シングル・ウーマン・その2。@ベルサイユのばら−オスカル編−
2006年2月20日 タカラヅカ アンドレ役が特出であり、お稽古時間を取るのが難しいためだろう、彼の出番は極端ら減らされていた。
主役の相手役の出番を減らす、ということが「作品」の屋台骨をどれほど揺るがすか−−わかりやすい失敗例が今回の『ベルサイユのばら−オスカル編−』だ。
アンドレがぜんぜん出てこない、オスカルひとりでなんでも、なんとなくこなしてしまうもんだから、「オスカルとアンドレのラヴストーリー」としての意味が薄れてしまっているんだな。
もちろん、悪いのは脚本だ。
ここまでアンドレを無意味にしてしまうなんて、ありえない。
しかし。
脚本の壊れっぷりに拍車をかけているのは、まちがいなくコム姫だ。
朝海ひかるの持ち味は「クール」だ。
よくも悪くも低温。
役がどうであれ、本人の気持ちがどうであれ、あくせくしているように見えないし、情熱があるようにも見えない。
少年のような瑞々しい美貌と華奢な身体、中性的・女性的でありながらも、オトコマエな芸風。
マイペースでクール、ドライな持ち味。
それはコム姫の魅力である。
ええ。魅力ですとも。わたしはそんなコムちゃんが大好きだ。
されどこのコム姫のコム姫たる持ち味が、オスカルにはまったく合わない。
もお、おかしくておかしくて。
愉快で仕方がない。
ただでさえぶっ壊れている笑える話を、コム姫が、華麗により強力にぶっ壊しているんだもの。
オスカルという役には、温度と湿度が必要なんだ。ホットでウェットでなきゃイカンのだ。
一見クールに軍服着て指揮官をやっていても、実はかなり頑固で熱情的で繊細な人だもんよ、オスカル隊長。
悩んだり怒ったり泣いたり、なにもかもが激しい、ものすげー人間くさいキャラクタだ。
だからこそ、貴族に生まれ育ちながら、現体制に疑問を持ち、革命に参加するようになるんだから。
オスカルの人間的な葛藤が、時代を超え世代を超え、共感を生むんだ。
彼女の持つ悩みや迷い、痛みや理想は、時代に関係なく誰もが持つ普遍的なものだからだ。
仕事であれ恋愛であれ家庭問題であれ、いつも壁にぶつかりグダグダ悩み苦しみ、それでも自分の力で超えていく。
だからオスカルは愛される。
スーパーマンじゃないから。等身大の「人間」だから。
なのに。
コム姫オスカルってば、悩みなさ過ぎ。
葛藤なんか、どこにもない。
強い。ひたすら強い。
超絶オトコマエ。
余裕の微笑みを浮かべながら、障害を障害ともせず、ひらりと超えていく。
ただでさえアンドレの出番が少なくて、存在価値が薄れているというのに。
コム姫が強すぎる、クールすぎるから、ますますアンドレの立場がない。
このオスカルなら、無人島ででも、ひとりで生きていけるよ。
誰かの手なんて、必要ないってば(笑)。
恋愛面だけでなく、生き方においても迷いがまったくない。
貴族に生まれながら革命に参加することになるって、ものすげー葛藤があるはずなんだがなー。
登場からすでに、平民の衛兵隊員たちと共に生きる気満々だろ。衛兵隊転属を決めたところから話がはじまるわけだが、そのときにはもう、革命まで行っちゃう気だろ。カケラも迷ってないだろ(笑)。
悩みも葛藤もなく、自分の生きたいように人生を軽やかに進む。
そんなの、オスカルぢゃない(笑)。
家族も必要じゃないし、男(恋人)もいらない。クールで余裕。
そんなの、オスカルぢゃない(笑)。
オスカルぢゃない。オスカルぢゃないよ?
でも、どうせコレは植爺のめちゃくちゃ『ベルばら』だから。
オスカルが「強い」という意味で別人でも、ぜんぜんOK。
いやむしろ、痛快だ。
男になんか頼らない。ナヨナヨしない。それどころか、自分に惚れているバカ男を利用してやる。
「女のくせに」と難癖をつけるバカどもを冷笑、「あなたは女なのよ」押しつけてくる狭量女たちに上辺だけ笑顔。どちらもてきとーにあしらう。
足枷でしかない家族や旧体制たる貴族社会を捨てて、自分に心酔しているイケメン兵士たちを引きつれ、第2の人生へGO!
−−そんな、クールでふてぶてしいさまが、愉快で愉快で。
コム姫がどういうつもりで演技しているのかなんて、知らないよ。
ただ、わたしにはそう見えるんだってば(笑)。
爆笑した。
『ベルばら』というものを、しれっとぶち壊していくコム姫に。
コム姫ソレ、チガウから! オスカルは、『ベルばら』は、そうじゃないから!!
