「心」はどこに・その2。@スカウト
2006年4月4日 タカラヅカ 『スカウト』語りの続き。
1幕は、ふつーだった。されど。
2幕になると、ストーリーも「心」も関係なくなる。「お笑い」のみを追求しはじめる。
死んだ恋人のジェシカが悪魔となって現れても、ショーンの「心」は痛まない。「気持ち悪いから、触るな」という言動を取って、観客を笑わせる。
たとえ真実愛していたわけではないとしても、その言動は「人間」として、ありえない。「心」がない。あるのは、観客を笑わせる、という作者の利己心のみ。
愛するサーシャのために、自分も死ぬというショーン。それはいい。それはアリだろう。だが、その「人殺し」をサム@みわっちに押しつけ、悪びれることもないというのは、いかがなものか。
ショーンは1幕で変わったんじゃなかったのか? 狂人扱いされても仲間を助ける、そーゆー男になったんだろう? なのに、他人を傷つけても平気なの?
……まあ、サムをどれだけ傷つけても平気、他人なんか世界なんかどーでもいい、サーシャさえ助かればいいんだ、という考え方もアリだとは思う。ショーンにとっての「世界」がサーシャである以上、彼女がいない世界なんか、滅びてもいいんだろーさ。
「世界中を敵に回しても、俺はお前だけを守る」とか、「世界中の人が死んでも、君だけ無事ならそれでボクは幸福だ」とかは、アリな価値観だよ。無力な老婆を突き飛ばして、愛する彼女に花を渡すよーな、「すべてに冷たい人なのに、ワタシにだけはやさしいの。キャっ♪」と、そーゆー壊れた男を好きな女は大勢いる。わたしは好きじゃないけど。
そーやって、ショーンが「他人のことなんか知らね。もう俺はヒーローじゃないから、好き勝手するんだ!」と言って、サムを傷つけ利用するのも、アリだとして。そこまでしてたったひとりの人を愛する男、という表現だとして。
わからないのは、何故ここが、お笑いシーンなのかということだ。
前にも書いたけど、悪魔と戦う「同志」であるふたりが、命のやりとりをするんだよ? ショーンが助かったのは結果論であって、この時点ではほんとーに殺してしまうわけだよ?
真の意味での信頼がなければありえない出来事だし、それゆえにもっともシリアスな、感動的なシーンになるべきところなんだ。どれだけ自分勝手な行動であろうと、シリアスであれば、「恋人への愛」と「男同士の友情」として描ける大切なシーンだ。それこそ、『ファントム』のキャリパパとエリックのよーに。正塚作品で言うなら、『バロンの末裔』の狩り場のシーンぐらいの正面切った断腸の想いを表現すべきシーンだよ。
それが何故か、「お笑い」。
ここを「お笑い」にする理由がわからない。ショーンの「愛のために他人を傷つける行動」を笑わせる、というのは、「愛」そのものを否定したいのか?
愛のために暴走する姿を笑えと?
『王家に捧ぐ歌』のファラオ暗殺のシーンですちゃらかな音楽をかけて笑わせるよーな感じ? 「愛のため」に国が滅ぶのどーのと大騒ぎだった場面、つーことで例題。
作者はなにがしたいんだ?
お笑いにする意味もわからないが、それでもお笑いにするしかないというなら、浪花節にすることはできたのに。
ショーンがサムを信頼しているから、その手で殺して欲しいのだと、すちゃらかな「サムソング」でこれでもかと訴えかけ、サムが感動して滑稽に泣き崩れれば、画面的にも展開的にもまったく同じものになる。
なのにソレすらなく、ショーンはただ身勝手なだけで、サムは滑稽なだけで、笑わせるためだけにおかしな言動を取る。
「お笑い」にする必要性がない。論理的に説明できない。あるのは、観客を笑わせる、という作者の利己心のみ。
1幕はふつーの「正塚芝居」だったのに、2幕で急に「お笑いもの」になった。
1幕で作り上げたものを、2幕で破壊する。
ただ「笑わせる」という目的だけを考えて、キャラの人格は破壊され、言動はおかしくなり、物語はめちゃくちゃになる。
わからないのは、何故、そうまでして、笑わせなければならなかったかだ。
ここが吉本新喜劇だというならわかる。
「笑い」がテーマで、客は腹を抱えて大笑いするために金を出している。
だがここはタカラヅカで、正塚はタカラヅカの座付き作家だ。
タカラヅカなのに、何故、主役を「人格破綻者」にしてまで、笑わせなければならなかったんだ?
