花總まりという生き方。@W-WING-
2005年12月21日 タカラヅカ 『W-WING-』を観ておどろいたことのひとつは、「あっ、アリスちゃんだ、かわいー」と思ってよく見たら、
それが、お花様だったこと。
我が目を疑ったよ。
だってね。
脇にいるんだよ。
他の下級生たちにまじって、同じよーな衣装着て、ただの「出演者」になって、隅っこで踊ってるの。
なにをやってるんだ、花總まり!!
12年もトップスターの座に君臨した、前代未聞、史上に残るタカラジェンヌが、なんでただの脇役やってるの?!
たかちゃんに続き花ちゃんも退団を発表したとき、このライブショーは「ふたりの」サヨナラ記念公演になるんだと思った。
正直、他の娘役(男役でも可・笑)と組んだたかちゃんが見てみたかったので、最後のライブショーが「ふたりの」ショーになってしまうことは残念な気もした。(つってもわたし、所詮たか花ファンなので、ふたりががっぷり組んでタカラヅカらしいものを見せてくれると、それだけで泣けてきちゃう人なんだけどね)
「ふたりの」ではなく、たかちゃんひとりの公演が見たかった……たしかに、そう思いはした。したよ。しかし。
花ちゃんが出演しているのに、たかちゃんひとりが「サヨナラ」なショーを見ることになるなんて、夢にも思わなかったよ。
『W-WING-』の主役は、あくまでも和央ようかひとりだった。
主演・和央ようかと、他の出演者たち。
花ちゃんは、他の出演者でしかなかった。
そりゃ、場面によってはヒロイン扱いもされている。でもそれは、その場面限定だ。公演のヒロインじゃない。
たとえるなら、オサコン『I got music』の彩音ちゃんみたいなもん。1部のヒロインはたしかに彩音ちゃんで、オサダくんの相手役としてデュエットダンスしちゃうけど、『I got music』の主役はあくまでも春野寿美礼ただひとりだ。桜乃彩音を主役だとは誰も思わない。
そんな扱いだったんだ、『W-WING-』のお花様。
わたしは、花總まりが好きだ。
彼女の「娘役」としての力に惚れている。
タカラヅカという幻想空間で、正しく夢を見せてくれる力。
その類い希なスタイルもそうだし、きめ細やかな演技もそうだ。
彼女の「美しさ」が、説得力になるんだ。これほどの女を惚れさせる男、として、主人公の価値を上げるから。
タカラヅカは男役中心。だからこそ、娘役は「いい女」でなくてはならない。つまらない女を愛する男は、かっこよくは見えないのだから。
だからこそわたしは、花ちゃんの退団を惜しんでいた。
まだまだ、タカラヅカにして欲しかった。
タカラヅカは世代交代することに意味のある劇団だ。
トップスターは惜しまれて退団し、次のスターにその場所を譲る。水は流れるからいつも清く、花は散るから美しい。
花ちゃん自身がどれほどすばらしい娘役でも、いつかはトップスターの座は降りなければならない。次の世代に譲らなければならない。
それならば、世代交代を必要としないポジションで、その魅力を発揮して欲しかった。
花總まり主演公演が観たかったの。
今、タカラヅカは公演する劇場が増えている。本家の大劇場やバウホール以外のハコがたくさんある。
ならばそれらの劇場で、観たかった、娘役が主人公の作品を。
人間の半分は、女性だ。
とーぜん、物語の半分だって、女性が主人公だろう。
「主人公は男でなければならない」という縛りのあるタカラヅカは、この世の物語の半分を切り捨てているんだ。
世の中には、おもしろい物語がたくさんあるのに。
女性主人公のすばらしい作品を上演できない、上演するにあたってわざわざ主役を男に替え、つまらないくだらない壊れたしょーもない話にしてしまう、のが今のタカラヅカ。
もったいないよソレ。まちがってるよソレ。
可能性を広げようよ。
今、21世紀だよ?
タカラヅカの観客の大半は女性だ。
女性がフィクションをたのしむのに、女性が主人公で恋愛したり冒険したりすることのなにが不思議なんだ?
テレビドラマを見てよ、女性向けドラマの主人公は大抵女性だってば。ロマンス小説でも少女マンガでも、そうでしょ?
女が主人公の方が、女のよろこぶ物語を構築しやすいんだってば。
もちろん、タカラヅカは男役あってのものだ。ファンは通常男役を観に来る。主役が娘役で興行として成り立つのか、という問題がある。
そりゃ、娘役主演で彼女しか出番がなくて彼女しかいいとこのない舞台なら、集客はできないでしょー。
でもふつうに「芝居」なら、主役の女性ひとりしか出番がないなんてこと、ありえないでしょ?
