結局わたしは、東宝では『NEVER SAY GOODBYE』を前楽の1回きりしか観なかった。
わたしの甲斐性ではチケットが手に入らなかった、という理由がいちばん大きい。
チケットあればそりゃ何度も観ているさ。たかはなの最後の公演なんだから。
仲間たちはみんな、声をそろえて「東宝の方がよくなっている」と言うし。観たいよそりゃ。
でも、前楽を観て思ったんだ。
わたしがこの公演のチケットが手に入らなかったのも、仕方ないのかもしれないなと。
千秋楽、せめて中継でも観たかったのだけど、結局なにも観られずパレードの場所取りをすることになった……のは、当然の摂理かもしれない。
だって、思ったんだもの。
「よくなった」と評判の東宝で、実際前楽というある意味記録に残る楽よりも熱のこもる特別な回で、それでもなお。
やっぱりこの芝居、好きになれない。
そう思って、引いている自分がいた。
ジョルジュという男に、好意がもてないんだ。いや、ジョルジュ単体はいい。ジョルジュをこんなふーにしてしまった演出家に対しての不信感や嫌悪感が邪魔をして、作品への絶望感が先に立ってしまうんだ。
最初、ジョルジュはかっこよく出てくる。
デラシネの彼は、写真を撮ることで人生を探している。
が。
彼がカメラと写真への情熱を語るたびに、「でもソレ、捨てるんだよね? その程度のものなんだよね?」という思いがよぎる。
歴史が動き、ドラマティックな群衆芝居が展開され、ジョルジュがそこに絡んで物語は最高峰に盛り上がる。
が。
「でもソレも、結局は自分で否定するんだよね? みんなみんな無意味なんだよね?」という思いが、水を差す。
理想の女を歌うジョルジュも、キャサリンとの最初の愛のデュエットも。「なんだかんだいって、自分の思い通りになる、都合のいい女しか好きじゃないんでしょ?」と、身勝手さとあさはかさに気分が萎える。
前半の彼が、真摯にカメラマンとして誇りを持って生きていればいるほど、ソレを捨ててしまうラストを知ったうえで観ると、だまされたような気持ちになる。
前半の彼が、女にとって魅力的な高嶺の花だと描かれれば描かれるほど、男女以前のつまらない自己中男だとわかる後半を知ったうえで観ると、だまされたような気持ちになる。
なんでこんな男なの、ジョルジュ?
せっかく前半で「いかにもかっこいいヒーロー」として「なにもかも持ち合わせた男」として描いておきながら、後半で全部台無しにするの?
いや、台無しにするのは別にいいの。わたしは間違った人間大好物だし。愚かだったり醜かったりする人間は、人間らしくて好き。
問題は、「あさはかでくだらない男」だと後半これでもかとバレるのに、それを「いかにもかっこいいヒーロー」として描き続けることが、気持ち悪すぎるの。
植爺作品と同じ。どー考えたってまちがっているのに、その世界ではそれが「正義」として描かれている。歪んだ地平。
ジョルジュは口ばかりの、つまらない男だった。偉人でも英雄でもなかった。理想なんかまったくなく、ただ自分が「みんなと一緒だよ、ここにいればいいんだよ」と言ってもらえれば満足な、幼児程度のメンタリティしか持っていない男だった。
女の趣味も、「ボクが見るものだけをボクとまったく同じに見、ボクのそばでボクのことだけを考えてくれる、ボクのためだけに生きる美女」を求めていただけの、「ふざけんな、それならひとりで人形遊びでもしてろ」的な笑止な男だった。
前半でヒーローだったジョルジュの、そんな人間としての弱さや愚かさを露出させ、それでもなお人生と向き合っていく姿を追う物語なら、わたしは大喜びで通っていただろう。
でも、チガウんだ。
後半、人間性のアラが出まくり、ヒーローどころか、かなり底辺の人格をしているぞこいつ? と思わせておきながらも、いまだに作品的にはジョルジュを「ヒーロー」「正義」として描いているつもりなんだ。
それが、わたしの逆ツボ直撃。
世界観が歪んでいるもの、都合良く倫理観を歪めているものがダメ。気持ち悪い。
植爺作品はまず100%こーゆー歪みに満ちているんだけど……小池もこう来たか。
たかちゃんが最後だから、そのことだけで泣けはするけれど、作品としてはひどいよ。演出のうまさで1シーン1シーンはすごくいいし、キャストの熱の入り方もすごくて、断片的には感動もできるんだけど。
とにかくあちこちで冷水をぶっかけられて。
ストーリーとして泣けるところは、2幕のキャサリン@花ちゃんの独唱のみだもんなあ。
「ジョルジュがどーしよーもない、ただのつまらない男だとわかったうえで、こんな男をそれでも愛してしまったキャサリンのあきらめというか悟りというかをたのしむ話だと思えば、感動できますよ」
