植爺作・雪組『ベルサイユのばら−オスカル編−』がまちがいまくり、破壊されまくりなのは、宇宙の法則なので、もう検証するまでもないことだが。

 キャスティングがすばらしいのは、事実だ(除・栄養失調で入院するヲヅキ)。

 オスカル@コム姫、ロザリー@まーちゃん、ジェローデル@かしげ、アラン@水。
 オリジナルのあて書き作品?! てくらい、キャラはハマってるのよ。

 だから、くやしくてならない。
 今の雪組で、これほど贅沢な顔ぶれで、あんな超絶駄作しか創れない植爺が。

 オスカル編でロザリーの比重が大きくて、アンドレが他組トップ特出、組内2番手がジェローデルとアランをやる。……という縛りで原作を料理するなら。

 
 まず、ロザリーについて。

 ロザリーをあんな「自分のために他人を騙しても平気。ストーカーして夜這いも当然。キャハ!」な気持ち悪い女にすることが「ロザリーの出番を増やす」ことだとカンチガイしている植爺。
 アレで観客たる女性に、どんな夢を見ろと?

 コムカルとまーロザリーなら、いくらでも萌えシーンが作れるのにっ!! くそーっ。

 ロザリーの物語を書くなら、ネタはふたつある。
 ひとつは、言わずとしれた彼女の出生の謎、ポリニャック伯夫人ネタ。「首飾り事件」ほどサブストーリー色が強くないから、本筋に絡めて描くことが可能なエピソード。
 しかしこれは、宮廷とアントワネットを出さなければならないので、オスカル編には不向きかもしれない。
 もうひとつは、「黒い騎士」ベルナールとの恋愛だ。
 これをきちんと描けば、オスカルの信念や人格の説明にもなるし、ロザリーもおいしいはず。
 少女時代のあこがれから、ひとりの女として恋をする、ロザリーの成長物語として美しくまとめることができるはずだ。

 まちがっても、少女時代のあこがれと性愛を混同し、夜這いをかけるよーなロザリーにはしちゃいけない。

 トップコンビを絡めなければならない、というなら、その「ほんとうの恋」を知る前の、少女ロザリーと夢の王子オスカル様のふれあいを描けばいいのさ。

 わたしなら、ロザリーに剣の修行をさせるオスカルのエピソードを使うね。

 母の仇を討ちたいというロザリーに、剣を教えるオスカル。いかにも小手先で、あしらっているかのような教え方。とーぜんロザリーはうまくできず、庭の池に落ちて泣き出してしまう。
「オスカル様は、あたしをからかってたのしんでいらっしゃるんだわ!」
 キレて八つ当たりするロザリーを、有無を言わさず抱き上げるオスカル。
「誤解だ……からかっているだなどと……」
 それまでの余裕綽々な姿から想像もつかないほど、真剣な、誠実な顔で。
 姫抱っこして、言うんだよ?!

 だだをこねて泣くまーロザリー。それを強引に姫抱っこし、真剣な表情で見つめるコムカル。頬を赤らめるまーロザリー。

 み、見たいっ。
 見たいよ、コムまーでっ。

 コムカルに姫抱っこされて「誤解だ……」とか言われたら、もー他のなにを放り出しても信じちゃうって。「アナタについていきます」になるって。そうだろう?!(鼻息)

 その流れで、コムカルに恋の憧れを感じてしまうヲトメの祈りを一発歌えばいいんだよ、ロザリー。
 あんなに素敵なんだもの、ロザリーでなくても恋しちゃうって。

 
 ただ、このエピソードを入れるとなるとストーリーの大改造が必要で、時間配分がネックになるから、現在のプログラムと平行して考えてみようと思う。
 ……プログラム買ってないから、記憶のみに頼っての記述になるが。

 あの長い原作を2時間半に収めるのは大変、とよく言うが、「**編」と銘打ってポイントをしぼって上演するのは不可能ではない。
 植爺の構成力がおかしいだけで、他の人ならふつーにできるんじゃないのか?