主役である女性は「視点」だから。
観客は主役を通して、彼女を取り巻く「男たち」を見るから。
ヒロインひとりに、彼女に関わる男たちが複数。タイプも立場も違うが、魅力的な男たち。彼女を愛していたり、敵だったり、対等な友人だったり。
視点がヒロインひとりに固定されるからこそ、彼女を取り巻く「男たち」の魅力も存分に表現することが出来る。
ふたりの男の間で揺れ動く女、という物語で、わざわざ男のひとりを主人公にする不自然さ。
これじゃ、主人公の男ひとりしか魅力的に描けないじゃん。揺れ動く女はずるい女にしかならないじゃん。
女を主人公にすれば、主人公=観客だから揺れ動いてもヨシ。その理由として、男ふたりを徹底的に魅力的に描ける。どっちの男を選んでもおかしくないほどに。
花總まりを主人公に、売り出し中のかっこいー男役を複数同等の扱いでガンガン露出させれば、興行として成り立つと思う。
原作なら、世の中にいくらでもある。恋愛モノなんて、女性主役の方が多いんだから。
タカラヅカの新しい可能性。
それが、花總まりだと思っていたんだ。
なのに。
その花總まりは辞めてしまう。
男振りを上げて見せてくれるいい女が、辞めてしまう。
しかも、彼女の出演する最後のライブショーが、この『W-WING-』だ。
主役は同じく退団するたかちゃん。花ちゃんは、脇役。
主役が見たいと思える人なのに。主役をやれるだけの能力のある人だと思えるのに。
最後のショー作品で、なんで脇役なんかやってるんだよう。
そりゃこれは、たかちゃんのサヨナラライブで、たかちゃんが主役で当然なんだけど。たかちゃん主役でうれしいのも事実だけど。
でもさ。
ピンスポもない隅っこで、ジャージ着て下級生たちにまじって笑って踊っている花ちゃんを見ると、泣けてくるんだ。
アンタだって退団するんじゃん。これが最後なんじゃん。なのになんで、そんなとこでひとを送っているのよ?!
自分だって、送られる側なのに。
史上に残るスターなのに。
なのに、なのに、脇役としてスターを「送る」立場にいるの。
でもそれが、花ちゃんの選んだことなんだよね。
主役として立つことでも、主役として送られることでもなくて。
あくまでも、脇役として、寄り添うものとして存在すること。
「タカラヅカの娘役」として存在すること。
90年続いてきた「宝塚歌劇」の「娘役」というファンタジーであること。
それが、花總まりなんだ。
その他大勢のなかで、これ以上ない愛とよろこびに充ちた笑顔で踊る彼女に、涙が出た。
タカラヅカを、好きなんだね。
わたしも、大好きだよ。
それが、お花様だったこと。
我が目を疑ったよ。
だってね。
脇にいるんだよ。
他の下級生たちにまじって、同じよーな衣装着て、ただの「出演者」になって、隅っこで踊ってるの。
なにをやってるんだ、花總まり!!
12年もトップスターの座に君臨した、前代未聞、史上に残るタカラジェンヌが、なんでただの脇役やってるの?!
たかちゃんに続き花ちゃんも退団を発表したとき、このライブショーは「ふたりの」サヨナラ記念公演になるんだと思った。
正直、他の娘役(男役でも可・笑)と組んだたかちゃんが見てみたかったので、最後のライブショーが「ふたりの」ショーになってしまうことは残念な気もした。(つってもわたし、所詮たか花ファンなので、ふたりががっぷり組んでタカラヅカらしいものを見せてくれると、それだけで泣けてきちゃう人なんだけどね)
「ふたりの」ではなく、たかちゃんひとりの公演が見たかった……たしかに、そう思いはした。したよ。しかし。
花ちゃんが出演しているのに、たかちゃんひとりが「サヨナラ」なショーを見ることになるなんて、夢にも思わなかったよ。
『W-WING-』の主役は、あくまでも和央ようかひとりだった。
主演・和央ようかと、他の出演者たち。
花ちゃんは、他の出演者でしかなかった。
そりゃ、場面によってはヒロイン扱いもされている。でもそれは、その場面限定だ。公演のヒロインじゃない。
たとえるなら、オサコン『I got music』の彩音ちゃんみたいなもん。1部のヒロインはたしかに彩音ちゃんで、オサダくんの相手役としてデュエットダンスしちゃうけど、『I got music』の主役はあくまでも春野寿美礼ただひとりだ。桜乃彩音を主役だとは誰も思わない。
そんな扱いだったんだ、『W-WING-』のお花様。
わたしは、花總まりが好きだ。
彼女の「娘役」としての力に惚れている。
タカラヅカという幻想空間で、正しく夢を見せてくれる力。
その類い希なスタイルもそうだし、きめ細やかな演技もそうだ。
彼女の「美しさ」が、説得力になるんだ。これほどの女を惚れさせる男、として、主人公の価値を上げるから。
タカラヅカは男役中心。だからこそ、娘役は「いい女」でなくてはならない。つまらない女を愛する男は、かっこよくは見えないのだから。
だからこそわたしは、花ちゃんの退団を惜しんでいた。
まだまだ、タカラヅカにして欲しかった。
タカラヅカは世代交代することに意味のある劇団だ。
トップスターは惜しまれて退団し、次のスターにその場所を譲る。水は流れるからいつも清く、花は散るから美しい。
花ちゃん自身がどれほどすばらしい娘役でも、いつかはトップスターの座は降りなければならない。次の世代に譲らなければならない。
それならば、世代交代を必要としないポジションで、その魅力を発揮して欲しかった。
花總まり主演公演が観たかったの。
今、タカラヅカは公演する劇場が増えている。本家の大劇場やバウホール以外のハコがたくさんある。
ならばそれらの劇場で、観たかった、娘役が主人公の作品を。
人間の半分は、女性だ。
とーぜん、物語の半分だって、女性が主人公だろう。
「主人公は男でなければならない」という縛りのあるタカラヅカは、この世の物語の半分を切り捨てているんだ。
世の中には、おもしろい物語がたくさんあるのに。
女性主人公のすばらしい作品を上演できない、上演するにあたってわざわざ主役を男に替え、つまらないくだらない壊れたしょーもない話にしてしまう、のが今のタカラヅカ。
もったいないよソレ。まちがってるよソレ。
可能性を広げようよ。
今、21世紀だよ?