と、kineさんは大人の意見。「『ネバー』の正しい見方に開眼した」そうで。や、kineさんはもっとちゃんとした、大人な表現でこのことを自ブログで書いてらっしゃいますが、わたしが間に入って書くと、こんな書き方になる(すまん)。
が。
チガウから! 作者も役者も、そんなこと思ってやってないから!(笑)
でもほんとに、
「ああ、マジでバカだこの男。しかも、自分をバカだとも思わず、いい男なつもりで、利口なつもりで、あたしをなだめようとか思っている。なんであたしは、よりによってこんなバカに惚れてるんだろう。でも仕方ない、バカをバカだとわかってて、それでも好きなんだもの」
……そう、涙ながらに葛藤して去っていくキャサリンなら理解できる、と、そこまで観ている者を追いつめる作品を書くのは、植爺の専売特許かと思っていたが、そうでもないんだな。とほほ。
たかはなのラストステージでなければ、ここまで追いつめられなかったよ。
ただの数ある失敗作だとか駄作だとかと同じよーに、とりあえず1回観て「あ、今回の作品はハズレだったな。んじゃもう観なくていいや」とふつーにスルーしていたさ。『傭兵ピエール』とか1回しか観てないもん。
最後だから、スルーするわけにいかなくて、繰り返し観るしかないから、追いつめられちゃうんだ。別の見方を開眼するなりしなきゃ、歪んだ地平の世界観に身を置くのはつらすぎる。
物語だと思わずに、極力たかちゃんの姿だけ、男役としての美しさだけを堪能した。
サヨナラショーだけ見に来たよーなもんかもしれない。
エリックに会いに来たんだよな。
あああ、エリック、大好きだ。彼はまちがっていたけれど、それでもダイスキだ。物語も、「彼は間違っている。でも、そうとしか生きられなかった」ことの悲劇を描いている。『ネバー』と世界観が根本からちがっているもの。
最後の作品が、役が、すばらしいものに当たる確率なんて、ほんとうに低い。
作品的にどうこうもそうだけど、ファンの目線での判断もある。……まあ、世間がどう評価しようと、ファンが感涙で通えるものならそれがいちばん正解なんだとは思うが。
たかちゃんファンが、この作品とこのキャラクタをよろこんでいたのなら、それがいちばんだ。
ただ、わたしがどーにもこうにもダメだっただけで。
小池氏には、演出のみをやってほしいなあ……もう脚本は書かなくていいよ……。
てゆーか。たのむ。今すぐ、『ファントム』の演出やってくれ。
わたしの甲斐性ではチケットが手に入らなかった、という理由がいちばん大きい。
チケットあればそりゃ何度も観ているさ。たかはなの最後の公演なんだから。
仲間たちはみんな、声をそろえて「東宝の方がよくなっている」と言うし。観たいよそりゃ。
でも、前楽を観て思ったんだ。
わたしがこの公演のチケットが手に入らなかったのも、仕方ないのかもしれないなと。
千秋楽、せめて中継でも観たかったのだけど、結局なにも観られずパレードの場所取りをすることになった……のは、当然の摂理かもしれない。
だって、思ったんだもの。
「よくなった」と評判の東宝で、実際前楽というある意味記録に残る楽よりも熱のこもる特別な回で、それでもなお。
やっぱりこの芝居、好きになれない。
そう思って、引いている自分がいた。
ジョルジュという男に、好意がもてないんだ。いや、ジョルジュ単体はいい。ジョルジュをこんなふーにしてしまった演出家に対しての不信感や嫌悪感が邪魔をして、作品への絶望感が先に立ってしまうんだ。
最初、ジョルジュはかっこよく出てくる。
デラシネの彼は、写真を撮ることで人生を探している。
が。
彼がカメラと写真への情熱を語るたびに、「でもソレ、捨てるんだよね? その程度のものなんだよね?」という思いがよぎる。
歴史が動き、ドラマティックな群衆芝居が展開され、ジョルジュがそこに絡んで物語は最高峰に盛り上がる。
が。
「でもソレも、結局は自分で否定するんだよね? みんなみんな無意味なんだよね?」という思いが、水を差す。
理想の女を歌うジョルジュも、キャサリンとの最初の愛のデュエットも。「なんだかんだいって、自分の思い通りになる、都合のいい女しか好きじゃないんでしょ?」と、身勝手さとあさはかさに気分が萎える。
前半の彼が、真摯にカメラマンとして誇りを持って生きていればいるほど、ソレを捨ててしまうラストを知ったうえで観ると、だまされたような気持ちになる。
前半の彼が、女にとって魅力的な高嶺の花だと描かれれば描かれるほど、男女以前のつまらない自己中男だとわかる後半を知ったうえで観ると、だまされたような気持ちになる。
なんでこんな男なの、ジョルジュ?
せっかく前半で「いかにもかっこいいヒーロー」として「なにもかも持ち合わせた男」として描いておきながら、後半で全部台無しにするの?
