世紀の恋人たち。@コパカバーナ
2006年6月3日 タカラヅカ 『リンダキューブ』というゲームがある。
古いゲームだな。
8年後に滅びる惑星を舞台としたRPG。物語は3つ、それぞれ同じ舞台とキャラクタのパラレル・ストーリー。
3つのシナリオ、出てくるのはいつも同じ顔ぶれ。主人公はケン、恋人はリンダ。
物語のはじまりも同じだし、終わりも同じ。
惑星が8年後に滅びることがわかり、ケンとリンダが「箱船」の乗務員になるところからはじまり、8年後惑星が滅び、ケンとリンダとつがいの動物たちを乗せた「箱船」が別の惑星に向かって旅立つところで終わる。
同じ人々が、同じ舞台と同じ設定で、別の物語を紡ぐ。はじまりも結末も、キャラクタも同じ、3つの物語。
3つのうち、シナリオAとシナリオBは、物語がめちゃくちゃ過酷でね。
かなしさを含んだ恐怖が広がる。いつだって、いちばんおそろしいのは人間で、いちばんかなしいのも人間だ。
人間の持つ醜さを目の当たりにし、己の無力に膝を折り。
ボロボロになりながら、それでも握りしめた恋人の手だけを真実とし、未来へ旅立つ。
そーゆー物語をふたつ越えて。
最後の、シナリオCに辿り着く。
舞台も、登場人物も同じ。主人公はケン、恋人はリンダ。
だけど。
シナリオAで、シナリオBで、かなしく破滅していった人たちが、ここではにこやかに笑って生きている。
パラレル・ストーリーだから。
舞台も設定も登場人物も、物語のはじまりも終わりも同じ。
だけど、物語だけがチガウ。
あのとき救えなかった人たちが、救いたかった人たちが、この物語では、幸福に生きている!
とりたててドラマティックでも感動的でもない、平凡であったりまえの、滑稽ですらあるほのぼのとした日常。
その、どーでもいいような「ふつうさ」に、泣けてくる。
ふつうにしあわせにしている。世界を揺るがすような事件に関わったり、永遠の若さを手に入れたりしていないけれど、かわりに、ふつーにつつましく、しあわせにしている。
そのことに、救われた。
映画だとかアニメのような起承転結のある物語中心だったシナリオA・Bとちがい、Cには物語らしい物語もない。ケンとリンダはなんの障害もなく結ばれ、ラヴラヴ新婚カップルとして仕事に励む。ドラマティックな「物語」をたのしむのではなく、ただ純粋に「ゲーム」をたのしむ。それが、最後のシナリオだった。
完璧な仕掛け。
3つのパラレル・ストーリーが紡ぎ出す「物語」。
ソレを、思い出した。
前置きが長くてすまんね、星組梅田芸術劇場公演『コパカバーナ』初日に行ってきました。チケット譲ってくれてありがとうドリーさん、感動の1階5列目観劇。
予備知識なんか、まったくナシ。知っているのは「コパカバーナ」という有名曲と、いかにもラテンなポスター写真だけ。舞台がどこなのかも知りやしねえ。宙組版のポスターがスーツものだったので「『ノバ・ボサ・ノバ』みたいな舞台ではないらしい」と想像するくらいのもんだ。
舞台は現代ですか?