タカラヅカの観客の大半は女性だ。
女性がフィクションをたのしむのに、女性が主人公で恋愛したり冒険したりすることのなにが不思議なんだ?
テレビドラマを見てよ、女性向けドラマの主人公は大抵女性だってば。ロマンス小説でも少女マンガでも、そうでしょ?
女が主人公の方が、女のよろこぶ物語を構築しやすいんだってば。
もちろん、タカラヅカは男役あってのものだ。ファンは通常男役を観に来る。主役が娘役で興行として成り立つのか、という問題がある。
そりゃ、娘役主演で彼女しか出番がなくて彼女しかいいとこのない舞台なら、集客はできないでしょー。
でもふつうに「芝居」なら、主役の女性ひとりしか出番がないなんてこと、ありえないでしょ?
主役である女性は「視点」だから。
観客は主役を通して、彼女を取り巻く「男たち」を見るから。
ヒロインひとりに、彼女に関わる男たちが複数。タイプも立場も違うが、魅力的な男たち。彼女を愛していたり、敵だったり、対等な友人だったり。
視点がヒロインひとりに固定されるからこそ、彼女を取り巻く「男たち」の魅力も存分に表現することが出来る。
ふたりの男の間で揺れ動く女、という物語で、わざわざ男のひとりを主人公にする不自然さ。
これじゃ、主人公の男ひとりしか魅力的に描けないじゃん。揺れ動く女はずるい女にしかならないじゃん。
女を主人公にすれば、主人公=観客だから揺れ動いてもヨシ。その理由として、男ふたりを徹底的に魅力的に描ける。どっちの男を選んでもおかしくないほどに。
花總まりを主人公に、売り出し中のかっこいー男役を複数同等の扱いでガンガン露出させれば、興行として成り立つと思う。
原作なら、世の中にいくらでもある。恋愛モノなんて、女性主役の方が多いんだから。
タカラヅカの新しい可能性。
それが、花總まりだと思っていたんだ。
なのに。
その花總まりは辞めてしまう。
男振りを上げて見せてくれるいい女が、辞めてしまう。
しかも、彼女の出演する最後のライブショーが、この『W-WING-』だ。
主役は同じく退団するたかちゃん。花ちゃんは、脇役。
主役が見たいと思える人なのに。主役をやれるだけの能力のある人だと思えるのに。
最後のショー作品で、なんで脇役なんかやってるんだよう。
そりゃこれは、たかちゃんのサヨナラライブで、たかちゃんが主役で当然なんだけど。たかちゃん主役でうれしいのも事実だけど。
でもさ。
ピンスポもない隅っこで、ジャージ着て下級生たちにまじって笑って踊っている花ちゃんを見ると、泣けてくるんだ。
アンタだって退団するんじゃん。これが最後なんじゃん。なのになんで、そんなとこでひとを送っているのよ?!
自分だって、送られる側なのに。
史上に残るスターなのに。
なのに、なのに、脇役としてスターを「送る」立場にいるの。
でもそれが、花ちゃんの選んだことなんだよね。
主役として立つことでも、主役として送られることでもなくて。
あくまでも、脇役として、寄り添うものとして存在すること。
「タカラヅカの娘役」として存在すること。
90年続いてきた「宝塚歌劇」の「娘役」というファンタジーであること。
それが、花總まりなんだ。
その他大勢のなかで、これ以上ない愛とよろこびに充ちた笑顔で踊る彼女に、涙が出た。
タカラヅカを、好きなんだね。
わたしも、大好きだよ。
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