「心」はどこに。@スカウト
2006年4月3日 タカラヅカ「緑野さんは、あと1ヶ月くらい『スカウト』ネタを書き続けるんじゃないの?」
と、ゆーことを言われてますが。
何故? わたしがまだ語り足りていないってバレてるの?
ちゃんと千秋楽の日の話も書いたのにー。なんか、終わりっぽいはずなのにー。
いやその、その通りです。
終わってからも絶賛『スカウト』祭り中でした。
楽のあともずーっと、アタマの中でらんとむ氏の歌がエンドレスで回り続けるくらいに。
でもさ。
実はとっても複雑なんだ。
やっぱりわたし、この作品、どーしても好きになれない。
くやしいよ。
らんとむはすげーかっこいいし、画面がオシャレで、役者が魅力的で、特撮的ベタベタさでノリのいい音楽がダサカッコよくて、とても笑える素敵な舞台なのに。
なにより、まっつがものすげー素敵なのに。
なのに、好きになれない。
くやしい。
なんでこんな、ひどい話なんだ。
わたしは、どれだけ1場面1場面がオシャレで魅力的であっても、贔屓が素敵でも、「物語」に納得できなきゃ、好きになれないんだ。
それが今回、よーっくわかった。
何度も自問したよ。
まっつがかっこいいんだから、まっつを見ているだけでしあわせなんだから、ソレでいいじゃないかって。
まっつにいい役をくれて、愛情のある使い方をしてくれて、正塚せんせーありがとう!って、そう言えばいいじゃないかと。
でも、ダメだ。
まっつを見てしあわせなのと、作品を好きかどうかはまったく別物だ。
好きになろうと努力した。
努力したけど、ダメだったよ。しょぼん。
わたしが好きな作品てのは、「心」が必要なんだ。
「心」のない物語には、心が動かないんだ。
どれほどコワレていても、起承転結や辻褄が変でも、つたなくても足りていなくても、好きなものは好きだった。
ダメなところ、引っかかるところにブツブツ文句言いつつも、それでも愛しい作品はある。
作品を好きで、そのうえでの欠点なら、文句言い言いスルーできる。
だが、美点がいくらあっても、作品を好きでなかったら、たのしめないんだ。
正塚晴彦は、どこで「心」を置き忘れたのか。
第1幕は、ふつーだった。
ラルゥ@一花とのやりとりはギャグテイストだが、それくらいは表現のひとつとして、ぜんぜんOK。
サム@みわっちが完璧にギャグキャラだが、それも味だと思う。
ショーン@らんとむは、「生きた」、「心」のある人間だった。
才能あるダンサー兼振付家で、「今がよければそれでいい」と刹那的に生きる傲慢なイケメン。無国籍な話のハズなのに、歌舞伎町にいそうだな、この男。と、思わせてしまうのが、らんとむ氏の素敵なトコロ(笑)。
今の職場が嫌になっても、いくらでも行くアテはある。義理とか人情とか関係ない。恋人のジェシカ@すみかとも、ドライな関係。人生ナナメに生きてるショーンには、手に入らないものなどナニもない。
……だったはずが。
事故によって、すべてを失う。
仕事も、恋人も。
しかも、悪魔なんてものが見えてしまう。
悪魔のことを仲間たちに知らせようとするが、もちろん誰も信じない。狂人扱いされるのみ。そりゃそーさ、その程度のつきあいしかしてなかったんだ。
刹那的に、傲慢に生きてきた。それでよかった。
だが今ほんとうに、ショーンはひとりになってしまった。孤独でもいい、もともと俺はそういう人間だと、ショーンは雑踏の中で歌う。そんな彼に、まとわりつく影。彼の孤独をあざわらうよーに。
真の意味で「独り」になったショーンの前に現れる少女サーシャ@きほ。彼女と出会ったことで、ショーンは変わる。
「仲間」を助けたくて、「悪魔」から守りたくて、狂人扱いされよーと突き放されよーと関係なく、走り出す。
ショーンが変わったからこそ、仲間たちも変わる。フランク@まりんは、荒唐無稽な悪魔話を信じる。ショーンの真摯さに、心を動かされて。
「心」が本物であるからこそ、ひとの「心」に届き、「心」が動く。それまでてきとーに生きてきたショーンは、そんなことも知らずにいた。伝えたい、守りたいと思った、その「心」は、ちゃんと「力」になるんだ。そのことを、はじめて知った。手応えとして感じた。
だからショーンは、サーシャに惹かれる。「生きることがつらいときに、私はあの人に出会った」てのは『凱旋門』だが、つまりはそーゆーことだよな。絶望していたショーンの前に現れた白い光が、サーシャだった。
「あなたを守りたい。あなたの生きる世界を守りたい」と、そこまで一気に話がぶっ飛んでしまうのも、仕方がない。サーシャによって、ショーンの「世界」は変わったのだから。
そーして、ショーンは戦いを決意する。「戦う理由(わけ)はこの胸にある」ですよ、ヒーローソングですよ。そーやって、幕が下りるわけですよ。
1幕はね、わかるの。ちゃんとショーンに「心」があること。
問題は2幕。
長くなるんで、続く。
と、ゆーことを言われてますが。
何故? わたしがまだ語り足りていないってバレてるの?
