シングル・ウーマン。@ベルサイユのばら−オスカル編−
2006年2月19日 タカラヅカ 抱腹絶倒『ベルサイユのばら−オスカル編−』。
笑いポイントだけでできあがったよーなこの話、ロザリーがどえらいことになってはいたが。
オスカルにも、問題大アリだ。
わたしは基本的に、ビデオを見ない。よっぽどのことがないと、わざわざそんなもん見ないさ。舞台も映画もナマが命、自宅のちっちゃなテレビで見たいとは思っていない。
だもんで、わたしが語る記憶ってのは、ナマで観たときのことばかりだ。ビデオで補完したりしていないので、きっとまちがいまくっていると思うよ。プログラムも買ってないしな。
何年前のことであろと、当時の記憶のみだもの。
特に『ベルばら』なんて。ナマで観るのも苦痛なのに、ビデオ見るわけないじゃん。
つーことで、わたしはすでに風化した記憶をたどる。以前に観た『オスカル編』……えーとえーと、涼風主役で月組だったな。トウコたちの初舞台だっけ? アントワネットやフェルゼンが出なかったんだよな?
ロザリーとディアンヌ、準ヒロインがふたりもいて混乱したよなー。
たしか、カリンチョとネッシーと天海のアンドレ観たんだっけか。なつめさんは苦手だったのでスルー。
ビジュアルがいちばんアレだと思っていたカリンチョさんのアンドレがいちばんよくておどろいたことと、天海のダメっぷり(笑)ぐらいしかおぼえてねー。
まああとはなんといっても、巨大スクリーンに大爆笑したことぐらいで。
十数年前に数回観ただけの記憶だ。ろくにおぼえてない。
そのおぼつかない記憶をたどりながら、首を傾げる。
『オスカル編』って、こんなだっけ?
『オスカル編』であろうと、『オスカルとアンドレ編』であろうと、基本はオスカルとアンドレのラヴストーリーだと思っていたの。
いちばんの見せ場がふたりの結ばれる「今宵一夜」である以上、ふたりの物語だと思っていたのよ。オスカルとアンドレ、どちらに重点が置かれるかで『**編』と名前が変化するだけで、基本は同じだと。
今回の『オスカル編』を観て思った。
たしかに、主人公はオスカルだ。それはいい。
だが、あくまでも、「オスカル」のみなんだ。
アンドレがいない。
とゆーか。
アンドレ、いらない。
えーと?
『ベルばら』って、そーゆー話だっけ? アンドレいなくてもストーリー成り立つもんだっけ?
物語はいつものよーに、オスカルとアンドレの出会いからはじまる。
オスカル7歳、アンドレ8歳。
剣の稽古をする子ども時代のふたりが木の後ろで本役と入れ替わり、30代になった大人のふたりが現れる演出は健在。
「ふたりの物語」である限り、「ふたりの出会い」から描かれるのは正しい。おねーさまたちの花摘みうぜぇよというのは置いておいて、オスカルとアンドレが出会うエピソードが冒頭に来るのは正しいんだ。
子どものころに出会ったふたりは、こーして大人になった今も、いつも一緒にいる。
それを表現するエピソードは正しく機能している。
なのに。
こっから先が、おかしい。
アンドレが、いない。
出てこない。
オスカルはひとりで衛兵隊に乗り込み、大暴れする。
ひとりで、ロザリーに結婚の世話を焼いたりする。
ひとりで、衛兵隊隊士たちに子守歌を聴かせて心酔させる。
1幕はテンポ最悪でいらないシーンばかりなんだが、いちおーここでの「出来事」としては、「オスカル隊長が衛兵隊を掌握する」だよな?
そのつぎの「出来事」が、「ロザリー嫁に行く」だよな?
