ほんとーの意味での太田作品。@不滅の恋人たちへ
2006年1月19日 タカラヅカ わたしは太田作品はエンタメじゃないから嫌いだけど、その美しさは認めている。
「うわごと」でしかない言葉遊びも含め、美しい。
「太田ワールド」という言い方をする。
太田哲則の作る、独特の舞台を指して。
『不滅の恋人たちへ』は、その「太田ワールド」の集大成だ。
ストーリーなどなく、ただ美しい人たちが美しい衣装を着て、真正面を向いて美しい言葉を喋り続ける。
それは会話ではないし、芝居でもない。
キャラクタは向かい合って話さず、客席に向けて言葉を流し続ける。
わたしは「ふざけんな」と思う。
好きなことを好きなだけ並べたてるだけなら、素人でもできる。
上記のことを、「ストーリーの中で」「役者を使って演技をさせて」「起承転結クライマックス、観客をたのしませて」、そのうえでやれ。
その3つを成立させるのが難しいし、創作者の腕の見せどころだろう。
それを全部放棄して、「好きなことだけ」並べ立てて、「ほーら、美しいだろう」と言われてもな。
……とは思っているけれど。
「太田ワールド」自体はアリだと思っているんだ。
わたしが嫌いなだけでな(笑)。
エンタメを否定し、自分の趣味だけを追及した作品も、あってもいいとは思っている。
ヅカでやるな、生徒は動く背景じゃねえ、とか文句は山ほどあるけど、それは論旨がズレるので今は置いておく。
太田作品は、アリだと思う。
この前提で話を進めたいと思う。
今回の『不滅の恋人たちへ』も、ひょっとしたらいい作品なのかもしれない。
流れ続ける言葉の奔流も、実は意味深く、計算され尽くした完璧な造形で存在し、舞台の視覚的美しさと相俟って人生の深淵を語る究極の芸術作品であるのかもしれない。
とゆー、「太田ワールド集大成」としての『不滅の恋人たちへ』という作品であったとして。
えーと。
主演がタニちゃんでいいんですか?
太田作品はアリだと思う。
創作形態のひとつとして、アリだとは思っている。
だが、太田作品は、「人」を選ぶだろう。
観客も選ぶかもしれないが、それ以上に役者を選ぶだろう。
演技力のない人や、世界観に合わない人が演じたら、ぺらっぺらの薄ら寒いモノ、眠いだけのつまらないモノになってしまいますが。
誰が演じても格好がつく、というタイプの作品ではないよね? むしろ、かなり間口が狭いよね?
こんな、役者を選ぶタイプの芝居を、どーして平気でタカラヅカなんかで作り続けてるんだ、太田哲則。
わたしがもし、太田せんせなら、絶対OK出さないけどなあ。
背景役のモブキャラは仕方ないとして、主要4人くらいは演技のできる人か、「演技しなくても役にはまる人」で構成するよ。
でないと、せっかくの作品がスベるもん。
表現しきれないもん。
自分の作品がかわいいなら、絶対そうする。
だから、わかんないんだ。
太田作品のよーなタイプの作品は、ヅカでもなけりゃ客は入らないだろう。
高尚な芸術作品なんぞ、バカな観客は理解できませんから。
ほんのごくわずかな「高尚な客」だけを相手にしていては、商業として成り立ちません。
「出演者を見に来る」ヅカだから、話が「高尚すぎて」わけわかんなくても、客が入る。
客入りのためにヅカでやってるのかな?
外部では、お金にならないから?
太田作品のよーなタイプの作品は、ヅカでもなけりゃ「美」を成立させにくいだろう。
日本人男性は、ヅカの男役ほど美しくありませんから。5等身あたりまえ、足の長さはカラダの3分の1、顔がきれいだとしても女性よりは面積広いです、とかだからなー。金髪もフリルも似合いませんて。
女性が演じる「男」だからこそ表現しうる、ファンタジーとしての「美」。
「美」を追及するために、ヅカでやってるのかな?
外部では、「太田ワールド」の「美」を表現できないから?
そーゆー、「タカラヅカでなければならない」理由は考えられるけれど。
それらを考慮したって、じゃあ下手な人が演じて、作品ぶち壊してもいいの? という疑問は残るよ。
タカラヅカだよ?
誰もが演技力を認められて主役をするわけじゃないんだよ? てゆーか、それ以外の魅力で真ん中に立つ世界だよ?
