失敗作を駄作に格上げする方法。@JAZZYな妖精たち
2005年10月24日 タカラヅカ 月組『JAZZYな妖精たち』の話。
えーと、「未完成」「妖精いらない」まで語ったっけ。
うっかり『ラジアータ・ストーリーズ』にハマっちゃって、自由時間のほとんどがそちらに費やされているもんで、ネットやってる時間なくてさ……日記の間隔が空き過ぎちゃうともー、なにを書いていたのか、書くつもりだったのかわかんなくなってるよ……。
あ、『ラジアータ・ストーリーズ』は今よーやく、「妖精編」と「人間編」の選択肢にきてます。どっち選ぶべき? うおー、どっちを選んでも未練が残る……。
妖精は百害あって一利なしだが、『JAZZYな妖精たち』には妖精を出さなければならないというならば。
しかも、あのままの幼稚で悪趣味な妖精でなければならないというなら。
「現在」と絡めなければよかったんだ。
パトリックたちの物語とはまったく関係なく、妖精たちの物語も勝手に進行させる。
シャノンの書いた童話の再現でもいいし、妖精伝説の有名エピソードを舞台化するだけでもいい。
パトリックたちの物語と無関係であればあるほどいい。
パトリックたちの抱える「現実」が重ければ重いほど、それとまったく無関係な妖精たちののーてんきさ・幼稚さがせつないだろう。
そしてラストシーン、妖精たちがたのしく歌い踊るなかシャノンが息絶えればヨシ。
結局誰も妖精は見えない。妖精たちの物語は、一度も現実にシンクロしない。
だけど、シャノンは信じ、パトリックも信じている。ウォルターたちも、本心では信じたいと切望している。
信じる者たちがいるからこそ、妖精たちは「真実」であり続ける……。
とまあ、こうすれば「妖精いらない」は消化できるよな。
「いらない」なら、「関係なくすればいい」ってことで。同じ舞台にいても、ストーリーとは関係ない、別物。世界観が違うから、浮いていてヨシ、つーことで。
……出さないのがいちばんいいんだけどね。いらないんだけどね(笑)。
もうひとつの大問題「未完成」。……これはなあ。
いちばん手っ取り早い改善策は、ラストシーンにマクガバンを出さないことなんだけど。
マクガバンさえいなければ、あそこまでわけわかんなくないんだけど。谷せんせーはなに考えてマクガバンまで出してにこにこ踊らせてるのかなー。
敵に回ったマクガバンは、わっかりやすく主人公パトリックへ妨害を仕掛ける。「……アタマ悪い?(首傾げ)」ってくらい、わかりやすすぎてそれじゃ妨害にもなってねーなー、という方法だが。
なのに、次にマクガバンが出てくるのはラストシーン、「ハッピーエンドを踊ってくれ!」ってことで、役者総動員で踊りまくって幕が下りる。
不治の病シャノンと、パトリックたち孤児グループの「気持ち」的にはまあ、力技だがなんとか「ハッピーエンド」のカタチが見えなくもない。文句もツッコミもいろいろあるが、最低限、アウトラインは見える。
しかし、マクガバンはチガウやろ? 彼の物語はなにひとつ終わっていない。はじまったところだ。
なのに、それについてはなにもナシで、彼もまた一緒にハッピーエンドのダンス。満面の笑顔で。
このひどい作品のなかで、いちばん「途中放棄」感が強いのが、マクガバンの話だ。
他の話も半端だが、それでも「行間を読む」とか「想像の余地」とか言い逃れることができるくらいには「キリのいい半端」ぶりだ。
でもマクガバンはそうじゃない。ラストシーンで踊ってしまうことで、彼だけは「行間を読む」とか「想像の余地」とかをぶち壊しているんだ。
敵宣言したあと出てこなければ、どんなに作品が途中でぶった切れていても「行間を読む」とか「想像の余地」とかで誤魔化せた。
ヒーローもののコミックで、敵組織との戦いはなにも終わってないけど、「さあ、これからも力を合わせて強大な敵と戦うぞ!」と決意する主人公たちでENDマーク、「長い間のご声援ありがとうございました。谷先生の次回作にご期待ください」と書いてあるのは、アリでしょ。そっか、彼らは今もこの空の下で、友情を胸に正義の戦いをつづけているのかもな、と思えるでしょ。
スポーツもののコミックで、地区予選に優勝したところでENDマーク、「さあ、次は全国制覇だ! みんなでがんばろう!」と青空バックにメンバーの笑顔、「長い間のご声援ありがとうございました。谷先生の次回作にご期待ください」はアリだろう。そっか、彼らの夢は終わらない、今も青春の汗を流し続けていることだろう、と思えるでしょ。
なのに、最終回ラスト数ページのところで、なんの脈絡もなく敵組織のラスボスが出てきてヒーローに倒されてしまったら、「想像の余地」もなくなるでしょ? 敵組織もこれでおしまい、ヒーローの戦いもこれで終わり。
なのに、最終回ラスト数ページで今までの地区予選から舞台がオリンピックだのプロリーグだのワールドカップだののシーンになり、主人公が優勝し「やったー、世界一だー!!」とやってしまったら、想像の余地」もなくなるでしょ?
