正塚晴彦は、どこへ行くのだろう。@スカウト
2006年3月25日 タカラヅカ 「心」の存在しない物語に、感動はない。
正塚晴彦らしくない失敗。
何故にこうまで、この物語には「心」がない?
ショーン@らんとむは事故に遭い、生死の境から奇跡的に回復した。以来彼には「悪魔」が見える。悪魔たちは人間にとりつき、心の隙をついては破滅させる。
ショーンはなんとか仲間たちを護ろうとするが、もちろんふつーの人々は彼の言うことなんか信じない。彼の言葉に耳を貸すのは、元牧師だというへんてこりんな自称科学者サム@みわっちと、元教会に出入りする不思議な美少女サーシャ@きほのみ。
人間を弄び、死なせることを「ゲーム」だと言いきる悪魔たちは、サーシャを操り、ショーンを翻弄する。ショーンはサーシャを、人間世界を護れるのか?!
「心」不在の物語。
人間と悪魔の間で繰り広げられる「ゲーム」の物語だから、仕方ない。……そういうことか?
だが、わたしは人間だ。見ているのは、「人間」なんだ。
人間の「心」を描いてくれない物語に、なんの価値がある?
悪魔アズ@まっつと、人間ショーン@らんとむとの会話でこう表されるんだわ。
「人間は、悪魔たちから見れば『蚊』のよーなものだ」と。
いつでも殺せるけど、蚊になんか触りたくもない。だから、自分の手は汚さずに、蚊が自滅するように仕向ける。どんなふうにどれくらいの蚊を自滅させるかを、悪魔たちは「ゲーム」としてたのしんでいる。
彼らは悪魔だから、わたしたち人間とはちがう感覚で生きている。
悪魔たちの言動は、まったく共感できない。
それは仕方ないとあきらめる。
悪魔だからな。
舞台のほとんどを占める悪魔たちが、生理的に理解できない別生物であるのだから、せめてわずかな「人間の登場人物」だけは、ふつーに「人間」であってほしいじゃないか。
ショーンのダンサー仲間たちなどがぞろぞろ登場するが、彼らの出番は少ない。
ヒロインのサーシャは人間ではあっても、悪魔たちの「人形」なので人間とはカウントしづらい。
この作品に出てくる、そしてちゃんと時間を掛けて描かれている「人間」って、ショーンとサムのふたりだけなんだよ。
なのに、このふたりの関係が、ひどい。
たったふたりしかまともなキャラクタがいない芝居なんだよ?
ふたりは「悪魔と戦う」同志であり、唯一無二の仲間だ。相棒だ。なのに。
ふたりには、信頼も愛情もなにもない。
ただ、相手を利用しているだけなんだ。
ショーンはサムになんの興味もない。必要だからつきあっているだけ。サムはショーンよりはマシだけど、やはり気持ちは薄い。
ショーンにとって大切なのは自分だけで、あとはどーでもいいの。
今の恋人サーシャは大切だけど、死んだ以前の恋人ジェシカはどーでもいい。ジェシカが悪魔になって現れた、うわっ、キモッ! 触るなよ!
自分のダンサー仲間は大切だけど、それ以外はどうでもいい。サムはダンサー仲間じゃないから、どーなってもいいや。オレ余裕ないから、サムの気持ちなんか思いやる気はない、オレ正義。
……ショーンって、ひどすぎないか?(涙)
死んだ恋人が変わり果てた姿で現れたのに、それがお笑いシーンなんだよ? 気持ち悪がって、ひたすら元恋人を払いのけるんだよ?
まともな感性してたら、もっとショック受けないか? ただ気持ち悪がるなんて、それが「人間」のすることなの? 「心」はどこにあるの?
仮死状態となったサーシャを助けるためには、同じよーに仮死状態にならなければならない。一度死んで、彼女の漂っている世界に行かなければならない。
つーことでショーンは、彼女のために死のうとする。
それはいい。
問題は。
サムに「殺してくれ」と言うことだ。
サムのことなんて、これっぽっちも考えていない。
大切なのは自分だけ。
相手がどれほど傷つくかなんて、関係ない。
嫌だそんなことはできないと抵抗するサムに、ショーンは開いた口がふさがらないほどに、残酷だ。「自分で死ぬのはきついから殺して欲しい。殺す側の気持ちを思いやる余裕なんかない」……自分ができないつらいことを、他人に押しつけて大いばり!!
そして、救われないことにこのシーン、お笑いシーンなのだわ……。
何故、笑うの?
ギャグシーンなの?
あなたの友だちが、突然「私を殺して欲しい」って現れたのよ?
想像してみてよ、「借金を抱えてどうすることもできない。保険金で家族を救うために、私が死ぬしかないんだ。でも自分ではこわくて死ねない。どうか殺して欲しい。私のためを思うなら、ひと思いに殺して欲しい」と言われたらどうよ?