ソングライターのスティーヴン@ワタルが作曲中。やたらと色っぽい妻の声にも生返事、夢中でお仕事。
……仕事なんだか趣味なんだか、だんだん彼の妄想はヒートアップ、「理想の女の子ローラ」と「ハンサムで才能あふれるソングライターの卵トニー」の物語作りに夢中になる。
トニーはもちろん、自分自身。……イタタタタ。
時は終戦直後、場所はニューヨーク。
ナイトクラブ「コパカバーナ」でトニー@ワタルとスターを夢見るローラ@となみは出会う。才能はあるのにチャンスに恵まれなかったふたりが運命の出会いをすることによって大成功、夢への階段がほらそこで手招きしている!状態に。
ところがそこに、ギャングのリコ@トウコがやってきた。ローラを見初めた彼は酒と薬で彼女を拉致、景気よくハバナの自分の屋敷のベッドに直行。
…………ベッドですよ。早いですね。露骨ですね。
トニーはリコからローラを取り返すために、命懸けで彼のナイトクラブ「トロピカーナ」へ乗り込む。そこではリコの長年の愛人で往年のスター(本人は現役バリバリ希望)コンチータ@あすかが、リコの執着がローラに移ったために立場を危うくしていた。
コンチータの協力で、トニーは「トロピカーナ」のショーに紛れてローラ救出大作戦を決行するが……。
トニー、ローラ、リコ、コンチータ。
みんな「あて書き?!」ってくらい、ハマっている。
なんと活き活きと個性的なキャラクタを演じていることか。
物語は、ソングライターのスティーヴンの物語と、彼の創る『コパカバーナ』という物語がつかず離れず、リンクして進む。
この作品でいちばん文句があるのはなんといっても翻訳のひどさだ。
昭和初期に翻訳されたものをそのまま使ってる? 日本語としてすでに変。文法ちがうだろそりゃ。
テイストも変だし、センスもひどい。
現代語訳してくれ。
言葉は生き物であり、時代と共に変化するモノだ。
ただでさえアメリカ人と日本人は笑いのセンスがまったくチガウ。「アメリカ人なら爆笑しているんだろうな」と想像しながらつまらない言葉のやりとりをえんえんえんえん聞かされるのはつらい。
映画『プロデューサーズ』の客席みたいだ……。わたしが行ったとき、アメリカンジョークの応酬で進むこの映画、観客ドン引きで静まりかえっていたよ……その空気の冷たさの相乗効果としてまた映画の寒さに引き……の循環コースまっしぐら。
「笑い」というのは、文化・風土・時代によってまったくチガウもんなんだよなあ。「泣き」が共通しているのとは対照的に。だからこそ、とても難しい。だからこそ、もっともセンスが問われる。センスのない演出家にやらせちゃイカンよ……。
現代の作品としてきちんと演出されていたなら、もっとたのしい作品だったろう。
「翻訳物」という縛りがあって、オリジナルを言葉ひとつ変えてはいけない、というなら、タカラヅカで上演する意味ないよ?
タカラヅカは海外ミュージカルをただ右から左へ輸入するカンパニーじゃない。「タカラヅカらしいモノ」を見せるところだ。輸入物が観たいだけなら、他のカンパニーへ行くって。
『コパカバーナ』を「タカラヅカ」として、現代の感覚と言葉で演出できたら、どんなに素晴らしい作品になっていたかと思うと、それがくやしい。
だってコレ、時空を越えたラヴロマンスだよね?(笑)
うまく作れば、『ドルチェ・ヴィータ!』的構成のラヴストーリーになったんだ。
男と少女が時空を越えて何度も巡り会い、そして別れる物語『ドルチェ・ヴィータ!』。
男と少女が、彼らを取り巻く男たち女たちが、時空を越えて何度も巡り会い、そして結ばれる物語『コパカバーナ』。
細かいことは置いておいて、「タカラヅカ」的にとことん盛り上げれば、ものすげーラヴロマンス。もちろん、笑いも観劇後の幸福感も忘れずに。
「理想の美女ローラ」を創り上げて歌うスティーヴンと、その想像の中の美女でしかないはずのローラが、せつなく恋のデュエットをする。
ローラは愛するトニーと引き離され、ひとりで愛する男を想って歌う。
引き離されているのは、場所なのか、距離だけの問題なのか。
彼女に応えて歌うのは、現代にいるスティーヴンなのか、あるいは同じ世界にいるトニーなのか。
スティーヴンが語る「彼の想像した物語」でしかなかったはずの『コパカバーナ』が彼の生きる「現代」、わたしたちが生きる「現実」とリンクする。
トニーはローラを愛し、トニーであるスティーヴンはサマンサを愛し、リコもコンチータもサムもグラディスも愛を繰り返して生きている。
愛が廻り、愛がつながっていく。
永遠に回り続けるメビウスの輪。
別の時代、別の世界、別の名前で出会っていても、たとえ不幸に終わっていても。
何度でも出会い、愛し続ける。
普遍的で、ヘヴィで、せつないテーマを、陽気な笑いと派手な画面でしっちゃかめっちゃかにかき回しながら進めて盛り上げて、ハッピーに終わる。
タカラヅカだよね? コレって、コレこそが、タカラヅカだよね?
『リンダキューブ』を思い出した。
せつなくてやるせない、だけど幸福な愛の物語を思い出した。
ひとはだれでも、「箱船」に乗る人類最後の恋人同士。
世界が終わるとき、あなたの手を握る。あなたこそが、わたしの希望。
どんな平凡な、ふつーの人であっても。ギャングだとかスターだとか、華々しい人生じゃなくっても。みんな、みんな、きっと。
わたしが愛したあなたが、あなたが愛したわたしが、きっと「世紀の恋人」。
いつかどこかの時代では、最高にスペクタルな恋を演じていたかもよ?
いつかどこかの世界では、最高に悲劇的な最期を遂げていたかもよ?
