わたしは植爺の『ベルばら』が嫌い。
 植田紳爾が演出をしている限り、もう二度と再演がないことを切望しているひとりだ。

 しかし……。

 イベントとしての『ベルサイユのばら』の力は、認めている。

 あの辺境の地、タカラヅカ村が華やいでいるのがわかるんだ。
 いつもは閑古鳥が鳴いている平日昼間の、この人の流れ。
 みんなみんな、たのしそうだ。
 祭りにでかける皆の衆、って感じだ。
 ディープなヅカファンでなく、一般のお客が多いのだろう。劇場のあちこちで光るカメラのフラッシュ。ロビーにある等身大フェルゼンの前で、うれしそーに記念撮影をする年輩のグループ。
 変身写真館の前の人だかり。売店の行列。

 ああ、祭りだ。
 ここはハレの場だ。
 日常を捨て、晴れ着を着て集う異空間だ。

 ひとびとがたのしそーにしている空間は、好きだ。愛しい。
 好意だとか愛だとかやさしさだとか、そーゆープラスの空気に満ちた場所が好きだ。
 たのしいたのしいたのしい、そんな笑顔の満ちる空間が好きだ。

 こんなふうに、ひとを集め、たのしませることができるなら『ベルばら』も悪くない。
 ふだんタカラヅカなんか見ない人たちが、『ベルばら』だから、とわけもわからず駆けつける。祭りだから、と駆けつける。
 いいよな、それって。
 単純でシンプルで、とてもいい。

 みんなみんな、たのしいといいね。しあわせだといいね。
 大好きなモノが、増えるといいね。

 ストーリーもキャラの見分けもつかなくても、華やかな画面だけに感心して、「タカラヅカだわーっ」と驚くだけでもいい。
 仲間たちや団体でやってきて、その場限りたのしんで、すぐに忘れてしまってもいい。

 何年、何十年たってから、「『ベルばら』、見たよ。あれはすごかった」とか罪なく話してくれよ。
 そのとき一緒だった人のことや、今よりも確実に若かった自分を思い出して幸福になってくれ。子どものころ行った遊園地や、青春時代のはじめてのデートや、小さな子どもたちを連れて家族で出かけたピクニックなんかの記憶と同じように、愛しいものにしてくれ。
 祭りだから。社会現象と呼ばれ、誰もが名前ぐらいは知っているものだから。
 記憶の見出しにしてくれ。内容なんか、おぼえてなくていいから。

 植爺の『ベルばら』は嫌い。でも、その力や意義はわかる。
 『ベルばら』だから、求められていることも。タカラヅカなんか興味のない人たちを、決して安くない金額を払って劇場へ呼び寄せる力があることも。
 これだけ名の通ったモノを作り上げた功績は認める。

 でも。
 だからこそ。

 もう植爺である必要はないだろ。『ベルサイユのばら』でさえあれば、客は入るんだから。

 全編一から作り直そうよ。新しくなったって、一般客にはわかんないよ。派手な輪っかのドレスがいっぱい出てくりゃいいんだから。そしてヅカファンは、新しくなったらみんなこぞって劇場にやってくるよ。
 一般客も、ヅカファンもよろこぶよ。

 お金が欲しいときは、『ベルサイユのばら』。
 それなら、別の演出家に新しい『ベルサイユのばら』を作らせようよ。
 植爺の時代遅れ駄作を再演しつづけるより、お金が儲かることはまちがいないって!!


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