LOVE SONGS。@アルバトロス、南へ
2006年8月6日 タカラヅカ 愛した人を失ったことがある、すべての人へ。
オギー最新作、コム姫主演バウ公演『アルバトロス、南へ』。
1部はコム姫出演作をコラージュしたショー、2部が同じ手法の芝居で、4つのサブタイトルのある「物語」。
そのうちのひとつに、コラージュではなくまったくのオリジナルとして「アルバトロス、南へ」がある。
オギー芝居、そして朝海ひかるというオギー役者を、周囲を気にせずつきつめてくれたシーンだと思う。オギー芝居と合わない人はここで爆睡するみたいだ(笑)。
そのシーンを含み、過去のコラージュと現在と未来を万華鏡をのぞくように「物語」がつづられる。
この物語が「痛い」のは、記憶に訴えかけるためだと思う。
生きていれば、どんな人でも「別れ」を経験する。精神的な別れも、物理的な別れも。
美しい記憶に昇華されていても、今別離の苦しみのなかにいるとしても。
誰もがみな、一度は泣いたことがあるはずだ。
失うことに。
コム姫の過去の舞台をコラージュしながら、描かれ続ける「喪失」。
「過去」の断片を使って「現在」の新しい物語を作り、今現在の別れを物語として描きながら、やがて来る「未来」のコムとの別れを暗示する。
その手腕の秀逸さ。
ただコム姫との別れを思って泣いていたはずだったのに、毒はいつの間にか魂に浸透する。
コム姫との別れもつらい。
もちろん。
直接、その痛みに泣くさ。
でも。
それだけで、とどまらなくて。
何故コム姫と別れなければならない?
こんなにこんなに、想っているのに。
「今」を愛しているのに。
「過去」を愛しているのに。
「未来」を愛しているのに。
何故、「今」は過ぎ去り、「過去」は触れることが出来ず、「未来」は失われるのか。
そこにあるのは、普遍的なモノなんだ。
「タカラヅカの男役スターが退団する? それで泣いてるの? バッカみたい」
……って、それはその通りなんだけど、それだけぢゃなくて。
わたしがコムを失うという事実は、わたしが出会ったモノといつか必ず、すべて失う・別れる、という事実と、同じなんだよ。
それがコムでなくても。
他の誰かでもいいさ。
母親でも恋人でも夫でも、息子でもいい。
家でもいいし、宝物でもいいし、記憶でもいいし、自分の腕や脚、目でもいいさ。
そこになにをあてはめてもいい。
普遍的なものなんだよ。
繰り返し繰り返し、『アルバトロス』で描かれる「喪失」と「絶望」は。
「タカラヅカ興味ないから、退団が悲しいとかわかんない」
「コムキライだから、やめてくれてぜんぜんかまわない」
とか、そーゆーことですらなくてな。
コム姫を失う、別れる、置いていかれる。
この物語を、ただそれだけの想いで、うつくしいものとして観ていたら、もっともっとチガウ、ヤヴァイものに魂を浸食されていたんだ。
愛したものを失ったことがある、すべての人へ。
「喪失」の痛みを知っている人へ。
どうか、この物語に触れて欲しい。
痛くて痛くて痛くて。
立ち上がれないくらい痛くて。
だけど、それだけぢゃないから。
それほどに「痛い」と思えるくらい、「愛しい」ものを持つことに、誇りを持って。
なにも愛していなければ、こんなに痛くない。
「喪失」なんかこわくない。
この物語を観て、「痛い」と思った、その心を愛して。
誰かを、なにかを愛したことのある、すべての人へ。
いつかは消えてしまうこの心ごと、魂ごと、愛し続けたい。
オギー最新作、コム姫主演バウ公演『アルバトロス、南へ』。
1部はコム姫出演作をコラージュしたショー、2部が同じ手法の芝居で、4つのサブタイトルのある「物語」。
そのうちのひとつに、コラージュではなくまったくのオリジナルとして「アルバトロス、南へ」がある。
オギー芝居、そして朝海ひかるというオギー役者を、周囲を気にせずつきつめてくれたシーンだと思う。オギー芝居と合わない人はここで爆睡するみたいだ(笑)。
そのシーンを含み、過去のコラージュと現在と未来を万華鏡をのぞくように「物語」がつづられる。
この物語が「痛い」のは、記憶に訴えかけるためだと思う。
生きていれば、どんな人でも「別れ」を経験する。精神的な別れも、物理的な別れも。
美しい記憶に昇華されていても、今別離の苦しみのなかにいるとしても。
誰もがみな、一度は泣いたことがあるはずだ。
失うことに。
コム姫の過去の舞台をコラージュしながら、描かれ続ける「喪失」。
「過去」の断片を使って「現在」の新しい物語を作り、今現在の別れを物語として描きながら、やがて来る「未来」のコムとの別れを暗示する。
その手腕の秀逸さ。
ただコム姫との別れを思って泣いていたはずだったのに、毒はいつの間にか魂に浸透する。
コム姫との別れもつらい。
もちろん。
直接、その痛みに泣くさ。
でも。
それだけで、とどまらなくて。
何故コム姫と別れなければならない?
こんなにこんなに、想っているのに。
「今」を愛しているのに。
「過去」を愛しているのに。
「未来」を愛しているのに。
何故、「今」は過ぎ去り、「過去」は触れることが出来ず、「未来」は失われるのか。
そこにあるのは、普遍的なモノなんだ。
「タカラヅカの男役スターが退団する? それで泣いてるの? バッカみたい」
……って、それはその通りなんだけど、それだけぢゃなくて。
わたしがコムを失うという事実は、わたしが出会ったモノといつか必ず、すべて失う・別れる、という事実と、同じなんだよ。
それがコムでなくても。
他の誰かでもいいさ。
母親でも恋人でも夫でも、息子でもいい。
家でもいいし、宝物でもいいし、記憶でもいいし、自分の腕や脚、目でもいいさ。
そこになにをあてはめてもいい。
普遍的なものなんだよ。
繰り返し繰り返し、『アルバトロス』で描かれる「喪失」と「絶望」は。
「タカラヅカ興味ないから、退団が悲しいとかわかんない」
「コムキライだから、やめてくれてぜんぜんかまわない」
とか、そーゆーことですらなくてな。
コム姫を失う、別れる、置いていかれる。
この物語を、ただそれだけの想いで、うつくしいものとして観ていたら、もっともっとチガウ、ヤヴァイものに魂を浸食されていたんだ。
愛したものを失ったことがある、すべての人へ。
「喪失」の痛みを知っている人へ。
どうか、この物語に触れて欲しい。
痛くて痛くて痛くて。
立ち上がれないくらい痛くて。
だけど、それだけぢゃないから。
それほどに「痛い」と思えるくらい、「愛しい」ものを持つことに、誇りを持って。
なにも愛していなければ、こんなに痛くない。
「喪失」なんかこわくない。
この物語を観て、「痛い」と思った、その心を愛して。
誰かを、なにかを愛したことのある、すべての人へ。
いつかは消えてしまうこの心ごと、魂ごと、愛し続けたい。
コメント