになる三人の女性たち。」という設定がまず最初にあって、ソレに合わせてキャラや物語を捏造した、ように思える。
「死んだから悲劇」という、簡単な設定のために、なにがなんでもアナ・ベルを登場させ、ジュリアンに手を出させ、彼女を自殺させねばならなかった。
んで、最終的にジュリアンが非業の最期を遂げる、という、これまた「死んだから悲劇」という、オチ優先のためだけにストーリーやキャラクタが用意されたっていうか。
ヒロインであるサビーヌ@まりもに至っては、かなりアレなストーカー女だし。
いや、彼女の歪みや弱さは魅力的だと思う。変な人の方がフィクションでは愉快だったりするから。
サビーヌがアレな女になっているのは、ねちっこい描き方にあると思う。
「言いたいことと、言っていることが別」であることを、大劇場クラスの箱で表現すると、あんなウザい演技になるわけだ。
これがバウホールならば、「本当は愛している。そばにいたい。でも、彼の足手まといになりたくないから、あえて離れる」「でもやっぱり近くにいたいから、追っていってこっそり様子を眺めている」というサビーヌのキモチと行動を気持ち悪くなく表現できたんだと思う。
ジャック@まさおとサビーヌは、もっと掘り下げて描くこともできるキャラクタなのに、すげー半端な描き方だから、なんともキモチワルイことになっている。
ジャックの執着になんの決着も答えもないまま、彼の物語はその死で終了。
そしてジュリアンの突然の心変わり。
ジャックとサビーヌをもっとちゃんと描いてくれていれば、カタルシスになるだろーに、なんだこの杜撰な展開は……と、思っていたら、怒濤のラスト。
なんつーか、「ファンが喜びそうなシーンをてきとーにつなぎ合わせてみました」感満載っす……。
場面場面はアリかもしんないけど、何故その場面になるのか、心のつながりや心の動く理由が、すげーいい加減。
ヅカファンには「ヅカファン脊髄反射」ってのがあって、この台詞を言われたら勝手にこう脳内補完して解釈するとかパターンが決まっている。それを利用した作りに思える、『アルジェの男』。ヅカヲタの脳内補完に頼った、杜撰な作り……。辻褄合ってないけど、萌えな場面があるからヨシ、みたいな。
でも、その萌えな場面の描き方が、古い……。
現代的な作りならば、わたしの単純なヅカヲタ脳がいろいろと脳内補完したんだろうけど、柴田作品の古さはわたしの脳内麻薬を出すに至らず、とても冷静に「そりゃないやろ」とツッコミまくりっす。
つーことで、ジュリアンさんがわかりません……。
結局ナニをしたかったんだ、あの人。
主人公の人格や行動は理解できないけど、作者の都合や計算は見える。
なんつーか、しょぼんな作品だ。
ほんとにコレ、名作なんですか。名作なのよね。なにしろ柴田作品だし。柴田作品は名作というのが前提だもんね。
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