そして彼は、夢から覚めた。@スカウト
2006年4月5日 タカラヅカ 無意味にお笑いになっている、主人公の人格が破綻している、など書き連ねてきたが。
『スカウト』のオチを知っている人なら、こう言いたいかもしれない。
「そもそも、全部『テスト』だったわけでしょ? 論理的にどうこうとか性格が破綻とか、論点ズレてるんじゃないの?」
この「すべてが所詮、『テスト』に過ぎなかった」というオチが、またひどい。
このオチのひどさは、大きく分けてふたつある。
ひとつめ。
すべてが、「なかったこと」として、消えてしまった。
ショーン@らんとむが最初の事故で目覚めたところから、最後の冥界のあとに目覚めたところまで、物語のほとんど全部がまるっと「なかったこと」になっている。
サム@みわっちとの出会いも友情(……)も、フランク@まりんたちとの友情も、全部「なかったこと」。
そして、この物語の中核であったはずのサーシャ@きほとの恋愛すら、「仕組まれたもの」になってしまった。
これはひどい。
そして、ふたつめ。
そもそもテストって、なんのテスト?
対悪魔戦士ってことなんだろーけど、そのテストの合格ガイドラインってなに?
ショーンは、利己のために他人を傷つけて当然、という価値観の人間だったんですけど?
「世界を守る理由は、愛する女性を守るため」で、その恋人が危なくなったら、「世界なんかどーでもいい、恋人さえ助かればそれでいい」という、そんな人間の、どのへんがよくて、合格したの?
恋人を人質に取られたら、どんな非道なことでも平気でするぞ? それを責められたら、「他人のことなんか考えてる余裕ない!」と正当化するぞ?
こんな男、戦士にしちゃダメだってば。
破綻してます、完璧に。
とまあ、ひどいだけのオチなんだよ、「テスト」ってのは。
これじゃこのオチってさ、ただの言い訳にすぎないじゃん? 言い訳にもなってないけど。
これだけでもひどかったんだが、さらにまだ、最悪な事実があったんだよねえ。
そのことを、段階を踏みながら書こうと思う。
ここで、確認すべきことがある。
ショーンが最初に交通事故に遭い、3ヶ月の意識不明のあと目覚めた時点、これをA地点としよう。
サーシャを助けるためにサムに殺してもらい、冥界でどんちゃん騒ぎを経て、「誓いを立てますか?」という謎の声に「誓う!」と叫び、目覚めた時点、これをB地点とする。
わたしはこのふたつの時間軸、A地点とB地点は別のものと認識していた。
A地点でショーンはたしかに目覚め、その後もふつーに生きていた。サムやフランクとの話も、全部本物。実際にあったこと。
悪魔たちは「四次元の生物」であり、好きに時間を行き来できる。
その悪魔たちとどう対峙するか、どう戦うかを視るのが「テスト」である以上、戦いの結果、時間が戻ってしまうことも可能性としてある。
A地点からA’地点まで来たところで、ショーンが死んだ。それを救うために、対悪魔組織が時間に関与し、A地点まで時間を戻した。
この場合、時間は一旦A’地点まで進んでいたのだから、時間を戻ったとしてもそこはもうA地点ではない。B地点である。
だから医師と看護士の会話も少々チガウし、ジェシカの車もチガウ。ショーンの服もチガウ。
なによりも、アズ@まっつがいる。
アズはA地点からA’地点までの「記憶」を持っている。だから、ショーンとの会話が成立する。
アズと「この間の会話の続き」をする以上、B地点とA地点は、時間的には同じであっても、別の世界だ。
「テスト」だから、AからA’までの「出来事」は「なかったこと」になってしまった。
でも、たしかにソレは在った。時間が戻り、リセットされてしまっただけのこと。
この「なかったこと」「リセット」ってだけでも、わたしは冒頭にあげたふたつの理由から「ひどい」と言っていたんだけどね。
事実は、もっとさらにひどかったのよ。
『スカウト』ってさ、全部、ショーンの見ていた夢の話なんですよ。
というオチがあることを聞いた。出典は某お茶会。わたしは誰のお茶会も参加しとりませんので、又聞きですが。
A地点からB地点までが「夢」で、出来事すべてが「テスト」であったと。
それを聞くなり、その場にいたわたしと、ドリーさんとkineさんは、「聞かなかったことにしよう」と言い切りましたよ(笑)。
正塚晴彦という作家のために、『スカウト』という作品のために、そんな最低最悪な設定は、「聞かなかったことにしよう」と。
物語を作る上で、やっちゃいけないこと、つーのがある。手法としての存在は認められているけれど、コレをやると客に非難されても仕方がない、まさに禁じ手というヤツ。
それが、楽屋オチと、夢オチだ。
わたしが最初に語っていた「リセット」と、「夢オチ」のちがい、わかる?