説得するにしろ殺してやるにしろ、ものすげーシリアスシーンになるでしょ? 「人間」ならそうでしょ?
一世一代の大事件でしょ? 「命」がかかってんのよ?
なのにソレを「笑いモノ」にするのは、すでに「人間」じゃない。
「心」がない。
お笑いのどたばたのうちにサムがショーンを射殺、悪魔たちが大よろこび!!
そう、悪魔たちが「ショーンが死んだ、ばんざーい! 宴会やっちゃうぞーっ」なのはいい。彼らはそーゆー生き物だ。
出てくるのは悪魔と人間。
悪魔は人間を「蚊」のよーなものだと言い、人間であるショーンは「蚊じゃない!」と言う。
そうさ、蚊じゃないさ。
でもな。
そう言いながら、この扱いはなんなの?
友だちを人殺しにさせるシーンをお笑いにして、ひとのこころの痛みを笑いモノにして、死んだ恋人を気持ち悪いゾンビにしてふりほどくさまをお笑いにして、自分の大切なもの以外はどれだけ不義理をしても傷つけても正義! 大切なのは自分だけ! そして世界を救うヒーロー!!
コレのどこが「人間」なの?
コメディだから、明るく気楽に笑わせることが目的だから、野暮なこと言わないでよ、と言われるかもしれないが。
笑いに徹するなら筋を通してくれ。
ダブルスタンダードは卑怯だ。
たしかに、お笑い作品だから、笑える。
役者の熱演や愉快な演技に、罪なく笑えるさ。
しかし、感動がない。
「心」がないからだ。
サムを踏みつけにして平気なショーンが、愛や友情を尊ぶ発言をして、なんの説得力がある?
悪魔とどこがチガウんだよ?
悪魔たちの感性があまりにわたしたち人間とかけ離れていて、笑えるけど彼らの存在や行動に感動はなく、人間であるショーンやサムも「心」を持たない「ネタ」を表現するためだけの存在なので、彼らがナニをしてもカタルシスがない。
「ゲーム」だとか最後の「オチ」だとかをやりたかったがために、「心」を描くのを忘れた結果か?
正塚晴彦作品だとは思えない、不誠実な作品。
笑えるたのしい舞台だけどね。画面もきれいだし、わたしの好きな人が素敵にかっこいいんだけど。
物語に「心」がないと、こんなになんの感動も得られないんだな、と、かえって感心した。
あ、わたしらしー表現で、ひとことで言うと。
萌えねーよ。
正塚晴彦らしくない失敗。
何故にこうまで、この物語には「心」がない?
ショーン@らんとむは事故に遭い、生死の境から奇跡的に回復した。以来彼には「悪魔」が見える。悪魔たちは人間にとりつき、心の隙をついては破滅させる。
ショーンはなんとか仲間たちを護ろうとするが、もちろんふつーの人々は彼の言うことなんか信じない。彼の言葉に耳を貸すのは、元牧師だというへんてこりんな自称科学者サム@みわっちと、元教会に出入りする不思議な美少女サーシャ@きほのみ。
人間を弄び、死なせることを「ゲーム」だと言いきる悪魔たちは、サーシャを操り、ショーンを翻弄する。ショーンはサーシャを、人間世界を護れるのか?!
「心」不在の物語。
人間と悪魔の間で繰り広げられる「ゲーム」の物語だから、仕方ない。……そういうことか?
だが、わたしは人間だ。見ているのは、「人間」なんだ。
人間の「心」を描いてくれない物語に、なんの価値がある?
悪魔アズ@まっつと、人間ショーン@らんとむとの会話でこう表されるんだわ。
「人間は、悪魔たちから見れば『蚊』のよーなものだ」と。
いつでも殺せるけど、蚊になんか触りたくもない。だから、自分の手は汚さずに、蚊が自滅するように仕向ける。どんなふうにどれくらいの蚊を自滅させるかを、悪魔たちは「ゲーム」としてたのしんでいる。
彼らは悪魔だから、わたしたち人間とはちがう感覚で生きている。
悪魔たちの言動は、まったく共感できない。
それは仕方ないとあきらめる。
悪魔だからな。
舞台のほとんどを占める悪魔たちが、生理的に理解できない別生物であるのだから、せめてわずかな「人間の登場人物」だけは、ふつーに「人間」であってほしいじゃないか。
ショーンのダンサー仲間たちなどがぞろぞろ登場するが、彼らの出番は少ない。
ヒロインのサーシャは人間ではあっても、悪魔たちの「人形」なので人間とはカウントしづらい。
この作品に出てくる、そしてちゃんと時間を掛けて描かれている「人間」って、ショーンとサムのふたりだけなんだよ。
なのに、このふたりの関係が、ひどい。
たったふたりしかまともなキャラクタがいない芝居なんだよ?