だからこの平和でつまらない現代で、平凡にしあわせになろうね。
古いゲームだな。
8年後に滅びる惑星を舞台としたRPG。物語は3つ、それぞれ同じ舞台とキャラクタのパラレル・ストーリー。
3つのシナリオ、出てくるのはいつも同じ顔ぶれ。主人公はケン、恋人はリンダ。
物語のはじまりも同じだし、終わりも同じ。
惑星が8年後に滅びることがわかり、ケンとリンダが「箱船」の乗務員になるところからはじまり、8年後惑星が滅び、ケンとリンダとつがいの動物たちを乗せた「箱船」が別の惑星に向かって旅立つところで終わる。
同じ人々が、同じ舞台と同じ設定で、別の物語を紡ぐ。はじまりも結末も、キャラクタも同じ、3つの物語。
3つのうち、シナリオAとシナリオBは、物語がめちゃくちゃ過酷でね。
かなしさを含んだ恐怖が広がる。いつだって、いちばんおそろしいのは人間で、いちばんかなしいのも人間だ。
人間の持つ醜さを目の当たりにし、己の無力に膝を折り。
ボロボロになりながら、それでも握りしめた恋人の手だけを真実とし、未来へ旅立つ。
そーゆー物語をふたつ越えて。
最後の、シナリオCに辿り着く。
舞台も、登場人物も同じ。主人公はケン、恋人はリンダ。
だけど。
シナリオAで、シナリオBで、かなしく破滅していった人たちが、ここではにこやかに笑って生きている。
パラレル・ストーリーだから。
舞台も設定も登場人物も、物語のはじまりも終わりも同じ。
だけど、物語だけがチガウ。
あのとき救えなかった人たちが、救いたかった人たちが、この物語では、幸福に生きている!
とりたててドラマティックでも感動的でもない、平凡であったりまえの、滑稽ですらあるほのぼのとした日常。
その、どーでもいいような「ふつうさ」に、泣けてくる。
ふつうにしあわせにしている。世界を揺るがすような事件に関わったり、永遠の若さを手に入れたりしていないけれど、かわりに、ふつーにつつましく、しあわせにしている。
そのことに、救われた。
映画だとかアニメのような起承転結のある物語中心だったシナリオA・Bとちがい、Cには物語らしい物語もない。ケンとリンダはなんの障害もなく結ばれ、ラヴラヴ新婚カップルとして仕事に励む。ドラマティックな「物語」をたのしむのではなく、ただ純粋に「ゲーム」をたのしむ。それが、最後のシナリオだった。
完璧な仕掛け。
3つのパラレル・ストーリーが紡ぎ出す「物語」。
ソレを、思い出した。
前置きが長くてすまんね、星組梅田芸術劇場公演『コパカバーナ』初日に行ってきました。チケット譲ってくれてありがとうドリーさん、感動の1階5列目観劇。
予備知識なんか、まったくナシ。知っているのは「コパカバーナ」という有名曲と、いかにもラテンなポスター写真だけ。舞台がどこなのかも知りやしねえ。宙組版のポスターがスーツものだったので「『ノバ・ボサ・ノバ』みたいな舞台ではないらしい」と想像するくらいのもんだ。
舞台は現代ですか?
ソングライターのスティーヴン@ワタルが作曲中。やたらと色っぽい妻の声にも生返事、夢中でお仕事。
……仕事なんだか趣味なんだか、だんだん彼の妄想はヒートアップ、「理想の女の子ローラ」と「ハンサムで才能あふれるソングライターの卵トニー」の物語作りに夢中になる。
トニーはもちろん、自分自身。……イタタタタ。
時は終戦直後、場所はニューヨーク。
ナイトクラブ「コパカバーナ」でトニー@ワタルとスターを夢見るローラ@となみは出会う。才能はあるのにチャンスに恵まれなかったふたりが運命の出会いをすることによって大成功、夢への階段がほらそこで手招きしている!状態に。
ところがそこに、ギャングのリコ@トウコがやってきた。ローラを見初めた彼は酒と薬で彼女を拉致、景気よくハバナの自分の屋敷のベッドに直行。
…………ベッドですよ。早いですね。露骨ですね。
トニーはリコからローラを取り返すために、命懸けで彼のナイトクラブ「トロピカーナ」へ乗り込む。そこではリコの長年の愛人で往年のスター(本人は現役バリバリ希望)コンチータ@あすかが、リコの執着がローラに移ったために立場を危うくしていた。
コンチータの協力で、トニーは「トロピカーナ」のショーに紛れてローラ救出大作戦を決行するが……。
トニー、ローラ、リコ、コンチータ。
みんな「あて書き?!」ってくらい、ハマっている。
