こだまっちの萌えは、ひとつの方向に進化しているようだ。

 星組DC公演『龍星』を観ていて、やたらと思い出したのは彼女のひとつ前の作品、『天の鼓』だ。

 児玉作品には、既視感がつきまとう。
 どこかで見たシーン、どこかで聞いた台詞、どこかで見かけたよーなキャラクタ。
 それらはデフォルトなんで(ヲイヲイ)、それ以外の話だ。

 『天の鼓』と『龍星』は似ている。
 同じ作者だという以上に、「ひとつのもの」の発展系という気がする。

 『天の鼓』は孤児の虹人が主役、ということになっている。どこの誰ともわからない少年は、鼓の才能を心の支えにして成長する。
「鼓がうまくなったら、みんなに愛してもらえる」……孤児である虹人は、そーゆー「付加価値」を得ることでレーゾンデートルを確立しようとした。

 虹人は多くの人から愛される。
 だがそれは、鼓の才能ゆえなのか。
 鼓の天才でなければ、誰も彼を必要としないのか。

 とゆー、虹人の孤独と葛藤がテーマであるらしい、てゆーか、そーゆーものを「描きたい」と思っていることがうかがい知れた。

 ただし『天の鼓』は、プロット自体が大きく破綻している。

 ひとつは、「虹人の才能」を彼自身の能力なのか、彼が最初から持っていたという鼓のせいなのか、という、根本になる部分の設計ミスをしている。
 鼓の話は鼓の話でなにかやりたかったんだろうが、それに失敗したまま他のエピソードと混同して、わけがわからなくなって放置、とゆー風情の、かなり汚い失敗。
 汚い、としか言いようがないよ。こぼしたら、拭けばいいのに。壊したモノはとりあえず全部片付ければいいのに。こぼしたまんま、壊した破片が飛び散ったまんま、上から他のものを広げて、どーしよーもなくなった、というのが見えるから。

 プロット破綻のもうひとつは、視点の混乱。
 主人公は虹人であるはずなのに、途中から帝が主人公になる。虹人は舞台から消え、「主役に影響を与える役」になって再登場する。んなバカな。
 これも、汚い失敗だと思う。
 虹人主役でプロットを練っているうちに、脇役のはずの帝というキャラクタに作者の愛と関心が移ってしまったんだろう。
 だから最初は虹人が主役だし、テーマもストーリー展開も虹人主役で作られているにも関わらず、作者の関心が彼にないために途中で迷走することになる。クライマックスは帝視点。
 自分を律し、「作品」を大切にすれば陥らない失敗だ。自分の快楽だけを追ってプロットを作ると、こーゆーみっともない失敗をする。

 この致命的なふたつの失敗があるゆえ、『天の鼓』は「わけわかんない」レベルまで堕ちた、ぐちゃぐちゃな話だった。

 つっても、おもしろかったけどな、『天の鼓』。大爆笑させてもらった。
 つまんないだけの作品より、トンデモ作でもたのしいものが好きなわたしには、十分価値があった。
 脚本は壊れまくった「汚い」作品だったけど、実力者揃いの出演者と、美しい音楽と画面は見応えがあった。舞台演劇ってすげえや。脚本があれだけ汚いのに、できあがった作品は「美しい」んだから。

 
 さて、その『天の鼓』を原型として、さらに発展させたものが『龍星』だと思うんだよね。

 そもそも『天の鼓』で描くはずだった、「名もなき孤児の孤独と葛藤。愛に飢え、レーゾンデートルを探す生き方」。
 それに、「脇役のつもりで出した絶対君主に萌えちゃった〜、そもそも主役より悪役の方が萌えなのよね〜〜」という意識を加えたのが、『龍星』だろう、こだまっち?

