思うのは、『JAZZYな妖精たち』ってのは本来、どーゆー話だったんだろうなあ、ということ。

 わたしは予備知識なく観るのが好きなので、公式に発表されている「あらすじ」すら読んだことがない。それが公演初日が近づくとよく「変更される」ことだって、小耳に挟むだけで自分で確認したことはない。

 でもそーやって、「当初の予定」とはちがった「あらすじ」に変更されることがありえるならば。

 いちばん最初の『JAZZYな妖精たち』は、どんな話だったんだろう。谷せんせは、なにをどんなふーにやりたかったんだろう。と、思ってしまうのよ。

 今の『JAZZYな妖精たち』があまりに、ぶっ壊れているから。

 最初のプロットでは、壊れてなかったのかしら。
 それを、いろんなしがらみで手を加えざるを得なくて、結果あそこまで失敗作になってしまったのかしら。

 今までに語った「未完成」「妖精いらない」「マクガバンのラスト登場は変」以外に、痛切に思ったことは、ウォルターの扱いだ。

 ぶっちゃけ、ウォルターは死ぬべきだと思ったんだわ。

 作劇上。
 このストーリー展開、このテーマなら、死ぬのがふつーだよな。自然だよな。と。

 死以外で、彼の「キャラ」を「テーマ」を「立場」を消化することはできないよ。
 もちろん、数時間かけていい大河ドラマなら他に方法はある。しかし、90分完結物語の「脇役」なんだからそれ以外は物理的に無理だ。

 ウォルターを殺さないで、どーやって決着つける気だよ、と思ったら、未完成打ち切りで、全部投げ出して終わった。
 ……ひでえ。

 パトリックはマクガバンと対決し、勝たなければならない。ティモシーは対マクガバンの立ち位置を確立しなければならない。シャノンはひたすら美しく健気に儚い「生」を刻みつけなければならない。
 それら全部を巻き込んだ「クライマックス」で、ウォルターが死ななければならない。ミックは別に、いなくてもいい。
 作劇パターンに則って考えれば、中核はこれだけのことなんだけど。

 これがどーして、あんな話になったんだろうなあ。

 
 繰り返すが、わたしはこの物語が好きだ。

 失敗作だし、そうでなくても駄作だと思う。
 ツッコミどころだらけで、観ていて苛々するし、睡魔と戦わなければならなかったりもする。

 スピリットが好きだ。というしかない。

 めちゃくちゃな話でも、壊れていても、そこに流れている「心」がやさしい物語は好きなんだ。

 谷正純は「恋愛」を書けない作家だったが、近年芸風を変えたよね。
 ちゃんと「恋愛」が書ける人になった。

 『JAZZYな妖精たち』は、ラヴ・ストーリーだ。
 あざやかに「恋」が見える物語だ。

 だから好き。

 「恋」を楔にして、「心の絆」が見える。

 だから好き。

 
 だから。

 もどかしくて、仕方がない。
 これ、いい話なのに。
 佳作になりえるのに。

 どーしてこんなにぶっ壊れてるのよ?!

 くやしいわ。

 妖精なんか出さずに、出したとしてもストーリーとは関係なく現実との乖離感を盛り上げるだけの役にして、ちゃんとパトリックたちの物語を描いてよ。
 リバーダンスもいらん。ただの「逃げ」でしょ、アレ。「物語」だけで勝負する自信がないから、「言い訳」を用意したんでしょ? 無様だわ。

 逃げずに、投げ出さずに、描かなければならなかったのは、ウォルターとマクガバンとティモシー。

 ウォルターは殺し屋。
 たとえ改心したとしても、彼の罪は消えない。彼が改心して自首し、裁判の末死刑になるのでは、「物語」的に正しくない。

 マクガバンは悪人。
 飼い犬に手を噛まれ、わかりやすく「敵」になる。殺し屋を雇う人間性は、たとえ改心したって「物語」的に正しくない。

 ティモシーは卑怯者。
 友だちを売って、金を得た。その行為は、なんの代償も目的もなしに赦されるわけじゃない。雰囲気だけ善人風でなしくずしに「いい人」なんて、「物語」的に正しくない。

 これらのことを、全部まとめて処理する話を考えてみよう。

 まず最初に考えなければならないこと。

 ティモシーがそもそも売りに来た情報、「殺し屋が幼なじみ」という事実が公になれば選挙に勝てないんだよね、パトリック。なにしろウォルターはすでに、選挙絡みの殺人をしているのだから。
 選挙妨害をしたいなら、マクガバンはこの情報を公開すればよかったんだよ。ウォルターに殺人依頼するのは変。ウォルターを警察に突きだして、パトリックとの関係をマスコミにリークすればいい。
 それでパトリックの夢は消える。ジ・エンド。

 でも何故かソレをしない……これは「言ってはならないこと」ですか、谷せんせ?
 「なんで水戸黄門は最初から印籠を出さないの?」と同じことですか?

 まあとにかく。

 パトリックの政治家生命を守るためには、彼がクリーンでなければならないのよね?

 そんな彼の最大の弱みが、「殺し屋が幼なじみ」であるなら。

 それを知っている者を、全員味方に抱き込むか、「殺す」しかない。

 はいここで、物語の構成上、ウォルターとマクガバンは死ぬしかなくなりますね。
 ウォルターは罪人なのでもともとクライマックスで華々しく散るべきでしょう。そしてマクガバンが「敵」ならば、彼もまた自滅してくれなきゃパトリックの政治家生命が守れない。
 そして、どっちつかずのコウモリ野郎ティモシーがいる。

 これらを踏まえたうえで導き出される結果は、明解でしょう。

 ティモシーは一見コウモリだが、実はマクガバンへの復讐を狙って行動していた。もともとパトリックの味方。
 ウォルターはシャノンだの妖精たちの昔話だので改心、マクガバンを殺して自分も死んでしまう。ついでに、真実を知るマクガバンの側近たちも死亡。

 「キャラ配置」を見て、「結果」に行きつくための「クライマックス」を、論理だけで導いたらこーなる。

 これに、「情」の味付けをして、膨らませるの。

 マクガバンの病気のこととか、ほんとーはパトリックを応援してやりたいとか赦したいとか思っていたとか。
 ウォルターの屈折や、ミックとゆーキャラを出すなら彼との関係や、子ども時代のエピソードや。
 パトリックの苦悩と、シャノンの純粋さ、ふたりの純愛と悲しい結末と。

 身も蓋もない「核となる出来事の起承転結」に、人間の「心」を盛り込んで、深く美しく彩るのよ。
 描きたいのは、「死」ではなく、「死」という宿命を持ってなお「生きる」人間よ。どーせ死んだら終わりなのに、それでも「愛する」「憎む」「悲しむ」「喜ぶ」人間の姿よ。
 影の濃さのなかにこそ、光の力を描くのよ。

 無意味に幼稚な妖精を出したり、ストーリーと関係ないダンスシーンに逃げてる場合じゃないよ。

 どーしてこう、下手かな。
 おかしなところで失敗するかな。

 主人公たちは、こんな穴だらけの脚本で、それでも「心」の在処を懸命に演じているのに。
 それはたぶん、物理的なところに台詞として書いてないだけで、作品の根底にあるからこそだと思うんだ。「心」が。
 役者に丸投げしないで、ちゃんと脚本で書いてくれよ。

 ああもー、じっれたいったら。


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