ヴィットリオ@オサ様に愛がないために、盛り下がる物語『落陽のパレルモ』
 身分違いの恋に悩むというより、貴族への復讐心ゆえに、貴族の娘を騙しているよーに見える主人公はいかがなものか。
 面倒くさそーに夜這いに現れ、アタマの中で手順の確認をしているよーなラヴシーンを演じるオサ様、なんとかしてください!!

 ハーレクインでべったべたの少女マンガっぷりに大喜びはしたものの、やっぱりハマるまでは行かなかった、オサ様の演技に首を傾げ続けたこの公演。

 わたしのなかでよーやく、筋が通りました。

 主人公のヴィットリオの物語として見た場合、いちばん盛り上がるのが母の自殺シーンを背景に銀橋で熱唱するとこだよね?
 そのあと実の父が見つかり、貴族になることでアンリエッタ@ふーちゃんと結ばれるわけだけど、その「どんでん返し」シーンの中でいちばん重要なのは、「母の祈りが届いた」ってことよね? アンリエッタと結ばれることじゃないよね?

 「ヴィットリオとアンリエッタの身分違いの恋」の物語だと思うから、後味がよくないのよ。

「なんだよ、自分が貴族になったらそれでOKかい。身分差別のない世界を切望して戦ったニコラたちは犬死にかよ」
 という疑問が残り、せっかくの美しい物語が台無し。

 ドンブイユ公爵@萬ケイ様の力でハッピーエンド。主人公なにもしてないじゃん! とか、ロドリーゴ@まとぶ、簡単に身を引きすぎ、なによそのご都合主義! とかゆーマイナス点も、全部全部、わかっちゃったのわたし。

 『落陽のパレルモ』のヒロインは、アンリエッタじゃないの。

 主人公は、ヴィットリオ。
 でもヒロインはアンリエッタじゃない。
 ヒロインをまちがえて見ているから、全部歪んで見えてしまったのね。
 正しいキャラクタをヒロインだと認識して見れば、『落陽のパレルモ』は、歪んでなんかいないきれーな物語よ(にっこり)。

 ヒロインは、フェリーチタよ。

 主人公ヴィットリオの母、フェリーチタ@きほ。
 愛に生き、愛に狂い、愛に死んだ美しい女性。
 ヒロインは彼女。
 ヴィットリオは、母の望みを叶えるために生きるの。

 平民のフェリーチタは、貴族の男と愛し合った。
 だが、男のために身を引く。その男の子をひっそりと産み、たったひとりで育てる。
 男の名は明かさない。迷惑を掛けたくないから。
 心を壊すほど男を恋し、欲していながらも、決して男の名を呼ばない。男の迷惑になることをしない。
 恨みもしない。ただ、愛に殉じる。

 そんな母を見つめて育ったヴィットリオは、母を不幸にした「身分制度」と戦う。平等……「誰もが等しく愛し合う自由」のために尽力する。
 彼は貴族を憎まない。母を捨てた父を憎まない。
 だってそれは、母の本意ではない。母は貴族も父も憎んでいなかった。そんな小さなひとではなかった。
 ヴィットリオの生涯のテーマは、「母の願いを叶える」ことだ。

 だからこそ。
 ヴィットリオは、「貴族の娘」を愛した。
 母と同じように、身分の違う相手に心を動かしたんだ。
 べつに、アンリエッタである必要はなかった。大貴族の跡取り娘、という、彼が戦うべき「身分制度」の鎖の中にいる娘なら誰でもよかった。
 いろんな符号が合い、結果として彼はアンリエッタと愛し合うよーになった。

 嵐の夜の抱擁で、ヴィットリオがちっともアンリエッタを見ていないのも、そのためだ。
 彼が見ているのは、死んだ母だ。
 自分もまた、母と同じ運命に身をゆだねている……その事実、運命への厳かな気持ちと向き合っているんだ。

 「自由」「平等」への戦いがテーマだからこそ、それを求めて散るニコラのエピソードが大きく扱われている。
 虫けらのように射殺されるニコラたちと、それに対する怒りを爆発させるヴィットリオ。
 その場にアンリエッタがいても、関係ないのはそのため。

 結果的に、ヴィットリオとアンリエッタは別れることになる。
 どんなに愛し合っていても、ふたりは結ばれないのだ。母フェリーチタと同じように。

 母の祈りは、願いは、またしても叶わなかった。
 母の形見のロザリオを握りしめ、ヴィットリオは絶唱する。

 ところがどっこい。

 ドンブイユ公爵が実の父だと名乗り出た。
 身分ゆえに引き裂かれるヴィットリオとアンリエッタに、自分とフェリーチタの姿を見たのだ。
 フェリーチタの願いは、息子の生命をもって叶えられた。彼女の意志を継ぐヴィットリオを通して。

 貴族と平民。
 身分ゆえに引き離されたふたり。
 だが、時代は流れ、貴族の時代は終わりを迎えようとしている。
 平民の娘だから、とその愛を否定されたフェリーチタ。
 平民の息子でありながら、その愛を受け入れられたヴィットリオ。
 時代は動いているんだ。
 フェリーチタを愛したからこそ、ドンブイユ公爵は落陽を見つめ、その事実と向かい合う。

 愛が、歴史を動かしていく。

「母の祈りが届いた」
 とヴィットリオは言う。
 彼の望みは「母の望みを叶える」こと。
 彼は貴族を憎んでもいないし、父を憎んでもいない。母がそうであったように。
 だから、ドンブイユ公爵の提案をすんなり受け入れる。貴族社会で生きることを受け入れる。

 母の愛が、奇跡を起こしたのだから。
 「身分」という障害を越えたのだから。

 親子の名乗りのシーンと、やがて滅び行く種族であるというドンブイユ公爵の演説が、ヴィットリオとアンリエッタのハッピーエンド・シーンより重要に描かれているのは、そのため。
 ロドリーゴが「貴族」というだけで身を引くのも、テーマがアンリエッタとの恋愛にはないから。

 アンリエッタは、ただの「記号」。
 フェリーチタの願いを叶えるための。
 愛が叶ったヴィットリオはアンリエッタと踊りながらも、その瞳は腕の中の女を見つめず、自分の胸の奥に向けられている。
 自分のなかに息づいているフェリーチタを感じ続ける。見つめ続ける。

 そして。

 語り部でもあるヴィットリオの曾孫、ヴィットリオ・F@ゆみことその恋人ジュディッタ@あすかへと、「愛の奇跡」は続いていく。

 生命懸けて愛に生きたフェリーチタがいたからこそ、命はつながり、受け継がれたのだ。

 ジュディッタのおなかにも、新しい生命が宿っている。
 彼女はフェリーチタのように、愛する男のために身を引き、ひとりでその子を育てようとした。
 だが、時代は流れ、新しい力が育っている。ドンブイユ公爵とはちがい、ヴィットリオ・Fはジュディッタを見捨てない。共に時代と戦う。

 ドンブイユ公爵とフェリーチタの悲恋は、ヴィットリオ・Fとジュディッタの恋の成就へとつながるんだ。

 
 主人公はヴィットリオ。ヒロインはフェリーチタ。

 そうだとわかれば、なんの疑問も歪みもない。
 ヴィットリオはフェリーチタの心を受け継いでいるから、フェリーチタ自身でもある。ヒーローでありながらヒロイン兼務という、まことにオサ様らしい役かと。


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