好きなキャラクタ。@新人公演『落陽のパレルモ』
2005年11月30日 タカラヅカ わたしはもともと、ヴィットリオ・Fというキャラクタが好きなんだと思う。
本公演を見ている分には、ゆみこちゃんが演じているから好きなんだと思っていた。
ゆみこちゃんのハートフルでちとウエットな芸風が、わたしにはとても心地よいの。彼の温度が、わたしの好みに合っているのね。
繊細な人が好き。実力のある人が好き。真面目な人が好き。
地味だったり優等生だったりと、マイナス面にもなってしまうよーな堅実さも好き。
愛している人が好き。
他人を愛して、それを隠さない人が好き。
まぶしい光そのものというより、少し翳った人が好き。
真ん中よりも、ちょっと横に立つ人が好き。
毒を持っている人が好き。弱さを持っている人が好き。
ゆみこちゃんの演じる役が好き。
わたしの好みを、いつも見事に突いてくるから。
しかし。
花組新人公演『落陽のパレルモ』を見て知った。
わたしは、ヴィットリオ・Fというキャラクタが好きなんだ。
ゆみこでなくても。
ヴィットリオ・Fくんは、作者のミスでちと痛いキャラになっている。
脚本として目に見える部分だけを演じたら、下手をするとものすげーバカで現実が見えていないガキンチョになる。
女の子を妊娠させて、その後始末を親に頼みに来た考えなしのボンボン、ぐらいには最悪に見える可能性だってある。
好きな女の子にかっこつけることや、「好きだから結婚!」とまくしたてることぐらい、誰だってできるんだって。それって、自分が気持ちいいから言ってるだけで、現実にはなんにもわかってないでしょ、てなふーな。
持ち味が「無神経系」の人が演じたら、最低最悪キャラになるかも。
持ち味が「白痴系」の人が演じたら、ものすげーぶっとんだキャラになるかも。
そんな危険なキャラクタ。
それをハートフルに品良く演じていたゆみこってすげえ。と、思ってたんだけど。
なるほど、わたし、両刃の剣だからこそ、コワレ気味だからこそ、ヴィットリオ・Fくん好きみたい(笑)。
んでもって。
まぁくん演じる新公ヴィットリオ・F、いろいろやばくなかった?(笑)
歌がやばかったことは、言及すまい。
幕開きに登場していきなり芝居をする、狂言回しの意味もあるキャラクタは相当プレッシャーだったんだろう。
キャリアのない子には、登場するだけでそこに「別空間」を作る作業は難しいだろう。
最初のうちは緊張が伝わってきて、手に汗握った。
なんというか、今回まぁくん、演技してた?
リュドヴィークという「大人」「影のある人物」を演じた前回は、つたないながらも必死に「作って」いたのが見えた。演技しようとがんばっているのが見えた。
しかし今回は。
えーと。
あのヴィットリオ・Fって、まぁくんまんまなんじゃあ?
もちろんわたしは、朝夏まなと氏がどんな人なのかは知りませんが。
今まで見た中で、いちばんまぁくんまんまに思えたのね。
なんつーかね。
あまりに、幼くて。
貴族のおぼっちゃまというより、ひたすら「幼く」見えた。
育ちがいいから世間知らずなんじゃなく、たんにまだコドモだからなにもわかっていないというか。
どこか自信なさげにそこに立ち、ときおり余裕ぶって見せたりするのがまた、さらに足元のおぼつかなさを表しているというか。
相手役のジュディッタ@きほちゃんが余裕のヒロイン芝居をしているだけに、「姐さん女房? つか、いくつ離れてるんだ?」って感じが強かったというか。
この女に、この男じゃ役者不足もいいとこだ、ってゆーか。
おいおい、このたよりないにーちゃんは、手探りで台詞言いながらこれからどうするつもりなんだ?