 改稿を考える上でのポイントは、「無意味なシーンの削除」だ。

 今回の『オスカル編』第1幕の「出来事」は、「オスカル隊長が衛兵隊を掌握する」と「ロザリー嫁に行く」だけ。
 つまりソレ以外は削っていいんだ。

 いちばん無用なのが、「ジャルジェ家の人々」。彼らの出ているシーンを削るだけで、かなりの時間を別の必要なシーンに割り振ることが出来る。

 あと、どう考えてもおかしいのが、ディアンヌとイザベル。

 植爺のわかりやすくていいところは(わたしは好きではないにしろ)、主要人物登場を派手にするところ。
 こんなにたくさん人が出てくる舞台で、貧乏人だろうと殺し屋だろうとみーんなキラキラきれいな衣装を着ているこの舞台で、主要キャラと脇役を混同させずにアタマの悪い観客にもひとめで見分けさせる技。

 主要人物登場には、ファンファーレをつける。

「誰だ? 出てこい」
 とか、
「あ、あそこから**(人名)が!」
 などとやって、みんなの注意を促し、そのうえでジャジャーンとファンファーレを鳴らして、登場させる。
 植爺のお約束。

 今回このお約束で登場するのは、アンドレとオスカル、そしてアランと、ディアンヌ。

 ……ディアンヌ?

 どう考えてもおかしいだろうソレ! オスカルと同じ扱いなのか、ディアンヌ?

 答えは簡単。
 初演の涼風オスカル編のときのディアンヌは、トップ娘役の役だったからだ。

 植爺は過去の場面を使い回すとき、そのまま使うんだ。
 マンガのコマをハサミで切り取って別のマンガに貼り付けるように。
 前後のつなぎがおかしいことなんか、考えもしない。

 同じ場面を使い回すのは別にかまわないが、それならつぎはぎして変じゃないように、調整をしなくてはならない。

 涼風オスカル編とちがい、今回のディアンヌはトップの役じゃない。いなくてもいい役だ。
 そんな役のためにファンファーレはおかしいし、いちいち物語を中断してまで全員で注目させる必要はない。

 涼風編でディアンヌとイザベルが必要なのは、ディアンヌが途中で死ぬから、彼女亡き後に「平民側の可哀想な女の子」イザベルが必要だったためだろう。
 ディアンヌが自殺するエピソードを入れないなら、イザベルは必要ない。

 また、これはいつも思うことなんだが。

 植爺は、家柄にコンプレックスがあるのか?

 いつもいつも、無意味に「貴族」「貴族」と繰り返す。
 「貴族の生まれだと聞く」「貴族にあるまじきことを」「幽閉されているとはいえ、スウェーデン貴族の屋敷に」「由緒ある貴族の娘が」「フランス貴族として」……耳障りなんですけど。
 今回はベルナールやロザリーまで「わたしたちは貴族! 平民じゃないの!」と言い出すし。
 アランにしろ、二度も「貴族」だと繰り返す。「人間なのは貴族だけで、俺たちはそれ以下だ」と言わせ、「アンタだって貴族やってさっき言うてたやん!」と観客をわざわざ混乱させる。

 ここまで無意味に、害があるだけの「貴族」という言葉を繰り返させ続けるのは、精神的ななにかがあるせいじゃないかと思う。その言葉にこだわらなければいけないトラウマがあるとか。
 人は劣等感があると、それを隠すためにわざとソコにこだわるからなあ。

 ベルナールとロザリーに至っては、怒濤の説明台詞なんで、いくらそこで説明しても初見の観客にはなにがなんだかわかるわけもないんだから、そもそもそんな話をすることがまちがっている。

 アランが貴族なのに平民と同じ存在だということについては、説明すらない。それなら、貴族だって話は「なかったこと」にすればいいのに。アニメのアランがそうであるように。(ええ、アニメではアランが貴族であることは一切「なかったこと」になってるんですよ。彼は平民代表みたいなカオして生きてます)

 植爺がどうしても「アランは貴族」だと言いたいなら、説明会話を入れなくては。
「4代以上続いた貴族の家柄でないモノは、一切の昇進を禁止する」という規則があること。貴族社会すら、大貴族たちの地位を守るために回っていること。
 そんな現状で、アランの一家が「貴族」とは名ばかりの、平民以下の貧しい暮らしをしていること。
 この基本説明がないままに、「貴族VS平民」平民側リーダー・アランてのはおかしすぎる。

 植爺はほんとにアホだなと思うよ。……あ、シンプルに言っちゃった。

 ディアンヌとイザベルにしろ、ジャルジェ家の人々にしろ、無理矢理役を作っているんだろうとは思う。娘役たちに出番を与えるために。
 それはわかるが、間違ってるから。

 ジャルジェ家の人々のシーンと、ディアンヌとイザベル、そして衛兵隊の家族のシーンを削っても、他に出番を作ればいいだけの話だ。

 次の欄で、以上のことをまとめたうえでの「第1幕」の私案を書く。


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