いくら他に要因があろうと、ヅカでえんえん「太田ワールド」を展開しつづけるのは無謀じゃないのか? せっかくの「ワールド」が表現されず理解されず「駄作」認定で終わっちゃうよ?
太田せんせほど、生徒の持ち味無視して自分の作品だけを書き続ける人なら、この現状は我慢できないと思うんだけど。
書くのがたのしいだけで、できあがりは興味のない人なのかなあ。
「太田せんせは、自分の好きな言葉(バイロンとか)を、きれいな生徒たちが言ってくれるだけで満足なんですよ、きっと」
と、誰だったかが言っていた通りなのかしら。
きれいな人たちが、自分の書いたきれいな作品を演じている。自分の指示した通りの発音、話し方、動きで舞台に立っている、それだけで満足、しあわせ、てな人なのかしら。
わかんないわー。
というのも。
太田作品にはもれなく、チャルさんが出演している。
しかも、どの作品でも実は主役だよね? というウエイトでだ。
つまり、太田せんせは、自分の作品を表現する役者として、チャルさんをいちばん認め必要としている、ということだ。
チャルさんが「太田ワールドに必要不可欠」であるならば。
あのキャラ、濃さ、演技の濃度を「スタンダード」と考えているならば。
やっぱり、ほんとーはわかっているんじゃないかと思うんだ。
他の生徒たち、演技力以外の魅力で主役をする生徒たちの「足りなさ」が。
タカラヅカで、スターシステムがあるから仕方なく「スター」を主役にしているけれど。
自分の作品を表現するのに、彼らでは納得できていないんじゃないのか?
わたしは、太田作品が嫌いだよ。
でも、ほんとーの意味での太田作品は、きっとわたし、あまり観ていないと思うんだ。
真の意味で、「太田ワールド」を表現しきることのできる演技力、存在感を持った役者のみで構成された作品は、きっとほとんど観ていない。
大抵、スベったつまらない作品ばかりだもの。
一度、本物の太田作品を観てみたいと思うよ。
もちろん。
演技力が多少アレでも、スター力だけで誰でも魅力的に見える、かつおもしろい作品を書きやがれ、そーすりゃなんの問題もないんだよ! と、思ってますけどね(笑顔)。
「うわごと」でしかない言葉遊びも含め、美しい。
「太田ワールド」という言い方をする。
太田哲則の作る、独特の舞台を指して。
『不滅の恋人たちへ』は、その「太田ワールド」の集大成だ。
ストーリーなどなく、ただ美しい人たちが美しい衣装を着て、真正面を向いて美しい言葉を喋り続ける。
それは会話ではないし、芝居でもない。
キャラクタは向かい合って話さず、客席に向けて言葉を流し続ける。
わたしは「ふざけんな」と思う。
好きなことを好きなだけ並べたてるだけなら、素人でもできる。
上記のことを、「ストーリーの中で」「役者を使って演技をさせて」「起承転結クライマックス、観客をたのしませて」、そのうえでやれ。
その3つを成立させるのが難しいし、創作者の腕の見せどころだろう。
それを全部放棄して、「好きなことだけ」並べ立てて、「ほーら、美しいだろう」と言われてもな。
……とは思っているけれど。
「太田ワールド」自体はアリだと思っているんだ。
わたしが嫌いなだけでな(笑)。
エンタメを否定し、自分の趣味だけを追及した作品も、あってもいいとは思っている。
ヅカでやるな、生徒は動く背景じゃねえ、とか文句は山ほどあるけど、それは論旨がズレるので今は置いておく。
太田作品は、アリだと思う。
この前提で話を進めたいと思う。
今回の『不滅の恋人たちへ』も、ひょっとしたらいい作品なのかもしれない。
流れ続ける言葉の奔流も、実は意味深く、計算され尽くした完璧な造形で存在し、舞台の視覚的美しさと相俟って人生の深淵を語る究極の芸術作品であるのかもしれない。
とゆー、「太田ワールド集大成」としての『不滅の恋人たちへ』という作品であったとして。
えーと。
主演がタニちゃんでいいんですか?