 こだまっちの萌えは、ひとつの方向に進化しているようだ。
 『天の鼓』のときのよーな迷い方はしていない。わかりやすく一直線に「悪役の孤独萌え〜〜」と突き進んだ結果が、『龍星』になったのだと思う。

 『天の鼓』の帝を主人公に、作り直したんだね。
 帝が龍星で、博雅が飛雪、虹人が霧影だよね(笑)。
 帝の宿敵であり憧憬であった虹人は死に、帝は「帝(絶対君主)」のまま生き残るのよね。

 
 萌えの方向性がわかりやすすぎて少々恥ずかしいが、今回はべつにかまわない。

 なにしろわたしは、「レーゾンデートルの揺らぎ」をテーマにした物語が、大変ツボなのだ。

 だから『天の鼓』のときは、肩すかしくらってつまんなかったわ。それを描こうとした形跡はあるのに、途中から内容が、「帝萌え〜〜」になっちゃって、虹人のことはどーでもよくなったのが見え見えだったから。

 『龍星』は真正面から、名もなき孤児の「レーゾンデートルの揺らぎ」をテーマにしてある。

 戦争孤児の少年@まりんには、記憶がない。
 自分が何者であるのかわからない。
 彼は、金の烏延将軍@星原センパイから「取引」を持ちかけられる。
 敵国から人質として送られてきた皇子「龍星」のニセモノになれ、と。
 名もなき少年は、はじめて「名」を与えられる。「龍星」と。ニセモノだけど。それでも、名前だ。彼が彼であることを表す記号だ。
 
 成長した龍星(偽)@トウコは、烏延将軍の思惑通りに敵国宋に皇太子として戻り、将軍に情報を送る。
 龍星(偽)のレーゾンデートルは、烏延将軍の密偵としての役割を果たすことに尽きる。将軍は決して、彼に「ニセモノ」以上の扱いをしなかった。龍星(偽)はただの道具として育ったんだろう。

 宋で龍星(偽)は、はじめて「愛されること」を知った。
 「龍星」という名の男を、宋の人々は愛してくれる。実の子同然に慈愛の念を注いでくれる李宰相夫婦@ソルーナ&かつき、側近の飛雪@あかしなど。
 そして「愛すること」を知る。
 「龍星」という名の男の妃、砂浬@みなみ。

 でも。
 彼は所詮龍星(偽)だ。本物の「龍星」じゃない。

 李宰相は、龍星(偽)自身を愛してくれたわけじゃない。龍星(偽)がニセモノだとわかった途端豹変した。
 龍星(偽)は、李宰相を愛していたのに。父親のように慕っていたのに。
 正体を知られてしまった以上、生かしておいては自分の命が危ないというのに、宰相を死なせまいと必死な龍星(偽)を、宰相は顧みない。龍星(偽)の愛は、踏みにじられる。

 ニセモノだから。
 この名前は偽りだから。

 龍星(偽)が欲するのは、「龍星」の名。
 愛されるのは、「龍星」だから。他の名前だったら、きっと自分なんかなんの価値もない。

 李宰相の死は、龍星(偽)の人生観を決定づける。

 
「鼓がなくても、あなたに愛を?」
 ……『天の鼓』の虹人が抱えていた問題。
 鼓の天才、天の鼓を持つ者だから、愛されるのか。鼓を打たない俺には、なんの価値もないのか。

 はじめて愛した女、砂浬は「龍星」の妃。隣国からの人質である彼女を守ってやれるのも「龍星」のみ。
 腹心飛雪がかしずくのも「龍星」だから。彼の忠義と敬愛を受けるのは皇帝「龍星」。

 もし、龍星(偽)が、名もなき孤児だと知れば、彼らも李宰相のように踵を返すだろう。龍星(偽)を拒絶するだろう。

 だから龍星(偽)は「龍星」として生きる。苛烈に、孤高に、凄惨に。
 「龍星」でなければならない。「龍星」でなければ、俺自身にはなんの価値もないのだから。
 育ての親である烏延将軍と金を裏切り、宋の皇帝「龍星」として生きることを選ぶ。

 壮絶な孤独と苦悩のなかで。

 
 『天の鼓』ではブレてしまって描ききれなかったテーマが、『龍星』では昇華されているのよ。
 よっしゃ! これは実にオイシイぞっと!


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