でもそんなところが、たまらなく好き。
確信犯に見えてくるよ。
植爺のアホウさ加減も作品のめちゃくちゃぶりも全部わかった上で、それに翻弄されているふりで、黙って従っているふりで、それらすべてを、飛び越えていくの。
それこそ、あのバカバカしいペガちゃんに乗りながら悟りきったような、すがすがしい笑顔をしているように。
いいなあ、コムカル。うっとり。
だがもちろんソレは、コムカルが完璧に美しいという前提あってのことだ。
コム姫演じるオスカルは、外見だけでいうなら、まさに完璧。これほど「オスカル」という記号に相応しい人がいるだろうか、という似合いっぷり。
そこにいるだけで「あっ、オスカル様だ!」と思えてしまう、「男装の麗人オスカル」を表現している。軍服もマントも、フリフリブラウスもなんでもござれ、男の格好をして凛々しく、されど女性だということもわかり、かといって女々しくもない。この絶妙のバランス。
この「完璧な外見」があるからこそ、あの「ソレ、オスカルぢゃないから!」な芸風が活きるんだ。
植爺なんか絶対、外見で誤魔化されてるよ(笑)。コムカルが植爺らしさを全部ぶっ壊し、否定して存在していること、気づいてない(笑)。
ものすごーく理不尽な校則があったとして、「こんな校則守るもんか。フン!」って逆らっても、なんにもならないでしょ?
不良がいくら、「まちがっているのは学校だ。だから俺は従わないんだ」と言っても、なにも変わらないでしょう?
それよりも、いい成績を取って教師たちに気に入られ、他の生徒たちの人望を集め、生徒会長になるなりして「理不尽な校則」を廃止するよう働きかける方が現実的でしょう?
教師だって人の子、「反抗的な不良」の言うことには耳を貸さなくても、「素直で真面目な優等生」の言葉には耳を傾けるでしょう?
コムカルの「外見」と「中身」のギャップに、そーゆーしたたかさを感じるの。
植爺がよろこぶ「完璧なオスカル」の姿を作り上げ、そのくせ舞台の上では植爺の女性観と正反対の「自立したオスカル」を演じる。
コムカルには、弱さがない。葛藤がない。
ひとりで生きていける。
誰よりも強い。
「女であること」を強要する、あのアタマの悪い家族たちの前でわざとらしく甘えてみせ、ストーカーアンドレを色仕掛けでコマし、衛兵隊隊士たちの前ではニヒルに笑う。
究極のシングル・ウーマン。
かっこいい。
かっこいいよ、コムカル!!
どんなにオスカルとしてまちがっていても、話をぶち壊していても、大好きだ。
気持ちよく、爆笑させてもらったよ。
主役の相手役の出番を減らす、ということが「作品」の屋台骨をどれほど揺るがすか−−わかりやすい失敗例が今回の『ベルサイユのばら−オスカル編−』だ。
アンドレがぜんぜん出てこない、オスカルひとりでなんでも、なんとなくこなしてしまうもんだから、「オスカルとアンドレのラヴストーリー」としての意味が薄れてしまっているんだな。
もちろん、悪いのは脚本だ。
ここまでアンドレを無意味にしてしまうなんて、ありえない。
しかし。
脚本の壊れっぷりに拍車をかけているのは、まちがいなくコム姫だ。
朝海ひかるの持ち味は「クール」だ。
よくも悪くも低温。
役がどうであれ、本人の気持ちがどうであれ、あくせくしているように見えないし、情熱があるようにも見えない。
少年のような瑞々しい美貌と華奢な身体、中性的・女性的でありながらも、オトコマエな芸風。
マイペースでクール、ドライな持ち味。
それはコム姫の魅力である。
ええ。魅力ですとも。わたしはそんなコムちゃんが大好きだ。
されどこのコム姫のコム姫たる持ち味が、オスカルにはまったく合わない。
もお、おかしくておかしくて。
愉快で仕方がない。
ただでさえぶっ壊れている笑える話を、コム姫が、華麗により強力にぶっ壊しているんだもの。
オスカルという役には、温度と湿度が必要なんだ。ホットでウェットでなきゃイカンのだ。
一見クールに軍服着て指揮官をやっていても、実はかなり頑固で熱情的で繊細な人だもんよ、オスカル隊長。
悩んだり怒ったり泣いたり、なにもかもが激しい、ものすげー人間くさいキャラクタだ。
だからこそ、貴族に生まれ育ちながら、現体制に疑問を持ち、革命に参加するようになるんだから。
オスカルの人間的な葛藤が、時代を超え世代を超え、共感を生むんだ。
彼女の持つ悩みや迷い、痛みや理想は、時代に関係なく誰もが持つ普遍的なものだからだ。
仕事であれ恋愛であれ家庭問題であれ、いつも壁にぶつかりグダグダ悩み苦しみ、それでも自分の力で超えていく。
だからオスカルは愛される。
スーパーマンじゃないから。等身大の「人間」だから。
なのに。
コム姫オスカルってば、悩みなさ過ぎ。
葛藤なんか、どこにもない。
強い。ひたすら強い。
超絶オトコマエ。
余裕の微笑みを浮かべながら、障害を障害ともせず、ひらりと超えていく。
ただでさえアンドレの出番が少なくて、存在価値が薄れているというのに。
コム姫が強すぎる、クールすぎるから、ますますアンドレの立場がない。
このオスカルなら、無人島ででも、ひとりで生きていけるよ。
誰かの手なんて、必要ないってば(笑)。
恋愛面だけでなく、生き方においても迷いがまったくない。
貴族に生まれながら革命に参加することになるって、ものすげー葛藤があるはずなんだがなー。
登場からすでに、平民の衛兵隊員たちと共に生きる気満々だろ。衛兵隊転属を決めたところから話がはじまるわけだが、そのときにはもう、革命まで行っちゃう気だろ。カケラも迷ってないだろ(笑)。
悩みも葛藤もなく、自分の生きたいように人生を軽やかに進む。
そんなの、オスカルぢゃない(笑)。
家族も必要じゃないし、男(恋人)もいらない。クールで余裕。
そんなの、オスカルぢゃない(笑)。
オスカルぢゃない。オスカルぢゃないよ?