と、はらはらと見守っていたんだ。
たどたどしい緊張が解けて、物語が動き出すのは後半になってから。
前回の新公でも感じたけど、まぁくんはほんとに技術は足りてないんだよね。
それでも前回、ぐわっと芝居の空気が動いた瞬間があった。
リュドヴィークとイヴェットの「恋」のシーン。向かい合って歌い出すふたりに、場の温度が変わるのがわかった。
技術でやっているわけじゃない。
ほんとーに「心」が動いて、それを放出することで空気を動かしているんだな。
舞台の上で、たくさんの人に見守られながら、「心」を放出できるのは「役者」という才能だろう。
ふつーならできん。そんな恥ずかしいこと。
そこに技術をのせてはじめて、「演技」というのかもしれんが。
最低限「心」がなければ意味がない、とわたしは思う。
まぁくんは技術が足りていないから、ほんとーの意味で場を動かしてはいないし、温度を変えているわけでもないだろう。彼と波長が合うか、彼を注視していなきゃわからん程度だとは思う。
心の放出と技術で場をかっさらっていくのはホレ、最近ではトウコがやってのけていたね、『龍星』で。あのレベルに程遠いことは前提として。
それでもわたし、まぁくんの「心」が放出される瞬間、好きだな。
まぁくんヴィットリオ・Fは、演技しているのかまぁくんの地まんまなのか、ひどくおさなくて、たよりなかった。
そのたよりなーいお子様が、ひどく傷ついた目をしたときがあった。
ヴィットリオ・Fを愛するがゆえに、黙って館を出て行こうとしたジュディッタ。
そのことを知ったヴィットリオ・Fは、とても傷つく。
泣き出しそうな、子どもの顔。
何故叱られるのかわからない、小さな男の子の顔。
あたたかい母の胸の中から、冷たい水底に叩き落とされ、恐怖より痛みより、事態を理解できなくて呆然としている幼児の顔。
それは、Fがあまりに幼い、大人になりきれていないたよりなーい少年だったからこそ、より際立っていて。
見ていて、痛かった。
うわ、痛っ。
Fくんが、どれほど傷ついたのかが伝わってきて。
彼は子どもだ。
子どもだからこそ、大人以上に傷ついたんだ。
裏切られたと思った? 理不尽だと思った? 彼女が自分のためにしたことだとわかっていても、それでも彼女に捨てられかけたこと、絶望した?
子どもだから。
そんな幼い痛みに貫かれた顔で呆然と彼女を見つめ。
次に彼は、笑った。
「ひどいな、黙って出て行こうとするなんて」
本役のゆみこちゃんでも、ものすごーく好きなシーンなんだけど。
新公のヴィットリオ・Fはあまりに子どもなので、やさしさからこう言っているのはわかるけれど、包容力に欠ける分ただただ痛々しくて。
うわ、この子可哀想だ。
そう思った。
泣きたいときに泣けずに、笑っている。
泣くよりも、先に彼女を抱きしめたいんだ。失いたくないんだ。
技術云々より、「心」を感じて、泣けた。
とまあ。
ヴィットリオ・Fってば、演じる人のキャラクタによっていろいろ変わって、しかもその変わり方がかなりわたし好みなのかもしれないと思ったの。
たとえば、りせで見てみたいなー、とか思う。
きっとまた別な痛みに充ちたキャラクタになったろう。
今なら、扇めぐむでも見てみたいや(笑)。前向きで骨太なキャラクタになったかな。
いやその、新公学年に限らず、まっつでも、見てみたいですが。「お寝坊さん」で悶え死にそーだが……。
…
本公演を見ている分には、ゆみこちゃんが演じているから好きなんだと思っていた。
ゆみこちゃんのハートフルでちとウエットな芸風が、わたしにはとても心地よいの。彼の温度が、わたしの好みに合っているのね。
繊細な人が好き。実力のある人が好き。真面目な人が好き。
地味だったり優等生だったりと、マイナス面にもなってしまうよーな堅実さも好き。
愛している人が好き。
他人を愛して、それを隠さない人が好き。
まぶしい光そのものというより、少し翳った人が好き。
真ん中よりも、ちょっと横に立つ人が好き。
毒を持っている人が好き。弱さを持っている人が好き。
ゆみこちゃんの演じる役が好き。
わたしの好みを、いつも見事に突いてくるから。
しかし。
花組新人公演『落陽のパレルモ』を見て知った。
わたしは、ヴィットリオ・Fというキャラクタが好きなんだ。
ゆみこでなくても。
ヴィットリオ・Fくんは、作者のミスでちと痛いキャラになっている。
脚本として目に見える部分だけを演じたら、下手をするとものすげーバカで現実が見えていないガキンチョになる。
女の子を妊娠させて、その後始末を親に頼みに来た考えなしのボンボン、ぐらいには最悪に見える可能性だってある。
好きな女の子にかっこつけることや、「好きだから結婚!」とまくしたてることぐらい、誰だってできるんだって。それって、自分が気持ちいいから言ってるだけで、現実にはなんにもわかってないでしょ、てなふーな。
持ち味が「無神経系」の人が演じたら、最低最悪キャラになるかも。
持ち味が「白痴系」の人が演じたら、ものすげーぶっとんだキャラになるかも。
そんな危険なキャラクタ。
それをハートフルに品良く演じていたゆみこってすげえ。と、思ってたんだけど。
なるほど、わたし、両刃の剣だからこそ、コワレ気味だからこそ、ヴィットリオ・Fくん好きみたい(笑)。
んでもって。
まぁくん演じる新公ヴィットリオ・F、いろいろやばくなかった?(笑)
歌がやばかったことは、言及すまい。
幕開きに登場していきなり芝居をする、狂言回しの意味もあるキャラクタは相当プレッシャーだったんだろう。
キャリアのない子には、登場するだけでそこに「別空間」を作る作業は難しいだろう。
最初のうちは緊張が伝わってきて、手に汗握った。
なんというか、今回まぁくん、演技してた?