どんなに「笑い」にこだわった作品であっても、物語的に「正しい」なら、それはかまわない。
笑いすべてが悪いと言っているわけじゃない。
「笑わせる」ために、キャラや物語を壊しているから、変だと言っているんだ。
「笑い」の使い方を、まちがったのだと思う。
悪魔たちは「心」を持たないのだから、彼らでいくら笑わせてもいい。ラルゥは軽やかに最低で、ショーンをもてあそびまくればいい。ショーンの死体を囲んでドンチャン騒ぎ、あれが正しい悪魔の姿だろうよ。
だが、人間であり、「心」のあるショーンで「お笑い」をする必要はどこにもない。悪魔たちの「心」のないお遊びに翻弄されることで、滑稽な態度をさらして笑われればいいんだ。
ひとことに「笑い」と言っても、誰も彼もが滑稽なことをすればいいってもんじゃない。他カンパニーの喜劇だって、ちゃんとルールに基づいて作られているだろう?
「笑い」を得たいがためだけに、大きく間違ってしまった……ソレが、痛すぎる。
しかも、「お笑い」を作る上でのルールやガイドラインもわかっていないまま、手当たり次第に「滑稽なこと」をさせて、観客を笑わせる……。
それはあんまりだよ、正塚せんせー。
「心」は、どーしちゃったの?
1幕には、たしかにあったのに。
1幕は、ふつーだった。されど。
2幕になると、ストーリーも「心」も関係なくなる。「お笑い」のみを追求しはじめる。
死んだ恋人のジェシカが悪魔となって現れても、ショーンの「心」は痛まない。「気持ち悪いから、触るな」という言動を取って、観客を笑わせる。
たとえ真実愛していたわけではないとしても、その言動は「人間」として、ありえない。「心」がない。あるのは、観客を笑わせる、という作者の利己心のみ。
愛するサーシャのために、自分も死ぬというショーン。それはいい。それはアリだろう。だが、その「人殺し」をサム@みわっちに押しつけ、悪びれることもないというのは、いかがなものか。
ショーンは1幕で変わったんじゃなかったのか? 狂人扱いされても仲間を助ける、そーゆー男になったんだろう? なのに、他人を傷つけても平気なの?
……まあ、サムをどれだけ傷つけても平気、他人なんか世界なんかどーでもいい、サーシャさえ助かればいいんだ、という考え方もアリだとは思う。ショーンにとっての「世界」がサーシャである以上、彼女がいない世界なんか、滅びてもいいんだろーさ。
「世界中を敵に回しても、俺はお前だけを守る」とか、「世界中の人が死んでも、君だけ無事ならそれでボクは幸福だ」とかは、アリな価値観だよ。無力な老婆を突き飛ばして、愛する彼女に花を渡すよーな、「すべてに冷たい人なのに、ワタシにだけはやさしいの。キャっ♪」と、そーゆー壊れた男を好きな女は大勢いる。わたしは好きじゃないけど。
そーやって、ショーンが「他人のことなんか知らね。もう俺はヒーローじゃないから、好き勝手するんだ!」と言って、サムを傷つけ利用するのも、アリだとして。そこまでしてたったひとりの人を愛する男、という表現だとして。
わからないのは、何故ここが、お笑いシーンなのかということだ。
前にも書いたけど、悪魔と戦う「同志」であるふたりが、命のやりとりをするんだよ? ショーンが助かったのは結果論であって、この時点ではほんとーに殺してしまうわけだよ?