想像も希望もすべて打ち切り。
それと同じ、マクガバン。
彼さえラストシーンにいなければ、「想像の余地」がある。
マクガバンがどれほど妨害をしても、シャノンのために夢のために、パトリックはきっとそれを乗り越えていくだろう……そう思える。
「余地もなにも、まだなにも書かれてないじゃん!」というツッコミは置いておいて(笑)。
前述の通り、同じ「打ち切り」であっても、ラストシーンにラスボスを出してしまうか、出さずに「これからも戦っていく」ことにするかで、大きくちがってくるんだよ。
マクガバンが「いい人」の顔でのーてんきに踊ってしまうことで、『JAZZYな妖精たち』は観客の「想像の余地」さえ奪った。
阿呆な妖精たちが踊っているだけでも救いがたいのに、「ハードル役」までも破壊して終わった。
「未完成」なのは、そのせい。
マクガバンさえラストにいなければ、なんとでも言い逃れできたんだ。
ここまで「わかりやすい失敗作」「打ち切り作品」なのは、最終回のラスト数ページでラスボスを出して倒してしまったこと。いきなり世界大会に優勝してしまったこと。
ほんとバカだな、谷。
「未完成」でなくさせるためにはとっても簡単、ラストシーンにマクガバンを出さないこと。
これだけで、作品のランクが変わる(笑)。
そーすりゃ『JAZZYな妖精たち』は「失敗作」からただの「駄作」に格上げされるよ。
「未完成品」なんかで金取ってんじゃねえ、という誹りからだけは、逃げられるよ。
ラストシーン、変更しないかなー、東宝で。
えーと、「未完成」「妖精いらない」まで語ったっけ。
うっかり『ラジアータ・ストーリーズ』にハマっちゃって、自由時間のほとんどがそちらに費やされているもんで、ネットやってる時間なくてさ……日記の間隔が空き過ぎちゃうともー、なにを書いていたのか、書くつもりだったのかわかんなくなってるよ……。
あ、『ラジアータ・ストーリーズ』は今よーやく、「妖精編」と「人間編」の選択肢にきてます。どっち選ぶべき? うおー、どっちを選んでも未練が残る……。
妖精は百害あって一利なしだが、『JAZZYな妖精たち』には妖精を出さなければならないというならば。
しかも、あのままの幼稚で悪趣味な妖精でなければならないというなら。
「現在」と絡めなければよかったんだ。
パトリックたちの物語とはまったく関係なく、妖精たちの物語も勝手に進行させる。
シャノンの書いた童話の再現でもいいし、妖精伝説の有名エピソードを舞台化するだけでもいい。
パトリックたちの物語と無関係であればあるほどいい。
パトリックたちの抱える「現実」が重ければ重いほど、それとまったく無関係な妖精たちののーてんきさ・幼稚さがせつないだろう。
そしてラストシーン、妖精たちがたのしく歌い踊るなかシャノンが息絶えればヨシ。
結局誰も妖精は見えない。妖精たちの物語は、一度も現実にシンクロしない。
だけど、シャノンは信じ、パトリックも信じている。ウォルターたちも、本心では信じたいと切望している。
信じる者たちがいるからこそ、妖精たちは「真実」であり続ける……。
とまあ、こうすれば「妖精いらない」は消化できるよな。
「いらない」なら、「関係なくすればいい」ってことで。同じ舞台にいても、ストーリーとは関係ない、別物。世界観が違うから、浮いていてヨシ、つーことで。
……出さないのがいちばんいいんだけどね。いらないんだけどね(笑)。
もうひとつの大問題「未完成」。……これはなあ。
いちばん手っ取り早い改善策は、ラストシーンにマクガバンを出さないことなんだけど。
マクガバンさえいなければ、あそこまでわけわかんなくないんだけど。谷せんせーはなに考えてマクガバンまで出してにこにこ踊らせてるのかなー。
敵に回ったマクガバンは、わっかりやすく主人公パトリックへ妨害を仕掛ける。「……アタマ悪い?(首傾げ)」ってくらい、わかりやすすぎてそれじゃ妨害にもなってねーなー、という方法だが。