『エリザベート』で解説すると。
黄泉の帝王トートに愛された少女シシィ。彼女の人生には、トートの影がつきまとう。
孤独と放浪の末、ついに彼女の人生に終焉がやってきた。暗殺者の手にかかる瞬間、エリザベートは……。
1・
エリザベートは神に懇願した。
「神様、わたしは人生を間違えました。やり直しをさせてください。やり直すことが出来るなら、姉のお見合いについて行ったりしません。皇帝の求婚を受けたりしません。息子を突き放して自殺に追い込んだりしません。わたしはわたしに見合った人生を生き直します」
祈るエリザベートの前に神様が現れた。「その願い、聞き届けよう」
朝自分のベッドでエリザベート……15歳の無邪気なシシィは目覚める。
「夢? ……ううん、ちがう。時が戻ったんだ、神様感謝します!!」
苦しみ、あがきつづけた半生の記憶は、たしかに胸の中にある。出会った人のこと、愛した人のこと、傷つけ、傷つけられた記憶も。闇の帝王トートの存在も。
それでもなお、さらに前に進む余地を、彼女は与えられたのだ。
2・
エリザベートは神に懇願した。
「これは夢よ、悪い夢だわ。早く覚めて!!」
朝自分のベッドでエリザベート……15歳の無邪気なシシィは目覚める。
「夢? やーだ、変な夢見ちゃった」
そう、なにもかもが夢だった。黄泉の帝王トートなど存在しないし、皇帝ともまだ出会っていない。年老いた皇帝が冷たい妻を追いかけて「君を愛してる、君が必要だ」と言いに来るなんて、ただの夢の中の出来事だ。脳内妄想ならなんでもあり。
夢見るお年頃だから、仕方ない。
1が「リセット」、2が「夢オチ」。
1では、『エリザベート』のストーリー全部が「ほんとうにあったこと」しかし、「時間が戻ったために、消えてしまった」。
『エリザベート』という舞台を観て、観客が感動していた場面場面、出来事や台詞、キャラクタ、すべて「ほんとうに、あったこと」。
ただソレが「消えてしまった」だけ。
2では、『エリザベート』のストーリー全部が「はじめから、なにもなかったこと」。
『エリザベート』という舞台を観て、観客が感動していた場面場面、出来事や台詞、キャラクタ、すべて「はじめから、なにもなかった」。
ただの、ヒロインの妄想に過ぎなかっただけ。
「消えてしまった」だけでも充分ひどいけど、「最初から、なにもなかった」はさらにひどいよね。
「夢オチ」とゆーのは、そーゆー最悪の手法だ。
どんな名作でも、「ぜんぶ夢でした。アハッ」とやれば駄作となるし、どんなめちゃくちゃな駄作でも、「だって夢だから、なんでもアリだもーん」と肯定されてしまう。
タカラヅカのあらゆる作品の最後に、「ぜーんぶ夢でした。チャンチャン」と付けてみて。その反則具合がわかるから。
つーことで、最初の「そもそも、全部『テスト』だったわけでしょ? 論理的にどうこうとか性格が破綻とか、論点ズレてるんじゃないの?」に、戻る。
「夢オチ」としてしまったら、すべての粗を「だって夢だから、なんでもアリだもーん」で誤魔化せてしまうのよ。
「テスト」どころの話じゃない。
「テスト」としても破綻しているし、それらすべてを「夢オチ」で終わらせてしまう、いくらなんでもあんまりだ。
ここまで誠意のない作品は、愛せないよ。
『スカウト』のオチを知っている人なら、こう言いたいかもしれない。
「そもそも、全部『テスト』だったわけでしょ? 論理的にどうこうとか性格が破綻とか、論点ズレてるんじゃないの?」
この「すべてが所詮、『テスト』に過ぎなかった」というオチが、またひどい。
このオチのひどさは、大きく分けてふたつある。
ひとつめ。
すべてが、「なかったこと」として、消えてしまった。
ショーン@らんとむが最初の事故で目覚めたところから、最後の冥界のあとに目覚めたところまで、物語のほとんど全部がまるっと「なかったこと」になっている。
サム@みわっちとの出会いも友情(……)も、フランク@まりんたちとの友情も、全部「なかったこと」。
そして、この物語の中核であったはずのサーシャ@きほとの恋愛すら、「仕組まれたもの」になってしまった。
これはひどい。
そして、ふたつめ。
そもそもテストって、なんのテスト?