なんと活き活きと個性的なキャラクタを演じていることか。
物語は、ソングライターのスティーヴンの物語と、彼の創る『コパカバーナ』という物語がつかず離れず、リンクして進む。
この作品でいちばん文句があるのはなんといっても翻訳のひどさだ。
昭和初期に翻訳されたものをそのまま使ってる? 日本語としてすでに変。文法ちがうだろそりゃ。
テイストも変だし、センスもひどい。
現代語訳してくれ。
言葉は生き物であり、時代と共に変化するモノだ。
ただでさえアメリカ人と日本人は笑いのセンスがまったくチガウ。「アメリカ人なら爆笑しているんだろうな」と想像しながらつまらない言葉のやりとりをえんえんえんえん聞かされるのはつらい。
映画『プロデューサーズ』の客席みたいだ……。わたしが行ったとき、アメリカンジョークの応酬で進むこの映画、観客ドン引きで静まりかえっていたよ……その空気の冷たさの相乗効果としてまた映画の寒さに引き……の循環コースまっしぐら。
「笑い」というのは、文化・風土・時代によってまったくチガウもんなんだよなあ。「泣き」が共通しているのとは対照的に。だからこそ、とても難しい。だからこそ、もっともセンスが問われる。センスのない演出家にやらせちゃイカンよ……。
現代の作品としてきちんと演出されていたなら、もっとたのしい作品だったろう。
「翻訳物」という縛りがあって、オリジナルを言葉ひとつ変えてはいけない、というなら、タカラヅカで上演する意味ないよ?
タカラヅカは海外ミュージカルをただ右から左へ輸入するカンパニーじゃない。「タカラヅカらしいモノ」を見せるところだ。輸入物が観たいだけなら、他のカンパニーへ行くって。
『コパカバーナ』を「タカラヅカ」として、現代の感覚と言葉で演出できたら、どんなに素晴らしい作品になっていたかと思うと、それがくやしい。
だってコレ、時空を越えたラヴロマンスだよね?(笑)
うまく作れば、『ドルチェ・ヴィータ!』的構成のラヴストーリーになったんだ。
男と少女が時空を越えて何度も巡り会い、そして別れる物語『ドルチェ・ヴィータ!』。
男と少女が、彼らを取り巻く男たち女たちが、時空を越えて何度も巡り会い、そして結ばれる物語『コパカバーナ』。
細かいことは置いておいて、「タカラヅカ」的にとことん盛り上げれば、ものすげーラヴロマンス。もちろん、笑いも観劇後の幸福感も忘れずに。
「理想の美女ローラ」を創り上げて歌うスティーヴンと、その想像の中の美女でしかないはずのローラが、せつなく恋のデュエットをする。
ローラは愛するトニーと引き離され、ひとりで愛する男を想って歌う。
引き離されているのは、場所なのか、距離だけの問題なのか。
彼女に応えて歌うのは、現代にいるスティーヴンなのか、あるいは同じ世界にいるトニーなのか。
スティーヴンが語る「彼の想像した物語」でしかなかったはずの『コパカバーナ』が彼の生きる「現代」、わたしたちが生きる「現実」とリンクする。
トニーはローラを愛し、トニーであるスティーヴンはサマンサを愛し、リコもコンチータもサムもグラディスも愛を繰り返して生きている。
愛が廻り、愛がつながっていく。
永遠に回り続けるメビウスの輪。
別の時代、別の世界、別の名前で出会っていても、たとえ不幸に終わっていても。
何度でも出会い、愛し続ける。
普遍的で、ヘヴィで、せつないテーマを、陽気な笑いと派手な画面でしっちゃかめっちゃかにかき回しながら進めて盛り上げて、ハッピーに終わる。
タカラヅカだよね? コレって、コレこそが、タカラヅカだよね?
『リンダキューブ』を思い出した。
せつなくてやるせない、だけど幸福な愛の物語を思い出した。
ひとはだれでも、「箱船」に乗る人類最後の恋人同士。
世界が終わるとき、あなたの手を握る。あなたこそが、わたしの希望。
どんな平凡な、ふつーの人であっても。ギャングだとかスターだとか、華々しい人生じゃなくっても。みんな、みんな、きっと。
わたしが愛したあなたが、あなたが愛したわたしが、きっと「世紀の恋人」。
いつかどこかの時代では、最高にスペクタルな恋を演じていたかもよ?
いつかどこかの世界では、最高に悲劇的な最期を遂げていたかもよ?
だからこの平和でつまらない現代で、平凡にしあわせになろうね。
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