でも、どうせコレは植爺のめちゃくちゃ『ベルばら』だから。
オスカルが「強い」という意味で別人でも、ぜんぜんOK。
いやむしろ、痛快だ。
男になんか頼らない。ナヨナヨしない。それどころか、自分に惚れているバカ男を利用してやる。
「女のくせに」と難癖をつけるバカどもを冷笑、「あなたは女なのよ」押しつけてくる狭量女たちに上辺だけ笑顔。どちらもてきとーにあしらう。
足枷でしかない家族や旧体制たる貴族社会を捨てて、自分に心酔しているイケメン兵士たちを引きつれ、第2の人生へGO!
−−そんな、クールでふてぶてしいさまが、愉快で愉快で。
コム姫がどういうつもりで演技しているのかなんて、知らないよ。
ただ、わたしにはそう見えるんだってば(笑)。
爆笑した。
『ベルばら』というものを、しれっとぶち壊していくコム姫に。
コム姫ソレ、チガウから! オスカルは、『ベルばら』は、そうじゃないから!!
でもそんなところが、たまらなく好き。
確信犯に見えてくるよ。
植爺のアホウさ加減も作品のめちゃくちゃぶりも全部わかった上で、それに翻弄されているふりで、黙って従っているふりで、それらすべてを、飛び越えていくの。
それこそ、あのバカバカしいペガちゃんに乗りながら悟りきったような、すがすがしい笑顔をしているように。
いいなあ、コムカル。うっとり。
だがもちろんソレは、コムカルが完璧に美しいという前提あってのことだ。
コム姫演じるオスカルは、外見だけでいうなら、まさに完璧。これほど「オスカル」という記号に相応しい人がいるだろうか、という似合いっぷり。
そこにいるだけで「あっ、オスカル様だ!」と思えてしまう、「男装の麗人オスカル」を表現している。軍服もマントも、フリフリブラウスもなんでもござれ、男の格好をして凛々しく、されど女性だということもわかり、かといって女々しくもない。この絶妙のバランス。
この「完璧な外見」があるからこそ、あの「ソレ、オスカルぢゃないから!」な芸風が活きるんだ。
植爺なんか絶対、外見で誤魔化されてるよ(笑)。コムカルが植爺らしさを全部ぶっ壊し、否定して存在していること、気づいてない(笑)。
ものすごーく理不尽な校則があったとして、「こんな校則守るもんか。フン!」って逆らっても、なんにもならないでしょ?
不良がいくら、「まちがっているのは学校だ。だから俺は従わないんだ」と言っても、なにも変わらないでしょう?
それよりも、いい成績を取って教師たちに気に入られ、他の生徒たちの人望を集め、生徒会長になるなりして「理不尽な校則」を廃止するよう働きかける方が現実的でしょう?
教師だって人の子、「反抗的な不良」の言うことには耳を貸さなくても、「素直で真面目な優等生」の言葉には耳を傾けるでしょう?
コムカルの「外見」と「中身」のギャップに、そーゆーしたたかさを感じるの。
植爺がよろこぶ「完璧なオスカル」の姿を作り上げ、そのくせ舞台の上では植爺の女性観と正反対の「自立したオスカル」を演じる。
コムカルには、弱さがない。葛藤がない。
ひとりで生きていける。
誰よりも強い。
「女であること」を強要する、あのアタマの悪い家族たちの前でわざとらしく甘えてみせ、ストーカーアンドレを色仕掛けでコマし、衛兵隊隊士たちの前ではニヒルに笑う。
究極のシングル・ウーマン。
かっこいい。
かっこいいよ、コムカル!!
どんなにオスカルとしてまちがっていても、話をぶち壊していても、大好きだ。
気持ちよく、爆笑させてもらったよ。
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