ちゃんと千秋楽の日の話も書いたのにー。なんか、終わりっぽいはずなのにー。
いやその、その通りです。
終わってからも絶賛『スカウト』祭り中でした。
楽のあともずーっと、アタマの中でらんとむ氏の歌がエンドレスで回り続けるくらいに。
でもさ。
実はとっても複雑なんだ。
やっぱりわたし、この作品、どーしても好きになれない。
くやしいよ。
らんとむはすげーかっこいいし、画面がオシャレで、役者が魅力的で、特撮的ベタベタさでノリのいい音楽がダサカッコよくて、とても笑える素敵な舞台なのに。
なにより、まっつがものすげー素敵なのに。
なのに、好きになれない。
くやしい。
なんでこんな、ひどい話なんだ。
わたしは、どれだけ1場面1場面がオシャレで魅力的であっても、贔屓が素敵でも、「物語」に納得できなきゃ、好きになれないんだ。
それが今回、よーっくわかった。
何度も自問したよ。
まっつがかっこいいんだから、まっつを見ているだけでしあわせなんだから、ソレでいいじゃないかって。
まっつにいい役をくれて、愛情のある使い方をしてくれて、正塚せんせーありがとう!って、そう言えばいいじゃないかと。
でも、ダメだ。
まっつを見てしあわせなのと、作品を好きかどうかはまったく別物だ。
好きになろうと努力した。
努力したけど、ダメだったよ。しょぼん。
わたしが好きな作品てのは、「心」が必要なんだ。
「心」のない物語には、心が動かないんだ。
どれほどコワレていても、起承転結や辻褄が変でも、つたなくても足りていなくても、好きなものは好きだった。
ダメなところ、引っかかるところにブツブツ文句言いつつも、それでも愛しい作品はある。
作品を好きで、そのうえでの欠点なら、文句言い言いスルーできる。
だが、美点がいくらあっても、作品を好きでなかったら、たのしめないんだ。
正塚晴彦は、どこで「心」を置き忘れたのか。
第1幕は、ふつーだった。
ラルゥ@一花とのやりとりはギャグテイストだが、それくらいは表現のひとつとして、ぜんぜんOK。
サム@みわっちが完璧にギャグキャラだが、それも味だと思う。
ショーン@らんとむは、「生きた」、「心」のある人間だった。
才能あるダンサー兼振付家で、「今がよければそれでいい」と刹那的に生きる傲慢なイケメン。無国籍な話のハズなのに、歌舞伎町にいそうだな、この男。と、思わせてしまうのが、らんとむ氏の素敵なトコロ(笑)。
今の職場が嫌になっても、いくらでも行くアテはある。義理とか人情とか関係ない。恋人のジェシカ@すみかとも、ドライな関係。人生ナナメに生きてるショーンには、手に入らないものなどナニもない。
……だったはずが。
事故によって、すべてを失う。
仕事も、恋人も。
しかも、悪魔なんてものが見えてしまう。
悪魔のことを仲間たちに知らせようとするが、もちろん誰も信じない。狂人扱いされるのみ。そりゃそーさ、その程度のつきあいしかしてなかったんだ。
刹那的に、傲慢に生きてきた。それでよかった。
だが今ほんとうに、ショーンはひとりになってしまった。孤独でもいい、もともと俺はそういう人間だと、ショーンは雑踏の中で歌う。そんな彼に、まとわりつく影。彼の孤独をあざわらうよーに。
真の意味で「独り」になったショーンの前に現れる少女サーシャ@きほ。彼女と出会ったことで、ショーンは変わる。
「仲間」を助けたくて、「悪魔」から守りたくて、狂人扱いされよーと突き放されよーと関係なく、走り出す。
ショーンが変わったからこそ、仲間たちも変わる。フランク@まりんは、荒唐無稽な悪魔話を信じる。ショーンの真摯さに、心を動かされて。
「心」が本物であるからこそ、ひとの「心」に届き、「心」が動く。それまでてきとーに生きてきたショーンは、そんなことも知らずにいた。伝えたい、守りたいと思った、その「心」は、ちゃんと「力」になるんだ。そのことを、はじめて知った。手応えとして感じた。
だからショーンは、サーシャに惹かれる。「生きることがつらいときに、私はあの人に出会った」てのは『凱旋門』だが、つまりはそーゆーことだよな。絶望していたショーンの前に現れた白い光が、サーシャだった。
「あなたを守りたい。あなたの生きる世界を守りたい」と、そこまで一気に話がぶっ飛んでしまうのも、仕方がない。サーシャによって、ショーンの「世界」は変わったのだから。
そーして、ショーンは戦いを決意する。「戦う理由(わけ)はこの胸にある」ですよ、ヒーローソングですよ。そーやって、幕が下りるわけですよ。
1幕はね、わかるの。ちゃんとショーンに「心」があること。
問題は2幕。
長くなるんで、続く。
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