対悪魔戦士ってことなんだろーけど、そのテストの合格ガイドラインってなに?
ショーンは、利己のために他人を傷つけて当然、という価値観の人間だったんですけど?
「世界を守る理由は、愛する女性を守るため」で、その恋人が危なくなったら、「世界なんかどーでもいい、恋人さえ助かればそれでいい」という、そんな人間の、どのへんがよくて、合格したの?
恋人を人質に取られたら、どんな非道なことでも平気でするぞ? それを責められたら、「他人のことなんか考えてる余裕ない!」と正当化するぞ?
こんな男、戦士にしちゃダメだってば。
破綻してます、完璧に。
とまあ、ひどいだけのオチなんだよ、「テスト」ってのは。
これじゃこのオチってさ、ただの言い訳にすぎないじゃん? 言い訳にもなってないけど。
これだけでもひどかったんだが、さらにまだ、最悪な事実があったんだよねえ。
そのことを、段階を踏みながら書こうと思う。
ここで、確認すべきことがある。
ショーンが最初に交通事故に遭い、3ヶ月の意識不明のあと目覚めた時点、これをA地点としよう。
サーシャを助けるためにサムに殺してもらい、冥界でどんちゃん騒ぎを経て、「誓いを立てますか?」という謎の声に「誓う!」と叫び、目覚めた時点、これをB地点とする。
わたしはこのふたつの時間軸、A地点とB地点は別のものと認識していた。
A地点でショーンはたしかに目覚め、その後もふつーに生きていた。サムやフランクとの話も、全部本物。実際にあったこと。
悪魔たちは「四次元の生物」であり、好きに時間を行き来できる。
その悪魔たちとどう対峙するか、どう戦うかを視るのが「テスト」である以上、戦いの結果、時間が戻ってしまうことも可能性としてある。
A地点からA’地点まで来たところで、ショーンが死んだ。それを救うために、対悪魔組織が時間に関与し、A地点まで時間を戻した。
この場合、時間は一旦A’地点まで進んでいたのだから、時間を戻ったとしてもそこはもうA地点ではない。B地点である。
だから医師と看護士の会話も少々チガウし、ジェシカの車もチガウ。ショーンの服もチガウ。
なによりも、アズ@まっつがいる。
アズはA地点からA’地点までの「記憶」を持っている。だから、ショーンとの会話が成立する。
アズと「この間の会話の続き」をする以上、B地点とA地点は、時間的には同じであっても、別の世界だ。
「テスト」だから、AからA’までの「出来事」は「なかったこと」になってしまった。
でも、たしかにソレは在った。時間が戻り、リセットされてしまっただけのこと。
この「なかったこと」「リセット」ってだけでも、わたしは冒頭にあげたふたつの理由から「ひどい」と言っていたんだけどね。
事実は、もっとさらにひどかったのよ。
『スカウト』ってさ、全部、ショーンの見ていた夢の話なんですよ。
というオチがあることを聞いた。出典は某お茶会。わたしは誰のお茶会も参加しとりませんので、又聞きですが。
A地点からB地点までが「夢」で、出来事すべてが「テスト」であったと。
それを聞くなり、その場にいたわたしと、ドリーさんとkineさんは、「聞かなかったことにしよう」と言い切りましたよ(笑)。
正塚晴彦という作家のために、『スカウト』という作品のために、そんな最低最悪な設定は、「聞かなかったことにしよう」と。
物語を作る上で、やっちゃいけないこと、つーのがある。手法としての存在は認められているけれど、コレをやると客に非難されても仕方がない、まさに禁じ手というヤツ。
それが、楽屋オチと、夢オチだ。
わたしが最初に語っていた「リセット」と、「夢オチ」のちがい、わかる?
