キムシン作品には一貫したテーマがある。
 『鳳凰伝』『王家に捧ぐ歌』『スサノオ』『炎にくちづけを』、そして今回の『暁のローマ』と、ずーーっと同じテーマを叫び続けている。
 政治的なものや宗教的なものを扱っているよーに見えても、それはテーマとは別。テーマを表現するための手段としているだけに過ぎない。

 わたしは、彼の叫ぶテーマが好きだ。

 べつになにも、特別だったり独創的だったりもしない、普遍的なふつーのテーマだ。
 そのふつーのことを、ことさらドラマティックに味付けして叫ぶ、その姿勢を正しいと思う。

 たとえば、「人には、親切にしましょう」というテーマがあったとする。
 ものすっげー当たり前で、幼稚園児でも知っているようなことだ。
 それをただ「人には、親切にしましょう」と言うだけでは、なんのカタルシスもない。

 だがそれを、親切だと思ってやったことが相手にとっては迷惑でしかなく、そのことが引き金となって相手が死に、自分も罪を問われ、なにもかも失って地獄を這いずり回り、自分と運命を呪い汚濁と絶望にまみれた結果、他人から親切にされ、心の救いを得る。テーマ「人には、親切にしましょう」……てなふーに持っていくのが、キムシンだ(笑)。
 や、これはただの喩えだけど。

 テーマを強く訴えかけるためにことさら、出来事を大きくし、人の生き死にだとか国の興亡だとかにまで発展させ、最終的に人類の普遍的精神にまで話を広げてしまうのがキムシンだ。叫んでいるテーマはごくごくふつーのことなので、そこまで話を大きくしてもべつにかまわないんだ。まちがってるわけじゃないから。

 先日観た『NEVER SAY GOODBYE』とかと対照的。イケコは壮大な話を小さくしてしまう人、キムシンは小さな話を壮大にする人。どっちがいいとか悪いとかではなくてね。
 イケコは女性的でキムシンは男性的。仲間内で景子せんせの『THE LAST PARTY』のスコットとアーネストになぞらえて、イケコとキムシンを語り、そのハマり具合にウケましたさ。

 キムシン的に、なんの変わりもなく主義主張を叫び続けている『暁のローマ』。
 「叫ぶ作家」は健在。
 だけど今回の作品は、あまり出来が良いとは言えない。

 大劇場向けの作品を作れる、のもキムシンの才能のひとつだと思っているんだけど、今回の作品は大劇場向きではなかったと思う。中劇場向きだな。テーマもそれを表現するための演出も。そして、初日を観た段階では、主役を演じる役者も大劇場向きぢゃなかった。

 ストーリーはシンプル。
 英雄カエサル@トドロキは人気絶頂、権力GOGO。王冠を得てもなんの不思議もない状態。だがローマは共和国だ。王様なんてとんでもない。カエサルが王位を望むのなら、排除するべきだ。カエサルを慕っていたブルータス@あさこは苦悩の末カエサル暗殺を決行する。
 民意を得ての暗殺だったのに、カエサルの腹心アントニウス@きりやんの演説で立場逆転、ブルータスは追われる立場になり、自殺して果てる。

 キムシン演出のよさは美しい画面とハッタリのうまさ。クライマックスを作る技法に優れている。……が、今回はいまいちだ〜。
 カタルシスの構築が弱い。とても散漫になっている。
 多少ストーリーに粗があろうと、クライマックスの派手さで全部誤魔化してしまうのがキムシンのいいところだったのに。
 今回はそのクライマックスを失敗しているので、粗ばかりが目に付き、記憶に残ってしまうんだよなー。
 クライマックスで盛り上げまくって「なんかすごいもの観たかも」と観客を煙に巻くのが常なのに、今回はソレを物語としてではなく芝居としてではなく、「漫才」と「フィナーレ」に任せてしまっている。これは反則だろ。
 お笑い部分は不要だった。漫才に逃げず、真っ向から「重い・暗い」話を作るべきだった。前作が『炎にくちづけを』だったせいだろうとは思うけど、それでも逃げずに描くべきだったとわたしは思う。