真の意味での信頼がなければありえない出来事だし、それゆえにもっともシリアスな、感動的なシーンになるべきところなんだ。どれだけ自分勝手な行動であろうと、シリアスであれば、「恋人への愛」と「男同士の友情」として描ける大切なシーンだ。それこそ、『ファントム』のキャリパパとエリックのよーに。正塚作品で言うなら、『バロンの末裔』の狩り場のシーンぐらいの正面切った断腸の想いを表現すべきシーンだよ。
それが何故か、「お笑い」。
ここを「お笑い」にする理由がわからない。ショーンの「愛のために他人を傷つける行動」を笑わせる、というのは、「愛」そのものを否定したいのか?
愛のために暴走する姿を笑えと?
『王家に捧ぐ歌』のファラオ暗殺のシーンですちゃらかな音楽をかけて笑わせるよーな感じ? 「愛のため」に国が滅ぶのどーのと大騒ぎだった場面、つーことで例題。
作者はなにがしたいんだ?
お笑いにする意味もわからないが、それでもお笑いにするしかないというなら、浪花節にすることはできたのに。
ショーンがサムを信頼しているから、その手で殺して欲しいのだと、すちゃらかな「サムソング」でこれでもかと訴えかけ、サムが感動して滑稽に泣き崩れれば、画面的にも展開的にもまったく同じものになる。
なのにソレすらなく、ショーンはただ身勝手なだけで、サムは滑稽なだけで、笑わせるためだけにおかしな言動を取る。
「お笑い」にする必要性がない。論理的に説明できない。あるのは、観客を笑わせる、という作者の利己心のみ。
1幕はふつーの「正塚芝居」だったのに、2幕で急に「お笑いもの」になった。
1幕で作り上げたものを、2幕で破壊する。
ただ「笑わせる」という目的だけを考えて、キャラの人格は破壊され、言動はおかしくなり、物語はめちゃくちゃになる。
わからないのは、何故、そうまでして、笑わせなければならなかったかだ。
ここが吉本新喜劇だというならわかる。
「笑い」がテーマで、客は腹を抱えて大笑いするために金を出している。
だがここはタカラヅカで、正塚はタカラヅカの座付き作家だ。
タカラヅカなのに、何故、主役を「人格破綻者」にしてまで、笑わせなければならなかったんだ?
どんなに「笑い」にこだわった作品であっても、物語的に「正しい」なら、それはかまわない。
笑いすべてが悪いと言っているわけじゃない。
「笑わせる」ために、キャラや物語を壊しているから、変だと言っているんだ。
「笑い」の使い方を、まちがったのだと思う。
悪魔たちは「心」を持たないのだから、彼らでいくら笑わせてもいい。ラルゥは軽やかに最低で、ショーンをもてあそびまくればいい。ショーンの死体を囲んでドンチャン騒ぎ、あれが正しい悪魔の姿だろうよ。
だが、人間であり、「心」のあるショーンで「お笑い」をする必要はどこにもない。悪魔たちの「心」のないお遊びに翻弄されることで、滑稽な態度をさらして笑われればいいんだ。
ひとことに「笑い」と言っても、誰も彼もが滑稽なことをすればいいってもんじゃない。他カンパニーの喜劇だって、ちゃんとルールに基づいて作られているだろう?
「笑い」を得たいがためだけに、大きく間違ってしまった……ソレが、痛すぎる。
しかも、「お笑い」を作る上でのルールやガイドラインもわかっていないまま、手当たり次第に「滑稽なこと」をさせて、観客を笑わせる……。
それはあんまりだよ、正塚せんせー。
「心」は、どーしちゃったの?
1幕には、たしかにあったのに。
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