物語の中心となる「出来事」、場面に、アンドレがいない。
すべて、オスカルひとりでやり遂げる。
もちろん、アンドレがなにかしなければならないというわけじゃない。
オスカルひとりで行うのは正しい。
ただ。
「さながらカストルとポルックスのように」とゆーほど、「いつも一緒」という設定だから、変なんだよ。
女のオスカルが衛兵隊に赴任する、のは、みんなが大騒ぎしてうぜぇくらい大変なことだったはずだ。そーゆー大変なときだからこそ、オスカルを愛するアンドレは、影のように彼女の側にいなければならない。
なにをするでなくても、ただ、いつも側にいる。それが本来のアンドレという男の愛し方だろう。
オスカルも、自分ひとりでなんでもやってかまわないけれど、側にアンドレがいる、そのことが自分の力となっていたことに気づき、愛を自覚するに至るわけだろう。
オスカル人生でいちばん大変なときに、そばにいないアンドレって、アンドレの意味あるのか?
せっかく「ふたりの出会い」から描かれた物語は、「アンドレ不在」で、「オスカルひとり」の物語として進む。
ひとりでなんの問題もなく生きているオスカルに対し、問題がすべて解決したところでのんきにアンドレが現れ、「ペガサス」がどーの「肖像画」がどーのとうわごとを並べ、意味のないクレーンペガちゃんのシーンになって1幕が終わるわけだ。
そして2幕、オスカルがひとりでまとめあげた衛兵隊に、なーんにもしなかったアンドレがどこの貴族大将軍のよーな豪華な軍服とマント姿でまざって、えらそーにしている。
はあ? アンタ誰?状態ですな。
自分ではナニもしなかったのに、おいしいとこだけ取ってるの?
そんな男に、「オスカルに縁談が! 俺のモノにならないなら殺してやる!」と言い出されても……。どこの電波ストーカー男の思考回路だよ。
1幕にアンドレがいなかったこと、これがすべての悪因。
2幕でのアンドレの行動が全部壊れてしまうんだ。
とまあ、悪いのはまちがいなく脚本だよ。作劇の基本を知らない人が素人臭い失敗をしているだけのこと。
でもなあ。
コムちゃんのオスカルにも、問題アリなんだわ。
と、冒頭のテーマにたどりついたところで、翌日欄につづく(笑)。
笑いポイントだけでできあがったよーなこの話、ロザリーがどえらいことになってはいたが。
オスカルにも、問題大アリだ。
わたしは基本的に、ビデオを見ない。よっぽどのことがないと、わざわざそんなもん見ないさ。舞台も映画もナマが命、自宅のちっちゃなテレビで見たいとは思っていない。
だもんで、わたしが語る記憶ってのは、ナマで観たときのことばかりだ。ビデオで補完したりしていないので、きっとまちがいまくっていると思うよ。プログラムも買ってないしな。
何年前のことであろと、当時の記憶のみだもの。
特に『ベルばら』なんて。ナマで観るのも苦痛なのに、ビデオ見るわけないじゃん。
つーことで、わたしはすでに風化した記憶をたどる。以前に観た『オスカル編』……えーとえーと、涼風主役で月組だったな。トウコたちの初舞台だっけ? アントワネットやフェルゼンが出なかったんだよな?
ロザリーとディアンヌ、準ヒロインがふたりもいて混乱したよなー。
たしか、カリンチョとネッシーと天海のアンドレ観たんだっけか。なつめさんは苦手だったのでスルー。
ビジュアルがいちばんアレだと思っていたカリンチョさんのアンドレがいちばんよくておどろいたことと、天海のダメっぷり(笑)ぐらいしかおぼえてねー。
まああとはなんといっても、巨大スクリーンに大爆笑したことぐらいで。
十数年前に数回観ただけの記憶だ。ろくにおぼえてない。
そのおぼつかない記憶をたどりながら、首を傾げる。
『オスカル編』って、こんなだっけ?