いや、台無しにするのは別にいいの。わたしは間違った人間大好物だし。愚かだったり醜かったりする人間は、人間らしくて好き。
問題は、「あさはかでくだらない男」だと後半これでもかとバレるのに、それを「いかにもかっこいいヒーロー」として描き続けることが、気持ち悪すぎるの。
植爺作品と同じ。どー考えたってまちがっているのに、その世界ではそれが「正義」として描かれている。歪んだ地平。
ジョルジュは口ばかりの、つまらない男だった。偉人でも英雄でもなかった。理想なんかまったくなく、ただ自分が「みんなと一緒だよ、ここにいればいいんだよ」と言ってもらえれば満足な、幼児程度のメンタリティしか持っていない男だった。
女の趣味も、「ボクが見るものだけをボクとまったく同じに見、ボクのそばでボクのことだけを考えてくれる、ボクのためだけに生きる美女」を求めていただけの、「ふざけんな、それならひとりで人形遊びでもしてろ」的な笑止な男だった。
前半でヒーローだったジョルジュの、そんな人間としての弱さや愚かさを露出させ、それでもなお人生と向き合っていく姿を追う物語なら、わたしは大喜びで通っていただろう。
でも、チガウんだ。
後半、人間性のアラが出まくり、ヒーローどころか、かなり底辺の人格をしているぞこいつ? と思わせておきながらも、いまだに作品的にはジョルジュを「ヒーロー」「正義」として描いているつもりなんだ。
それが、わたしの逆ツボ直撃。
世界観が歪んでいるもの、都合良く倫理観を歪めているものがダメ。気持ち悪い。
植爺作品はまず100%こーゆー歪みに満ちているんだけど……小池もこう来たか。
たかちゃんが最後だから、そのことだけで泣けはするけれど、作品としてはひどいよ。演出のうまさで1シーン1シーンはすごくいいし、キャストの熱の入り方もすごくて、断片的には感動もできるんだけど。
とにかくあちこちで冷水をぶっかけられて。
ストーリーとして泣けるところは、2幕のキャサリン@花ちゃんの独唱のみだもんなあ。
「ジョルジュがどーしよーもない、ただのつまらない男だとわかったうえで、こんな男をそれでも愛してしまったキャサリンのあきらめというか悟りというかをたのしむ話だと思えば、感動できますよ」
と、kineさんは大人の意見。「『ネバー』の正しい見方に開眼した」そうで。や、kineさんはもっとちゃんとした、大人な表現でこのことを自ブログで書いてらっしゃいますが、わたしが間に入って書くと、こんな書き方になる(すまん)。
が。
チガウから! 作者も役者も、そんなこと思ってやってないから!(笑)
でもほんとに、
「ああ、マジでバカだこの男。しかも、自分をバカだとも思わず、いい男なつもりで、利口なつもりで、あたしをなだめようとか思っている。なんであたしは、よりによってこんなバカに惚れてるんだろう。でも仕方ない、バカをバカだとわかってて、それでも好きなんだもの」
……そう、涙ながらに葛藤して去っていくキャサリンなら理解できる、と、そこまで観ている者を追いつめる作品を書くのは、植爺の専売特許かと思っていたが、そうでもないんだな。とほほ。
たかはなのラストステージでなければ、ここまで追いつめられなかったよ。
ただの数ある失敗作だとか駄作だとかと同じよーに、とりあえず1回観て「あ、今回の作品はハズレだったな。んじゃもう観なくていいや」とふつーにスルーしていたさ。『傭兵ピエール』とか1回しか観てないもん。
最後だから、スルーするわけにいかなくて、繰り返し観るしかないから、追いつめられちゃうんだ。別の見方を開眼するなりしなきゃ、歪んだ地平の世界観に身を置くのはつらすぎる。
物語だと思わずに、極力たかちゃんの姿だけ、男役としての美しさだけを堪能した。
サヨナラショーだけ見に来たよーなもんかもしれない。
エリックに会いに来たんだよな。
あああ、エリック、大好きだ。彼はまちがっていたけれど、それでもダイスキだ。物語も、「彼は間違っている。でも、そうとしか生きられなかった」ことの悲劇を描いている。『ネバー』と世界観が根本からちがっているもの。
最後の作品が、役が、すばらしいものに当たる確率なんて、ほんとうに低い。
作品的にどうこうもそうだけど、ファンの目線での判断もある。……まあ、世間がどう評価しようと、ファンが感涙で通えるものならそれがいちばん正解なんだとは思うが。
たかちゃんファンが、この作品とこのキャラクタをよろこんでいたのなら、それがいちばんだ。
ただ、わたしがどーにもこうにもダメだっただけで。
小池氏には、演出のみをやってほしいなあ……もう脚本は書かなくていいよ……。
てゆーか。たのむ。今すぐ、『ファントム』の演出やってくれ。
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