実はまだ、ぜんぜん語り足りていないのだ、『暁のローマ』

 作劇に文句はある。
 もっと練り込むべきだったと思うし、成功しているとは思っていない。
 主演俳優の薄さに、かなーり物足りないものを感じてもいる。主演がちがったらどーなっただろう、とかも考える。

 それでも、この作品が好きだ。
 主演俳優を好きだったら、あるいは、主役の演技がツボっていれば、気の狂ったよーに通っていると思う(笑)。実際、同じよーにいろいろやばい作品だった『スサノオ』には通ったぞ、えらい回数。
 や、あさこちゃん好きだけど、今回はダメだな、と。真ん中、他のキャラクタにも作品自体にも負けっぱなしだ……。

 
 漫才ではじまりクライマックスのあとに漫才が入り、さらに「なんでもアリ!」てなおちゃらけフィナーレでお茶を濁して終わる。
 ……ことに、不満を感じていた。
 正直漫才はいらないと、今でも思う。
 でもフィナーレはアリかもなと思っている。

 だってさ。

 どさくさにまぎれて、フィナーレで、テーマを歌ってるよね?

 そこまでで描かれていたのは、悲劇。
 人間たちの汚さ。弱さ。愚かさ。
 それらを全部するっと超えて、肯定して、そのうえでたのしく歌い踊り。

 カエサル、ブルータス、アントニウス、オクタヴィアヌス、それからカシウスも他の暗殺者たちも、みんなみんな、ローマを狙っている。
 ローマを自分のものにしたいと思っている。
 男はみんな王になりたい。
 私欲?
 いや。私欲と善意の境目なんか、言い訳でしかない。
 ローマはみんなのもの、と歌うブルータスと、ローマは私のもの、と歌う他の男たちと、ちがいなんかない。
 「どんな悪い結果に終わった行いも、もとは善意からはじめられた」ように。
 次々現れる男たちが、みんなローマを狙っている。みんなそれぞれの思いで、幸福になりたいと思っている。
 誰ひとり、破壊しようとして、マイナスの意味で王になりたいわけじゃない。
 自分自身のためであろうと他人のためであろうと、幸福が欲しくて前へ進んでいるんだ。誰もがみな。
 だから、その原動力が私欲であれ善意であれ、区別など無意味だ。

 ローマは誰のもの?
 ローマをどうしたい?

 誰のものであろうと、目指すものはひとつだろう?

 幸福になりたい。

 じゃあ、どうやって?

 カエサルは自分が治めることで、ローマを幸福にしようとした。

 アントニウスや他の野心家たちは、自分が幸福になることで自分の治めるローマを幸福にしようとした。

 ブルータスは共和制で、ローマを幸福にしようとした。

 目的はひとつ。
 でも。

 方法は、ひとつじゃない。

 誰も彼もが、願っている。
 誰も彼もが、それぞれの想いがある。

 正義はひとつではないし、真実だってひとつではないんだ。
 人間の数だけ、正義も真実もあるんだよ。

 正義をひとつだと、真実をひとつだと思うから、自分が思う以外のものを許せなくなるんだ。
 自分以外の価値観を許せなくなり、攻撃するようになるんだ。
 「正しいのはいつも自分、愚かなのはいつも相手」
 「もう3500年もこうして彷徨っている。見ろ、なにも変わっちゃいない」
 「20年経っても 200年経っても 2000年経っても 何も変わりはしなかった!」

 ローマは誰のもの?

 カエサルとブルータスは歌う。ローマをどうするかで争い、悲劇に終わった男たちが笑いながら歌う。

「たとえ、愛し方はちがっても!」

 ひとつじゃないのよ。

 ちがう正義を信じた男たちが、「ちがう」ことを認め合う瞬間。

 『暁のローマ』が悲劇なままで終わらず、ハッピーエンドになる瞬間。
 ひとりずつチガウ人間たちが、チガウことを認めたうえで笑って一緒に歌う。

「どうして生きて死んでいく、その問いかけに答えたくて」

 「アイシテイル」と。

 ローマを愛している。
 たとえ、愛し方はちがっても。

 チガウから、いいんだよ。
 ちがわなきゃダメだよ。

 チガウから、争うし、傷つくけど。
 「ひとつの心」しか認められないんじゃダメなんだよ。
 人間の数だけ心があるんだもの。
 そのうえで、生きていくんだ。

 難しいけれど。苦しいけれど。

 愛しているから。

 同じものしか愛せないのではなく、チガウことがわかってもなお。
 それでも、人生は続き、歴史は続く。

 間違いながら、迷いながら。

 
 悲劇を描き、肯定で終わる。
 陽気なフィナーレである以上に。

 「人間」を肯定して終わるんだ。

 「すべての人に許しを、すべての恨みに許しを」
 「祈ろう明日を、この地上にこそ希望を」
 「恵まれて恵まれて、花は開く、いつしか実る」

 アイシテイル、から。


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