 起承転結が甘くて薄い。盛り上がりに欠ける。いつもなら有無を言わせぬ熱とスピードでハイジャンプかましてフィニッシュするのに、それがないからキャラクタ描写の中途半端さが前面に出ている。
 『スサノオ』のときもそうだったけど、テーマを語ることに必死になり、「何故そのテーマに行き着いたか」を書き込んでいない。

 中劇場で、濃い慟哭系の役者を主役にして、ねっとりと上演してほしかったなあ……。大劇場は広すぎるし、あさこちゃんは薄くて軽すぎる……。
 芝居はナマモノで、舞台は役者のモノだから、あさこちゃんが変わってくれるのを期待しているけれど。後半になればよくなるかな? あさこちゃんの軽さはお洒落さであるから、ショーだとかラブコメではいい味出すんだけど、重い芝居ではちとつらい。重さは野暮ったさでもあるので、相容れないのなー。

 ま、歌詞が最悪なのはキムシンクオリティなので、もーあきらめの境地(笑)。

 出来は良くないと思う。
 でも、わたしは好きよ。
 結局のところ、キムシンの叫び続けているテーマが好きなんだと思う。

 人々の醜さ、無責任利己心浅慮偽善、そーゆーものをこれでもかと描きながらも、その奥にある美しさを求める。
 過ちや悪意といったマイナス部分が世界に満ちていることを肯定しながらも、それと同時に、愛や善意も存在するのだということを否定しない。
 容赦のない「人の醜さ」に対する描写、「卑怯さ」に対する描写、そしてあまりに無力で無意味な「愛」や「善意」。それでも、物語と主人公は「愛」や「善意」といった人の持つ美しいモノを肯定して終わるんだ。……あー、『炎にくちづけを』もそうだったね。

 キムシンの描く物語はいつも、泥の中に咲く蓮の花のよーだ。物語……テーマ部分がね。
 泥部分がきついから拒絶反応も出るし、花は美しい花園だとか花瓶で咲いてなきゃ花として認識しない人にも、拒絶反応出るんだろうな。ソレはソレでわかるけど。
 泥の中で咲くからこそ蓮は美しいし、夜空だからこそ月は輝く。人の醜さの中にあるからこそ、美徳が生きる救いとなる。わたしの人生観に合っているんだろーな、キムシンのテーマは。
 植爺の描く「偽善者万歳」「言動不一致、挙動不審」「人格破壊」な話とかは、生理的に受け付けないもんよ……。

 とはいえ、『暁のローマ』の出来が悪いことは事実だがな(笑)。
 テーマ部分は「いつものキムシン」なだけに、惜しい。『スサノオ』以下ってどういうことよ、もっとちゃんと作ってよ、と思う。
 好きな話であるだけに、口惜しいわ。ローマ市民の卑怯さも、テロリストチームの悪辣さも、主要キャラクタ全員が持つ利己心も、そしてそれに翻弄されるブルータスも大好きよ。
 穴だらけなのはかまわない、多少穴やほころびがある方が想像の余地があって盛り上がるから(例・少年ジャンプ)、問題はエンタメとしての爽快感とカタルシスの欠落。よーするにクライマックス作りに失敗してんのよー。

 じれったく思いながらも、好きな話で好きな人が好きなキャラクタで出ているから、通うけどさ。

 
 とゆーテキストを、初日を観たあとに書いていたんだが、先に腐女子話をUPしてしまいましたよ……罪作りなかねすきさん(はぁと)。
 そして、「かねすき 暁のローマ ブログ」等で検索している方々、前にも書いたけどかねすきさんつーのは仮名なんで、その名前で検索しても彼女のブログにはたどりつけません。どこかで腐った話題をしているヅカ腐女子ブログがあれば、それがかねすき嬢かもしれません。はい。


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