『オスカル編』であろうと、『オスカルとアンドレ編』であろうと、基本はオスカルとアンドレのラヴストーリーだと思っていたの。
いちばんの見せ場がふたりの結ばれる「今宵一夜」である以上、ふたりの物語だと思っていたのよ。オスカルとアンドレ、どちらに重点が置かれるかで『**編』と名前が変化するだけで、基本は同じだと。
今回の『オスカル編』を観て思った。
たしかに、主人公はオスカルだ。それはいい。
だが、あくまでも、「オスカル」のみなんだ。
アンドレがいない。
とゆーか。
アンドレ、いらない。
えーと?
『ベルばら』って、そーゆー話だっけ? アンドレいなくてもストーリー成り立つもんだっけ?
物語はいつものよーに、オスカルとアンドレの出会いからはじまる。
オスカル7歳、アンドレ8歳。
剣の稽古をする子ども時代のふたりが木の後ろで本役と入れ替わり、30代になった大人のふたりが現れる演出は健在。
「ふたりの物語」である限り、「ふたりの出会い」から描かれるのは正しい。おねーさまたちの花摘みうぜぇよというのは置いておいて、オスカルとアンドレが出会うエピソードが冒頭に来るのは正しいんだ。
子どものころに出会ったふたりは、こーして大人になった今も、いつも一緒にいる。
それを表現するエピソードは正しく機能している。
なのに。
こっから先が、おかしい。
アンドレが、いない。
出てこない。
オスカルはひとりで衛兵隊に乗り込み、大暴れする。
ひとりで、ロザリーに結婚の世話を焼いたりする。
ひとりで、衛兵隊隊士たちに子守歌を聴かせて心酔させる。
1幕はテンポ最悪でいらないシーンばかりなんだが、いちおーここでの「出来事」としては、「オスカル隊長が衛兵隊を掌握する」だよな?
そのつぎの「出来事」が、「ロザリー嫁に行く」だよな?
物語の中心となる「出来事」、場面に、アンドレがいない。
すべて、オスカルひとりでやり遂げる。
もちろん、アンドレがなにかしなければならないというわけじゃない。
オスカルひとりで行うのは正しい。
ただ。
「さながらカストルとポルックスのように」とゆーほど、「いつも一緒」という設定だから、変なんだよ。
女のオスカルが衛兵隊に赴任する、のは、みんなが大騒ぎしてうぜぇくらい大変なことだったはずだ。そーゆー大変なときだからこそ、オスカルを愛するアンドレは、影のように彼女の側にいなければならない。
なにをするでなくても、ただ、いつも側にいる。それが本来のアンドレという男の愛し方だろう。
オスカルも、自分ひとりでなんでもやってかまわないけれど、側にアンドレがいる、そのことが自分の力となっていたことに気づき、愛を自覚するに至るわけだろう。
オスカル人生でいちばん大変なときに、そばにいないアンドレって、アンドレの意味あるのか?
せっかく「ふたりの出会い」から描かれた物語は、「アンドレ不在」で、「オスカルひとり」の物語として進む。
ひとりでなんの問題もなく生きているオスカルに対し、問題がすべて解決したところでのんきにアンドレが現れ、「ペガサス」がどーの「肖像画」がどーのとうわごとを並べ、意味のないクレーンペガちゃんのシーンになって1幕が終わるわけだ。
そして2幕、オスカルがひとりでまとめあげた衛兵隊に、なーんにもしなかったアンドレがどこの貴族大将軍のよーな豪華な軍服とマント姿でまざって、えらそーにしている。
はあ? アンタ誰?状態ですな。
自分ではナニもしなかったのに、おいしいとこだけ取ってるの?
そんな男に、「オスカルに縁談が! 俺のモノにならないなら殺してやる!」と言い出されても……。どこの電波ストーカー男の思考回路だよ。
1幕にアンドレがいなかったこと、これがすべての悪因。
2幕でのアンドレの行動が全部壊れてしまうんだ。
とまあ、悪いのはまちがいなく脚本だよ。作劇の基本を知らない人が素人臭い失敗をしているだけのこと。
でもなあ。
コムちゃんのオスカルにも、問題アリなんだわ。
と、冒頭のテーマにたどりついたところで、翌日欄につづく(笑)。
コメント