わたしは以前、「トウコなら、相手がタニでもテクニシャンに見せられるわ」と書いた。
 それは、最高級の讃辞。
 どんな下手っぴな男でも、彼女を抱けば「テクニシャン」だと誤解させることができる。女のテクで、男なんてどーにでも見せられるもんなんだ。
 それくらい、トウコはすげーんだ、と。

 ソレを、あっさり撤回しときます(笑)。

 とゆーのもだ、東宝『ベルサイユのばら−フェルゼンとマリー・アントワネット編−』れおんアンドレ初日を観て、ユズドレが、ちっともテクニシャンに見えなかったからだ。

 ははは。
 ラヴシーン巧者のエロエロトウコちゃんをもってしても、童貞の真面目熱血少年をテクニシャンに見せることはできなかったかー。

 れおんは下手なのではなく、「余裕がない」のが見て取れた。
 あそこまで余裕なく、「規定演技」を杓子定規でやられては、エロに盛り上げることはできまいて。
 タニちゃんはどれだけ下手でも、場慣れしている余裕があるからなー。

 ユズドレ初日の「今宵一夜」は、どう見ても「おねーさんと初心者の少年」で、エロくもなければときめきもない、ふつーの「今宵一夜」でした。

 れおんくんは、かっこいいんだけどね。
 新公でかっこいいのと同じで、予想していたより落ち着いていたし、伊達に場数は踏んでいない「真ん中に立つ力」を発揮していました。
 でも、なんかすごく、「ふつー」で。

「れおん、うまかったねー」
「うん、かっこよかったー」
 という感想は出ても、それ以上がない。

「れおん、ふつーだったね」

 というのが、いちばん率直な感想かと。

 それより、しいちゃんの花祭りの男の話題が、ユズドレ初日のすべてだったよーな(笑)。

 わたしは初日好きなので、楽を観られないならまず初日観劇を選ぶ。
 できあがっていない、ナマの拙さ、人間らしい不協和音を観るのが好きだ。
 それがあとになってすばらしいものになり、人の口を借りて「どれほどすばらしかったか」を聞く方が、心穏やかなんだ。
 自分が観たとき共感を得られなかったとしても、「あとになって、役者が成長していい舞台になったんだな」と思える方がたのしい。

「えー? ぜんぜんよくなかったよー? あんな舞台を観ていいって言う人の気が知れないわ」
 と思うより、
「えー? そんなによくなってたの? あたしが観たの初日だったからイマイチだったけど、そっかー、後半はそんなことになってたのかー。わーん、観たかった、うらやましー!」
 と思う方がいい。
 もちろん、有終の美としてテンションの上がっている千秋楽を観るのも大好きだけど。

 ユズドレも、あとになってどんどんよくなっていったと聞く。
 わたしは観られなかったけど、きっと素敵だったんだろうな。
 ひとががんばって成長し、努力の成果をあげているのを聞くのは、とても心地いい。
 美しいじゃないか。真摯さや誠実さ、カタチに残らない目に見えないものが実を結び、それを他人から評価されるなんて。大切な、ファンタジーだよ。必要なものだよ。

 東宝『ベルばら』は、伝い聞く部分が多かった。
 自分で一度体験したものをベースに、信頼できる友人たちの目と感性をもって再構築される、わたしの『ベルサイユのばら』は、なかなかどうして、得がたい作品になっているぞ。


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