なのに、次にマクガバンが出てくるのはラストシーン、「ハッピーエンドを踊ってくれ!」ってことで、役者総動員で踊りまくって幕が下りる。
不治の病シャノンと、パトリックたち孤児グループの「気持ち」的にはまあ、力技だがなんとか「ハッピーエンド」のカタチが見えなくもない。文句もツッコミもいろいろあるが、最低限、アウトラインは見える。
しかし、マクガバンはチガウやろ? 彼の物語はなにひとつ終わっていない。はじまったところだ。
なのに、それについてはなにもナシで、彼もまた一緒にハッピーエンドのダンス。満面の笑顔で。
このひどい作品のなかで、いちばん「途中放棄」感が強いのが、マクガバンの話だ。
他の話も半端だが、それでも「行間を読む」とか「想像の余地」とか言い逃れることができるくらいには「キリのいい半端」ぶりだ。
でもマクガバンはそうじゃない。ラストシーンで踊ってしまうことで、彼だけは「行間を読む」とか「想像の余地」とかをぶち壊しているんだ。
敵宣言したあと出てこなければ、どんなに作品が途中でぶった切れていても「行間を読む」とか「想像の余地」とかで誤魔化せた。
ヒーローもののコミックで、敵組織との戦いはなにも終わってないけど、「さあ、これからも力を合わせて強大な敵と戦うぞ!」と決意する主人公たちでENDマーク、「長い間のご声援ありがとうございました。谷先生の次回作にご期待ください」と書いてあるのは、アリでしょ。そっか、彼らは今もこの空の下で、友情を胸に正義の戦いをつづけているのかもな、と思えるでしょ。
スポーツもののコミックで、地区予選に優勝したところでENDマーク、「さあ、次は全国制覇だ! みんなでがんばろう!」と青空バックにメンバーの笑顔、「長い間のご声援ありがとうございました。谷先生の次回作にご期待ください」はアリだろう。そっか、彼らの夢は終わらない、今も青春の汗を流し続けていることだろう、と思えるでしょ。
なのに、最終回ラスト数ページのところで、なんの脈絡もなく敵組織のラスボスが出てきてヒーローに倒されてしまったら、「想像の余地」もなくなるでしょ? 敵組織もこれでおしまい、ヒーローの戦いもこれで終わり。
なのに、最終回ラスト数ページで今までの地区予選から舞台がオリンピックだのプロリーグだのワールドカップだののシーンになり、主人公が優勝し「やったー、世界一だー!!」とやってしまったら、想像の余地」もなくなるでしょ?
想像も希望もすべて打ち切り。
それと同じ、マクガバン。
彼さえラストシーンにいなければ、「想像の余地」がある。
マクガバンがどれほど妨害をしても、シャノンのために夢のために、パトリックはきっとそれを乗り越えていくだろう……そう思える。
「余地もなにも、まだなにも書かれてないじゃん!」というツッコミは置いておいて(笑)。
前述の通り、同じ「打ち切り」であっても、ラストシーンにラスボスを出してしまうか、出さずに「これからも戦っていく」ことにするかで、大きくちがってくるんだよ。
マクガバンが「いい人」の顔でのーてんきに踊ってしまうことで、『JAZZYな妖精たち』は観客の「想像の余地」さえ奪った。
阿呆な妖精たちが踊っているだけでも救いがたいのに、「ハードル役」までも破壊して終わった。
「未完成」なのは、そのせい。
マクガバンさえラストにいなければ、なんとでも言い逃れできたんだ。
ここまで「わかりやすい失敗作」「打ち切り作品」なのは、最終回のラスト数ページでラスボスを出して倒してしまったこと。いきなり世界大会に優勝してしまったこと。
ほんとバカだな、谷。
「未完成」でなくさせるためにはとっても簡単、ラストシーンにマクガバンを出さないこと。
これだけで、作品のランクが変わる(笑)。
そーすりゃ『JAZZYな妖精たち』は「失敗作」からただの「駄作」に格上げされるよ。
「未完成品」なんかで金取ってんじゃねえ、という誹りからだけは、逃げられるよ。
ラストシーン、変更しないかなー、東宝で。
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