太田作品はアリだと思う。
創作形態のひとつとして、アリだとは思っている。
だが、太田作品は、「人」を選ぶだろう。
観客も選ぶかもしれないが、それ以上に役者を選ぶだろう。
演技力のない人や、世界観に合わない人が演じたら、ぺらっぺらの薄ら寒いモノ、眠いだけのつまらないモノになってしまいますが。
誰が演じても格好がつく、というタイプの作品ではないよね? むしろ、かなり間口が狭いよね?
こんな、役者を選ぶタイプの芝居を、どーして平気でタカラヅカなんかで作り続けてるんだ、太田哲則。
わたしがもし、太田せんせなら、絶対OK出さないけどなあ。
背景役のモブキャラは仕方ないとして、主要4人くらいは演技のできる人か、「演技しなくても役にはまる人」で構成するよ。
でないと、せっかくの作品がスベるもん。
表現しきれないもん。
自分の作品がかわいいなら、絶対そうする。
だから、わかんないんだ。
太田作品のよーなタイプの作品は、ヅカでもなけりゃ客は入らないだろう。
高尚な芸術作品なんぞ、バカな観客は理解できませんから。
ほんのごくわずかな「高尚な客」だけを相手にしていては、商業として成り立ちません。
「出演者を見に来る」ヅカだから、話が「高尚すぎて」わけわかんなくても、客が入る。
客入りのためにヅカでやってるのかな?
外部では、お金にならないから?
太田作品のよーなタイプの作品は、ヅカでもなけりゃ「美」を成立させにくいだろう。
日本人男性は、ヅカの男役ほど美しくありませんから。5等身あたりまえ、足の長さはカラダの3分の1、顔がきれいだとしても女性よりは面積広いです、とかだからなー。金髪もフリルも似合いませんて。
女性が演じる「男」だからこそ表現しうる、ファンタジーとしての「美」。
「美」を追及するために、ヅカでやってるのかな?
外部では、「太田ワールド」の「美」を表現できないから?
そーゆー、「タカラヅカでなければならない」理由は考えられるけれど。
それらを考慮したって、じゃあ下手な人が演じて、作品ぶち壊してもいいの? という疑問は残るよ。
タカラヅカだよ?
誰もが演技力を認められて主役をするわけじゃないんだよ? てゆーか、それ以外の魅力で真ん中に立つ世界だよ?
いくら他に要因があろうと、ヅカでえんえん「太田ワールド」を展開しつづけるのは無謀じゃないのか? せっかくの「ワールド」が表現されず理解されず「駄作」認定で終わっちゃうよ?
太田せんせほど、生徒の持ち味無視して自分の作品だけを書き続ける人なら、この現状は我慢できないと思うんだけど。
書くのがたのしいだけで、できあがりは興味のない人なのかなあ。
「太田せんせは、自分の好きな言葉(バイロンとか)を、きれいな生徒たちが言ってくれるだけで満足なんですよ、きっと」
と、誰だったかが言っていた通りなのかしら。
きれいな人たちが、自分の書いたきれいな作品を演じている。自分の指示した通りの発音、話し方、動きで舞台に立っている、それだけで満足、しあわせ、てな人なのかしら。
わかんないわー。
というのも。
太田作品にはもれなく、チャルさんが出演している。
しかも、どの作品でも実は主役だよね? というウエイトでだ。
つまり、太田せんせは、自分の作品を表現する役者として、チャルさんをいちばん認め必要としている、ということだ。
チャルさんが「太田ワールドに必要不可欠」であるならば。
あのキャラ、濃さ、演技の濃度を「スタンダード」と考えているならば。
やっぱり、ほんとーはわかっているんじゃないかと思うんだ。
他の生徒たち、演技力以外の魅力で主役をする生徒たちの「足りなさ」が。
タカラヅカで、スターシステムがあるから仕方なく「スター」を主役にしているけれど。
自分の作品を表現するのに、彼らでは納得できていないんじゃないのか?
わたしは、太田作品が嫌いだよ。
でも、ほんとーの意味での太田作品は、きっとわたし、あまり観ていないと思うんだ。
真の意味で、「太田ワールド」を表現しきることのできる演技力、存在感を持った役者のみで構成された作品は、きっとほとんど観ていない。
大抵、スベったつまらない作品ばかりだもの。
一度、本物の太田作品を観てみたいと思うよ。
もちろん。
演技力が多少アレでも、スター力だけで誰でも魅力的に見える、かつおもしろい作品を書きやがれ、そーすりゃなんの問題もないんだよ! と、思ってますけどね(笑顔)。
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