『エリザベート』で解説すると。
黄泉の帝王トートに愛された少女シシィ。彼女の人生には、トートの影がつきまとう。
孤独と放浪の末、ついに彼女の人生に終焉がやってきた。暗殺者の手にかかる瞬間、エリザベートは……。
1・
エリザベートは神に懇願した。
「神様、わたしは人生を間違えました。やり直しをさせてください。やり直すことが出来るなら、姉のお見合いについて行ったりしません。皇帝の求婚を受けたりしません。息子を突き放して自殺に追い込んだりしません。わたしはわたしに見合った人生を生き直します」
祈るエリザベートの前に神様が現れた。「その願い、聞き届けよう」
朝自分のベッドでエリザベート……15歳の無邪気なシシィは目覚める。
「夢? ……ううん、ちがう。時が戻ったんだ、神様感謝します!!」
苦しみ、あがきつづけた半生の記憶は、たしかに胸の中にある。出会った人のこと、愛した人のこと、傷つけ、傷つけられた記憶も。闇の帝王トートの存在も。
それでもなお、さらに前に進む余地を、彼女は与えられたのだ。
2・
エリザベートは神に懇願した。
「これは夢よ、悪い夢だわ。早く覚めて!!」
朝自分のベッドでエリザベート……15歳の無邪気なシシィは目覚める。
「夢? やーだ、変な夢見ちゃった」
そう、なにもかもが夢だった。黄泉の帝王トートなど存在しないし、皇帝ともまだ出会っていない。年老いた皇帝が冷たい妻を追いかけて「君を愛してる、君が必要だ」と言いに来るなんて、ただの夢の中の出来事だ。脳内妄想ならなんでもあり。
夢見るお年頃だから、仕方ない。
1が「リセット」、2が「夢オチ」。
1では、『エリザベート』のストーリー全部が「ほんとうにあったこと」しかし、「時間が戻ったために、消えてしまった」。
『エリザベート』という舞台を観て、観客が感動していた場面場面、出来事や台詞、キャラクタ、すべて「ほんとうに、あったこと」。
ただソレが「消えてしまった」だけ。
2では、『エリザベート』のストーリー全部が「はじめから、なにもなかったこと」。
『エリザベート』という舞台を観て、観客が感動していた場面場面、出来事や台詞、キャラクタ、すべて「はじめから、なにもなかった」。
ただの、ヒロインの妄想に過ぎなかっただけ。
「消えてしまった」だけでも充分ひどいけど、「最初から、なにもなかった」はさらにひどいよね。
「夢オチ」とゆーのは、そーゆー最悪の手法だ。
どんな名作でも、「ぜんぶ夢でした。アハッ」とやれば駄作となるし、どんなめちゃくちゃな駄作でも、「だって夢だから、なんでもアリだもーん」と肯定されてしまう。
タカラヅカのあらゆる作品の最後に、「ぜーんぶ夢でした。チャンチャン」と付けてみて。その反則具合がわかるから。
つーことで、最初の「そもそも、全部『テスト』だったわけでしょ? 論理的にどうこうとか性格が破綻とか、論点ズレてるんじゃないの?」に、戻る。
「夢オチ」としてしまったら、すべての粗を「だって夢だから、なんでもアリだもーん」で誤魔化せてしまうのよ。
「テスト」どころの話じゃない。
「テスト」としても破綻しているし、それらすべてを「夢オチ」で終わらせてしまう、いくらなんでもあんまりだ。
ここまで誠意のない作品は、愛せないよ。
コメント