ふたりは「悪魔と戦う」同志であり、唯一無二の仲間だ。相棒だ。なのに。
ふたりには、信頼も愛情もなにもない。
ただ、相手を利用しているだけなんだ。
ショーンはサムになんの興味もない。必要だからつきあっているだけ。サムはショーンよりはマシだけど、やはり気持ちは薄い。
ショーンにとって大切なのは自分だけで、あとはどーでもいいの。
今の恋人サーシャは大切だけど、死んだ以前の恋人ジェシカはどーでもいい。ジェシカが悪魔になって現れた、うわっ、キモッ! 触るなよ!
自分のダンサー仲間は大切だけど、それ以外はどうでもいい。サムはダンサー仲間じゃないから、どーなってもいいや。オレ余裕ないから、サムの気持ちなんか思いやる気はない、オレ正義。
……ショーンって、ひどすぎないか?(涙)
死んだ恋人が変わり果てた姿で現れたのに、それがお笑いシーンなんだよ? 気持ち悪がって、ひたすら元恋人を払いのけるんだよ?
まともな感性してたら、もっとショック受けないか? ただ気持ち悪がるなんて、それが「人間」のすることなの? 「心」はどこにあるの?
仮死状態となったサーシャを助けるためには、同じよーに仮死状態にならなければならない。一度死んで、彼女の漂っている世界に行かなければならない。
つーことでショーンは、彼女のために死のうとする。
それはいい。
問題は。
サムに「殺してくれ」と言うことだ。
サムのことなんて、これっぽっちも考えていない。
大切なのは自分だけ。
相手がどれほど傷つくかなんて、関係ない。
嫌だそんなことはできないと抵抗するサムに、ショーンは開いた口がふさがらないほどに、残酷だ。「自分で死ぬのはきついから殺して欲しい。殺す側の気持ちを思いやる余裕なんかない」……自分ができないつらいことを、他人に押しつけて大いばり!!
そして、救われないことにこのシーン、お笑いシーンなのだわ……。
何故、笑うの?
ギャグシーンなの?
あなたの友だちが、突然「私を殺して欲しい」って現れたのよ?
想像してみてよ、「借金を抱えてどうすることもできない。保険金で家族を救うために、私が死ぬしかないんだ。でも自分ではこわくて死ねない。どうか殺して欲しい。私のためを思うなら、ひと思いに殺して欲しい」と言われたらどうよ?
説得するにしろ殺してやるにしろ、ものすげーシリアスシーンになるでしょ? 「人間」ならそうでしょ?
一世一代の大事件でしょ? 「命」がかかってんのよ?
なのにソレを「笑いモノ」にするのは、すでに「人間」じゃない。
「心」がない。
お笑いのどたばたのうちにサムがショーンを射殺、悪魔たちが大よろこび!!
そう、悪魔たちが「ショーンが死んだ、ばんざーい! 宴会やっちゃうぞーっ」なのはいい。彼らはそーゆー生き物だ。
出てくるのは悪魔と人間。
悪魔は人間を「蚊」のよーなものだと言い、人間であるショーンは「蚊じゃない!」と言う。
そうさ、蚊じゃないさ。
でもな。
そう言いながら、この扱いはなんなの?
友だちを人殺しにさせるシーンをお笑いにして、ひとのこころの痛みを笑いモノにして、死んだ恋人を気持ち悪いゾンビにしてふりほどくさまをお笑いにして、自分の大切なもの以外はどれだけ不義理をしても傷つけても正義! 大切なのは自分だけ! そして世界を救うヒーロー!!
コレのどこが「人間」なの?
コメディだから、明るく気楽に笑わせることが目的だから、野暮なこと言わないでよ、と言われるかもしれないが。
笑いに徹するなら筋を通してくれ。
ダブルスタンダードは卑怯だ。
たしかに、お笑い作品だから、笑える。
役者の熱演や愉快な演技に、罪なく笑えるさ。
しかし、感動がない。
「心」がないからだ。
サムを踏みつけにして平気なショーンが、愛や友情を尊ぶ発言をして、なんの説得力がある?
悪魔とどこがチガウんだよ?
悪魔たちの感性があまりにわたしたち人間とかけ離れていて、笑えるけど彼らの存在や行動に感動はなく、人間であるショーンやサムも「心」を持たない「ネタ」を表現するためだけの存在なので、彼らがナニをしてもカタルシスがない。
「ゲーム」だとか最後の「オチ」だとかをやりたかったがために、「心」を描くのを忘れた結果か?
正塚晴彦作品だとは思えない、不誠実な作品。
笑えるたのしい舞台だけどね。画面もきれいだし、わたしの好きな人が素敵にかっこいいんだけど。
物語に「心」がないと、こんなになんの感動も得られないんだな、と、かえって感心した。
あ、わたしらしー表現で、ひとことで言うと。
萌えねーよ。
コメント