リュドヴィークという「大人」「影のある人物」を演じた前回は、つたないながらも必死に「作って」いたのが見えた。演技しようとがんばっているのが見えた。
しかし今回は。
えーと。
あのヴィットリオ・Fって、まぁくんまんまなんじゃあ?
もちろんわたしは、朝夏まなと氏がどんな人なのかは知りませんが。
今まで見た中で、いちばんまぁくんまんまに思えたのね。
なんつーかね。
あまりに、幼くて。
貴族のおぼっちゃまというより、ひたすら「幼く」見えた。
育ちがいいから世間知らずなんじゃなく、たんにまだコドモだからなにもわかっていないというか。
どこか自信なさげにそこに立ち、ときおり余裕ぶって見せたりするのがまた、さらに足元のおぼつかなさを表しているというか。
相手役のジュディッタ@きほちゃんが余裕のヒロイン芝居をしているだけに、「姐さん女房? つか、いくつ離れてるんだ?」って感じが強かったというか。
この女に、この男じゃ役者不足もいいとこだ、ってゆーか。
おいおい、このたよりないにーちゃんは、手探りで台詞言いながらこれからどうするつもりなんだ?
と、はらはらと見守っていたんだ。
たどたどしい緊張が解けて、物語が動き出すのは後半になってから。
前回の新公でも感じたけど、まぁくんはほんとに技術は足りてないんだよね。
それでも前回、ぐわっと芝居の空気が動いた瞬間があった。
リュドヴィークとイヴェットの「恋」のシーン。向かい合って歌い出すふたりに、場の温度が変わるのがわかった。
技術でやっているわけじゃない。
ほんとーに「心」が動いて、それを放出することで空気を動かしているんだな。
舞台の上で、たくさんの人に見守られながら、「心」を放出できるのは「役者」という才能だろう。
ふつーならできん。そんな恥ずかしいこと。
そこに技術をのせてはじめて、「演技」というのかもしれんが。
最低限「心」がなければ意味がない、とわたしは思う。
まぁくんは技術が足りていないから、ほんとーの意味で場を動かしてはいないし、温度を変えているわけでもないだろう。彼と波長が合うか、彼を注視していなきゃわからん程度だとは思う。
心の放出と技術で場をかっさらっていくのはホレ、最近ではトウコがやってのけていたね、『龍星』で。あのレベルに程遠いことは前提として。
それでもわたし、まぁくんの「心」が放出される瞬間、好きだな。
まぁくんヴィットリオ・Fは、演技しているのかまぁくんの地まんまなのか、ひどくおさなくて、たよりなかった。
そのたよりなーいお子様が、ひどく傷ついた目をしたときがあった。
ヴィットリオ・Fを愛するがゆえに、黙って館を出て行こうとしたジュディッタ。
そのことを知ったヴィットリオ・Fは、とても傷つく。
泣き出しそうな、子どもの顔。
何故叱られるのかわからない、小さな男の子の顔。
あたたかい母の胸の中から、冷たい水底に叩き落とされ、恐怖より痛みより、事態を理解できなくて呆然としている幼児の顔。
それは、Fがあまりに幼い、大人になりきれていないたよりなーい少年だったからこそ、より際立っていて。
見ていて、痛かった。
うわ、痛っ。
Fくんが、どれほど傷ついたのかが伝わってきて。
彼は子どもだ。
子どもだからこそ、大人以上に傷ついたんだ。
裏切られたと思った? 理不尽だと思った? 彼女が自分のためにしたことだとわかっていても、それでも彼女に捨てられかけたこと、絶望した?
子どもだから。
そんな幼い痛みに貫かれた顔で呆然と彼女を見つめ。
次に彼は、笑った。
「ひどいな、黙って出て行こうとするなんて」
本役のゆみこちゃんでも、ものすごーく好きなシーンなんだけど。
新公のヴィットリオ・Fはあまりに子どもなので、やさしさからこう言っているのはわかるけれど、包容力に欠ける分ただただ痛々しくて。
うわ、この子可哀想だ。
そう思った。
泣きたいときに泣けずに、笑っている。
泣くよりも、先に彼女を抱きしめたいんだ。失いたくないんだ。
技術云々より、「心」を感じて、泣けた。
とまあ。
ヴィットリオ・Fってば、演じる人のキャラクタによっていろいろ変わって、しかもその変わり方がかなりわたし好みなのかもしれないと思ったの。
たとえば、りせで見てみたいなー、とか思う。
きっとまた別な痛みに充ちたキャラクタになったろう。
今なら、扇めぐむでも見てみたいや(笑)。前向きで骨太なキャラクタになったかな。
いやその、新公学年に限らず、まっつでも、見てみたいですが。「お寝坊さん」で悶え死にそーだが……。
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