愛した人を失ったことがある、すべての人へ。

 オギー最新作、コム姫主演バウ公演『アルバトロス、南へ』

 1部はコム姫出演作をコラージュしたショー、2部が同じ手法の芝居で、4つのサブタイトルのある「物語」。
 そのうちのひとつに、コラージュではなくまったくのオリジナルとして「アルバトロス、南へ」がある。
 オギー芝居、そして朝海ひかるというオギー役者を、周囲を気にせずつきつめてくれたシーンだと思う。オギー芝居と合わない人はここで爆睡するみたいだ(笑)。
 そのシーンを含み、過去のコラージュと現在と未来を万華鏡をのぞくように「物語」がつづられる。
  

 この物語が「痛い」のは、記憶に訴えかけるためだと思う。
 生きていれば、どんな人でも「別れ」を経験する。精神的な別れも、物理的な別れも。
 美しい記憶に昇華されていても、今別離の苦しみのなかにいるとしても。
 誰もがみな、一度は泣いたことがあるはずだ。
 失うことに。

 コム姫の過去の舞台をコラージュしながら、描かれ続ける「喪失」。
 「過去」の断片を使って「現在」の新しい物語を作り、今現在の別れを物語として描きながら、やがて来る「未来」のコムとの別れを暗示する。
 その手腕の秀逸さ。

 ただコム姫との別れを思って泣いていたはずだったのに、毒はいつの間にか魂に浸透する。

 コム姫との別れもつらい。
 もちろん。
 直接、その痛みに泣くさ。

 でも。

 それだけで、とどまらなくて。

 何故コム姫と別れなければならない?
 こんなにこんなに、想っているのに。

 「今」を愛しているのに。
 「過去」を愛しているのに。
 「未来」を愛しているのに。

 何故、「今」は過ぎ去り、「過去」は触れることが出来ず、「未来」は失われるのか。

 そこにあるのは、普遍的なモノなんだ。

「タカラヅカの男役スターが退団する? それで泣いてるの? バッカみたい」
 ……って、それはその通りなんだけど、それだけぢゃなくて。

 わたしがコムを失うという事実は、わたしが出会ったモノといつか必ず、すべて失う・別れる、という事実と、同じなんだよ。

 それがコムでなくても。
 他の誰かでもいいさ。
 母親でも恋人でも夫でも、息子でもいい。
 家でもいいし、宝物でもいいし、記憶でもいいし、自分の腕や脚、目でもいいさ。

 そこになにをあてはめてもいい。
 普遍的なものなんだよ。

 繰り返し繰り返し、『アルバトロス』で描かれる「喪失」と「絶望」は。

「タカラヅカ興味ないから、退団が悲しいとかわかんない」
「コムキライだから、やめてくれてぜんぜんかまわない」
 とか、そーゆーことですらなくてな。

 コム姫を失う、別れる、置いていかれる。
 この物語を、ただそれだけの想いで、うつくしいものとして観ていたら、もっともっとチガウ、ヤヴァイものに魂を浸食されていたんだ。

 
 愛したものを失ったことがある、すべての人へ。
 
 「喪失」の痛みを知っている人へ。

 どうか、この物語に触れて欲しい。
 痛くて痛くて痛くて。
 立ち上がれないくらい痛くて。

 だけど、それだけぢゃないから。

 それほどに「痛い」と思えるくらい、「愛しい」ものを持つことに、誇りを持って。

 なにも愛していなければ、こんなに痛くない。
 「喪失」なんかこわくない。

 この物語を観て、「痛い」と思った、その心を愛して。

 
 誰かを、なにかを愛したことのある、すべての人へ。

 いつかは消えてしまうこの心ごと、魂ごと、愛し続けたい。


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